第三章【表】被害者が死にすぎる 第一部
八木は口に当てていた手を離す。込み上げてくる吐き気は飲み込んだ。行き場の無い離した手は、血の付着したハンカチと共にポケットに押し込んだ。
何故、どうやって?
天窓の部屋のブザーは鳴らなかった。不審な者が現れたら大神が騒ぐはずだ。
なら何故、どうやって?
すぐに答えなど出ないと分かりつつも不毛な疑問が頭の中に渦巻いて絡まっていくが、まるで釣り竿のリールのように絡みつく糸を断ち切って奥へと押し込んだ。
中央ホールのテーブル。その下に転がる的羽森子のつむじばかりが目に焼き付いて行く。
はく、はく、と八木は自分が上手く呼吸できて居ないことにようやく気づいた。
「皆を、呼ばなくては……」
呟き、ぐっ、と乾いた口の中の微かな唾液を呑み下す。
「大神さん! すぐ来てください!」
これまでのようなノックの乱打など不要だろう。扉に隙間を開けて監視をしているはずの大神がいるからだ。案の定、バン! とドアを乱暴に開ける音が響き、「どうしました!」と走る大神が現れた。
彼女は二階の回廊の手すりから身を乗り出すが、問題の頭部はその死角であるテーブルの下だ。「こちらに来てください!」言い終わる前には大神は走り出し、落ちるように階段を下る。八木の呼ぶ「こちら」にまで来た時ようやく大神は森子の頭部を発見したらしい。その表情がさらに険しくなる。
「八木さん、今どこか他に人はいますか」
「貴方が見ていたはずです」
「そうですね……今朝、最初に部屋から出たのは八木さん、貴方です。ブザーは?」
八木は首を横に振る。「問題ありませんでした」
「あれこれ考えるのは後です。まずは、皆さんを呼びましょう」
「いえ」個室へと走ろうとする八木の手を、大神が握った。「その前に、この館の出入りを確認しませんか」
館の出入り。突然現れたワードに八木は少しだけ緊張が走るのを感じた。
「昨晩、私は見張りをしていましたが、廊下に出たのは八木さんと月熊さん。しかし的羽森子さんは廊下に出ていません。それなのに、ああなってしまっている。おそらく彼女はベランダから出たのかも知れません。もしくは犯人も。昨晩は消灯時間の前から雨が降っていましたから、足取りが追えるかもしれません」
大神の説明に八木は頷き、静かに玄関ホールへと向かった。
外は確かにぬかるみが目立つが、玄関から門扉までは芝生が目立ち、それ以外も砂利が敷かれていたため、足跡らしい足跡はなかった。
しかし、確かに玄関ポーチには一人分の足跡が泥となって数歩分並んでいた。
「これが第三者の犯行の証拠になりは……」しないな、八木は言いつつも考えを捨てる。
現にそれは正しかった。
芝生と砂利によって足跡が隠されているのは、いわば館の【翼から下半身】であり、翼から上半身、より詳しく言えば個室のベランダの下から頭の方角へは芝生も砂利もなくぬかるみが目立ち、その上を通れば足跡がはっきり残るだろうことがわかるからだ。
そして、そのぬかるみこそが先ほどの足跡が第三者のものである可能性を否定していた。
足跡は確かにあった。
的羽森子の部屋のベランダから、翼と崖の間を通るようにして足跡が続いていたのだ。
的羽森子は確かに昨晩、部屋をベランダから外へ出て、玄関へ向かった。
しかし、足跡は他になかった。
大神の監視が確実ならば、廊下に出た人間は八木と月熊以外おらず、森子はベランダから外へと出ている。
もし犯人が月熊と八木以外にいるならば、部屋から出る方法が、無いことになる。
「……戻って、みなさんに知らせましょう」
※
「もう嫌……家に帰りたいんだけど」
階段を降り切る前に、兎薔薇は崩れ落ちていた。手すりにしがみつく手が震えている。
「は……? なんで、こいつが……」
月熊は立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。
「へえ」
獅子噛は珍しく、黙って頭部を観察する。いや、本当に観察しているのは全員の反応だろうか。歯が見えるほど片側の口角を吊り上げて、瞳だけで全員を見回している。
「お嬢様……お嬢様ッ!」
一番動揺が大きかったのは漆田だった。森子の頭部を見るなり、テーブルを掴んで放り投げようとしたのだ。しかしテーブルは重く、手間取る内に大神と月熊にその肩を抑えられてしまう。「何故だ……何故ッ! 何故……」二人を振り払ってまでテーブルを退かすことは出来なかったらしい。その場に崩れ落ちては、森子の閉じられることの無い瞳と目が合ってしまう。
「誰がやった!」
ビリ、と中央ホールが震えるほどの声が響いた。一瞬、誰のものかわからなかったが、声の主は立ち上がり、もう一度言う。「誰がやったんだ!」漆田だった。その顔は柔和な印象が多かったこれまでと大きく違う、鬼のような表情だった。
「漆田さん……」
「誰だ、誰が……!」
ここで「はい、私です」などと手を挙げる者が居たら、その瞬間漆田に殺されてもおかしく無い。それほどの気迫が今の彼にはあった。
彼の血走った目が全員の顔を滑って行く。少しでも怪しい挙動を見逃すまいと。
場の全員が、漆田の視線に射竦まされていた。一歩と動くことは許されないといった雰囲気に、八木もまた飲み込まれる。
ぱんっ!
突然、場違いな軽い音が中央ホールに転がり込んだ。
「漆田、君は仕事を投げ出すと言うのかい?」
的羽天窓だった。
音は彼が手を打った音だったらしく、合掌するように合わされたままの手から視線を上げれば、相も変わらない薄い笑みが浮かんでいる。
「旦那様……」
彼の柏手は昂った老執事の精神を正したらしい。漆田は振り乱した髪を直すこともないままに、顔を手で覆って数度深い呼吸を繰り返すと、「皆様、お見苦しい真似をしてしまい、申し訳……ございません」と、深く頭を下げたのだった。
天窓はそれを見て「うん」と頷き、「大神さん」と水を向ける。「森子は確かに死んでいますか?」
「皆さんを呼んだ後簡単に確認しましたが、あの頭部は本物。人間の物だと思われます」
「そうではなくて。あの頭部は、確かに森子のものですか?」
言われ、大神は改めてテーブルの下の頭部を見る。が、確証は無い。しばしの黙祷を挟み、手袋を嵌めた手で瞳や口を確認して行く。
「その頭部は、確かに森子お嬢様であると言えます」声が沈んだままの漆田が口を挟んだ。「失礼、少し口の中が見えましたが、その歯並びは森子お嬢様の物で間違いありません。幼少期、お嬢様の歯磨きの指導をしており見慣れてますので確かだと思います」
「うん、それなら間違い無いと言えますね。僕の娘、森子は確かに死んでいる」
天窓は納得したように頷いた。
薄い笑みは絶やさぬまま呟くその姿は、まさしく異常な光景だった。
「アンタ……マジで意味わかんないんだけど」
「テメェ、実の娘があんな死に方してるってのに、なんだよそれ!」
月熊が肩を怒らせて詰め寄るも、それでも表情は変わらない。
「ですが、良かったです」
「は?」
「僕はずっと部屋に居ました。部屋の開閉が無かったのはあの扉のブザーが証明して居ます。ならば、僕に森子は絶対に殺せず、その上で森子が死んでいる以上、僕は無実です。僕はこれから自由に動かさせてもらいますね」
まるでロボットか宇宙人と話をしているかのようだ。八木の背に悪寒が走る。自分の娘の死を、ただ一つ自分が無実であると言う主張のために引き合いに出せるのだろうか。自由に動くと言う宣言に反論もできない。
「ああ、八木さん。こうして無実が証明された以上、貴方への依頼は取り下げます。あとは好きに過ごしてくださいね」
「お前、頭おかしいんじゃねえの」
詰め寄ったはずの月熊も、逆に一歩後退りしてしまう。
「的羽はいつも通りだよ」獅子噛が笑いを含んだ声で言う。「いつも通り、おかしいんだ」
※
差し当たって、八木のしたことは大神、漆田の見守る中で森子の頭部を【聖堂】の【供物台】に置くことだった。他の全員は一旦個室に戻ることになった。
昨晩地震でもあったのか、鳳凰堂の首は聖堂の床に落ちていた。
顔面が床に押し付けられたままのそれを放置するのも忍びなく、森子の頭部と共に置き直す。
隣に並ぶ鳳凰堂の頭部を見て八木は先程あったやりとりを思い出す。
鳳凰堂の事件の時と同じように、現場の保存のために頭部は中央ホールに置いたままにするべきだという意見は出た。しかし、殺害現場が鳳凰堂の個室、頭部の発見が聖堂だった鳳凰堂の事件と違い、今回頭部は中央ホールで見つかっている。そのままでは他の人たちの精神にダメージを与え続けるであろうことは容易に想像がついた。
その流れで言えば、皮肉にも聖堂は頭部を置くことに適していた。
他の倉庫などに置くには生活空間と近いが、この聖堂ならば明かりのない廊下の先に存在し、そして聖堂が醸し出す非日常的な雰囲気は、頭部を置いて然るべき場所だと思わせたのだ。
そうして、ステンドグラスの赤い不死鳥が見下ろす聖堂に、女の生首が二つ並ぶことになった。
やはり、こんなの非現実的だ。八木は複雑な心境だった。狂ってる。おかしい。間違ってる。
そして、狂っていて、おかしくて、間違っているのは。
「……誰が、このようなことができるのでしょうか」
漆田がポツリと溢すように言った。
「私は、この子に最後まで何もしてやれなかった」
それは懺悔のように苦し気に吐かれて行く。
皮肉にも、それはこの聖堂には似つかわしい。
「この子には昔から何度も泣いて頼まれました。島の外へと連れて行ってほしいと。学校に行きたいと。外の世界が見たいと。それを、我が身可愛さに無下にし続けてきました。的羽森子を島の外へと出してはいけない、旦那様にそう言われてきたために。私が島の外に遣いに出されたとき、すぐにでも行政に訴えかければよかった。警察に駆け込めばよかった。最初に目に入った人に飛びつけばよかった。何故その程度のことが私にはできなかったのでしょうか。何が友達を作る手助けだ、本当にあの子を思うのならば他にやるべきことがあったはずなのに! ……私こそが、首を斬られて死ぬべきなのです」
その懺悔を聞いて八木は思い出す。目の前に頭部を晒す森子は、この数日だけでも漆田を家族のように慕っていたとわかるほどだったことを。
「漆田さん、貴方が森子さんを大切に思っていることはわかっていました。貴方が死ぬべきだなんて、僕には……どうしても思えません」
むしろ死ぬべきは、自分だ。何もできないままに流されて、結局はこの有様だ。
「八木様、どうか……どうか」
漆田は深々と頭を下げる。
「旦那様は好きに過ごしていいとおっしゃられましたが、私からの依頼を受けてはいただけないでしょうか。お嬢様が何故死ななくてはならなかったのか……どうか、突き止めていただけ無いでしょうか。その者にせめて、司法の裁きだけでも下らねば、あの子が不憫でならないのです」
彼の声は震えていた。おそらくは多くの感情が彼の中で渦巻き、言葉を紡ぐことすら難しいのだろう。
「お願いします」
それでも吐かれる言葉に八木は頷く他なかった。それほどまでに、意志の強さを感じさせられる言葉だった。
「……わかりました」
「ありがとうございます」再度頭を下げる。「私に出来ることがあれば、なんでもお申し付けください」まるで本物の親子であるかのように、今は亡き彼女と同じ言葉を吐く。
「では、漆田さんのことを教えてくださいませんか」八木は早速尋ねた。昨日の獅子噛の言葉がどうにも引っかかっていたのだ。『過去のホテルのスタッフであり、大嘘つき』という言葉が。
「もちろんでございます。ですが……良ければ、皆様が集まった時に改めて話させてはいただけないでしょうか。私の正体は、招待客全員が知る権利を持っているはずなのですから」
まるではぐらかされたような思いだったが、漆田の表情は真剣だった。八木はまたも頷いた。
「私は、これで失礼します。朝食の用意をして参りますので」
漆田は聖堂から去って行った。残されたのは、八木と大神だけだ。
「僕が聞きたいこと、わかりますよね」
「はい、昨晩の状況ですね」
流石に話が早い。昨晩大神はドアを開き、ブザーの音を聞く役割を持っていた。これは館の人間全員が共有している情報だ。
しかし大神はその実、森子と部屋を交換し、開いたドアの隙間から全ての部屋の扉を監視していたのだ。これは森子と八木、そして持ちかけた大神の間でのみの情報だった。
「まずは一つずつ聞かせてください。昨晩は天窓さんのドアの開閉を示すブザーの音は鳴らなかった。いいですか?」
「はい。ブザーの音は鳴りませんでした」
大神は頷いたが、そうなると天窓は部屋から出なかったことになる。
「次に、昨晩夕食が終わった【二十一時】、漆田さんや森子さんが仕事を終えて部屋に戻るまで一時間くらい空くでしょうか。つまり全員が休みに入る【二十二時】以降、部屋の出入りはありましたか」
「はい、ありました。八木さん、貴方と月熊さんです」
当然八木は忘れたわけではなかったが、改めて確認を取ることで大神は確かに昨晩見張りをしていたと分かった。
「他にはいませんでしたか?」
「いませんでした。ドアの開閉もありません」
「では、僕と月熊さんとのことを詳しく詰めましょう。入退室の時刻はそれぞれ記録していますか?」
大神はスーツのポケットから手帳を取り出して捲る。「ありました。まずは月熊さんが【二十二時時四十五分】に個室を出ています。八木さん、貴方はその十分後の【二十二時五十五分】に個室を出ています」
「僕の記憶と矛盾はありません。僕と月熊さんはその時厨房で会いました。月熊さんはお酒を、僕は水を飲みに出て出くわしたんです」
「わかりました。次に変化があったのは二十五分後、【二十三時二十分】です。二人はそれまで何をしていたのですか」
「月熊さんと話をしていたんです。主に月熊さんの過去についての話を聞いていました。その、昨日獅子噛さんが告発したことについてです」
「何か分かりましたか」
「いいえ、特に大したことはわからず……続けてください」
「はい、以降はしばらく変化はなく、次の変化は夜が明けてから【朝の五時】。八木さんが部屋から出てきました。そしてすぐに私を呼ぶ声が聞こえ、監視を解きました」
「ありがとうございます。ですが……森子さんはいつベランダから部屋を出たのでしょうか」
八木は森子の頭部を見つめたが、首から下のない彼女から答えは返ってこなかった。
「では次に……こちらを調べましょう」答えの返ってこない頭部に一歩寄り、観察を始める。
「……ん? 森子さんのこの頭部、よく見ると鳳凰堂さんのものと全く違いますね」
「どういうことですか?」
「見てください」八木は森子の頭部の首、つまり切断面を指差して示す。次に鳳凰堂の頭部の同じ箇所も。「切り口が全然違います」
「本当ですね」大神も頷いた。「鳳凰堂さんの首の切り口は昨日もわかったようにギザギザと言いますか、ズタズタと言いますか……それに比べ、森子さんの切り口は……綺麗ですね」
「首を切った道具が違うのかもしれません。鳳凰堂さんの場合は波打つ刀剣フランヴェルジュでしたが、森子さんの場合は……別の何か。それにまだ違いはあります。鳳凰堂さんは髪が首の切断面の高さまで切られていますが、森子さんは髪の毛の長さが変わっていない。ここまで揃っていれば確定ですね、鳳凰堂さんと森子さんの首は違う道具で切断されている」
八木は頭部から一歩離れた。「問題はそれが何か、です」
「あちらの倉庫にあるのではないでしょうか」大神は扉に指を向ける。確かめるべく、二人は向かった。
相変わらず、整理が全くされていない倉庫だった。何のために使うものかわからないが神聖さだけはある何かしらの道具が壁に立てかけられ、あるいは床に撒き散らされ、足の踏み場もなかった。祭具だとすれば、それを扱う環境ではない。
だが、祭具ではないとすれば、ぞんざいに扱っても良いのかもしれない。最たる例が、そこにはあった。
「何でしょう、これ。細いロープのような、血の付いている……輪?」
八木はそれを手に取った。真っ赤なインクに染まったそれ持ち上げれば床に綺麗な円がスタンプのように跡を残していた。
「ロープというよりも、ワイヤーですね」大神が覗き込んで言う。
「ワイヤーというよりも、ピアノ線」そして八木が補足する。
二人が目にしていた物は、いわゆるピアノ線であった。端が輪になるように結ばれ、まるでカウボーイの振り回すロープのようだ。長さは輪の部分を除いて四メートルほどの長さだ。
「古典的というか、ありがちというか。とにかく、森子さんの首を切った道具はこれで間違いありません。犯人はこのピアノ線の輪を森子さんの首にかけ、強い力で引いた。森子さんの首の切断面が綺麗であり、髪の毛が長いままだったこともこれで説明がつきます。森子さんは鳳凰堂さんと違い、刃物で切断されたわけではなかったんです」
八木は大神の顔を見上げた。が、彼女の目は八木を見ておらず、更には妙なことを呟いた。
「どちらが?」
「はい?」
「どちらのピアノ線のロープが、凶器なのでしょう」
八木は発言の意図を掴みきれず戸惑ったが、大神の視線の奥を辿ればすぐにわかった。
扉の影になっているその床に、今八木が手に持っているものと似たものが寝そべっていた。
それもまたピアノ線であったが、八木が今手に持つそれと比べると、強い違和感が湧いていく。
そのピアノ線は、輪ではなかった。
にも関わらず、一部が血で染まっていたのだ。
「なんだ、これ」
ピアノ線の輪で首を切断したならば、そこが血で染まるのは当然だ。だが、ピアノ線の“線”ならばどうだろうか。そこに血がつく道理は、すぐには思いつかない。
八木は思い立ち、床に散らばる祭具たちをどかしていった。かき分けるように、蹴飛ばすようにする八木を止めようとした大神は、しかし八木と同時に動きを止めていた。
「どうなっているんですか」
四メートルほどのピアノ線が、大量に発見されたのだ。
※
血塗れのピアノ線が一本。
血塗れでかつ、輪になったピアノ線が一本。
そして、綺麗なピアノ線が五本。
それぞれ一メートルほど。
おそらく倉庫を探せばまだ見つかるのかもしれない。だが細いピアノ線を探すとなれば、倉庫の中を一旦外に出すくらいの重労働が必要だろう。そこまでする意味も思い当たらず、とりあえずはその七本を前に八木と大神は首を捻っていた。
もしも全部繋げたならば相当な長さになるだろう。
「おそらくは、犯人がカモフラージュのために用意しておいたのではないでしょうか。単純計算で二十八メートルのピアノ線など用意が大変ですし、四メートルごとに切るのは重労働すぎます」
大神も八木の言葉に頷いた。
調べるべきことはこれ以上無いように思えた。
森子の頭部は漆田の証言もあり確実に森子の物。
鳳凰堂の首はフランヴェルジュ、森子の首はピアノ線で切断されており、それは髪の毛の長さ、切断面から見て取れる。
そのピアノ線は聖堂内の倉庫から発見され、輪にされているものとされていないものがそれぞれ血塗れで発見され、同時に血塗れでなく輪にされていないものが五本見つかった。
「次は森子さんはどこで殺され、首を切られたか、ですね。ですが、その前に……大丈夫ですか?大神さん」
聖堂から退室し、長く灯りのない廊下にて隣に歩く大神に声をかけた。
凛とした姿勢は崩さないものの、表情に疲れが見える。当然だろう、極限状況下にありながら彼女はこの二日睡眠をとっていないのだから。
ブザーの音くらいならばドアを開けていれば寝てても気付けると言ったのは大神だ。しかし彼女は実は寝ずに見張りをしていた。その疲れはピークに近いのだろう。こめかみに深い皺を刻み、鋭い視線はさらに鋭く尖っている。
「問題ありません」
「いや、ありますよね。眠いんじゃないですか?」
「眠くありません」大神の目はさらに鋭く尖る。鋭すぎて、もう目を瞑っている。
「寝そうじゃないですか」
「大丈夫です」
「いやいや……少し寝たらどうですか? 僕らのために体を張ってくれているのは分かりますが、いざ犯人を取り押さえる時になって身体が動かなくてはまずいでしょう?」
強情な大神に、八木はもっともらしい理由をつけて睡眠を促した。
「ですが、皆さんに危険が及んだ際、すぐに動けないのは看過できません。大丈夫です、四、五日程度寝ずとも……」
「問題ないのなら、目を開けて言ってください」
少し大神が項垂れたように見えた。
「それに、私が休んでいる間八木さんは一人で動くのでしょう。もしも犯人の立場ならば、自分の正体を明かそうとするあなたが一番危険なのですよ」
「だったら、俺が一緒にいる。それでどうだ?」
ふと、低い声が中央ホールから響いた。廊下を渡りきると、中央ホールの階段を降りる月熊が現れた。
「悪いな、少し聞こえた。だけどそいつ、休めてねえんだろ? 無理もねえけどよ」
大神にとっても、願ってもない申し出だろう。だがすぐに頼むことはできない。その月熊こそが犯人だった場合、二人きりにさせた大神の責任だ。
「俺と二人きりになんのが嫌か? 心配すんな。あと一人いるからよ」
言って、月熊は背後のパーティホールの扉を親指で指した。
「あと一人?」
「……獅子噛だ。あいつ、お前らが聖堂を調べてる間、的場の娘が殺された現場を見つけたらしくてな。一応俺が見張りとして一緒に見ていたんだが……ほら、あいつ放っておいたら変なことしそうだろ?」
「でも今、二階から降りてきてませんでしたか?」八木は階段の上を指差した。
「まあ、色々あってな……とにかく、お前は俺と一緒に獅子噛の見張りだ。そっちのあんたは休んでろ」
有無を言わさずそう決めると、月熊は八木と大神を引き離すように間に割り込んだ。
大神は小さく「ありがとうございます」とお礼を言うと、部屋へと戻るべく階段を登っていった。
そんな大神には聞こえないように月熊は囁いた。
「お前には他にしてもらいたいこともあるしな」
八木は目を見開いた。「一体何を?」
「俺が獅子噛をブン殴りそうになったら止めてくれ。あいつは本当にムカつくやつだから」
「それは、難しいかもしれません」八木は応える。「僕も、あの人はブン殴りたくて仕方ないので」
※
「遅い、遅いよ月熊くん」
パーティホールの扉を開けると、恐ろしい匂いが噴き出した。どこまでも深い、血の匂い。
思わず口を手で押さえてしまいそうになるのを、部屋の中央に立つ男に見られたくない思いから堪えた。
「おや、それに少年。君もここを調べに来たのかな? 見てわかる通り、首はここ、パーティホールで切られたらしい」
一方的に話すのは、予想通り獅子噛だった。虫眼鏡があればそれを振り回して部屋を調べているだろう。そのぐらいこの状況を楽しんでいる様子が見てとれた。
まるで、部屋中に撒き散らされたこの血が、イベント用のペンキにでも見えているのだろうか。
そう、このパーティホールは夥しい血で染まっていた。
一目で致死量だとわかる血の量が、ある一点から扇状に広がって絨毯を汚していた。
「もしかして、切断はステージの上で起きたんですか」
「目が良いね、その通り。この血の中心はあそこ、ステージの上らしい。そして犯人は首を切った後、パーティホールから中央ホールへと移動させた」
パーティホールの最奥、ステージの上はほとんど足の踏み場もないほどに赤く染まっていた。どう見ても血の量が一番多い。
「何でこんなところで首を切ったんでしょうか。こんな、隠れる場所の少ない広い部屋で」
「少年は相変わらず目はいいが察しは悪いな。部屋がどんなに広かろうとその中に狭い部屋を作ることぐらいできるだろうが」
いちいち癇に触る言い回しの獅子噛を無視して見れば、ステージの両橋にはカーテンがまとめられていた。「もしかして、あれですか」獅子噛は頷き、片側を広げて裏側を見せた。血塗れだった。
「これを見るに、犯行時ステージのカーテンは閉まっていた。そして中で的羽の娘は首を切られ、持ち去られた。カーテンを閉めて犯行に及んだのは、他者に見られることを防ぐためか、血が撒き散らされるのを防ぐためだ」
そうだろうか? 八木は首を捻る。
もし犯行時にたまたまパーティホールを覗いた者が居たとして、カーテンが閉まっていようと開いていようと怪しさに変わりはないのではないだろうか。それに血はカーテンの下から盛大に流れ出ている。後者の理由のためにカーテンが閉められていたならば、その目論みは犯人にとって大失敗と言える。
カーテンの裏側の状況から犯行時それが閉められていたことは確実だ。しかしその理由は八木にも分からなかった。
「そんなことより」獅子噛は月熊を見据える。「どうだったかな?」
「どうだったもこうだったも、何もなかったよ」
月熊は不機嫌さをあからさまに醸し出して答える。腕を組んで、そっぽを向いて。いささかあからさますぎに見えるが、獅子噛は構わずさらに問う。
「本当に? 長く感じたり、変な揺れはなかったかな?」
「知らねえって。そんなに気になるなら、お前が乗れ」
「あの、何の話ですか」八木は自分の知らない話にたまらず口を挟んだ。獅子噛はしばし悩むフリをして、たっぷりもったい付けた後で「情報の共有は大事だから教えてやるとも。少年もそう思うだろう?」と片側の口角を歯が見えるほど上げる嫌な笑いを見せた。
「この部屋には入り口が二つある」
獅子噛は指を二本立てて見せる。
「一つは、そこの中央ホールへと繋がる扉」大袈裟な仕草だ。「そしてもう一つは、ステージの傍らにあるエレベーターだ。少年、そのエレベーターはどこへ通じていると思う?」
八木は問われ、記憶を思い起こす。初日の夜、料理はエレベーターから現れていた。
「厨房だと思います」
「それを確かめるため、月熊くんに乗ってもらった。そして月熊くん、エレベーターはどこに到着した?」
「だから大したところじゃなかったって。厨房だよ」
当然の帰結だ。厨房からホールに料理を運ぶための物なのだから、他のどこに停まるわけもない。
「月熊くん、私は君に他に見てほしいことと試してほしいことがあると言ったではないか、それについての答えがまだが?」
月熊の拳が強く握られ、ギリ、という音が八木にも聞こえた。約束の時は近いかもしれない。
「……そうだったな。ええと、カゴの内側には上昇と下降のボタンがあった。試してほしいことだったが、カゴが一階にある時に下降ボタンを、二階にある時に上昇ボタンを押したらどうなるか? だが、何度も言ってる通り、何もなかった。これでいいか?」
八木はその話を聞いて納得する部分があった。大神と八木が中央ホールに向けて歩いている時、二階から月熊が現れた理由はここにあったのだろう。彼らはエレベーターについて検証を行っていたのだ。
「ふん、つまらないね」
「そう言うお前は俺に色々試させてる間何してたんだよ。エレベーターで降りてくるなとか言いやがるし」
月熊のこめかみに青筋が浮かぶ。約束の時、来れり。身構える八木だったが、二人は獅子噛の次の言葉に虚を突かれることになった。
「私は隠し部屋を見つけたよ」
「はっ?」
「隠し部屋ですか? それはどこに?」
「君も探偵を名乗るなら考えてみなよ。わかるだろう? 今のやりとりだけで」
あんたが今教えてくれればそれで済むんだよ。八木は月熊との約束を守る気が失せていく。
だが、言われっぱなしでは終われない。数瞬頭の中で情報を整理すれば、獅子噛がどうやって隠し部屋を見つけたのかすぐに分かった。
「エレベーターのカゴが上がっている時、一階側の空白ですか」
「正解。このエレベーター、外からはボタンを押さないと扉は開かないように見え、ボタンを押せばカゴがボタンを押した階まで動いてしまうように見えるが、その実ボタンを押さずとも手動で扉が開くんだ」
獅子噛は取っ手の無いように見える扉の一端に手を添えると、力を込めてスライドさせる。そして現れた隙間に指を差し込んでさらに引けば、そこにはエレベーターのカゴのない空間が現れた。
「そこが、隠し部屋か? 何にもねえけど」
「慌てるなよ、月熊くん。隠し部屋はさらに奥だ」
獅子噛は内部へと入り、八木らに手招きで誘う。とはいえ、狭いそこは大の男三人も入れない。外側から覗き込むと、八木の目にはもう一つの扉が映った。一見ただの壁に見えるが、一部が窪んでいる。
「そこが、隠し部屋」
八木の呟きに満足したように頷く獅子噛は、その窪みに手をかけると横へとスライドさせた。獅子噛は奥の暗闇へと吸い込まれていく。八木と月熊が顔を見合わせていれば、奥から「早く来たまえよ、君たちの携帯の明かりを貸してくれ」と声が響いた。
「自分の使えよ」ぼやき、月熊は大きな体を窮屈そうに屈めながら隠し部屋の中へと消えていく。八木もまた、それに続いた。
「ほらよ」完全な暗闇の中、月熊の手渡したフィーチャーフォンを開き、コチコチと獅子噛がボタンを押す音が数度小さく響いた。
「すまないね、私のスマホは電池が残り少なくて」
「まだ朝ですよ、充電してないんですか?」
「してもすぐに無くなるんだ。旧式だからバッテリーがダメなんだろう……お、付いた」
パッ、と懐中電灯機能の灯りが部屋の暗闇を丸く切り裂いた。その部屋はちょうどパーティホールのステージ側の壁に沿って少し外側に反った形状をしているらしく、大きくカーブを描く形だった。注目すべきは、天井がとても高い事だ。パーティホールも天井は高かったことから、この部屋もまたそのままなのだろう。
そして円形の明かりは壁や床を滑り、端にあるものを捉えて止まる。「何か奥にある」獅子噛らは数歩進んでそれに近寄ると、明かりにそれを滑り上がらせる。そして、三人はそれをはっきりと見た。
それを。いや、正確にはそれらを。
「これは……少し予想外だな」
巨大な、ギロチンがそこにはあった。
ギロチン、つまりは断頭台。人間を台に寝かせ、その首に刃を落とすことで首を切り落とす処刑道具。
一際目を引くそれから明かりと共に視線を移せば、傍にはさまざまな刀剣の類が王に仕える僕のように、それらのためにあつらえたらしき台によって立たされていた。
ギラギラと刃を光らせるそれらは、明かりに照らされることで王の眠りを妨げる不届き者に鋭い視線を送っているようにも、眠っているところを起こされ牙を剥いている化け物のようにも見えた。どちらにせよ、歓迎されていないだろうし、八木らも歓迎されるつもりもなかった。
「これ、今も使えるんでしょうか」八木はおずおずとギロチンに歩み寄る。刃は今は受け皿に降りていて鋒は見えないが、どうか全部錆び付いて使い物にならないことを祈ることしかできなかった。
「刃を上げてみようか」
獅子噛は明かりの灯るフィーチャーフォンを月熊に戻すと、ギロチンの側面に結えられたロープに手をかけた。
「危ないですよ」
「私が? それとも君らが? どちらにせよこんな大きな物で君たちに襲いかかることなんてできないし、執行人役の私にどうして刃が向かうことになるんだ。だが心配してくれてありがとう、刃を確認するだけだ。それが終われば戻すよ」
獅子噛はロープを解くとそれを引いていく。
ず、ず、と刃は持ち上がっていき、月熊によって照らされる。
「やってみて分かったが、ここからじゃ刃の観察ができない。少年、私と代わるか君が見てくれ」
代わるのは癪に触るため、八木は刃の前で傅くように身を屈めて観察を始める。
「刃は……かなり綺麗です。錆一つ無くて、まるで最近まで手が入っていたような」
「ギロチンにかけた冗談を言うなら、『手が入る』よりもどうにかして『首を突っ込む』というフレーズを使いたいね」
無視して続ける。
「ですが同時に、使われた痕跡はほとんどありません」
「ほとんど?」月熊が八木の言葉に引っかかったのか、明かりが揺れた。
「はい、首を置くところが変色しています。使われた事自体は確実にありますね。ただそれは、昨日今日というものでは無いかと。もっと前の、一年前とか十年前とか……」
「あるいは、二百年前とか」
獅子噛が勝手に言葉を継いだ。「もういいかね? 手が疲れた」八木の了承も待たずに刃は目の前で降りていった。かつてここに、本当に人間の首が置かれたことを思えば、背筋が凍るような思いだった。
「その二百年前、という具体的な数字は、不死鳥伝説ですよね?」
「なんだっけな、聞いたような気もする」
首を捻る月熊に、八木が説明をする。
「初めてこの島に来た夜、的羽天窓さんが話していたじゃ無いですか。この島には不死鳥伝説がある、と」
「そう言や、そんな気もする」
「二百年前、この島には百人の人間がいた。そしてある時、四人の女性が同時に命を落とした瞬間、不死鳥が現れた。だろう?」獅子噛がまたも言葉を勝手に継ぐ。「なるほど、これでようやくハッキリした。一連の女性の首切り殺人はやはり、不死鳥伝説に関わりがある」
「どうしてそう言い切れるんだよ」
「決まっているだろう。同時に四人が死んだとしか言われていないが、四人はどうやって同時に死んだんだ? このギロチンを見てまだ分からないのかな? その女性は、みんなギロチンで首を切り落とされたからに決まっているだろう。だから今回も、首切り殺人なんだ」
「それって、昨日も話していた、見立て殺人のことですか」
月熊は八木の言葉を理解していないようだったが、八木と獅子噛は二日目の朝に森子と電波基地局へと向かった際の話をしているため分からないのも無理はない。無視して続ける。
「ですが、それはおかしく無いですか? 天窓さんはあの席で首切りのことは言っていませんでした。なら犯人はいつ不死鳥伝説のことを知ったんでしょうか。それに、見立てをするということは、どこかで見立てに見せかけた誤認を仕込むのが大体の理由です。歌の中で死んだ人間になぞらえて人を殺していくならば、実は一人殺されたように見せかけて生きていた、というような。つまり、見立てにしては元の不死鳥伝説はあまりに周りの人間があやふやに捉えています」
「だったら、犯人の動機は一つだ」
獅子噛は八木の長台詞に飽きたように告げる。
「犯人は不死鳥伝説を見立てとして見ていない。けれど不死鳥伝説をなぞらえている。つまり、犯人は――」
獅子噛は口角を上げて歯を見せる、嫌な笑いで言った。
「女の生首を四つ揃えて、本気で不死鳥を呼び出そうとしてるんだ」
「……だったら、犯人は的羽天窓じゃねえか!」
隠し部屋を満たした静寂も、すぐに月熊の叫びが引き裂いた。
「それは早計です」八木は嗜めるように言う。
「はあっ? だってそうだろうが、もしそれが本当なら、その伝説とやらを一番信じてそうなのはアイツだろ!」
「だから、君も言うように『もしそれが本当なら』だろう? 第一、的羽からそんな伝説聞いたこともない。それに、的羽が犯人じゃ無い根拠はいくつかある。防犯ブザーがある以上、今朝のお嬢さんを殺せたのは的羽だけはあり得ない。もっとも、警察の子が本当に音を聞き逃していなければ、だが」
「聞き逃したとしても、天窓さんに犯行は不可能です」八木は補足する。「たとえ部屋から出てすぐに防犯ブザーを戻したとしても、部屋の内側から再びテープで貼り付けることは絶対に無理です。天窓さんの扉に貼り付けられたテープに異常はありませんでした。それに……このギロチンを手入れしたのはこの館の人間で間違いないはずですが、だとすればおかしなことがあります」
「おかしなこと? それは私には気が付かなかったな、教えてもらえるかな?」
「……ギロチンなどと言う首を切り落とすことに特化した道具があり、それが隠されていて自分しか知らないなら、普通それを使いませんか? 他の道具を使うより」
獅子噛は「確かに」と納得し、月熊も黙った。
「だが、それもおかしい」
納得した様子はすぐに取りやめた獅子噛が食らいつく。
「第一の首切り殺人にて使われた首切りの道具は波打つ刀剣、フランヴェルジュだろう? それは確実にこの隠し部屋に他の刀剣類と共に置かれていた物だ。だったら犯人は確実にこのギロチンを目にしていなければならない。そこまで考えれば、それにも関わらずあえて刀剣を使った理由が犯人にはあったと考えられるんじゃないかな?」
相変わらず、一枚上手だ。八木はそれに答えることはできなかった。
「どちらにせよ、ここにいる理由はもう無さそうだ。行こう、そろそろ昼食の時刻だ」
※
「おい、ちょっといいか」
食堂に向かう途中、獅子噛の背を追いかける様にして歩く八木の背中を月熊がつついた。
「なんですか?」
「飯が終わったら、面貸せ」
小さな声でそう言われたが、月熊のような大柄の男に言われれば、八木の頭にカツアゲの四文字が浮かんだ。
「何想像してやがる、ちっと話があるだけだ」
カツアゲの四文字が恐喝の二文字に変わった。
「……とにかく、飯が終わったら俺の部屋に来い。誰にも見られずに。良いな?」
返事を待たず、月熊は食堂への扉をくぐる。
八木も続けば、そこには自由を得た天窓を含めた六人が集まっていた。八木を含めて、七人。
もう二人も減ったのか。八木はふと、鉛を飲み込んだような重さが胸の奥に現れたように感じた。冷たく重い鉛が。
漆田が昼食に何を運んできたのか、よくわからない。
それは他の面々も同じだろう、一部の者を除き食事に活力が無い。大神は調子を取り戻しただろうか。ふと見れば今朝方の渓谷のような眉間の皺も幾許か浅くなっていた。
だがあまり喜ばしいことでも無い。既に二人死んでいる。何も喜ばしく無い。何も。
いつの間にか何かを飲み下し、いつの間にか食後の熱い何かを飲み下し、昼食は一時間も経たずに呆気なく解散となった。
八木は月熊の言葉を思い出した。誰にも見られず部屋に来い。あまり良いニュースが聞けそうにも無いが、行かなかったら何をされるかわからない。全員の目が消えるのを待った後、八木は月熊の部屋の扉を叩いた。
「来たか」
「話って何ですか?」
「まあ入れ」
「ここでできない話なんですか」咄嗟に身構える。
「できなくは無いが……誰にも訊かれたく無いんだ。入れ」
「でも……」
「入れ」
最後の一言はドスが効いていた。瞬時に構えていた身はカチカチに固まった。かろうじて動く脚で入室してしまう。これで八木が叫ぼうとも、誰にも聞こえない。
「で、話って……」
月熊が鍵を閉めるそぶりは無かった。しかし念のため何かあった時すぐに逃げれるようにドアを背にして改めて尋ねる。
だが、月熊は八木に襲い掛かるでも無く、無精髭まみれの顎を撫でながら、神妙な顔つきで言った。
「隠し部屋、まだあるかもしれねえ」
「……はい?」
「少し前、獅子噛の野郎が隠し部屋を見つけただろ。それを見て俺は確信したんだ。この館にはまだ、隠されている部屋があるってことによ」
八木は警戒を解いて、話を聞くことにした。
「続けてください」
「この館の書斎に行ったことあるか」尋ねられ、八木は首を横に振る。「多分、あそこにある」
月熊は続ける。
「俺はこの島に来た初日、最初に聖堂に行ったんだ。どんなもんかと思ってな。そのため聖堂への廊下を何度か往復して、その後でお前とホットドッグを食った。それから夕飯前までが暇でよ、面白い本でも無いかと思って書斎に向かったんだ。で、だ。あそこは聖堂へ続く廊下の真上にあるだろ? だからそれくらいの部屋だと思ったんだが……変なことに気づいたんだ。奥行きがかなり狭いんだよ」
獅子噛や大神ほど整然としていない話だが、八木にも掴めてきた。廊下の真上にあるはずの部屋が、廊下よりも奥行きが無い。つまりはその奥に、まだ部屋があるのでは。月熊はそう考えついたらしい。
「それで、探してみたんですか?」
「いや、最初は違和感だけだ。そして昨日の夜、お前と厨房で会った晩にもう一度少しだけ見てみたんだ。そしたら、一番奥の本棚が、確かに動いたんだ」
「それで、動かした後は?」
「……知らねえよ。そんなもん」
「はっ?」
「だってよ、その時俺は隠し部屋なんてあるはずないと思ってたし。もし動かした後で戻せなくなったら面倒だしよ。あと、動かしきるには観葉植物が邪魔で、それを動かしてまで気になる程でもねえなと思って」
「ええっ! そんな理由で?」
「おう、だから少し動いたことを確認したらすぐに戻して出ちまった」
八木は力が抜けそうだった。
「だから今お前に話してるんだろうが。獅子噛の野郎が隠し部屋があるって見せたから確信が持てたんだし」
「なら何で、その場で言わないんですか? 誰にも見つからずに来いなんて言ってまで呼び出して……」
「獅子噛の野郎に聞かれるのは気に食わなかったから」
それに関してはまあ、八木も同意だった。
「とりあえず、教えたからな。あとは好きにしろ」
「月熊さんは調べないんですか?」
「俺たち二人が動いて獅子噛の野郎に勘付かれても嫌だからな」
どうやら月熊は完全に獅子噛と敵対したらしい。無理はないが。
結局八木は一人で書斎へ向かうことにした。理由はいくつかあったが、他の人間を呼ぶ時間も惜しいと感じたと言うのがあった。
※
「はあ?」
書斎へと潜り込んだ八木は、それを見て目を丸くした。
初めての書斎はむせかえるようなインクの匂いで八木を出迎える。まるで小さな図書館の如く仕切りのように書架が並び、一眼では全てを見渡すことはできない。
壁に並んだ書架の上には、横に細い明り取り用の小窓が並び、そこから午後の日光が差し込んでいる。そのため電気をつけずとも明るい書斎は、確かに下階の同じ位置にある聖堂への廊下よりは奥行きが無いのだが、八木が声を漏らしたのは別の理由だった。
隠し部屋なんてなかった。
正確に言えば、部屋ならあった。
さらに詳しく言ってしまえば、部屋はあったが別に隠されていなかった。
書斎の奥の壁には当然の顔をして扉が一枚、立っていたのだ。
だが、八木は観葉植物を見逃さなかった。月熊の話にもあった、棚の移動を邪魔する観葉植物。それは小さなシダ系植物の木だったが、今は通路に立たされている。棚の移動は阻害しないが、人の移動や本の取り出しは確実に阻害する。
つまり、月熊の言う通りこの扉は元々隠されていた。それが、今は露出している。
ということは。
八木の頭に一つの結論が浮かんだ。
今この時、中に誰かがいる?
八木は今度こそ身構えて、その扉に手をかけた。そして、ゆっくりと奥へと押し開いていく。
その空間は確かに隠し部屋という言葉にふさわしい。書斎と違い窓はなく、そのため明かりもない暗闇に満ちている。ひやりとした空気は、ギロチンのある隠し部屋に入った時に感じたものと似ていた。
中には、やはり書架が壁に背を向けて立たされていた。唯一違うのは、古めかしい立派なデスクがあること。座れば足元が見えないであろうデスクの上は殺風景で、ペン立てとインクしか置かれていない。
ここまで見れば、こちらの方がよほど書斎らしい。だが、問題は書架の方にあると八木は気づいた。一番近い壁に立つ書架に目を向けた。
置かれている本は、どれも装丁がボロボロだ。いや、そもそも製本されているのかも怪しい。紙の束を紐で括っただけのようなものも、背後の書斎から漏れる光で見ることができた。
そして入り口からざっと見渡しても、この狭い隠し部屋に人影はなかった。
八木はスマートフォンを取り出して懐中電灯機能を起動し、明かりを書架へと滑らせた。やはり、そもそも製本されているものが少ない。というよりも、一つも無い。全てが紙の束を剥き出しにしているか、なんらかの皮を鞣したもので覆っているかだ。どこか、不吉な雰囲気の皮だ。
明かりはふと、書架のある一点で動きを止めた。そこには硝子の戸があった。奥には手のひらほどの大きさの木箱のようなものが並ぶ。何やら文字の書かれた紙が貼り付けられた木箱。と言っても文面だけを見て想像してしまうような、お札が貼られた呪物でも封印されているような代物ではなく。むしろ八木が連想したのは臍の緒を入れるような小さい木箱。禍々しさもなく、貼られている紙は中身を示しているものだろう。八木は目の高さにそれを掲げて文字を読む。
『昏倒薬』
臍の緒などという可愛らしいものでは無いらしい。八木は思わず箱を取り落としそうになった。八木は少し躊躇ったのち、箱を開ける。
中には一枚の紙しか入っていなかった。
しかし、箱の側面に書かれた文字は成分表のようにも見える。
そういえば。八木は嫌なことを連想してしまう。
パーティホールの隠し部屋にはギロチンを始めとした刀剣の類といった人を傷つけ殺すためのものが揃っていた。だが、人を殺すためのものならば薬物もそれらに連なるものとして置かれていてもおかしくはない。しかしその類はどこにもなかった。それらは、今この八木が立つ部屋にこそ隠されているのでは?
八木は顔を上げて、書架を改めて見回す。
だが、それは本当に書架だったのだろうか。
たまたま八木が最初に目にした棚に本がいくつか収められていただけで、それを書架だと思ってはいないだろうか。それを示すように、次の棚には書物などは一つもなかった。それは書架というべきでは無い。薬品棚と言った方がとても正確だ。
「なんだよ、これ……」
八木は呟き、棚を覗き込む。しかし一つ一つが薬だとは思えない。全てが最初に手にしたものと同じ、小さな木箱に収められていたからだ。
震える手で、いくつか手に取った八木は、しかしまだ薬品かどうかはわからなかった。
箱に貼られた紙に書かれた文字は、日本語ではなかったからだ。
見れば、手に取ったすべての木箱にはさまざまな言語で文字が書かれていた。一つや二つでは無い。あまりにも多くの言語の名前を持つ木箱がいくつも並んでいた。その言語に対応した国から取り寄せたものだろうか? それにしては筆者は同じように感じ、ならば言語をバラけさせる意味がわからない。
違和感が頭を埋め尽くす八木に辛うじて分かるのは、漢字で名前が示された木箱だった。
『拷問薬』
八木は中を確かめようと蓋に手をかけた、その時。
何かが、変わった気がした。
なんだ? 何が起きた? 八木は胸に湧いた、というよりも、全身を包んだと言った方が正しい違和感に感覚を研ぎ澄ませた。
もわん、と流れていた何かが静かに止まったような、その感覚。
静かな教室にて自習をしていた時、ふと違和感を感じて顔を上げたらタイマーでエアコンが止まっていたような。
喫茶店で読書をしていた時、ふと違和感を感じて顔を上げルト、流れていたBGMが曲の継ぎ目で無音の時間が流れていたような。
家で風呂を沸かしながらテレビを見ていた時、ふと違和感を感じて顔を上げたら浴槽に湯が溜まったために給湯器が止まった時のような。
ずっと流れて当然だったものが、止まった時のあの違和感。
なんだ? 何が止まった?
もしかして。八木は思い当たり、開かれたままの扉から書斎を見た。しかし変化はない。当然だ、八木は明り取りの窓から差し込む光があるからと、それを行わなかった。確かめるためには、さらに奥の扉を開かねばならない。
八木は木箱を蓋を閉めて棚に戻し、隠し部屋から書斎へと飛び出した。
動く書架はそのままにした。最初から開いていたのだ、問題はないだろう。そして書斎を突き抜け中央ホールに飛び出した八木を迎えたのは。
「ちょっと! どういうこと? 電気がつかない!」
そんな、兎薔薇の叫びだった。