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殺人館の不死鳥  作者: かなかわ
異形編
20/38

第三章【表】被害者が死にすぎる 第二部

「停電って、何が原因でしょうか」

 中央ホールに集まった全員の前に立つ漆田に、八木は代表するように尋ねた。「現在、調べている最中です」しかしその漆田も平常心を装っているだけだということは額に滲む汗が物語っていた。

「どうすんのよ! スマホ充電できなくなっちゃったし、それに、それに……鍵がかかんないんだけど!」

 兎薔薇が叫ぶ二つの問題はどちらも重大な意味を持つものだった。特に、後者の問題は危急とも言えた。

 不死鳥館は元々二百年前この極楽島に不死鳥伝説を基に建てられた館だと的羽天窓は言った。そしてその館に電気や電話線が引かれたのは今から百年も無い最近の話らしい。そんな状態の館を宿泊施設に改造したのが今年になってから。それまでは鍵がかかる扉の方が少なかったらしい。

 しかし、ここで問題が起きた。

 扉に鍵を取り付ける際、的羽天窓は電子ロック機構を持つものを選んだのだ。ありがたいことに災害時に停電が起きた場合を考え、電力の供給が無くなった際は全ての鍵が自動で開くものを。

 だがその機構は今この時点では完全に逆効果となっていた。物理的に動かせるツマミもない為、今この不死鳥館において鍵のかかる部屋が急激に減ったのだ。

「漆田さん、お聞きしたいのですが。この館に他に鍵のかかる部屋はありますか?」

「……申し訳ございません。バスルームしかございません」

 それを聞いて兎薔薇はいよいよ取り乱す。頭をかきむしり、うーっと意味のない声を上げるとその場で無意味に歩き始めた。彼女としてはすぐにでも鍵のかかる部屋に閉じこもりたい気分なのだろうが、今となってはそれはかなり限られてしまっている。

「原因を突き止めれば、復旧させることはできませんか」大神はそんな兎薔薇の様子を見て提案する。

「これが犯人の仕業だとすれば、まず間違いなく簡単に復旧させはしないだろうね。完膚なきまでに壊しているか、見つかりづらいところを壊しているか」

「それよりも、大きな問題があります」八木は注目を集めるように言う。

「それは今夜、どう過ごすか」

 全員の表情が暗くなる。

 明かりもつかず、鍵のかからない部屋でいつ開くかわからない扉に怯える夜は兎薔薇ではないがいつか精神に異常をきたすことは想像に難くない。それは全員が抱いている懸念であろう。

 そしてその答えもまた、全員が抱いていた。

 それはかつて試みようとして、一人の悪意によって失敗した一つの答え。

「一番安全なのは、全員が一箇所に集まることです」

 大神が全員に代わって言った。

 そして天窓と獅子噛以外の全員が元凶を睨む。言わずもがな、獅子噛を。

「本当にそれしかないの。だって、こいつだけじゃなく、いるんでしょ。二人をあんな風にした奴が」

 兎薔薇は敵意を隠そうともしない。

「こいつとは嫌われてしまったね」獅子噛はショックを受けた様子もなく白々しく言う。「だが、言いたいことはわかるとも。相互監視状態が続いて身動きが取れなくなった犯人が、なりふり構わず暴れ出したらと思うと困ってしまうね。それに君は一晩私たちにどこに居ろと言うつもりなのかな。個室では狭すぎるし、厨房は刃物がある。パーティーホールはあんな状態だ。それに大問題として、暴れる犯人が出入り口となる扉の前に陣取ってしまったら? 私たちは逃げ場を無くしてしまう」

 相互監視状態は確かにある程度のトラブルは防ぐはずだ。だが獅子噛の言うように、暴れる犯人が扉に陣取り他の人間を閉じ込めてしまう危険性は無視できない。

「だけどよ、俺やアンタみたいな体格がいい奴が居るんだ。一人暴れたところで抑え込めるとは思えねえか」

「それは暗に君が犯人ではないと言うアピールかな? もし君が犯人だったら誰も敵わないよ。私含めてね」

「じゃあどうしろってんだよ!」月熊は椅子を蹴る勢いで詰め寄る。

「それをみんなで考えようと言っているんだよ、私は」

「言い方が気に食わねえんだよ!」

 これで何度目だろうか、月熊と獅子噛が睨み合うのは。八木は宥めるためにも、ある案を提示した。

「一箇所だけ、全ての問題をクリアする場所があります」八木は一拍置いて、告げる。

「それはここ、中央ホールです。ここならば全員が集まれるスペースがあり、そして逃げ道は多い。テーブルと椅子も既にありますから、新たに運んでくる必要も無い」

「だけど!」兎薔薇は目を見開き、一点に指を向ける。「今朝……あそこにあったばかりじゃない!」そこは、今朝的羽森子の頭部が置かれていた場所だった。赤い絨毯に落ちた血痕は、今は乾き黒く目立ち始めていた。

「もしかしたら、それが犯人の狙いだったのかもしれません。切断した森子さんの頭部をわざわざ目立つこの場所に置いたのは、中央ホールに僕たちが集まれないようにするため。そう考えることはできませんか。逆に言えば、ここが一番安全だということも」

「だけど、だけど……」

 なおも言い淀む兎薔薇だったが、他の全員はそれが最善であると頷いていた。

「兎薔薇様、そちらは私が目立たぬまでに掃除させていただきます。それでどうか納得していただけませんか」

 漆田は言い、大神に許可を取る意味の目配せをした。

「そういう意味じゃ、全然無いんだけど」

 だが兎薔薇も語気が弱まったところを見るに、自分の思う状況は難しいと分かったらしい。最後には頷いた。

「では、まず私は防災バッグを取りに行ってまいります」

「防災バッグですか?」

「ええ、そちらには懐中電灯が数本入っていますので、夜を越すことができるかと」

 それは久しぶりの良い知らせだった。懐中電灯といえど、数本もあれば少なくとも暗黒の中で過ごすことにはならなそうだ。一同に安堵のムードが漂った。漆田を止めるものは誰もおらず、男性用個室の並ぶ廊下に消えていく彼の背を見送った。

 数分後、廊下の奥から漆田が現れた。だが、彼は防災用らしいバッグどころか懐中電灯の一本も持っていない。彼は足早に二階の回廊を歩き、誰かが声をかけるよりも早く今度は女性用個室の並ぶ廊下へと消えていった。

 そしてさらに数分。再び現れた漆田はやはり、手ぶらだった。階段を降り、天窓に何事かを耳打ちする。

「えー、皆さん」

 そして、口を開いたのは天窓だった。

「二つある倉庫に置いていた防災バッグが二つとも無くなりました。どなたか何か知らないでしょうか」


 状況はどこまでも、悪くなる。


 ※


 どれだけ祈ろうとも、その祈りは天に届くことはないのだろう。その証拠に太陽は夜を代わりに連れて身を海へと沈めていく。

「今日は新月です。月明かりも無い」

 八木は不死鳥館の中央ホールを覆うように作られたドーム状の天窓を見上げて呟いた。

「んなこた、わぁってるよ」

 月熊の顔が微動し、低い声が響く。

 全員の、顔だけが見える。

 現在の明かりというのはたった一つ。中央ホールに置かれたテーブルの中心に立てられた蝋燭だけだった。懐中電灯とは随分見劣りする。

 あの後、随分と長い話し合いが行われた。議題は当然明かりの問題だ。

 懐中電灯が無い以上、次に挙げられたのはスマートフォンやフィーチャーフォンを含む携帯電話のライト機能だ。

 今残された手段の中では最適に思えたがしかし、これにも大きな問題があった。

 携帯電話は武器になる可能性があるのだ。

 例えば、二日目に八木が獅子噛に脅しをかけた時のように、携帯電話は録音機能、そしてカメラ機能といった記録ができる機能も有している。

 もしこの状況下で犯人が暴れ出した際、その写真を一枚撮るだけで牽制することができる。

 だが、電力消費の激しいライト機能を使うことで電池を消耗しそれらを手放すことは、それもまた危険であると考えた。

 そこで結局、防災バッグに入れられることなく残っていた蝋燭を使うことに決めたのだ。

 よって現在【十九時】、暗闇の中で不気味に炎に照らされるお互いの顔を見合っているのだった。

 食事は明るいうちに済ませてしまった以上、会話の種もない。

 食事の用意には八木が監視役も兼ねて参加させられており、八木が全員分の紅茶を用意する間もずっと監視をしていたが、漆田が料理に毒物を入れることはなかった。

「さて、いよいよ退屈だな」

 外は風が強いらしい。天窓から見える、流れる雲を見上げていた獅子噛が呟いた。

「誰かトランプでも持っていないのか」

 誰も答えない。

「あるいは、私に楽しい話でも聞かせてくれないのかな」

 ぼうっと暗闇に浮かぶ顔達は、互いの動きを見逃すまいと目だけがギョロギョロと動いていた。的羽天窓だけが、今も薄く笑っている。

「だったら、私は一人で遊ばせてもらうよ」

 そして、浮かぶ顔の一つが、歯を見せて笑った。

「的羽森子が、どのようにして死ぬに至ったか。その考えを話そう」

 全ての顔が、獅子噛に向いた。

「獅子噛さん、やめてください」

 発したのは八木だった。

「今そんなことをする意味はありません。ただ混乱を招くだけです」

「それはどうかな。少なくとも私には、犯人が分かったんだがね」

 空気がざわめくのを感じた。犯人が分かった、その一言がどれだけ重要な意味を持っているのか、分からないはずはないだろうに。

「て、適当なこと言わないでください。その成否だって誰にもわからないんですよ」

「それもどうかなぁ。確かに私の考えが正しいという確証はないが、少なくとも私は見たよ」

「何を見たっていうんですか」

「犯人の姿」

 八木は立ち上がりそうになった。一同もそれぞれ驚愕の表情を浮かべて息を呑む音も聞こえて来る。

「これで私の話を聞く気になったかな? きっと私の話を聞けば、もう姿の見えない殺人鬼に怯えることも無くなると思うんだがねえ。ああ、姿の見えない、というのは語弊があったな。私はその姿を見ているんだから」

「獅子噛さん、あなたはどうしてそこまで言えるんですか。それは犯人を刺激する行為です。昨日、言っていませんでしたか? 何故、そのように自分は安全だとわかっているかのように振る舞えるのですか?」

「君は私のすることにいちいち何故、何故とうるさいねえ。だったら私もいちいち返させてもらうが、私から見ればこれはゲームでしかないんだよ」

 それは、自分の命は安全圏にあるとでも言いたげだった。

「そんなのどうだっていい!」

 テーブルを叩く音が、兎薔薇の叫びと共に響いた。

「見たんだったら早く言いなさいよ! 誰よ、誰が犯人なのよ!」

「だ、そうだ。少年、君が話を止めているんだが、もういいかい?」

 八木はしぶしぶ頷いた。今は彼の話を聞く他なさそうだ。

「では、私の考えを話させてもらおう」

 獅子噛の口は、動き出した。


「まず、私は停電が起き相互監視をとることに決まった後、聖堂を調べていた。するといくつかわかることがあった。的羽森子の首は鳳凰堂椿のそれとは違う道具で切断されていた。倉庫から血のついたピアノ線が発見されたことから、これが使われたのだとわかった。そして他にも数本、四メートルほどのピアノ線が見つかった」

 ここまでは、八木が得た情報と同じだ。話を止めることもない。

「おそらく他のピアノ線はフェイクだ。紛れ込ませて首を切断したものを隠すためだろう。だが、ピアノ線で人の首を切り落とすなど相当難しいと思わないかな? ピアノ線を的羽森子の首にかけ、単純な腕力で引き抜くというのは簡単ではない。手袋などが無ければ握る手すら傷ついてしまう。少なくとも力の無い女性には無理かもしれないね」

 聖堂内の倉庫にあった他のピアノ線は首を切断した道具を隠すためのフェイク。それは八木の中にはなかった考えだった。それが真実ならば、あまりにもあっさりと見つかるのはおかしい。だがまずは最後まで聞き、その時反論しても遅くは無い。八木は考えたが、彼はそれではあまりにも遅すぎることにまだ気が付かなかった。

「では、それが可能だったのは誰か? 力の無い女性は犯人では無いとは言え、除外できるのは兎薔薇くんだけだね。大神くんならできそうだ」大神は表情を変えずに無視をした。だがそれもこの時までだった。獅子噛は出した結論は、八木と大神に大きな動揺を与えるものだったからだ。

「ところでその大神くんだが、確か防犯ブザーの音に反応するために扉を開けて寝ていたんだよね。私はそれがどうも信用できなくてね、私も扉を開けていたんだ。そして私は音だけじゃなく……そこから廊下を覗いていたんだよ。一晩中ね」


「……はあっ!?」

 今度こそ八木は立ち上がった。

 この男は何を言っているのだ。扉を開けて廊下を監視すること、それは大神がしていたことだ。獅子噛もまた同じように監視をしていたのか? 八木は考え、すぐに棄却する。昨晩厨房へ向かった八木も、そこで出くわした月熊も、帰る時に獅子噛の扉が空いていたならばそれを見ていたはずだ。あり得ない。

「……続けていいかな? 少年」

 大神が痛いほど八木を睨んでいる。出方を伺うしか無いようだ。


「まあ、少年が驚くのも無理はない。皆には言ってなかったからね。だけどこっそり見張りをしていたおかげで、私は見ることができた。夜が更けるころ、静かに部屋から出て階段を降りていった的羽森子と、その少し後にノコノコと部屋を出ていく犯人の姿が。そして、その人物なら少女の首をピアノ線で切断するほどの腕力はあるだろうし、それにその人物が常に身につけているものを使えば、手を傷つけることも無かったはずだ。ここまで言えばわかるはずだ。犯人は、そう……月熊大和、君だよ。君の腕力なら的羽森子の首をピアノ線で切り落とすことは可能だろうし、君が両腕に巻いている包帯をさらに上から重ねるように厚く巻けば手袋代わりとなり、手に傷は付かないだろう」


 嘘だ。


 全て大嘘だ。


 獅子噛は大嘘をついている。


 月熊と八木は昨晩出会っており、森子は扉から部屋を出ていないのは大神の証言と窓の外の足跡から分かっている。そんなことは分かっている。ならば何のための嘘だ? 八木は考える。考えている間も、時間は進む。

「な、なんだよそれっ!」

 吼えたのは月熊だ。

「お前、何言ってやがる! そんなの全部嘘だろうが!」

「アンタ……アンタがやったの!」

 兎薔薇は立ち上がって叫んでいる。

 混乱に包まれ始める中央ホールの中、八木は考え続ける。

「違えって、俺じゃねえ!」月熊も立ち上がって言い返す。そしてその視線は助けを求めるようにふらふらと彷徨った後、八木を見て止まった。「おい八木! お前からも言えよ! 昨日俺とお前は夜に会ってるって、だろう? そうだ獅子噛。お前俺の姿を見たっていうなら八木の姿も見てないとおかしいだろうが! お前、八木のことは見たのかよ!」

 八木は月熊の訴えを聞いて考えるのをやめた。とにかく、今は彼の嘘を止めなければ。そしてその手札は月熊が言ったものと同じだ。

「そうです、獅子噛さん。あなたは嘘をついています。僕は昨晩月熊さんと会っているんです。もしあなたが本当に扉を開けた監視をしているなら、僕の姿も見ていなければおかしい! 獅子噛さん、あなたは僕の姿を見たんですか!」

 獅子噛は八木の反論に目を丸くしていた。

 これで、彼の嘘を止められた。八木は一瞬思った。そう、一瞬だけ。

 目を丸くした、キョトンとした顔。それは昨日も見たはずだ。そしてその後に彼は特大の悪意を八木に見せつけたことを、その一瞬後に思い出していた。

 そして、今回もその悪意が噴き出した。

「私は断言する。月熊くんの姿は見たが、少年、つまり八木くんの姿は見ていない」

「は……?」

 なおも言い張る獅子噛に困惑する八木。そんな彼に、獅子噛はこう続けた。


「……かわいそうに。君は……脅されているんだね。そこの彼、月熊くんに」


 と。

 一連の嘘は、罠だ。

「今日の昼食前、君は月熊くんに部屋に来るように言われていたね。私が気づいていないと思ったかい? もしかして、その時に脅しを受けたんじゃないかな。彼が不利になった際、助け舟を出すように、なんてね」

 八木はようやく獅子噛の狙いに気づいた。だがもう全ては遅い。すでに悪意は止まらない。

「だが大丈夫だ。月熊くんは気づかなかっただろうが私は見ていたよ、深夜に彼が一人階段を降りていく姿を」

「そ、そんなはずは……!」

「おや、八木くん。そんなはずは無い? どうしてそう思うんだい?」

 獅子噛の狙いは最初からこれだったのだ。

「部屋を出たのは月熊くんの他に君もいた。それを裏付ける【八木くん以外の別の誰かの証言がある】と、君はそう言いたいのかい?」

 最初から、狙いは大神の持つ情報だったのだ。

「そんなの知らねえよ!」

 大神は扉を開けてブザーの音に耳をそばだてていた、それは全員が共有する情報だったがしかし、実は一晩中廊下の監視もしていた。それを知っているのは今は亡き森子と八木だけ。情報を知らない月熊は叫ぶ。

「だったら犯人は君だ。大神くん、あとは頼んだよ。警察として彼を拘束したらどうかな?」

「お、お前は嘘をついてる!」

「だから、それを誰が証明するんだい?」

「何度も言わせんじゃねえ! 俺は八木と会ってるんだよ!」

「君こそ何度も言わせないでくれ、私は八木くんは見ていないし、君が昼に部屋に呼び出すところを見ている」

「……クソッ、他に誰か俺と八木が夜中に会ってるって知ってるやつ居ねえのかよ!」

「そんな都合のいい人間が他に……」

 二人の言い争いを止めたのは、一つの手のひらだった。

 小さく挙げられたその手の持ち主は、大神だった。

「私が居ます」

 八木は顔を覆いたくなった。だが、獅子噛の悪意を見抜けなかった八木が責めることはできない。

「……へえ? 君は何を知っているんだい?」

「あなたが、嘘をついていることです」

「聞かせてくれないかな?」

 結果、大神は話し出してしまう。

 八木と月熊が昨夜部屋から廊下へ出ていたこと。そして森子は部屋から出ていないことを。

 こうして八木と大神が隠し持っていた情報は、獅子噛の悪意によって全員に共有されてしまったのだった。

「……だ、だけど、アンタもそいつに脅迫されてそう言ってるだけかもしれないじゃない!」アンタとは大神であり、そいつとは月熊のことだろう、顎で指しながら兎薔薇は喚く。「ま、まだどっちが嘘か、信じられないわよ!」

「あ、ごめん。嘘は私の方だよ。私は外なんか見てない」

「な、な、何よそれぇっ!」

「はは、ごめんごめん。八木くんや大神くんが何かを隠していることは分かっていたんだけど、素直に聞いても教えてくれないか、はぐらかされると思ってね。少し荒っぽいやり方だが、教えてもらうために――ッ」

 瞬間、獅子噛の身体が大きく吹き飛ばされた。

 同時に響くのは、ゴッ、という鈍い音。

 それは月熊の拳が獅子噛の顔面を捉えた音だった。

「テメェ……ふっざけんなあっ!」

 暗闇に乗じたらしく、全員の反応が遅れてしまっていた。その間に月熊はさらに獅子噛に馬乗りになってマウントポジションを取っていた。その拳が、二度、三度と獅子噛の顔面に振り下ろされる。

「月熊さん! それ以上は!」

 八木がその腕を止めようと掴みかかるが、彼の腕力は確かに凄まじく、八木を振り払う。

「お前、犯人よりタチが悪いんだよッ! 二度と話せないように、口を……ッ!」

「やめなさい!」

 月熊はその声に体を強ばらせた。そんなことができるのは一人しかいない。大神だ。

 そしてようやく月熊は我に帰ったのか、慌てて獅子噛から飛び退いた。自分のしたことに気づいたのか、拳を開き、全員の顔を見た。彼の目に映っていたのは、おそらくは。

「本当に、アンタがやったんじゃないの……?」

 全員からの、疑惑の目。


 ※


「では、ようやく情報も揃ったことだし、改めて考えてみよう」

 月熊に殴られ腫れた顔をさすりながら、椅子に座り直した獅子噛は言う。

「いいのですか」

 問うたのは漆田だ。

「ああ、問題ない。まあ、嘘をついた代償として受け取っておくよ」

「いえ、そうではなく……これ以上続けることが、です」

「良いわけないでしょ」答えたのは兎薔薇。「もういい加減、アンタの話はウンザリ。アンタからは何も聞きたくない」

「おやおや、これは本当に嫌われてしまったらしいな」

 肩をすくめる獅子噛。

「俺も……もういい。お前の話は聞きたくねえ。次に何か言ったら、殴るだけじゃ済まなそうだ」

「それは怖いなあ、八木くんには言ったが私も命だけは惜しいんでね。だったらその八木くんに任せようかな」

「僕、ですか?」

「そう。君は探偵という肩書を名乗っておきながら、推理というものを全然披露しないね。私は結構なミステリ読みでね、常々殺人が起きないと動かない探偵はどうかと思っているんだが、君のように殺人が起きても動かないのはもっとどうかと思うよ」

「推理を披露することに意味なんて無いからです。成否もわからないことを言って、場に疑心暗鬼をもたらすわけにはいきません」

「もう充分疑心暗鬼はもたらされた」

 誰のせいだと思っているんだ。八木は言葉を飲み込む。

 だが、獅子噛の言うことも一理あるかもしれない。今の状況は最悪だ。犯人の存在だけでも示せないと、この夜を乗り切ることはできないかもしれない。八木はそう考えていた。

「わかりました。僕の考えでよければ」

「もう誰の何でもいいわよ!」


「……まず、昨晩の状況を整理します。大神さんの監視により、月熊さんが【二十二時四十五分】に個室を出ています。そして次に僕が【二十二時五十五分】に個室を出ています。僕たちは厨房にて会いました。しばらく話をして、部屋に戻ったのが二十五分後、【二十三時二十分】です。この間、僕と月熊さんは目立った行動をしていませんでした」

「だけど、二人は厨房にいたんだろう? パーティホールとはエレベーターで繋がっている。二人の間に十分のタイムラグがあれば、パーティホールにいる森子くんを殺して戻ってくるくらいはできるんじゃないかな」

「はあっ? そんなこと……」

「ええ、できると思います」声を上げようとした月熊を手を上げて制し、続ける。「ですが、ここでもまた首切りについての問題が発生します」

「時間、でございますね」

「その通りです。今回もまた、犯人は首を切断したあとそれを移動させています。切断、移動を含めればやはり鳳凰堂さんの時と同じように三十分の余裕はあるべきですし、僕たちの間にそんな時間はありませんでした。僕も月熊さんも、殺すことはできても首を切り、移動させることは絶対にできません。この中の全員が不可能です。ある方法を除いて」

「ある方法? 少年には何か考えがあるようだね」

 八木は頷く。しかしほぼハッタリだ。だが、獅子噛が提示した「複数のピアノ線は切断した道具を隠すためのフェイク」という説に抱いた違和感を基に考えれば、ある一つの推測が立てられた。

「聖堂の倉庫にあったピアノ線。あれはやはり、元々は長い一本だったんです」

「しかし、長い一本だったというのなら相当な長さになると思いますが」大神の言葉に、頷いて続ける。

「はい、相当な長さだったんです。具体的には、二十七メートルのピアノ線だった。犯人は森子さんを殺害したあと、もっと遠い場所からそのピアノ線を引いたんです」

「はっ。面白いけど少年、いくらピアノ線といえど二十七メートルもあれば相当な力で引かねばならないよ。一番力持ちの月熊くんですら難しいんじゃ無いかな」

「はい、相当な力だったんです。ですがそれは……人の力では無かった」

「なに?」

 鼻で笑っていたはずの獅子噛も、続ける八木の言葉に居住まいを正した。

「どういうことだ」

「人の力ではなく、機械の力を使ったと考えればどうでしょうか」

「しかし八木様。この館にはピアノ線を巻き取るような機械などございませんが……」

「僕は巻き取ると言っていませんよ、漆田さん。その機械はピアノ線を引いたんです。そしてそれはこの場の全員が目にしているものです」

 それを聞いて、一同は目を伏せて考える。

 そして最初に顔を上げたのは、獅子噛だった。

「なるほど……車か!」

「そうです、犯人は車を使ったんです。方法としては、まず森子さんをパーティホールに呼び出し、出会い頭に自由を奪います。おそらくこの時に命を奪ったと考えてもいいかと思います。次に犯人は、あらかじめ用意していたピアノ線のロープを森子さんの首にかけ、そしてその体をステージの転落防止用の柵に首から上が出た状態でもたれかけさせ、パーティホールを出ます。犯人はそのまま玄関ホールから玄関を通り外へ。ピアノ線の端を車に結びつけて、走らせたんです。車による強い力で引かれたピアノ線は森子さんの首を切断。その手応えから切断の完了を知った犯人はピアノ線を回収し、長い一本だったことを知られないために短く切り分けたんです。そしてパーティホールへと戻り、森子さんの首を回収。ここ中央ホールへ置き直したんです。この中央ホールに、人がこうして集まることのないように」

 反論は無かった。

 そして八木はいよいよ詰めに入る。

「ですがこの方法が正しければ、犯人を絞り込むことは一気に難しくなるんです」

「どうしてよ。方法がわかったなら普通、犯人は絞り込まれるんじゃないの」

「いいえ。まず森子さんがいつ部屋を出たのか分かりません。おそらく森子さんは何者かから呼び出しを受けた時、誰にも知られずに来いと言われたのではないでしょうか。だから、大神さんが廊下を監視していると知っていた彼女はあえてベランダから外に出た。そして玄関から屋内に入り直してパーティホールへと向かったんです。ここまではいいですか?」

 全員が頷いたのを見て、八木は続ける。

「次に犯人の行動ですが、まず月熊さんと僕は、大神さんの証言を持ってしても疑いが晴れません。十分のタイムラグがあっても、そのうちに森子さんを殺してから厨房で出会い、何食わぬ顔で部屋に戻ってから改めて首切りトリックを発動させた可能性が残るからです」

「じゃあ、そのどっちかってこと?」

「いいえ、このトリックを発動させるには犯人もまた外に出る必要があります。となると部屋の扉から廊下に出るか、森子さんと同じようにベランダから降りる他ありません。しかし館の外から見えるベランダの下には、足跡が森子さんのものしかありませんでした。そして大神さんは僕らが部屋に戻ったあとは誰も出ていないと証言している」

「ややこしすぎるわよ! つまりどういうこと!」

「結論から言えば、森子さんを殺すだけならば僕や月熊さんにもできますが、首切りトリックはこの場の誰にも不可能である、ということです」

「は……なにそれ、何よそれっ!」

「いいや、それは早計だよ」口を挟んだのは獅子噛。「少なくとも一人、絞り込めるだろう? それとも、その人は君にとって都合が悪いのかな?」

 やはり、すぐに気づいたか。八木は内心舌を打った。

「……ええ、そうです。これからその話をしようと思ったんですが」

「それは失礼。ではどうぞ続きを」

「……一人だけ、大神さんの監視に縛られることなく館を移動して森子さんを殺し、首を断ち切ることのできる人がいます。それは大神さん本人です」

「そうでしょうね」大神は大した驚きも無さそうに呟く。

「監視をしていた大神さん本人ならば、全員が部屋に入ったタイミングを見計らうことも可能です。何か反論はありませんか」

「ありません。八木さんの方法なら私にも可能でしょう」

「何よそれ! それって自白ってことでいい?」

「ですが、一つ不自然な点があるんです。本当に大神さんが犯人ならば、あらかじめ『他にも誰か人影を見た』と言うべきでは無いでしょうか。ベランダから出たにしろ扉から出たにしろ、他の目撃証言をでっち上げなければそのまま自分が犯人だと断定されてしまう。まさに今みたいに」

「そうしないから、犯人じゃないと? 彼女がそこまで頭が回らなかっただけじゃ無いかな」

「監視を買って出たのは大神さんです。もし森子さんを殺害するための行動ならそこまで含めて計画するはず。大神さんの発言にはまだ信憑性があります」

「だったら結局誰なら殺せたと君は言うんだね」

「だから、誰にもできないんです!」


「……なら、今までのやりとりはなんだったのよ」


 兎薔薇は小さく吐き出した。


 ※


 場に再び静寂が満ちる。

 推理合戦はただ体力を消耗しただけ。

 館を覆うドーム型の天窓を見上げても月はなければ星も見えない。

 時折聞こえるのは誰かのため息だけ。時折顔が青白く照らされ光るのは時刻の確認のために誰かが携帯を起動させるからだ。

「今何時?」

「まだ二十時です」

「まだ、って言わないで。もう、って言いなさいよ」

 何が違うって言うんだ。八木はスマートフォンをポケットに押し込んだ。

 あの推理合戦はしかし、時間を忘れさせてくれたと言う点だけは評価できるのかも知れなかった。

 迎えの船が来るのはあと数日。例え殺人鬼がいるという状況下でなくとも気が滅入ってくるだろう。

 漆田の手により溶け落ちた蝋燭が交換され、八木は何度目になるかもわからないオレンジ色の面々を見渡した。

 思えば、漆田は今朝森子の頭を調べている八木達に言っていたはずだ。全員が揃う頃、それ十五年前に八木らが遭遇したスカイウィンドホテル全焼事故、その時に彼がスタッフとして関わっていた過去を隠して執事という身でいることを、獅子噛は大嘘つきと呼んだ、そのことについて。

 それについて、聞かされても良い頃合いでは無いだろうか。そう思い蝋燭の灯りに浮かび上がる漆田の顔を見れば、向こうも同じことを思っていたらしい。漆田もまた、全員の顔を見回している。おそらくは、最初に言い出そうとしたが推理合戦が始まって言い出すタイミングを失ってしまったのだろう。八木は見かねて助け舟を出した。

「漆田さん。そろそろお話ししていただいてもよろしいでしょうか」

「……わかりました。皆様、少しの間私の話をお聞きくださいませんか」

「漆田、君が何をいうつもりだい」

 的羽天窓が薄い笑みを浮かべたまま、この場で初めて声を出し隣の漆田に言った。語調は普段と変わらないはずが、どこか声の後ろが冷たく感じる。

「お話の前に……旦那様、一つお聞かせください。貴方様にとって、娘であるはずの森子お嬢様があのような姿になり、どう思われましたでしょうか」

「君は僕の質問に答えないつもりかな」

「申し訳ございません。ですが、私がこれから皆様に申し上げたいことは旦那様のお答えによって変わるのです」

「何? 何のつもり?」

 二人の様子がおかしいことに気づいた兎薔薇が困惑した様子を見せる。

 的羽天窓はそれを無視したままに瞳だけを漆田に向け、口を薄く開いた。

「森子が死んで、どう思ったか?」

「はい、お聞かせください」

「どうとも」

 あまりに呆気なく吐き出された短い言葉に、漆田が目を見開く様を八木は見た。

「……今、なんと」

「君は何が言いたいのかな。どうとも思わなかったと言っているんだ。他には騒ぎが起こったのは朝だったから眠いなあと思ったし、少し空腹だった。血の匂いが不快だった気もするよ。君はこれを聞いて何がしたいんだい」

 漆田の顔が影に覆われた。俯くことで顔に深く刻まれた皺の影が彼の表情を隠したのだ。

 だが、そんなものが見えずとも彼が何を思っているのか、この場の誰にでも察することは出来るだろう。

「貴方様が、あの子に無関心であるとはもとより承知しておりました。ですが……残酷な死にすらその態度であるなら、私はもう付き合いきれません」

「漆田、君は忘れたのかな。君がこの場の全員に何をしたのか」

「いいえ、覚えておりますとも。旦那様」

 漆田は顔を上げた。そこにあったのは、自らの主人に対する怒りの顔。

「だからこそ、告白させていただきます」

 しかし、それも彼は深呼吸ひとつで胸の奥へと押し込め、立ち上がった。

「八木黒彦様、兎薔薇真美実様、月熊大和様、獅子噛皇牙様。そして、鳳凰堂椿様」

 今は亡き彼女の名前も告げた彼は、その体をゆっくりと折り畳んだ。

 膝を、床につけたかと思えば、さらに上体を倒して額すらそこに擦り付ける。


 彼は、八木らに土下座をしたのだった。


「十五年前のスカイウィンドホテル全焼事故を引き起こし、皆様に多大なご迷惑をかけたのはこの私、漆田羊介でございます」


 ※


「十五年前のあの日のことは今でも覚えております。私はスカイウィンドホテルにてコック長を任されておりました。いつも通り忙しく、いつも通り慌ただしい一日でございました。私たち厨房スタッフは食堂の閉店後にガスなどの点検をして終業、解散となるはずでしたが、私はその際、ガスの栓を締めていなかったらしいのです。そしてあの爆発が起きました。一瞬にして膨れ上がった炎は厨房の外へと燃え広がり、ホテル全てを飲み込んだのです。皆様の人生を大きく狂わせてしまったのは、この私。そして警察が火元は断定できなかったと報道したのも、この私が原因でございます。当時、私には病床に伏せる母がおりました。私が火事の原因として逮捕されて仕舞えば、母は入院する病院に居られなくなってしまう。私は燃え盛るホテルを見ながら、身勝手にもそんなことを考えておりました。そんな私に、声がかかったのです。『君のしたことを咎めず、隠蔽もして、君の母の面倒も見てあげよう。代わりに私の執事として働きなさい』……当時の旦那様でございました。私は、愚かにも自分の罪から逃げたのでございます。母のためというのも、言い訳に過ぎないのかもしれません。とにかく私は、自分の犯した罪から逃げるのに必死だったのです。その証拠に、今でも私は考えてしまいます。あの日あの時、ガスの栓は確かに全て締まっていたはずなのに、と」


「それで、あなたはこの島にいるんですね」

 漆田の告白に区切りがついた時、八木は言った。

「はい、その通りです」

「馬鹿じゃない。だったらアンタの不注意のせいで、私はあんな目に遭ったって言うの? ふざけないでよ!」

 土下座の体制から顔だけを上げる漆田に吐きつけたのは兎薔薇だった。

「申し訳、ございません」

「それにあんた、今何歳よ。いくら母親が入院してるからって、もう死んでるに決まってるじゃない。なのになんで島から出ないのよ。そんなのもわかんなかったの?」

「……私にも、わかっておりました。旦那様が教えてくださらずとも、母は今は既に亡くなっていることを。ですが、この島には……あの子がいました」

「あの子……森子さんですね」

 八木が漆田の話を促した。


「はい。十五年前、私がこの島に来た時のことです。あの子は当時二歳でございました。ですが、あの子は二歳になっても服も着ていない上に言葉も話せない状況だったのです。旦那様に尋ねても最低限の食事を与えるように、という命しか出されず、私はひどく困惑しました。毎日毎日、あの子の部屋に命じられた料理ですらない食事を運ぶ生活が続くうちに、やがて私は耐えられなくなったのです。渡される給料を使い、本土に遣いを命じられるたびにあの子のための物を買い揃え、言葉を教え、料理を作り始めました。旦那様はそれに何も言わず、五年も経つ頃にはあの子は言葉を覚え、私によく懐きました。その頃には私の母はもう亡くなっていたはずです。元々永くない命と医者に言われていたのですから。しかし、だからと言って私にはもう島を離れることのできない理由が生まれてしまっていました。私がいなければ、あの子はどうなるのだろうか。また服も与えられず、食事も与えられない動物のような扱いを受けるのではないか。そう考えれば、どうしても今の立場を守り続けるほか無くなってしまったのです。ですが私はどこまでも愚かでした。あの子のためを思えば、すぐにでもその為の機関に訴えるべきところを、事故の原因が暴かれることを恐れ、あの子と引き剥がされることを恐れ……今の今まで、今日の朝まで行動できずにあの子をこの島に閉じ込めていたのは、私なのです。私はどこまでも愚かで……最後の最後まで、間違い続けていました」


 それで今度こそ、漆田の話は終わった。

「旦那様、今までお世話になりました。私は次の迎えの船で他の方と共に本土へ渡り、出頭したいと思います」

 彼をこの島に縛り付けるものは、もう無い。

「皆様、申し訳ございませんでした」

 漆田は再度、頭を下げた。

「……俺はやっぱり、そんなことを聞いてもお前のことは許せねえよ」口を開いたのは月熊だった。「だが、後半の話に絆されたってわけじゃねえが、アンタが出頭するって言うんならこの島にいる間は、何もしねえ」

「私は無理。絶対無理! アンタのせいでアタシはどんな辛い思いをしたか分かってんの? アンタがどこで何をしてようと、どれだけ罪を悔いようと、アタシだけは絶対……死ぬまでアンタを恨み続けるんだから!」

 目を血走らせる兎薔薇の叫びを漆田は受け止めていた。

 それを見て、八木は自らの胸に問いかけた。

 八木の目の前で起きたあの火災、それで八木の人生もまた、大きく狂った。大きく変わった。大きく壊された。だが、八木はどうしても、目の前で床に額を擦り付ける老人に恨みを抱くことなどできなかった。

 それは八木が何も聖人に近い心を持っているからではなかった。

 漆田は言った。『あの日あの時、ガスの栓は確かに全て締まっていたはずなのに』。それがもし、自らの罪に向き合うことのできない漆田が改竄した記憶ではなく、真実だとしたら。

 それに、漆田はこうも言った。『燃え盛るホテルを見ている自分に、的羽天窓が声をかけた』。と言う事はあの火災の際、的羽天窓があの場に居たことになる。

 何一つ確証は無いが、八木は一つの結論に思い当たる。

 だが、それは胸の奥へと押し込んだ。

 確証がないことを今この場で言っても、余計な混乱を与えるだけだ。


 この場には、一体どれだけの悪意が渦巻いているのだろうか。


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