第三章【裏】#生存者とかくれんぼ 第一部
「さあ、森子。この物語を【裏】からぶっ壊してやろう」
鳳凰堂は未だに乾いていないパーティホールの血の海の対岸から言った。
時刻は【零時過ぎ】。
的羽森子の首切り殺人が起きた夜。鳳凰堂が自分が死んでからの顛末を話し、変身能力と不死身であることを利用して身代わりとなった夜。
森子は、鳳凰堂の目を見て、言った。
「ちょっと……よく分からないんですが」
「あれ?」
鳳凰堂は首を傾げた。「なんだ、私の説明に不備でもあったか?」
「いえ、そうではなく……ぶっ壊すとは、具体的にどのようにするのですか?」
「ああ、そのことか。では、それも含めて向こうで話そう」
鳳凰堂は言って、森子を手招きする。『向こう』とは鳳凰堂が言っていた、外の廃墟のことだろう。森子も血を踏まないように気をつけて鳳凰堂の下へと向かう。
「あの、実は大神さんが館の中を監視しているのです。あまり大きな音を立てると聞こえてしまうかもしれません」
「おお、分かった分かった」
軽く言って、鳳凰堂はパーティホールの扉を静かに開く。
「この扉、椿ちゃんが殺されたときも閉まってたのでしょうか」
森子は何気なくそんなことを聞いた。しかし鳳凰堂は「いや? 開いてた」と返す。
「えっ、開いていたのですか?」
「うん。だが私が生き返ったあとまず閉めた。お前と話すこともあったし、姿を見られたくなかったし」
的羽森子(に扮する鳳凰堂)の首切りが起きたとき、パーティホールの扉は開いていた。
後から捜査する人間にとっては重要かもしれない証拠を、被害者自ら隠滅したらしい。
少しも気にならない様子の鳳凰堂は少し開いた扉から体を滑り込ませるように外へ出る。
森子もそれに続く……が、思わず大声をあげそうになった。
中央ホール、その中央の丸テーブルの下には、生首が転がっていたからだ。
しかしよく見れば、その顔は自分と全く同じではないか。なあんだ、森子はホッと胸を撫で下ろし、よく考えてみると自分の残酷な死に顔を見てしまったことに気づいて飛び上がって大声をあげそうになった。
「何してる? 行くぞ」
静かに大騒ぎしている森子に小声で耳打ちする鳳凰堂。中央ホールの扉は既に閉められ、「いいのかなあ……」などと森子が思う前に鳳凰堂は玄関ホールへの扉に手をかけていた。
そうして二人はやがて不死鳥館の外へと出る。
静かに、静かに、足音を立てず、扉を開け閉めして、二人は玄関ポーチに立っていた。
この館には確かに殺人鬼がいて、鳳凰堂は殺され、首を切られ、森子も同じ目に遭いかけた。
だが、自分も鳳凰堂も生きている。
隣を見れば、鳳凰堂もまた森子の顔を見て笑っていた。
「まるでかくれんぼのようだな」
鳳凰堂は言った。
確かに、そうかも知れなかった。
残酷な悪意の渦から外れ、こうして物語の裏側に立った森子の中には、不謹慎だと分かっていながらもそれをスリルと呼んでいい気持ちが湧いていた。
そして不死鳥館という舞台から一時降りると、どこか解放感のようなものもある。森子は次第に鳳凰堂の笑みに釣られて笑っていた。
「かもしれませんね」
なんだか、二人でこっそり悪いことをしている気分だった。
クスクスと笑い合う二人の少女を、薄い月が照らす。
「さ、行こう」
鳳凰堂に手を引かれ、森子は次第に足早になっていた。
背後に佇む不死鳥館は、その腹に未だ残酷な物語を孕みながらも、立ち去ろうとする鳳凰堂のことも森子のことも引き留めない。
二人は正門を小さく開くと、暗い森の奥へと消えていった。
※
「ここが、椿ちゃんの拠点……」
森の中の小道を進むと、果てにあったのは一つの廃墟。廃墟ならば他にもあったが、ここは屋根がまだ残っていた。
「そうだ、いらっしゃい」
扉も窓もなければ崩れ落ちそうに積み上がった石の中で手を広げる鳳凰堂は、ままごとでもしているようだ。
森子は小さく笑って中へと入る。
「初めて見たふりをしましたが、私はここを知ってるんです」
「そうなのか?」
「ええ、昔からこの島に住んでいますから。子供の頃は廃墟で遊んでいたのです。ここは屋根があるので、秘密基地にしていました」
「そうだったのか。なら、私がお客さんだったようだな。お邪魔します」
鳳凰堂は言いながらも隅に置かれた質素なバッグを引きずる。
森子もこの島に人を招く際に確認した防災バッグだ。中からカンパンやビスケット、缶詰を取り出しながら手招きしている。
「腹が減っただろう、少し食ったほうがいい」
「いいんでしょうか、勝手に持ってきてしまって……」
「別にいいだろ、向こうの奴らは美味いものを食うんだから、これくらい」
実際には、美味いものがあったとしても喉を通らなくなるのだが。
「それに後入ってるのは懐中電灯とか縄梯子くらいだ。階段もあって電気がつく向こうには必要ないだろ」
実際には、数時間後停電が起きルコとで必要になるのだが。
「もう持ってきちゃったんだ、今更だ」
鳳凰堂は気にしない。
「……かも、しれませんね」
森子は胸に込み上がる「いいのかなあ」を押し留め、鳳凰堂の隣に座って缶詰を一つ取った。たこ焼きと書かれている。
開けば、何やらぶよぶよした球体が入っている。しかし得体の知れないながらもソースの香りは森子の食欲をくすぐった。
森子が実物を見たことがない食べ物だ。
島の外には、知らない物がたくさんある。そう思うと、それに触れることの無いであろう自分の人生を思い、切なくなる。
「どうした? 食わないのか? あ、箸が無いからか。少し待て」
はい、とバッグからプラスチックのフォークを取り出して渡してくる。そういうわけではない、と思いながらも鳳凰堂の手渡すフォークを受け取った。少なくとも、目の前の少女は森子を励まそうとしているのだと分かっていた。
「これ美味いぞ、焼き鳥だって」
「……椿ちゃんって、不死鳥なのですよね? 鳥を食べることには抵抗がないんですか?」
初日のディナーでも嬉々としてチキンステーキを食べていたことを思い出す。
「無いなー、美味いし。鳥といっても姿形だけだし。それに人間だって猿くらい食べるだろ?」
あまり食べない気もする。だが世の中のことを鳳凰堂ほど知らない森子はとりあえず頷いた。
「ですが、椿ちゃんってどこかイメージが違いますね。私の知っている不死鳥というのは、もっと人を嫌うイメージでした。あとは、不死身だと知られると、研究機関にて解剖されてしまうから隠し続ける、というような……」
「普通の人間には不死身だとは隠してるぞ?」
「それでも私を助けて、不死身だと教えてくれたではありませんか。それに不死身という特性を明かさないのは、犯人にこの事件を茶番にさせないため、と言っていましたし……」
鳳凰堂の缶詰を食べる手が止まった。
「そうだな、確かに私は大昔に何度となく人間に襲われ続けた。弓を放たれたし槍で突かれたとも。私の血を飲めば不死身になれる……そんな噂もあったんじゃないかな。今となってはそんな人間いなくなったが」
「そう……ですよね。ごめんなさい」
「なんでお前が謝るんだ」
「だって、私も同じ人間ですし……」
「いや、お前とそいつらは別人だろ? 関係無い」
鳳凰堂はペットボトルの水を飲みながら当然のように言った。
「大体、私は別に人間が嫌いじゃない。世の中には良い人間も悪い人間もいる、というのはとっくの昔に知ってるよ」
それはやはり、森子が抱く不死鳥のイメージとは違った。
「それに私、不死身だと明かして薬品の研究機関に世話になってる身だし」
「え、ええっ!? そ、そういえば、死の時間を測られたとは聞きましたが……」
あまりにも大きく違いすぎだ。森子は声を上げる。
「当然だろう、そうでなきゃ服もスマホも買えるか」
「お、お金も貰ってるんですか?」
「うん、給料として。基本的にはその機関の創設者の……今はその孫か……の、屋敷に住まわせてもらってる。私の鳳凰堂という苗字は彼らのものだ」
「はあ……」
おそらく嘘はついていないはずだ。鳳凰堂の様子に変化はない。
「私がそこでしてるのは基本的には治験とか、解剖とか、要は人体実験だな。私は身体を対価に、住む場所と戸籍をもらってる」
「戸籍もですか?」
「まあ、そういうのを誤魔化すのが得意な奴らでもあるから。詳しくは知らんが養子縁組に似たやつで騙しているらしい」
「けど、不死身の体を使った人体実験と聞くと、残酷なものを思い浮かべてしまうのですが……」
「そうでもない。私がしている治験は一般の人間も募集してるやつだし、解剖とか人体実験も基本は医療目的だ。それ以外もインプラント実験とかかな。今はなんにも体内に無いが」
「そうなんですか……」
「第一、私の体は人間とそっくりそのままとはいえ、結局は炎の鳥が化けた偽物だ。私には効いた薬も、いざ人間に飲ませたら効果無かったなんてこともあるかもしれないだろ? その逆も然りだ。そんなリスクを無視して不死身で人体実験なんて、信用を重視する彼らにとってはあんまり意味ないらしい」
「でも私、不死身の力を研究するために、何度も惨く殺すなんて話を……」
「うーん、その辺は一応、契約してるから。私の体を医療目的に使う場合、目的と内容を明らかにすること。私が嫌だと言ったらすぐに辞めること。普通の人間に施す場合と同じ手法をとること。あとは……これら一つでも嘘だとわかった場合、その時点で私は関係者全員を焼き殺して屋敷を燃やし、数百年は姿を消す。って感じだな」
最後の内容は、中々に恐ろしいものだった。
「まあ、最後のは脅しだな。実際にやったこともないし、やる気もないよ。どうにかして逃げたら姿を消すだけだ」
「どうにかって、どうやるんですか?」
「その場の誰かに化けるとか、あるいは知り合いだったらそいつの肉親に化けて残酷な実験に抵抗を生ませる。それでも逃げられなかったら、炎の鳥に戻って逃げる。身体は確かに大きいが、私の体は鳥の形をした燃え続けるガスのような気体だから、通気口あたりから逃げるよ」
色々対策はあるらしい。だが森子はどこか納得のいかない思いで「でも」と続けた。
「それでも……もし、その人たちがあなたを残酷な目に遭わせようとする人間だったら……」
「森子、言っただろう? この世には良い人間も悪い人間もいることはとっくに知っている、と。私の世話をしてくれる彼らは良い人間だ。少なくとも私は信用している。こんなバカンスも許してくれたし。それから死の時間を測られたのも、私が事故で死に至った時だけだ。私は彼らに非道をされてはいないよ」
鳳凰堂は森子の持つ缶詰にフォークを突き刺すと、中のたこ焼きを一つ持ち上げて、森子の口へと押し込んだ。べとつくソースがぼたぼたと服へ落ちる。森子を助ける際に交換した、元は鳳凰堂が来ていた黒いワンピース。
「どうせ血で汚れてるんだ。気にするな」
鳳凰堂は笑う。
気になるというのならば、口の周りのソースもそうなのだけれど。そんな思いは口の中のたこ焼きが邪魔をして紡がれなかった。
何度か咀嚼して飲み込むと、鳳凰堂はその様子を見て笑い続ける。笑顔の似合う少女だった。それもまた、イメージとは違った。森子は不死身に無感情のイメージがあった。
「だけど、一人だけ……不死身だと知られたくない人はいるな」
「そうなのですか? この島に?」
「そうだ。そいつと出会ったのは十五年前に泊まったホテルだったな。この島に来るきっかけになったあの全焼事故が起きたホテルだ。そいつはまだ子供で、今よりとても小さかった。こんなくらいかな」
手で示したのは石の床から五十センチほど。そんな訳がなさすぎる、どこまで信用すれば良いのやら。
「そこで私は火事に巻き込まれた。私は最悪なことに、その身を完全に焼かれてしまったんだ。人間の体だったからな、死ぬほどの苦痛を浴びては生き返り、そしてまた焼かれていた。だがその子が助けてくれたんだ。生き返った私は言った。『私は本当は化け物なんだ。助けてくれなくてもよかったのに』と。そしてその子は私に言ったんだよ。『僕は、貴方が化け物だなんて思いません』と。それから会うことはなかった。だがこの島に来ることになって再会した時驚いたよ、あの頃の面影を残した好青年になっているのだから」
「それって……」
やけに早口で簡潔な話だったが、それを聞いて森子は一人の青年を思い浮かべた。彼は今、探偵としてこの島にいる。
「うん、そうだ」
鳳凰堂もまた、頷いた。だが、その顔には異変が起きていた。笑みを浮かべる顔が、真っ赤っかに赤くなっていた。そして顔を隠すようにそっぽを向く。
「もしかして、椿ちゃんってその人のことが……」
「いや、違う! いや、そうかも知れないけれど、でも違う! だってほら、私は人じゃないし、ほら」
確定した。
「えーっ、それってでも、でもですよ……?」
「いや、違うと言ってるだろうが!」
こうなると森子もだんだん楽しくなってきてしまう。もとより森子も女の子、このような話題を交わす相手もいなければ、知識もない。そんな中で振って沸いた話題に、少々ばかり浮き足立ってしまう。
「で、でも私、野獣に変えられた王子様が人間の女の子と結ばれる話を知っています!」
「馬鹿っ! それは王子が元から人間だった場合の話だろうが! 私の場合元から化け物なのだから少し違うだろう!」
顔の熱が引かないままに鳳凰堂は振り返り、手に持った缶詰を振り回して騒ぐ。
「ですが、椿ちゃんはその方のどんなところに惹かれたのですか?」
森子に聞かれ、鳳凰堂はしばらく缶詰を振り回すポーズで硬直した後、その腕は次第に下がっていった。
「まず、顔がいい」
「顔」
「それから、私が殺された後しばらく隠れて観察していたが、事件を止めようと奮闘する姿がカッコよかった」
「ああ、わかりますよ」
「昔私が助けられた時を思い出した」
「ふふ、そうなのですか」
「お前っ! 何楽しんでやがる!」
森子の近くに缶詰が飛んできた。
「ごめんなさい! ですが、昼間ずっと一緒にいましたが、椿ちゃんが生きていると気付いた様子はありませんでしたよ」
「本当か? いや、なぁ……でもなぁ……私、生首見られちゃったし。気持ち悪いって思われなかったかな」
「大丈夫ですよ、少なくともそんなこと言っておりませんでした」
「本当? 本当だろうな? いやしかし、でも……私、死んだことになったしなぁ……」
「大丈夫ですとも! 生きていることを知ればきっと喜ばれると思います! 不死身であることなど、気にされませんとも!」
「そう? そうかな? 何だかそんな気がしてきたな。あいつそんなこと気にしない気がしてきたな」
「で、では、告白なされたりするのでしょうか!」
鳳凰堂は腕を組み、しばらく悩む。
「……うん、しよう!」
ようやく出した答えに、森子はきゃあと歓声を上げる。
「私はこの事件が終わったら、あいつに告白しよう! ずっと言えていなかった十五年前に救ってもらったお礼と共に、この胸の内を告白しようとも!」
果たして、これは死亡フラグと言っていいのか悪いのか。よくわからない物が殺戮の館の外にて異常な会話の中立てられた。
「ですが、その方とは十五年前の事故の後に別れてしまったのですよね。すぐに会おうとはなさらなかったのですか?」
「それが、私は一旦研究機関に連れ戻され、しばらく拘束されたんだ。まあ、一般人の目の前で死んで生き返ったわけだからな。そして外出許可が降りた頃にはそいつはどこにいるのかも分からなくなってしまった。一応探してはいたんだ」
鳳凰堂はポケットからスマートフォンを取り出して起動する。画像アプリから森子に見せたのは、日本とは思えない光景をバックにした鳳凰堂の自撮り写真だった。
「ここがパリ、そしてここが中国。そしてここがアメリカ。ここがロンドン。そしてここが……」
「多分ですが、その方はずっと日本にいたんだと思います」
「やっぱりそう思うか? 私も五年くらい探し回ってから思ったんだが、その頃には何だか引っ込みつかなくなって」
森子は苦笑した。見れば確かに、写真に写る鳳凰堂の顔は、初めの頃こそ真剣なものだが、後にいくにつれて笑顔が満開になっていく。自棄になっていると言ってもいい豪快な笑顔だ。
「ですが、椿ちゃんは不死鳥なのですから、外国にも好きな時にいけるのでしょうね。飛んでいくことができるのですから」
「基本飛行機だ」
「ああ、そう……ですか」
ことごとく幻想がぶち壊されていく。
「いや、研究機関に身を渡してすぐの二百年前とかなら飛んで行けたんだが、不死鳥の姿ならまだしも人間の姿だとパスポートも持ってない人間がホイホイよその国に出入りするのは、ちょっと……結構大分かなりまずかったらしくて」
一度大問題を起こしたことがあるかのような口ぶりだった。
「百年くらい前、いつもみたいにひょいっと国を超えてぶらぶらしてたのが向こうの人にバレた時は、人がすごいいっぱい出てきてちょっと怖かったな。慌てて日本まで逃げ帰った。だから戸籍とかパスポートくれって言った訳だし」
森子は鳳凰堂の愉快な話を聞きながらも、どこか次第に気分は沈んで行った。
鳳凰堂が写る写真のどこにも、森子は手が届かないことを自覚したからだ。
パリだろうがロンドンだろうが、森子には絶対に手が届かない。
たこ焼きだって初めて見た。スマートフォンだって初めて手に取った。
そのどれもが、森子の日常には絶対に現れない物だと、改めて思い知った。
海の向こうには何でもあって、それら全ては手が届かない。
今までも、これからも、絶対に。
それに、今となっては森子は死んだことになってしまった。生首を晒し、血を残し。
「どうした、森子」
言われて、森子は涙を流していることに気づいた。友人を心配させてしまっている。拭おうとしても、どんどん涙は溢れてくる。先ほどまで、あんなに楽しく話をしていたのに。けれど、その楽しい会話すら、森子にとっては初めてで、この程度すら非日常だった。
この世界の何も知らないまま、森子の命は終わりかけた。いや、もう終わったのかも知れない。そう思うと、どれだけ拭っても涙は止まらない。栓がひねられた蛇口をいくら拭いても水が出続けるのは当然なことと同じで、森子の心の奥にある元栓はどうしても締まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「なんでお前が謝るんだ。何も悪いことはしていないだろう」
森子が泣くことを、鳳凰堂は悪いことだとは言わなかった。
それを嬉しく思いながら、森子の涙は止まらない。だが、鳳凰堂はそんな森子を再び抱きしめた。
「悪いのは、私だ。本当なら、すぐにお前をみんなの元に帰さなくてはならないのに。色々言い訳を並べたが、私のエゴに付き合ってもらってるだけだ」
鳳凰堂の懺悔に、森子は違うと言いたかった。しかししゃっくりに似た胸の疼きに、言葉は形にならない。せいぜい首を振るだけだ。
「なあ、森子。お前には、二つの選択肢がある」
鳳凰堂は抱擁を解き、涙を流す森子に目を合わせる。
「一つ目は、すぐにみんなの元へと戻り、生首が見つかる前に生きているとみんなに知らせること。二つ目は、このまま私のエゴに付き合い、みんなからは死んだままになること。さっきは勢いでああ言ったが、やはり私は生首が見つかってしまっている訳だし、みんなの前には出れないよ。告白も難しいな。お前はどっちを選ぶ?」
それは実質、誰と別れるかを選ぶ問いだった。
鳳凰堂と別れるか、それとも他の皆に死んだと思われ、世間と完全に別れるか。
「わ、私は……」
「大丈夫、すぐに決めなくていい」
「私は、貴方と別れたくない。でも、私には椿ちゃんと同じように、お礼を言いたい人がいるんです」
鳳凰堂の手が森子の頭を撫でる。本当に内側で炎が燃えているような、温かい手だった。
「私を育ててくれた漆田に、心配をかけたくないんです」
「うん」
「だから……決めました。椿ちゃんの目的には私もついていきます。ですが、全てが終わり、皆さんを本土に帰してから、漆田の前に姿を現そうと思うんです」
森子の決断は、二つの選択肢の中間に位置するものだった。
「わかった、森子。私に付き合わせてしまってすまない」
「悪いことなんてしていないのですから、謝らないでください」
涙混じりの意趣返しの台詞に、鳳凰堂は少し驚いていつものような笑みを浮かべた。
「うん、ありがとう」
※
夜は長い。落ち着きを取り戻した森子と鳳凰堂はそれからも話をした。
外の世界のこと、この島のこと、趣味のこと、音楽のこと。
人が死に、それは一体誰が、何故? などということには少しも関係ない話を、二人は重ねていった。
森子にとっては初めてのことを。
鳳凰堂にとっては慣れ親しんだことを。
二人は何度も重ねていった。
だが、森子はその会話の中で、鳳凰堂の話に『二百年より前』が極端に少ないことに気がついた。鳳凰堂椿の愉快な人生は、二百年前より後に始まったかのように語られているのだ。
そういえば、と森子は考える。
鳳凰堂がパスポートを持たずに海外へ飛んだ話の中で、『研究機関に身を渡したのは二百年前』と言ってはいなかったか。
そして、二百年前という言葉に共通するものがあると、森子は気づいていた。
二百年前とは、【不死鳥伝説】が生まれた頃ではないか。
一体、二百年前に何が起こったのか。森子は不思議に思ったが、もっと不思議なことに目の前に当事者が居るのだ。それもタイトルに名前を冠する不死鳥本人だ。
「あの、椿ちゃん」
思い切って尋ねてみることに決める。
「なんだ?」
「椿ちゃんは、不死鳥伝説の中の不死鳥そのものなんですよね?」
「そうだ」
軽く首を縦に振る。
森子は思い返す。この島に伝わる不死鳥伝説の内容を。
今から二百年前、この島には百人ほどの人間がいた。
外界から断絶されたこの島の人々は独自の文化、思想を持っていたが、島民は皆、神を信じていないという共通点があった。
当時誰にも知られぬこの島に新たな居住者が来ることもなく、島民の数は年月と共に減っていく一方だった。
その中で、島で四名の女性が同時に命を落としたその時、遺体を囲む島民全員の前に、炎に燃え盛る巨大な鳥が現れた。
驚いた島民が首元に斧を投げつけても死なないその鳥は、不死鳥と呼ばれた。
そして、不死鳥は死んだ四人の女性の内の一人の頭を翼で包み込むと、彼女を生き返らせた。
生き返った少女は、驚く島民の前で元気に走る様子さえ見せ、そしてどこかへ消えた。
それを見たことでいよいよ島民は神では無く、死を超越する不死鳥の存在を信じたという。
「一体、二百年前に何があったのですか? 伝説が本当なら、椿ちゃんには死んだ人を生き返らせる力があることになるのではありませんか?」
「ならない」鳳凰堂は即答した。
「私は死んだ命を生き返らせることはできない」
「なら、伝説の方が間違ってることになるんでしょうか。女の人の方が、実は生き返ってなかったという……」
「いや」鳳凰堂は森子の疑問を止め、言った。「その伝説は、表から見れば正しくて、裏から見れば間違っている」
首を傾げる森子に、鳳凰堂は言う。
「私の話を、聞いてくれるか? 不死鳥伝説はどのようにして生まれたか。その、不死鳥視点の話を。そしてそれは、私がこの島で出会った、最初の友人の話になる」
そして、鳳凰堂椿は語り出した。
不死鳥伝説の【裏】を。
※
初めの記憶は、水の中。
意識とは程遠い、羊水の中で目を開いただけのような、自我とも遠く。
次の記憶は、風の中。
感じたのは、不安定。落ちているような、流れているような。意識と知覚が、明滅する。
続きの記憶は、熱の中。
感じる風が熱くなった時、それは目が覚めた。
目覚めたそれは、炎であった。
炎は、見たいと思った時に物が見え、聞きたいと思った時に物が聞こえた。
言葉というものはまだ存在しなかった。
炎は何度も消えては生まれ、生まれるたびに消えていた。それを苦に思ったこともなければ、快にもならず。ただ意識と知覚の明滅の感覚が広がっていくだけだった。
しばらくして、意識と知覚のある炎は、消えることがなくなった。何かを原因に消えても、その原因がなければ消えることはなく、あってもすぐに生まれた。
やがて、炎は世界を知覚した。
炎は世界に居ると気づいた。
そこから先の炎の物語は、本筋とは関係ない。
だが概ね、思いつくようなことは起きていた。
やがて現れた人間に追いかけられ、血を求められるくらいのことは。
しかし、人間は言葉を持っていて、炎はそれを聞いて理解してしまった。
人間は空へと飛翔する炎を、【鳥】と呼んだ。
炎は自らを【鳥】と呼ぶ人間たちの言葉を聞いて、ああ自分は【鳥】なのだと思った。
炎は形を変え、【鳥】の姿に形だけ変わった。
何百年も、何千年も炎は世界にあり続けた。
知覚するものは全て知覚し、世界の全てを見回った。
世界は伸びる植物の違いほどしかなく、暑さ寒さの違いほどしかなく、地形の形の違いほどしかなく。炎はすぐに飽きてしまった。
飽きてしまったら、この世界は早かった。
どこにでも居る人間は数を増やし、炎を見つけては騒ぎ出す。
初めは無視していても、やがてちょっかいをかけてくるのが常だった。
殺しても、殺しても、生まれてくる。
まるで不死身だ。
鬱陶しくて、鬱陶しくて。
炎は遠い、小さな島の、さらに小さな島に身を隠すことにした。
さらに小さな島の、さらにその奥。洞窟の中に身を隠すことにした。
その頃には、炎は全てに無関心であった。
何も見たいと思えず、何も聞きたいと思えない炎にとって、時間はあって無いようなものだった。
光の届かない洞窟には、朝も夜もなかった。
だが、しばらくしてその島にも人間がやってきた。
それに気づいたのは、頭の上が騒がしくなったからだ。
どうでもよかった。心底どうでもよかった。心などなかった。底などなかった。もう炎にはそんなものなかった。
その、声を聞くまでは。
「ヤッホー!」
初めは、その声を聞いても炎は動かなかった。
ああ、人間がついにここまで来たのか。揺らぎにも似たそんな思いが一瞬湧いて、揺らぎのように消えた。
「ヤッホー!」
洞窟の入り口から投げ込まれたのであろうその叫びは、岩壁を跳ね返り反響して繰り返し炎を揺らめかせた。
「何ここ、何ここー!」
わんわんと反響を繰り返すその声に、炎はようやく顔を上げた。何年振りだろうか。
声はキャキャキャと弾むようにして炎の下へと近づいてくるようだ。
顔を上げたがしかし、どうでもよかった。どうでもよいという思いは変わらなかった。
声は、遂に炎の下へと辿り着くと。
「ぎゃーっ! なにこれ!」
一番大きく叫んだ。
炎をその姿を見た。まだ五歳ほどの小さな少女だった。
それが、炎と少女の出会いだった。
しかし、炎は口を開かず、少女は散々炎を眺めるとそのまま帰っていった。
これで二度と来なければ良いのだけれど。炎は思ったが、次の日も少女はやって来た。
少女は炎が生きていると知っているのかいないのか、愚にもつかないことを延々と話していた。
「おとーさんがねえ、おかーさんのねえ、おやつをねえ、わたしのだって言うからねえ、たべたんだけどねえ、おかーさんはねえ、おとーさんのねえ、おやつをねえ、わたしのだって言ってねえ、くれてねえ、たべた」
本当に愚にもつかないことを延々と、延々と話し続けた。
それが毎日続き、二年が経った。
二年が経った。七百三十日が経った。七百三十回話を聞かされた。
ななひゃくさんじゅっかい!?
炎は振り返り、静かな心を珍しくざわめかせた。
目の前に現れる少女は無視し続ければ次第に飽きると思っていた。
そうでなくとも、放っておけばそのうち死ぬと思っていた。
悠久の時を生きる炎には耐えられると思っていた。
だが、現実は甘くなかった。
悠久の時を生きるとはいえ、炎は環境に飽きが来た時、身を移すくらいのことはしていた。
人間が鬱陶しかったなら、そこから離れるだけだった。
寒いのに飽きたら南へ行ったし、暑いのに飽きたら北へ行った。
どちらにも飽きたからこの島に来た。
この洞窟に身を隠し、それが苦にならなかったのも、炎がこの静寂を、無を、受け入れたからだと思っていたが、違う。
静寂と無は炎を攻撃しなかっただけなのだ。
「そこで私は言ったの。あなた何様のつもり? って。そしたらその子、泣き出しちゃって。周りの大人呼ぶのよ、ひきょうだと思わない? 周りの大人もさ、泣いてる方がひがいしゃ? だと思っちゃってさ。私が悪いやつだと決めかかってんの。ひどいと思わない?」
だが、こんなものはもはや攻撃だ。
こんな中身のない言葉を毎日毎日毎日毎日聞かされるのは、意味のない風の音や草の擦れる音を聞き続けるよりかなりの苦痛だった。
炎はいい加減ウンザリした、ゲンナリした、耐えられなかった。
もし、少女が死ぬまで毎日ここにくるのだとすれば、少なくとも五十年はここに来ることになる。
となれば、約二万回ここに来ることになる。
にまんかい……いくら悠久の時を生き、心を閉ざした炎の鳥にしても気の遠くなるような回数だ。
炎はとうとう根負けし、ようやく口を開いた。
おい、お前。
少女は目を丸くする。まさか炎が口を聞くとは思わなかったのだろう。
炎はこのまま驚かせてしまおうと思い、言った。
静かにしないと、お前を焼き殺す。
だが、丸かったはずの少女の目はすぐに元に戻り、「なあんだ」と笑う。
「貴方、やっぱり生きてたのね」
気にした様子もなく、続ける。
「ならこれからは返事して」
結局、少女は以降も洞窟へ来た。炎が黙っているだけだと知ってしまうと、今度は返事を求めるようになった。
不快感はこれまで以上だ。
早く死ねばいい。
早く死ねばいい。
早く死ね。早く死ね。早く死ね。早く、早く、早く。
死ね。
炎がどれだけ願っても、少女は死ななかった。
炎は願うだけで、自らの手を伸ばして少女を包もうとはしなかった。そうすればすぐにでも願いは叶うのに。
それが何故かは、疑問にも思わなかった。
やがて、数年が過ぎ少女は十二歳になったらしい。自分から嬉々として話していた。
思えば今となっては口調もはっきりし、話に一貫性が表れていた。
その少女は炎に手を出して「誕生日プレゼントちょうだい」と言った。無視した。
「別に物じゃなくていいの。あなたの話を聞かせてよ」
そう言って更に手を近づけてくる。今までになく近づけられるその手を、何故か炙ってしまわないように炎は身を捩る。何故か。何故?
「いっつも私ばかりに話させて、ずるいじゃない」
よし、燃やしてやろう。
炎は一瞬そう決めかけたが、それでも堪えて考える。考えてみるが、炎は自分の話など持っていない。
ただそこに居るだけであり、ただそれだけだったから。
この世界の全ては無駄だったから。
無駄だと分かってしまえば、ただそこに居ることすら苦痛だった。
「なにそれ、つまんないの」
少女は言った。
「どんな人生だって、まず楽しもうと思わなくちゃ楽しくないに決まってるじゃない」
そう言うお前は、どうなのだ。
炎は尋ねた。
お前はこの世界を知らないだけだ。楽しいことなんて無い。
「言ってるでしょ、それは貴方が捻くれて不貞腐れて、何もしようとしてないだけ。何も知らないなら、それで何も知ろうとしないなら、貴方は何者でもないわ」
だったら、そう言うお前は何者だ?
「そんなの私にもわかんない。だから、いつかこの島を出るの。そして世界中のありとあらゆる全てを知って、そしてシワシワのおばあちゃんになって、死ぬ間際にやっと振り返って、自分が何者かを振り返るの。そして言うのよ、『ああ、すごく楽しい人生だったな』って。それが私の将来の夢よ」
老衰というものが存在しない炎にはその考え方は無く、驚いた。
「私がもしこの島を出るとしたら……あなたも来る? 私と一緒に世界を見直すの。今度は楽しむ気全開で、はしゃぎ回りましょう」
炎は、揺らいだ。
「ねえ、炎さん。私と友達になりましょう」
炎は、答えることはなかった。
しかし少女はそれから五年後、この島から出ることもなく死ぬことになる。
予兆はあった。少女が数ヶ月前、『十七になったらこの島を出る』と言ってから、しばらく洞窟に来る時間が遅くなっていた。
これは幸い、静かな時間が増えると思っていた炎だったが、毎日来ていた少女が遅くまで来なくなったことに、どこか据わりの悪い思いがあった。
そして、最後に少女が来たのは十七になった直後の深夜だった。
その夜のことは忘れることのできない、嵐の夜。
「ごめん! 私すぐにこの島出ることにした!」
少女が血相を変えて洞窟の奥の炎の下へと現れる。
「島を出ようとしてること、島長にバレちゃった! みんな私を探してる!」
炎は遠くに、大人の男や女の声が聞こえることに気づいた。少女も顔を顰めながら声の方向を睨む。
加えて外は大嵐だ。炎にも音でわかっていた。
島を出るなど、方法はあるのか?
「多分大丈夫! この日のためにイカダ、作ったもん!」
少女は「それに、どっちにしろ……」と呟くと、首を振って無理に笑い「じゃあ、またいつか会おうね!」と走り出す。
炎は、体が伸び上がるような思いをして、今自分が何をしようとしたのか分からなかった。
自分は今、思わず立ちあがろうとしたのだろうか。そんなことはこの数百年で初めてだった。たった一人となった洞窟で、炎は首を傾げる。
だが、そんな炎も頭上から響く「いたぞ!」という声に震えることになる。
聞くだけで隠れてしまいたくなるような、怖い声だった。わあわあと、大人の声が大きくなる。
少女は大丈夫だろうか、炎は洞窟の肌を舐めるように這いずり回る。
大丈夫なはずだ、大丈夫なはずだ、大丈夫なはずだ――。
炎は泣きたくなる様な気分だった。
だって、何度死ねと願っても叶わなかったのだ。また明日にはいつも通り、この洞窟に来て、また話をするに決まってる。今までがそうだったのだから、これからもそうに決まってる。決まってるんだ!
炎は何も聞きたくなかった。遠くで、「捕まえたぞ!」と叫ぶ声は、少女とは関係のない叫びのはずだったし、「離して、離してよーっ!」という声は、少女のものじゃない。「お母さん! お父さん! 助けてよーっ!」知らない。「お願いーっ!」知らない。「ごめんなさい、ごめんなさいーっ!」何も聞いていない。聞こえない。
第一、少女のことなどどうでもいいはずだ。全部どうでもいいと思っているからこそ、自分はここにいるはずだ。ここに自分がいる以上、他の全てはどうでもいいはずだ。なのに何故こんなに落ち着かないのか!
炎は、炎は、自分が分からなくなっていた。
炎は、炎は、そんな自分が不快だった。
炎は、炎は、この気分を沈めたかった。
炎は、炎は……。
炎は……。
しばらくして気がつけば、世界は静かだった。
なんだ、何も起こっていないじゃないか。
炎は安心した様に再び洞窟の奥に座り込んだ。
そうだった。何も起きていないんだった。
炎は、そう胸を落ち着かせて。
一気に洞窟の外へと走り出した。
確かめたかった。確かめたかった。あの少女は無事であると確かめたかった。
全てどうでもよかったはずなのにとか、死んでも悲しくないはずなのにとか、そういった思い全てが今はどうでもよかった。そんなことを考え続けるよりなにより、自分の目で確かめたかった。全て自分の思い過ごしだと確かめたかった。頼む頼む頼む頼む。お願いお願いお願いお願い。何もありませんように何もありませんように何もありませんように。何もありませんように!
今日が終わって明日が始まった時、いつものようにあの子が来ますように。何も変わらない一日が過ぎますように。何も変わらないままに過ぎていく毎日でありますように!
そうでなくてはならない。洞窟から飛び出た炎は、岩壁を登り始めた。そうでなくてはならないのだ!
だって、そうでなくては。
岩壁を登り終えた炎を出迎えたのは、あまりに多くの人間だった。
だって、そうでなくては。
彼らが取り囲むのは、一台のギロチンだった。まるで見せ物を見るかのようにしてギロチンを取り囲む彼らは、突如表れた炎を口を開けて見上げていた。
だが、炎はそれよりあの子を探していた。
人の中にいない。群れの中にはいない。ならどこだ? どこにいる?
炎の目は、やがてそこに止まった。
だって、そうでなくてはいけない――。
ギロチンの下部に置かれた受け皿に、その子はいた。
あのよく動いていた口が、きらきらと光っていた目が、今はもう動くことはない。
炎を見上げては笑っていた顔は、まるで眠りに落ちる寸前で固められたかのように、目も口も薄く開いて、土のような色に変わっていた。
語って聞かされた未来への希望も、望む死に方も、楽しそうな声も、もう絶対に聞こえない。
少女は死んだ。死にたくないと泣き叫びながら、殺された。
だってそうでなくては……この子が死んだのは、自分のせいではないか。
炎は、叫んだ。
叫んで叫んで、それでも叫んだ。
周りの人間が大きく騒ぎ始め、首元に斧のような何かが通過したような気がするが、どうでもよかった。
自分だ、自分のせいだ。
炎は聞いた。少女が言った、『島を出ようとするのがバレた』との言葉を。ならば、島を出ようとすることは罪にあたるのだろう。
炎は聞いた。人間の少女を追う声を。
炎は聞いた。少女の助けを求める声を。
炎は聞いていたはずだった。
もし、全てを聞いて、見て、知ろうとしていたなら。
炎は少女を守れたはずだった。
炎は何もしようとしていなかった。何も知らなかった。それでいて何も知ろうとしていなかった。
だから少女は死んだのだ。
炎は叫ぶ。体の炎が木々に燃え移り、広がっていく。
ギロチンは我を忘れていない人間の一人が引きずるようにして回収していった。それこそどうでも良い。炎はその受け皿に用があった。その受け皿の中の少女に。
意味を成さなかったはずの炎の叫びは、次第に一つの意味へと形を作る。
ごめん。
少女は返事をしない。
炎がどれだけ謝っても、少女は返事をしない。
もうここに、少女は居なかった。
もうどこにも、少女は居なかった。
炎には絶対に届かないところに、少女は行ってしまった。
炎がどれだけ無限の時間をかけても、絶対に届かないところに。
炎はまた叫ぶ。
炎はその翼で少女を包んだ。
簡単に、溶けるように少女は形を変えていく。
死なないでくれ。
どれだけ願っても、やはり炎の思いは叶わない。
目を閉じ、胸の中へと抱き寄せるようにして、少女を包む。
死なないでくれ……。
生き物は死ぬ。人は死ぬ。死んだら生き返らない。
それがとても悲しいことに、炎は今更ながらに気づいた。
それでも願うことをやめなかった。
腕の中の少女が灰になり、崩れ、消えていく。
後には何も残らない。
こんな気持ちになるならば、初め会った時死ねなどと願わなかった。
今はただ、生きていて欲しい……。
その時、それは起こった。
炎の体が小さくなっていく。
雨に消されるようにして、萎んでいく。
だが、最後まで消えることはなく、炎は人のような大きさまで縮むと、その内側に影が現れる。
避難していた周りの人間は、その炎の内側に人影を見た。
先程首を切ったはずの、少女の姿を見た。
そこにあったのは、燃え盛る炎ではなかった。
炎が完全に消えた時、先程死亡を確認したはずの少女がそこに居た。
死んだはずの人間が生き返った。人間たちの中で、それを【奇跡】と呼ぶ声が聞こえた。
だが、少女は炎が現れた崖の向こうへと走り出すと、一瞬にしてその身を投げてしまった。
そして、【不死鳥伝説】が産まれた。そのことを炎が知るのはもっと先だ。具体的には、二百年ほど未来の話。
さて、この時逃げ出した炎の方。
炎が気がついた時、自分の体が大きく変わっていたことに驚いた。
初め、炎は少女が生き返ったのだと思った。
だが、すぐに自分が少女の姿に変わっているのだと気づいた。
自分には【変身能力】があった。気づいた時、周りの人間がこちらを見ていた。
炎はすぐに、この少女の体がまた殺されると判断して逃げ出した。
この島にはいられない。炎は崖から飛び立とうとした。しかし、今の人間の体では飛び立つことなどできず……そのまま海へと落下した。
泳ぐ、などということは炎にはできなかった。
ただ潮に流されるままに炎は何度も何度も溺れ死に続けた。
そして、目が覚めたとき。そこは知らない建物だった。窓から見える景色は島から見えるものとは全く違う。
「良かった、気がついたんですね」
すぐそばには男がいて、炎は飛び退いた。その時、スプリングで跳ねたことから自分はベッドに寝かされているのだと知った。
「ああ、驚かないでください。ここは僕の経営する病院です。あなた、一時は心臓が止まっていたんですよ。生き返るなんて、奇跡だ」
男の声は穏やかで、炎を落ち着かせるものだった。
炎はようやく事態を把握した。
長い間海に揉まれ続け、そして浜に打ち上げられているところをこの男に拾われたらしい。
「自己紹介がまだでしたね。僕の名前は、【鳳凰堂――】」
炎は、男の名前を最後まで聞けなかった。
自分の目から、水が溢れ出ていた。
「ど、どうしました。どこか具合でも?」
「……人が、死んだんだ」
「いつ、どこでのことですか?」
男の声は、炎には届かなかった。
「人なんて、生き物なんて、死のうがどうでもよかった。これまでずっとそうだった。なのに――」
男は、ベッドにて涙を流し続ける炎の脇に座り、黙って話を聞き続ける。
「あの人間が死んだ時だけ、気持ちが変なのだ」
「……その人は、今まであなたと出会った他の人間と、違うところがあったんじゃないですか?」
男は穏やかな口調で、炎に言葉を紡いだ。
炎は男の顔をようやく正面から見た。彼の言葉が、炎にある気づきを与えたのだ。
「その、人間とは、話を……話を、した」
「どのくらいですか?」
「十二年……毎日」
男はクスリと笑い、炎に答えを与えた。
「それなら、なぜ悲しいかなどすぐにわかりますよ」
首を傾げる炎に、男は言った。
「なんのことはありません。その人は、あなたの友達だったのでしょう」
※
「その時、私は決めたんだ。この世界のことを、もっとちゃんと知りたいと。たくさんのものを見て、人の考えを知って、自分でちゃんと考えたい。ちゃんと……楽しみたい」
鳳凰堂の長い話は、そこで終わった。
森子は黙って聞いていた。何と声をかければいいのかわからなかった。
だが、一つだけ分かることがあった。
「椿ちゃんはその女の子を生き返らせることは、できなかった。その代わりに……」
「そうだ。私はその時、変身能力を手に入れた」
つまり【不死鳥伝説】の真相とは、死んだ人間を生き返らせたように周りの人間が勘違いをした結果だったという訳だ。実際はその時少女と不死鳥の【入れ替わり】が起きていた。
「入れ替わり……」
「森子、もし……お前がよければなんだが。もし全てがうまくいった後、お前がこの島から出たいと言うのであれば、私のところへ来ないか」
「え?」
それは、願ってもない提案だった。
「世話になってる家に事情を話せば、住む部屋くらいは用意してくれるはずだ。どうだ、お前も共に来ないか」
絶対に越えることのできないと思っていた海の向こうへ、不意に橋がかかる。
「椿ちゃん……ありがとう」
ここまで自分に都合の良いことが続いていいのだろうか。森子は未だ自分が夢の中にいるような思いだった。
「うん……わかった。全部終わったら連絡をくれ。すぐにお前を迎えにくるよ」
鳳凰堂は優しく言った。
「なんだか、椿ちゃんのお友達だと言うその人が羨ましいです。その人は椿ちゃんの本当の姿……不死鳥としての姿を見たのですから」
「そんな大したものじゃない。大きな炎というだけだ」
そうは言ったが、森子の鳳凰堂の友達への興味は尽きなかった。
「その方と、会ってみたかったです」
「それなら、もう会っているぞ」
「え?」
困惑する森子に、鳳凰堂は何も言わず、自らを指差した。「……あっ」森子は声を上げる。
「私が最初に現れた時の姿を覚えているか? あの姿はな……あの子の姿だ」
森子は思い出す。
長い黒い髪と整った顔立ち、そして緋色の目が印象的な、少女。
「あの姿が、お友達の……」
「そうだ。私はずっと、あの子の姿で生きている。世界を見て回っているのも、本当はあの子に見せてやりたいと思っているからでもあるんだ」
鳳凰堂はそう言い、「今日はもう休め。私が見張りをしておく」と空のバッグを枕に差し出した。
森子は受け取り、頭を乗せて目を閉じる。
屋敷のベッドとは寝心地は大きく違ったが、それでもよく眠れる気がした。
波の音がする。
ここは海から離れているために、本来なら木々のざわめきにかき消されるはずの波の音が何故かはっきりと聞こえる。
聞こえるはずのない、その穏やかな一定のリズムは、森子を安心させた。