第二章【裏】被害者フェニックスの献身
暗闇の中に、森子は居た。
ひどく狭い世界、ひどく暗い世界。
体は折り畳まれ、息をすることすら難しいそこは、死後の世界に似ていた。似ていた、というのはおかしいかもしれない。そのものと言っていいのかもしれない。それとも、生まれる前の世界かもしれない。
かもしれない、かもしれないを続ける内に、森子の体は沈んでいく。意識の覚醒と半覚醒の間を行き来するのは、おそらく呼吸もままならないからだ。暗闇の中では目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
時間は大きく伸びて行き、次のたった一秒がどんどん遠く離れていく。後方を振り返ると、そこには森子の半生が時間の層に折り重なっている。次の一秒が緩慢ににじり寄る間、森子はそれを一つ一つ手に取っていく。
初めの記憶は、森の中。
次の記憶は、怒りの中。
最後の記憶は、諦めに。
あとはもう、コピーアンドペースト。同じ色と同じ匂いと同じ音のそれを観て、森子は涙が溢れていく。
私、走馬灯すらなんにもない。
声を抑えなくては。息を殺さなくては。
でも、込み上がる思いは涙を共に瞳と喉奥から溢れていく。
声を抑えなくては。息を殺さなくては。
でも、目の前に積み重なる記憶はどれも無味乾燥で、やるせない気持ちが森子の胸に爪を立てる。
声を抑えなくては。息を殺さなくては。
だって、私を殺した人がまだいるかもしれない。
声を抑えなくては、息を殺さなくては。
だって、あの人がそう言っていたから。
「私がここを開くまで、声を立てるな、息を殺せ、絶対に出てくるな」
あの人が、そう言っていたから。
無限に伸び縮みする暗い時間の中に膝を抱えて漂う森子は、しかし。
その果てに、暗い世界が切り開かれていった。
その先にいたのは、よく見知った顔だった。
「無事かっ! 森子!」
「はい……椿ちゃん!」
※
時刻は八木が月を見上げていた頃、二日目の【二十一時】に遡る。
「あれ?」
森子はリネン室から出た際、目の前に妙なものが置かれていることに気づいた。
折り畳まれた紙片。広げれば客室に備え付けられているメモ用紙だった。
これは確実に、リネン室に入る前には無かった。しかし、森子が部屋を出る頃には置かれており……その内容は、明らかに森子へと宛てたであろうものだった。
「これって……」
【犯人ノ正体ヲ知リタケレバ
ダレニモ見ツカラズニ
二十ニ時にパーティホール】
罠かもしれない。
手の中のメモ用紙が握られ、皺が寄った。
そう確信していたが森子は結局、部屋へとそのメモ用紙を持ち帰ってしまっていた。もちろん、誰にも知らせずに。
時間は流れ、あっという間に二十二時の少し前へと針が回っていた。
深く悩んではみたが、自らの安全など、今の森子にとってはどうでもいい気がした。
鳳凰堂という初めての友人を失ってしまった今となっては。
だから森子は、メモの誘いに乗ることに決めた。
けれど廊下は大神が見張っていると聞かされていた。そのために森子はベランダへと出ると、幼き頃を思い出してベランダを支える柱に足をかけて外へと出た。
そして、玄関からあらためて館の中へと入り――。
森子はパーティホールの扉を開いた。
手の中の紙切れが、手汗で湿っていく。
パーティホールは無人で、ステージはカーテンが引かれ、囲われていた。
「あの……」
背後の扉を閉めて、森子はこの場にいるであろう人物に、カーテンの向こうの人物に声をかける。
「誰か、居るんですか?」
しかし、返事はない。
「この紙で私を呼び出したのは、貴方ですか?」
カーテンの向こうに人がいると言う確証もない。
「聞いて……いますか?」
返事はない。森子はやがて、ステージを囲うカーテンにまでたどり着く。誰かがいるなら、この向こうだ。
森子は唾を飲んで、カーテンの端に手をかける。一気に開くべきか、それともゆっくりか。あるいは、逃げ出してしまうべきか。しかし、結果はどれでもなかった。
カーテンの隙間から手が伸び、森子の手首をしっかりと掴んだのだ。
「ヒッ……!」
叫び声を上げる間も無く、その手はグイッと力強く森子を中へと引き摺り込む。慌てて身を反転させ、逃げようとしても相手の方が力が強い。ならばと声を上げようとした口に今度は相手の手が覆い被さり、塞ぎ込んできた。
「んんっ、んーっ!」
森子はあっという間に何者かに拘束されたのだ。掴まれた手は背後に回され、身動きが取れない。相手を見ることすら不可能だった。
だが、その人物は暴れる森子の耳元で、小さく囁いた。
「落ち着け、森子」
「んんっ?」
その声は女のものだった。森子は頭の中に、死んだ彼女の顔が浮かび上がる。まさか、そんなことはあり得ない。
「いいか、落ち着け……私を見てもいいが、声を上げるな」
「……ん?」
「手を離すぞ……こちらを見ても、驚くなよ」
拘束が解かれ、森子は呼吸を取り戻す。そして、背後に立つ人物の顔を、森子はその目で捉えた。
「じゃーん。私でした」
首を切り取られ絶命したはずの、鳳凰堂椿がそこに居た。
「びっくりした?」
「……きゃああっ!」森子は叫びかける。「鳳凰堂さ……! んぐ!」
「大声を出すなと……それにどうした? 私のことは椿ちゃんと呼べと言わなかったか?」
叫び声を上げかけた森子の口を、鳳凰堂の手が再び塞いだ。
森子は鳳凰堂の手の中に収められてしまった口でむぐむぐと「わかりました」と主張する。
「あはは、面白い」
鳳凰堂はさらに何度か森子の“むぐむぐ”を楽しむと、その手を離してやった。
「ぷは……ほ、鳳凰堂様?」
「椿ちゃん」
「どうして……どうして生きているのですか、鳳凰堂様!」
「椿ちゃん」
「私はずっと……鳳凰堂様が死んだとばかり……むぐ!」
森子の口が三度塞がれた。
「椿ちゃん」
「む……むまひまん」
「それで良い」
満足げに手を離す鳳凰堂。
「では質問に答えようか。どうして生きているか? それについては簡単だ」
鳳凰堂はステージの真ん中で、踊るようにくるりと回転して、告げた。
「私は不死身だから」
「……はあ」
「信じてないな?」
ぽかんと口を開けて目を丸くする森子に、鳳凰堂は口を尖らせる。
「私は不死身の鳥、不死鳥なんだよ」
「……はい」
「この島にもあっただろう? 不死鳥伝説。あれは私のことなんだ」
「なるほど……」
森子は鳳凰堂の説明を聞き、ゆっくり頷いて、言った。
「ええ、私だけは信じますとも」
「なんだ? その妙に優しげな目は」
※
「では聞くが、切り取られた私の頭は全員が見たんだな?」
「はい」
「その上で、その場の全員が本物だと判断したわけだ」
森子は思い返す。全員が確認したわけではないが、探偵である八木や警察である大神が確認して偽物だと言わなかった。つまりあれは作り物ではなく本物だということだ。
「そして、私の部屋には大量の血が撒かれていたな」
「ええ。致死量の血だと判断されておりました」
「だったら、誰かが死んだのは確実だな。そしてそれは誰だ?」
「残された頭は椿ちゃんのもので、撒かれた致死量の血は椿ちゃんの部屋にあったことから、死んだのは椿ちゃん……」
「そう! 正解だ。なら、こうして私が生きているのはなんでだ?」
「あっ! も、もしかして、亡くなられたのは椿ちゃんになりすました別の方……」
「意外と頑固だなお前は!」
鳳凰堂は地団駄を踏む。
「ですがもし、貴方が不死鳥だというのであれば、なれるのですか? その、不死鳥に」
「なれるというか、戻るわけだが……無理かな。私の本来の姿は四メートルくらいあるし、絶えない炎そのものだ。ここで本来の姿に戻れば館が全焼するし、最悪島が焼け野原になる」
なんだか言い訳のように聞こえる。森子の優しげな微笑みは消えない。
「まあ、別に無理に信じろと言うわけではない。問題は別のところにある」
「問題、ですか?」
「次に殺されるのは森子、お前だ」
微笑みは一瞬で消えた。
一気に血の気が引いていく。
死んだと思われていた友人が現れ、次に殺されるのはお前だと告げられる。どこまでも現実感が無かった。
「わ、私ですか?」
「だってその手紙は、お前に宛てられたものだろう?」
森子は手に握ったままの紙を改めて見る。
【犯人ノ正体ヲ知リタケレバ
ダレニモ見ツカラズニ
二十ニ時にパーティホール】
「何故、そのようなことが」
「この状況でそんな手紙を出すなど、罠に決まっている。筆跡がわからないようにまでして、怪しさ満点だ」
森子もおそらくは罠だろうとは思っていた。だが、それならば待ち構えているのは犯人だろう。それが誰かを、見たかった。友達を殺した犯人を、どうしても知りたかったのだ。
「でも、でしたらこの手紙を出したのは椿ちゃんだった、ということですか? この部屋には他に誰もいませんし」
「手紙を出したのは私じゃない。私はこの手紙を見た時、次に殺されるのはお前だと確信した。だから、この手紙に細工をしたのだよ」
「細工ですか?」
「よく見ろ。この手紙、少し変だろう」
森子は言われ、手紙を睨みつける。すると、森子にもようやく違和感があることに気づいた。
「二十……ニ時?」
「それ、元々【二十三時】って書かれていてな、私が上の一本を消しゴムで消してお前に見つかるように戻しておいたんだよ」
「ということは、犯人は……」
「あと四十五分くらいでここに来るということだ」
「ど、どうして、一時間の差を作ったんですか? 時間を書き換えて、私の前に現れて……椿ちゃん、貴方は何をしようとしているんですか」
「分からないのか? 森子」
鳳凰堂は森子の目を見つめて、ハッキリ言った。
「私はお前を助けにきたんだよ」
なんて事ないかのように、鳳凰堂は言った。
「いいか、私はお前に宛てられたその手紙を見た時、次に殺されるのはお前だと確信した。では、どうしたら助けることができるのだろうか? 私は考えた。もし、その手紙を見つけた時点で破り捨てたら? その場合お前はここに来なかっただろうな。だが、お前が狙われているという事実はそのままだ。だから私はそこで、あることを思いついた」
「ある事?」
「逆に罠を張るんだ」
罠。
鳳凰堂の顔が悪戯を企む子供のようにニヤニヤと笑う。
「お前が生きている限り、お前は殺される可能性がある。だったらお前が死んでしまえば、お前はもう殺されることはない」
「し、死んでしまえばって……!」
森子は再び青ざめる。その青ざめを見た鳳凰堂はキョトンとすると、「いや、違う違う、最後まで聞け」と嗜めた。
「要は、犯人に『計画通り森子を殺した』と思わせれば良いのだ。つまり、別の誰かが代わりに殺されれば、お前は完全に犯人の狙いから外れることができる」
「ですが、それには代わりの誰かが必要ですよね?」
「もう忘れたのか? ここに居るではないか」
鳳凰堂は、手を当てた胸を張る。
「つ、椿ちゃんが……?」
「正解だ」
「ダメですよっ!」森子は思わず声を上げる。
「……お前、私は不死鳥だと何度も言っているだろうが。私は生き返れるんだよ」
「そうではなくて、もし本当に不死鳥だとしても、し、死ぬなんて……それも私の代わりだなんて、そんなことは……」
森子の声に、鳳凰堂は驚いた。しかし次第に弱々しくなる彼女の声を、塞いだのもまた鳳凰堂だった。彼女の体を優しく抱きしめ、頭を撫でる。
「お前は優しいな、森子。だけど本当に大丈夫なんだ。私は永く生きる不死鳥、死んだことくらい何度もある。お前の代わりに死ぬくらい、怖くなんかないよ」
「そうではなくて、そうではなくて……」
言葉を探す森子に、鳳凰堂は優しく話す。
「お前の代わりになるには、姿形が大きく違うって? そうだな、ならまずはそれを見せようか。生き返りを見せるのは難しいが、【変身】なら問題ないしな」
「へん、しん……?」
「そうだ、変身だ」
言って、鳳凰堂は森子から身体を離す。
「私の元の姿は炎の巨大な鳥だ。それが今は人間の姿をしている。これは炎の鳥である私が人間に変身しているからなんだ。ならば、他の誰かの姿になることもまた、私には可能だ」
ステージの真ん中で、鳳凰堂は一人立つ。カーテンの囲むそのステージには観客が一人。森子だけだ。
鳳凰堂は微笑むと、その身体が急に跳ねる。背を弓形に反らし、背中から倒れてしまった。異常はそれでは収まらず、鳳凰堂の身体はガタガタと揺れ始める。
「つ、椿ちゃ……!」
ん、と森子が言うよりも早く、それの異常は起きた。
顕著なのは彼女の髪だ。艶やかでまっすぐに伸びる黒いロングヘアだったはずの鳳凰堂の美しい髪は、森子の前で色を変え始めたのだ。さらには、まるで一本一本が意志を持った触手のように蠢き形を変えていく。中でも最大の異常は彼女の体を覆う肌だ。まるで細胞ひとつひとつがスライドパズルのピースのように流れては組み替えられていく。肌の色が変わり、森子も知らなかった位置に黒子が現れる。自分で確認すれば、確かにその位置に黒子は存在した。呆気に取られていると、どうやら鳳凰堂は身長すらも変えていくらしい。腕や、足の骨がガタガタと揺れるたびに長さが変わっていく。見ている内、その長さの変わった腕が鳳凰堂の顔に伸びて手が覆う。その下で顔も変わっているらしい。頭部の骨が形を変えていく。
そして、揺れが収まった。
数瞬間の静寂の後、顔を覆う手が剥がされていく。
その下にあったのは、紛れもなく――。
「ばあ」
森子の顔だった。
※
明らかに人間ができることではない。森子は確信していた。
目の前にいるのは、人間ではない。
人間ではないのなら……なんだ?
ただ一つわかることは、目の前には森子と全く同じ姿の人間がいる、ということだ。
「あ、あの、椿ちゃん……ですよね?」
「うん」
目の色から歯並びまで全く同じ、まるで鏡を見ているかのようだ。違うのは、森子は自分のこんなニヤニヤ顔を見たことがないことくらいだ。
「でも、どうやってそんな、私にも分からないようなところまで……」
「完璧に真似できるかって? 説明が面倒というか、感覚的なことすぎて私にもよくわかっていないのだが……私はその人間の【情報】をコピーしている、という感覚が近いだろうか。今私は的羽森子という人間を構成する情報と全く同じように体を作り替えたわけだ」
説明されてもよく分からなかった。
そのよく分からなさが森子の顔にも出ていたのだろう。鳳凰堂はざっくりと纏めた。
「要は、私は他の人間を完璧にコピーできる。手術でボルトを埋めた人間ならば、そのボルトまで再現できる。DNAから歯の詰め物まで再現できるから、コピーと言った方がいいかな」
「それは……凄いですね」
「そうだろうそうだろう。そうだろうとも! もっと褒めてくれても良いんだが」
そういう意味で言ったわけではないが、鳳凰堂は森子と全く同じ顔で得意げに頷いている。
「人間以外には変身できないのですか? 犬とか、猫とか……」
「できないな。やろうとしたことは何度もあるが……これはそもそも、できるようになった時の状況が関係しているんだろうが……」
珍しく言い淀む。森子が首を傾げるが、鳳凰堂は「ま、今はどうでも良いことだ」と雑に切り上げた。
「とにかく、不死鳥である私には幾つかできることがある。そのうちの一つが【変身】だ」
・ルール【鳳凰堂椿は対象となる人間の完璧なコピーとなることができる。他の動物や無機物にはなれない】
森子と同じ姿の鳳凰堂はそう言うと、手を差し出した。「次は服の交換だ」
最初、森子が鳳凰堂を見て叫んだのはそれも理由の一つであった。鳳凰堂が現在着ている服は血で覆われていたのだ。
「そ、その服とですか」
「今だけ、な? ひと段落したら着替えを取りに行こう」
返事を待たずに既に脱ぎ始めている。仕方ないと納得して、森子も服に手をかけた。
そうして渡された服には、いざ手に取ってみると血染めである以外にも別の異常が見て取れた。
「穴が空いてますね……」
ちょうど胸元の部分に穴が空いていた。ほつれがないために裂けたことによる穴ではなさそうだ。どちらかと言えば、切り開かれたような。
「ああ、それな。全く酷い話でな、私を殺したやつに突き刺された時にできた穴だ」
「突き刺された!?」
「そう、前の晩に部屋に居たらドアがノックされてな。誰だろうと思って鍵を開けたらすぐにナイフか何かがズドンと胸に突き立てられたんだ」
「その時、犯人の顔は見ていませんか!」
森子は身を乗り出して尋ねる。被害者が生き返ったと言うのであれば、調査や推理など最初から必要ない。被害者の口から聞けばいいのだ。
だが、鳳凰堂は首を横に振った。
「見てない。廊下も薄暗かったし一瞬の出来事だった。ナイフが心臓に突き立てられ、私は即死した筈だ。というか、アレは相当慣れた人間だぞ」
「慣れた人間、というと?」
「ナイフの一撃だけで心臓まで貫いて即死させるなんて、普通の人間にはできない。相当訓練するか、回数をこなして慣れていなければ無理だ。もし素人がナイフを振っても即死には至らず、私が犯人の顔を見ている。毒で苦しんだ記憶も無いな」
被害者目線の話はどこか奇妙だ。話す内に、お互いの衣装が入れ替わった。
「それはなんとも……酷い目に」
「だろう? 酷い、酷すぎる! こんなにズタズタにしやがって! その服一着買うのに私がどれだけ大変な思いをしたか!」
あああ、と鳳凰堂は泣き縋るように今は森子が着る服を撫でる。「この旅行のために一番気に入ってる服を選んだのに……」
「まあ、それは良い。全然、全く、少しも良く無いが、良い」涙を飲むように顔を上げた鳳凰堂。「一時間の差は設けすぎたかな。まだ三十分ほど時間がある」
「でしたら、椿ちゃんは生き返ってからどのように過ごされていたのですか?」
森子は尋ねる。鳳凰堂は頷き、語り始めた。
「いいだろう。私が生き返ってから、私はどう動いていたのか、話そうか。お前たちが犯人を探し回っていた……その【裏】を」
※
「生き返った私が自由に行動できるようになったのは、【一時】ごろだった。それまでお前たちは聖堂の前に居たし、館の中をうろついていたから身動きが取れなかったのだ。様子を伺っていたらお前たちは食堂に集まったな。何やら話していたものだから、食堂の扉の側で聞き耳を立てた。私の殺人を捜査するとかしないとか話してたな。その時、神大の正体も知った。本当の名は大神、だったな」
あの時、すぐ近くに鳳凰堂は居たのか。森子は黙って聞き続ける。
「そして、お前たちが食堂を出ることになり、私は慌てて逃げ出した。初めは書斎に隠れやり過ごした後、私は今後のことを考えた。まず個室にはもう戻れない。私が殺されたことで人が出入りするだろうし、それに自分のものとは言えあんな血塗れの部屋はちょっと過ごしたくない。そこで私は別の場所に拠点を設けることに決めた。とはいえ宛てがあるわけでもなかったからな、とりあえず食料とか水とかを貰おうと探し回った」
「必要なのですか? 食べ物や水が」
「……あのなあ、今の私の体は人間と同じなんだ。喉だって乾くし、お腹だって空く」森子は聞いて「す、すみません」と謝り、鳳凰堂の話は続いた。
「とはいえ食堂には人が居たし、厨房の食材をかっぱらえば不自然に思われる。そこで私は男性用個室が並ぶ方の廊下の最奥、その倉庫に入ってみたのだ。そしたらラッキーなことに防災カバンを見つけてな、勝手だが貰っちゃうことにした。ごめん」
潔く謝られた。
「はあ、まあ……」
「だが、バッグ一つで数日保つかは怪しかったからな。反対側の女性用個室の並ぶ廊下の方の倉庫にも探しに行こうとしたその時、聖堂を調べていたお前たちが二階に上がってきてな、私は猛ダッシュで倉庫に飛び込んだんだ。思惑通りそこにも防災カバンがあったから貰っちゃったんだが、今度はその倉庫から出れなくなってしまった。ずっと廊下から話し声が聞こえてくるんだ」
倉庫は防音では無い。昨晩鳳凰堂の部屋を捜査した際、漆田が見張りも兼ねて扉を開いていた。その為に声が聞こえたのだろう。
「部屋の捜査は長く、出るタイミングを完全に失った私は、ひどく困った」
「それで、どうしたのですか?」
「ソシャゲしてた。ネットに繋がなくてもできるやつ」
捜査の手が倉庫に及ぶかもしれないといった懸念は無かったらしい。その豪胆さは不死鳥故か、それとも天性のものか。
「しばらくしてお前たちはどこかへ行った後、私も後を追ってな、また食堂で盗み聞きだ。今度は二つの防災カバンを前と後ろに背負っていたけど。いやあ、聞かせてもらったが大変そうだったな。私のために申し訳ない。姿を出せたらどんなによかったか。ははは」
あの精神をすり減らした疑い合いが「ははは」で纏められてしまった。
「で、日も昇って来たし、本格的に拠点を探したんだがとうとう見つから無くてな、食堂からも人が出そうだったから私は外に出たんだ」
「では、ずっと外にいたんですか」
「そうだ、せめて見つからないようにしなくてはならないと思ってな。で、探してみたら昼前には廃墟がいくつか見つかり、中には屋根がまだあるものもあった。更にその廃墟は館とそう遠くない。窓の明かり程度なら様子が窺えたのだ。そこで私はその廃墟を勝手に拠点とさせてもらうことにした。ごめん」
「いえ、そちらは私どもの所有物では無いので問題はございませんが……それで、その後は?」
「お腹も空いたし保存食を食べたら今度は眠くなったので寝てしまった」
取りも直さず豪胆な生き方をしていた。
「目が覚めたら昼を過ぎて夕方くらいになっていてな、私はいい加減服を変えたくなって館に戻ったんだ。そしたら……見られてしまった」
「み、見られたとは」
「いやあ、こっそり動いていたはずだが、部屋に入る直前私のことを八木が見つけてしまってな。慌てて扉を閉めたんだがすぐにノックされてしまって滅茶苦茶ビビってしまって、着替えを取るどころじゃなかった」
「それって……」
森子は思い出す。獅子噛の告白を大神に告げ、館へと戻った時に遭遇した騒ぎを。確か、八木が鳳凰堂の部屋に入る人影を見たと言い、漆田が保管しているマスターキーか、鳳凰堂が持たされた所在地不明のカードキーでなければ扉に鍵がかけられない以上、部屋に入ったその人影は犯人であると結論づけられたのだ。それがまさか、鳳凰堂その人だったとは。
「では、八木様と漆田の目の前で扉が再び閉められたというのも……」
「あー、うん。ノックの音が消えたからどっか行ったと思って顔を出したんだが、すぐに戻ってきちゃってな、また引っ込んだんだ」
なんというか、種明かしをされると、出たり入ったりまるでコメディだ。森子は気が遠くなった。
「で、では、椿ちゃんはどうやって自分の部屋から消えたのですか? あの部屋にはどこにも居ませんでしたし、ベランダから外へは出ていないはずだと言う証言もございました」
「いや? 私はベランダから外へ逃げた。あれは危なかったな、逃げると同時に踏み込まれたもんだから肝が冷えた」
「では、真下の脱衣所の窓には何も映らなかったという獅子噛様が間違っていたのでしょうか」
「そうでもないんじゃないか? だって私はベランダから降りて逃げたわけじゃなくて、登って逃げたのだから。屋根の上に」
いくらなんでも、縦横無尽すぎる。森子は絶句した。
「だって降りて逃げたとして、すぐにお前たちがベランダから下を覗き込まないという保証もなかったし、だったらすぐに視界から逃れられる屋根の上に逃げるべきだと判断したまでだ。手すりに立って屋根の端を掴んだら雨樋に足をかけて、こう、ぐいっと」
屋根へと登る動作をジェスチャーで見せられても、森子の口は開いたままだ。
「で、では……その後は?」
「ほとぼりが冷めるまで屋根の上で雲を眺めて過ごした」
瞬間瞬間を好き勝手に生きすぎだ。
「まあまあ、その頃には私にも次の殺人がいつ行われるのか目星がついていたから、どうやって阻止するかその時考えてたんだよ」
「その目星というのが……」
「お前の持つメモだ。ドタバタの時にお前の部屋の扉の前で見つけて拾ってな。少なくとも二十三時までは動きがないと思っていたんだ。その前に先手を打とうと、な。そして……その二十三時は、もうすぐだ」
鳳凰堂はスマートフォンの時計を見て、言った。
途端に空気が冷えたように森子は感じた。画面の時計の表示は二十三時まで後五分を示している。もうすぐで、森子の命を絶とうとする何者かがここに現れる。それを承知でここに足を運んだはずだったが、その足は今、竦んでいた。
「大丈夫だ森子、お前は死なない。死ぬのは私だ」
鳳凰堂は歩み寄り、森子の手を握る。そしてそのまま数歩ステージを歩き、森子をステージの端へと連れて行く。その先にあったのは、演説台だ。
「お前はこの中に居ろ」
「え、ここにですか」
「滅多なことが無ければこんなところ覗かないだろう。ましてや、人が隠れているなんて思いもしない」
「それはそうかもしれませんが……」
「急げ、もう時間がない」
真剣な表情に圧され、森子は身を屈めて演説台の下へと潜る。鳳凰堂は外から台を押して移動させ、壁で空間に蓋をするように寄せた。
「椿ちゃん……」
「なんだ」
「本当に、いいのですか」
完全に閉じ込める直前、森子は鳳凰堂に尋ねる。「私のために、死ぬなど……」
「森子、何度も言うが、私は不死鳥だ。不死身なんだよ」
にっこりと笑って鳳凰堂は答える。
森子にはそれでもまだ信じられなかった。不死身の存在を、そして死んでも大丈夫などという友人の言葉を。
だが、それでも時間は進む。
「森子、いいか。よく聞け」
かつて止まったことのない時間は今もまた、当然のように進んでいく。
「私がここを開くまで、声を立てるな、息を殺せ、絶対に出てくるな」
歩みを緩めることもなく、早めることもなく、平等に。
「絶対、絶対だぞ。間違っても犯人の顔を見ようとするな。どんなに時間がかかっても、ここにいるんだ」
森子はこくこくと頷く。そして、演説台が壁に完全に寄せられたことで視界が闇に包まれる。
その、闇の中で。
森子は扉の開く音を聞いた。
そして、刃物が唯一無二の友人の体に突き刺さる音も。
※
「無事かっ! 森子!」
「はい……椿ちゃん!」
森子が鳳凰堂によって演説台の下から引き上げられた時、その顔は涙で濡れていた。
「泣いていたのか?」
「ごめんなさい……でも、声は出してないはずです」
「良い。それに嬉しいよ」
だが、微笑む鳳凰堂の身体は別のもので濡れていた。べっとりと粘性のあるそれは、紛れもなく血液だった。よく見ると、不自然にも首から下だけが血塗れであり、首から上、顔や頭は一滴も血が付着していない。
「奴め、また首を切っていきやがった」
「相手の、顔は」
「見れてない。カーテンを開けておけばよかったな。すぐにはこちらの位置がわからないようにと引いておいたはずが、下から足を覗いて確認したのか、むしろカーテンを纏って身を隠してナイフを突き出してきた。ほら見ろ、お前の服も穴を開けられてしまった」
広げるようにして見せつけられると、確かに穴が一つ空いている。
視線を外せば、ステージの上は明らかに身を隠す前から一変していた。辺り一面、血の海だったのだ。
それは鳳凰堂の部屋、103号室とほぼ同じだ。
明らかに、ここで殺人が起きた。そして、被害者は生き返った。
「本当に、不死身だったんですね」
「そして本当に、不死鳥だぞ」
冗談めかして少女は言う。
「殺人はまだ続くはずだ。そうは思わないか? 森子。女が四人死んだ時、不死鳥は現れた。この殺人が不死鳥伝説をなぞらえているならば後二人、人が死ぬことになる」
「椿ちゃん……皆様の前に出ましょう。二人とも無事だと伝えましょう。そして守ってもらうんです。貴方が代わりに殺されるなど、そんな必要はないんです」
それはほとんど懇願だった。新たな血に塗れた鳳凰堂を、それでも抱きしめて訴える。二度目の抱擁。今度は血塗れの抱擁だった。
「森子……お前はともかく、私はみんなの前には出れないよ。できればお前も、みんなの前に出るのは後にして欲しい」
しかし引き剥がすのもまた、鳳凰堂だった。
「何故ですか」
「今、この場で実は生きていることを明かせば、犯人にまた狙われるかもしれないというのは分かるな?」
森子はおずおずと頷く。
「それ以前に恐ろしいのは、犯人にその状況を利用されることだ」
「状況を利用……ですか?」
「そうだ。もし私たちが『実は生きています』と明かせば、その後犯人を特定したとしても『全部ドッキリでした』と言われたら反論ができない。現に私たちは命を狙われ、私は二度殺されたにも関わらず。なぜならこの生き返りには私の【生き返り】と【変身】という本来あり得ない出来事が関わってしまっているからだ。そこに満足させられるほどの説明ができないならば、犯人に全て茶番劇にされてしまう可能性がある」
「そんな……」
「そして最悪な事態になる。全てが良くできた茶番劇とされてしまい、全員の警戒が緩んだ時。犯人が本当の殺人を行わないと言う保証もまた無い。そして今度は館の全員が、事件が起きた時にまず本当に殺人が起きたのか、それとも良くできた茶番劇かで迷い、混乱してしまうんだ。だから悪いが、森子にもまだ死んだふりは続けてもらえるとありがたい」
鳳凰堂の説明に、森子はただ頷くことしかできなかった。
「わかりました……でも、今回はこのパーティホールで、このステージで一体、何が起きたのでしょう?」
辺りを改めて見回す。未だステージを囲うカーテンの内側にも血はべっとりと撒き散らされ、凄惨に彩られていた
「さあな。私も初撃で即死させられたからわからん」
「私、どのくらい演説台の下にいたのでしょう? 暗くて時間の間隔も無く……」
「あー」鳳凰堂はスマートフォンを取り出した。「今は【零時過ぎ】だから、お前を出したのは零時ちょっと過ぎた頃くらいか?」
「では、私はあの中で一時間以上も……?」
「まあ、しょうがないだろ。私が復活するまでそのくらいかかるし」
初耳の情報が現れた。復活するまでに時間がかかるという情報が。
「時間がかかるのですか?」
「そうだ、死んですぐにパッと復活するわけじゃない。昔測られたことがあるんだが、私はどんな死に方をしても体の再生が五分後に始まる。そして意識が回復するまでに五十五分かかるんだ。つまり死んでから生き返るまで、ちょうど一時間かかるわけだな。これもまた、私と言う不死身の不死鳥の特徴の一つだ」
「死後復活にかかる時間を、測られた……のですか?」
「うん。その辺の話は後でしよう。ちなみにこの時間を測ったところは優秀な研究機関だから正確だと思う。どんな死に方でも、時間は変わらないそうだ」
・ルール【死後、鳳凰堂椿の体は五分後に再生が始まり、意識の回復までには一時間かかる】
「もし犯人に殺された後もしばらく居座られていたら、不死身だってバレていたかもな。だがそれは無さそうだ。前の時も今回も、それらしい反応の痕跡は無い」
そして鳳凰堂は血染めのカーテンを捲り、歩き出す。
「どこへ行くんですか?」
「決まっているだろう。外の廃墟、拠点に戻るんだ。お前も来い、考えることは山ほどある。お腹が空いたなら乾パンと缶詰めがあるぞ」
「……私、不安です。こんなこと、していいのか……ごめんなさい。せっかく助けていただいたのに、こんな弱音吐いて。でも、どうして良いのか、これからどうなるのか、私には……」
ふと、森子の手が鳳凰堂の差し伸ばした手に包まれる。優しく、温かくて、安心させられた。
「森子、むしろワクワクしてこないか?」
「どうして、ですか?」
「私たちは今、物語の裏側にいるんだ。連続殺人事件という物語の、裏側だ。殺されたはずの私たちは、確かに殺されながらも今もこうして生きている。犯人の、他の人たちの、この島にいる人間の意識の裏側にいる」
森子は鳳凰堂の目を見つめた。瞳の向こうに炎がゆらめいているような、強い眼差しだった。
「さあ、森子。この物語を【裏】からぶっ壊してやろう」