第二章【表】クビキリ&サイクル 第三部
昼食中、食堂に集まった八木達の間に言葉はなかった。皆が黙々と粘土のようなステーキ肉をナイフで切り取り口に運んでいる。
全員が昨晩の悪夢をそのまま夢だと思いたがっているような。
その様子が見えないのは獅子噛と大神だけだ。大神は未だ凛とした表情で全員の様子を見渡している。獅子噛はこの状況すらゲームで、今はブレイクタイムとでも思っているのか美味そうにステーキを齧っている。
「兎薔薇さん」
八木は隣に座る兎薔薇に声をかける。恐る恐るといった様子がばれないように努めたはずだが、兎薔薇は「何?」と睨んで答える。
「よく休まれましたか?」
何しろ八木は明け方のアリバイについての議論で首を絞められている。兎薔薇には出来るだけ心安らかにいて欲しい。
「こんな状況で休めるわけないでしょ。馬鹿じゃないの、この現状わかってんの? 馬鹿ならせめて黙ってなさいよ」
気遣いのつもりが罵倒を喰らった。
しかし兎薔薇の手元の皿、その上のステーキは全く減っていない。「毒なら心配しなくていいんじゃないですか。大神さんが見てたらしいですし」
ダンッ、打撃音のような音が響いた。兎薔薇がナイフをステーキに垂直に突き立てる音だった。
「黙れって言ったのが、聞こえなかった?」
八木はナイフの突き立てられたステーキ肉を自分に重ねた。
「その程度で安心できる理由になるの? 犯人はそれを見越して何か仕込んでるのかもしれないのよ? それに、どんなに気をつけたって、人は死ぬ時は死ぬのよ」
呪詛のように吐き出されるその言葉に、八木は震えた。
「ドアを開けたその先で、人が死んで無いなんて決まってないのよ」
だが、最後の言葉は、なぜか八木の胸に引っかかった。
兎薔薇は自分の死に怯えているのだろうと思っていた。しかしその言葉からは、他人の死に怯えているように取れたのだ。
「その通り!」
響いたのは獅子噛の声だった。
「よく分かっているじゃないか、兎薔薇くん。どんなに気をつけたところで人は死ぬ時は死ぬ。いやあ、至言だね」
「獅子噛さん、何のつもりですか」
「そう嫌うなよ、少年。君と私とのゲームはまだ始まったばかりだ」
しまった、構うべきではなかった、八木は硬直した。場の全員の目が八木を貫く。
「やめてください。僕は貴方とゲームなんてしているつもりはありません」
「誰が犯人か分かったかな? 私はまだ見当もつかない」
構わず続ける獅子噛に、八木は焦る。
「どういうことだ、お前ら。ゲームだと?」
低く響いたのは、月熊の声だ。『お前ら』と一緒にされていた。八木は不味い状況に追い込まれていると分かっていながら、どうすることもできない。
それに獅子噛は見当もつかないなどと付け加えていた。これではゲームの優位性が八木にあるようではないか。しかし、それを追求したところで状況が良くなるとは思えない。
「アンタたち、馴れ馴れしく話しかけてくると思ったら……!」
兎薔薇がナイフを握る力が強くなる。
「皆さん、違います。ゲームだなんて、獅子噛さんが言ってるだけで……! 獅子噛さん、どういうつもりですか? こんなイタズラに掻き回すようなことを言って」
「だってそうだろう!」
吼えるような声だった。
全員が不意を突かれたような顔をしている。
「この場の全員、嘘つきなのだから」
まずい、まずい、まずい――。八木は状況が獅子噛の手によって悪い方向へと進められていると分かっていた。分かっていて、何もできない。逆効果になることだけはハッキリしていた。
「う、嘘つきって、どういうことよ」
「まず君」獅子噛が狼狽える兎薔薇に指を向ける。「兎薔薇という特徴的な苗字に聞き覚えがあると思ったら、数年前に逮捕された男の苗字だったな?」
兎薔薇の顔がサッと青くなった。
「あ、アンタ、どうしてそれを」
男の苗字だというのなら、目の前の兎薔薇本人のことではないはずだ。それなのに崩れ落ちそうなほどに狼狽する様が胸に引っかかった。
「テメェ、どういうつもりだ!」
月熊は大きな体を怒らせて立ち上がる。しかしそれも獅子噛の「次は君」と差した指に居竦ませられる。
「君は何かを知っているね?」
「何かって……何だよ」
「昨夜、私と月熊くんと的羽とで飲み交わしていた際、十五年前のホテル火災の話題になったんだが、君はある一点に強い反応を示した。あのホテル火災では死者はいなかった、と言う点だ。私がその話をした時、君は……激昂して掴みかかってこようとしたね。私は殺されると思ったよ。だがそれほどまでの何かを……君は知っている、そうだろう? あのホテル火災では死者は居なかったと言う点に、そこまで思う何かを」
「それは、その……」
月熊は何か反論しかけ、場の全員からの視線に刺されたように押し黙る。
それを良いことに「次は君」と差した先に居たのは、大神狼華だ。
「大神狼華、大神狼華……聞いたことのある名前だと思ったが、先ほどようやく思い出したよ。君は麻取と組んでた警察官の名だね?」
「マトリ?」反応したのは大神では無かった。
「麻取は麻薬取締官のことだ。麻薬Gメンなんて言い方の方がわかりやすいかな? 数年前、麻取が警察の指揮の下で捜査を始めたと言う話を聞いたんだ。その中には、大神くん、君の名前もあった。この島に来た時身分を隠して居たのはつまり、調査のためじゃないかな? 君がよく外を出歩いて居た理由も、ここにあるのではないかな?」
八木は全身に鳥肌が立つ。思い返せば、八木がこの島を散策した時大神と出会ったのは森の中だった。それに鳳凰堂椿殺害の際、外に出て居たのも、全て違法薬物、あるいはその原料となる植物の調査だったのだとすれば納得できる理由となる。
そして獅子噛の告発はどうやら正しいようだ。獅子噛による暴挙に戸惑い、唖然とする者の多いこの場で、ふと大神狼華は獅子噛を視線だけで殺そうとしているかのような形相で睨んでいたのだ。それはたった一瞬の出来事だったが、八木は見逃さなかった。
「偽名を使い、身分を偽り、この島に来た理由も偽り……よくもまあ正義の味方の警察官がここまで嘘ばかりつけたものだ。だがそんな君もあまり役には立たないだろう。潜入調査で最も気をつけなければならないことは、調査対象に身分がバレてしまうことだ。それを防ぐために拳銃や手錠の類は持ってこないことが多い。あの時見せた警察手帳も、君にとっては奥の手だったのだろう。どうかな? 当たっているかな」
大神は黙ったままだ。先ほどの鋭い眼光も今は無い。
「警察としてどこまで使えるのかと聞いているんだ。君の持つ警察としての道具はなにがある? 手錠の一つも無いのか?」
「手錠は持っていません」大神が初めて口を開いた。だが、それに対して獅子噛は「馬鹿だな」と跳ねる。
「嘘つき呼ばわりされてムッとしたのかな? 可愛らしいところもあるではないか。だが君が今までのように自分の持つ手札を隠していたければ、いつも通り『一つもありません』と嘘をつけば良かったのだ。『手錠は持っていません』だと? 手錠『は』? それはまるで、他に何かはあるような口振りではないか。それで、何を持っているんだい?」
獅子噛は完全に場を支配していた。全員の動揺を誘ったくせに一人くちゃくちゃとステーキの切れ端を噛む姿は、正しく場を支配する獣である獅子を思わせる。
大神はきつく閉ざした唇の内側で歯を噛み締めているのがわかった。彼女は少し考える素振りも見せたが、やがてポケットに手を入れ、閉じたバタフライナイフのような何かを取り出した。だが、バタフライナイフと違い、刃が飛び出す機構は見えず、そもそも刃が仕込まれているのはあり得ないことがわかる。それには二つ、丸い穴が空いていたのだから。
両腕の手首を繋いで拘束することを目的とした手錠ではなく、それは両手の指を繋ぐ……指錠だった。
「手錠は無くとも、指錠はある……そういうことか。他には?」
「これだけです」
「さてね……狼女のこの言葉は嘘か誠か」
獅子噛はステーキ肉の最後の一切れを口に放る。彼が口を閉じている間だけ、食堂は静かだ。どうかこれ以上事態の悪化を防ぎたいという思いが、思いだけが八木の胸に吹き溜まる。
だが、獅子噛は最後の肉片を飲み下した後、その口で最後の爆弾を投下したのだった。
「けれど本当に恐ろしいのは、この場にはもう一人、大神くんよりももっと恐ろしい大嘘つきが居ることだ」
大嘘つき。その言葉に誰のものかもわからない視線が食堂内を飛び交い、交錯する。
「漆田くん、これを頼む」獅子噛はナイフとフォークを空いた皿に乗せ、漆田の元へと持ち寄り手渡しする。「わざわざすみません」漆田が一礼し、獅子噛ははにかんで「いやいや、これくらいはさせて欲しいな。この大嘘つきくん」と食堂内に響くほどの声音で告げた。
トン、と絨毯に皿から滑り落ちたナイフが音を立てる。
「は……私めが、何か不手際を?」
漆田は動揺を悟られぬように全身を緊張させる。しかしそれこそが、漆田が珍しく動揺していると周りの人間に伝えているようなものだった。
それがどんなに愉快なのか、獅子噛ははにかむどころかニヤニヤと歯を見せて笑っていた。
「この島に集められた人間は皆、十五年前のホテル火災の際に客だった者たち。これは確かにその通りなのだろう。中には本人が来れず、代理として来た家族の者や、代理と言いつつ潜入してきた警察などもいたわけだが……では、君はなぜここに居るんだい? 漆田くん」
ぱく、ぱく、と漆田の薄い唇が数度開かれようとして、閉じられる。切れ長の双眸は普段より開かれ、その中で瞳がふらふらと泳いでいた。
「その爺さんは主人に雇われた執事だ。あの火災に関係なくてもおかしくないだろうが。なに言ってんだよ、テメェ」
黙りこくる漆田に代わり、月熊が歯を剥いて攻撃的な口調で反論する。
だが、やはり獅子噛はその反論を一笑に伏す。
「わかってはいたが、君も相当な馬鹿だな。私が尋ねているのは『何故十五年前の事故と無関係な人間がこの島にいるのか?』などでは無い、『何故十五年前の客では無い人間がこの島にいるのか?』だ」
「言ってる意味が、分かんねえよ……どう違うってんだ」
「君は鈍いなあ。探偵くん、君なら私の言いたいことがわかるね?」
突然振られ、八木は身を固くする。獅子に首元に牙を立てられているかのような緊張感。
だが、獅子噛の言いたいことは、一つ思い当たるものがあったのは間違いなかった。
口の中で言葉を混ぜこねるが、その思い当たりを口にするべきかという懸念が八木の顎を固めていた。何故なら漆田の視線は既にふらつくことをやめ、八木を見つめていたからだ。それは殆ど懇願のように八木には見えた。
「どうかな? わかるかなあ?」
獅子噛が幼稚園の保父さんのように優しい口調で促してくる。保父さんと違うのは、その言葉には底知れぬ悪意が詰め込まれている点だ。
「こ、この島にいる人たちは……」首筋に突き立てられる獅子噛の牙。それから逃れるように、八木は言葉を吐き出した。
「この島にいる人たちは、潜入捜査として潜り込んだ大神さん以外全員どこかにホテル火災との関係があります。的羽さん親子はホテルの総支配人とその家族として。僕たち招待客は、火災の際に宿泊していた客として。であれば執事として雇われている漆田さんもまた、どこかであの火災と関わっているのでは無いか……と、獅子噛さんは言いたいんじゃないですか?」
「言いたいんじゃない、確信して言っているのだ。探偵くん、何故迂遠な言い方をする? ハッキリと言いたまえよ!」
逃げ場を完全に断たれ、八木は観念する。
「……客として関わりがないのなら、スタッフとしての関わり。そして大きなスカイウィンドホテルには、当然スタッフの数も多い。その中から一人、執事として側に置いているということは、漆田さんは……」
「スタッフの中で、一番事故に関わりが深い人間だった。あ、落としたよ」
獅子噛は勝手に八木の言葉を継ぎ、落ちたままのナイフを拾って漆田の抱える皿に乗せる。今度は漆田は礼を言うこともできないようだった。
「でも、執事さんがあのホテルのスタッフだったなんて根拠、無いじゃない」
自分に利がなくとも、せめて牙を突き立てたいらしい兎薔薇が、震える声で言う。獅子噛は元の席にどっかりと腰を下ろし、表情を崩さないままに「確かに無いね」と吐いた。
「だけど……漆田くん。今日の料理も美味かったよ」
漆田は蒼白の顔面を隠すように、皿を厨房へと下げていく。
その場の全員が、獅子噛によって散々に食い荒らされていた。人格を、秘密を、過去を。
彼は楽しげに全員の顔を見回し、言った。
「ご馳走様」
※
「一体どういうつもりですか」
八木はテーブルを叩いた。問い詰められているはずの獅子噛はどうでも良さげに食後のコーヒーを啜っている。
昼食後、食堂に集ったメンバーは言葉少なに散っていった。大神は去りゆく兎薔薇に「単独行動は危険だ」と告げたが、「これ以上アンタたちと一緒にいたら、アタシがアンタを殺しちゃいそう」とだけ吐き、出て行った。月熊もまた、同様だった。事態は最悪のレールに沿って進んでいく。大神は「私が見ます」と八木にだけ聞こえるように囁き、出て行った。二人の動きを監視するのだろう。
食堂に残されたのは森子と八木、そして目の前の獅子噛だった。漆田が厨房で皿を洗う音が、静かに響く。
「どういうつもりだ、とは?」
「惚けないでください。僕たちが今すべきことは、相互監視です」八木はここで、他の者の前では避けていた強い言い回しで主張する。「僕たちの中に犯人がいるかも知れないのであれば、お互いに見張り合うことが最善です。そのためにはお互いを信じ合うことこそが重要なんです。それなのに……」
「私が、引っ掻き回したと?」
「……そうです」
獅子噛は窓の外に視線を向け、長いため息をついた。太陽はようやく西側に傾き出していた。
「君は頭は回るが、つまらないな」
「は?」
「私はね、こう見えてミステリ小説はかなり嗜む方だ。なんならマニアと言っても良い」
脈略なく話が変わった。八木は威勢が削がれる思いだった。「だから、なんですか」
「まあ聞け。それで読んだ数も相当数あるのだが……読んでる時に私はよく思う、『どうしてみんな殺人鬼がいるのに単独行動をするんだ!』とね。だけどそこからさらに読んだ冊数が増えるとわかってくる。そうしないと殺人鬼が行動しづらいからだということに。登場人物がみーんな膝を突き合わせてお互いを見張り続けるなんて最善の行動をしていると、ミステリとして成立しにくくなってしまうのだと」
「あ、貴方……何言ってるんですか」
八木は頭がクラクラする思いだった。まるで宇宙人と話しているようだ。
「まあもっとも、そこをどう工夫するかという点で作家性が出るとも言える。『殺人鬼のいる中で過ごせるか! 俺は部屋にいる!』なんてセリフも、今日日聞かなくなった」
「つ、つまり、貴方は……今のこの状況を小説なんかと同じだというつもりですか!」
「小説ではない、ここは現実なのだから。小説ではなくゲームと呼ぶべきだ、体感型のね。現実で行われる本物の命を駒にしたゲーム……ただ私はそこに少し手を加えようとしただけだよ。シナリオが円滑に進むようにね」
八木はもう言葉が出ない。それでもどうにかして目の前の男の口を、両腕を、両足を塞がねばならないと確信していた。例え、嘘をついてでも。
「今の発言は……録音しています」八木はポケットからスマートフォンを取り出す。録音などしていない、ハッタリだ。「この島から出てすぐに、貴方の言動を訴えます。貴方は医療機械メーカーの立場ある方です。これをばら撒かれることがどういう意味かわかりますよね、なら……」
「これ以上掻き回すのをやめろと? ハッ、探偵くん。君は何にもわかっていないね」
「何がですか」
「世の中の大体はお金でなんとかできるんだよ。私が何を言おうと何をしようとどう訴えられようと、然るべきところに然るべきお金を然るべき量握らせればみんなニコニコ一件落着なんだ。例えば検事や例えば証人や例えば裁判官にね。それでも動かなければ弱みを握れば良い。誰だって命は惜しいし、誰にだって家族がいるし、誰だって大切な人はいるし、誰にだって秘密はある」
獅子噛は歌うように言う。
「私は若い頃に山を越えたらもう父の医療機械メーカーの会社を継いでほとんど働かずともお金の方から舞い込む生活になってしまったからね、君にも分けてあげたいくらいだ」
吐き気を堪えて、八木は言う。
「貴方の言葉の『誰だって』からの部分は同意ですよ。そしてそれは貴方にも当てはまりますよね? 貴方だって命は惜しいし、家族もいて、大切な人も……」
「居ないね。命は惜しいが、それだってお金でどうとでもなる。しかし探偵くん、ばら撒くつもりの音声で脅迫なんてしていいのかい?」
「貴方にだって秘密はある!」
それは殆ど叫び声だった。
「……例えば?」
「昼食の席で貴方はみんなの言わなくて良いようなことを論いました。ですが、そう言う貴方はどうなんですかね、獅子噛さん。貴方は何故十五年前あのホテルにいたのですか? 若い頃には会社のトップだったならば、何の変哲もないチェーン店のホテルを利用する理由なんてありません。そして今回、貴方は何故この島に来たのですか? ただの暇つぶしだと言うにはこの島には娯楽が少ないのではないですか? そして最後に、貴方は昼食の席で一つ、重要な点をはぐらかしました。それは何故大神さんが麻取と繋がっていると知っていたかです!」
八木は一息で叫んだ。息を荒げている自分が恥ずかしくなり、唇を結ぶ。
「貴方にだって、知られたくない秘密はあるんでしょう。獅子噛さん」
言われ、獅子噛は初めて間抜けらしいキョトンとした顔を見せた。
よほど虚を突かれたのか、らしくもなく硬直している。
そしてキョトンとしたそのままの顔で、獅子噛は。
八木の持つスマートフォンを手に取りそのマイクに向かって、言った。
「私と的羽は旧知の仲でね、的羽がこの島で栽培されていた薬物の原料となる植物を私が本土で加工して売り捌いていたんだ。全国にチェーン展開しているスカイウィンドホテル、その内のまさに火災が起きたあのホテルはね、いわば私と的羽がホテルの客として来た買い手に裏で薬物を売るための隠れ蓑さ。だからあの時あのホテルに私と的羽はいた。いやあ当時の私は今ほど財源がなくてね、助けられたものだよ、全部焼けてしまったがね。次にこの島に来た目的だが、私はずっと言っているはずだ、退屈していたと。そんな折に私の元に的羽が連絡を寄越してね、この島で面白いゲームが始まるかもしれないと言われた。だからこの島に来た。少し見てつまらなければすぐに帰るつもりだったがあの事件が起きた、だからここにいる。大神くんの正体を何故知っていたか? 以前から私たちの周りをずっとコソコソ嗅ぎ回っている者がいることは勘付いていた。探りを入れて名前も入手できたが悔しいことにそれまででね、顔もわからないのに偽名を使われてしまったから島に来た時はわからなかった。だから昨晩の事件で名前を聞いた時は驚いたよ、柄にもなくね。これで君の言う私の秘密は全て明かしたわけだが、他に何か聞きたいことはあるかい? 無さそうだね。ならば私の話はこれで終わりだ。以上!」
八木に、スマートフォンが返される。
唖然とした。それを隠すこともできないほどに、八木は唖然とした。唖然とするしかなかった。
獅子噛はコーヒーで口を湿らせ、「温くなってしまった」と顔を顰めてぼやいた。
スマートフォンで録音などしていないことがわかっていた? いや、そうでなくともあんなに大声で話せるものだろうか。一瞬の警戒も見せず、躊躇いもなく。まさか、獅子噛は今の発言が外に漏れたとしても問題ないと言うのか? 八木は目を見開いたまま起こったことを理解しようとする。だが頭の中でまとまったそれは、目の前の男を表す二文字だ。
邪悪。
「さて、私はもう行くよ」
獅子噛は立ち上がり、カップをそのままに食堂の扉へと歩いていく。
八木はその背中をただ黙って見送ることしかできなかった。
八木の思い描いていた絵図が、音を立てて崩れていく。そもそも獅子噛は宣言したのだ、それを崩すと。
行動を起こさなくてはならない、獅子噛は危険だ。危険すぎる存在だ。
「次のステージで会おう!」
食堂の扉は閉められた。
※
焦燥感に八木は焼かれていた。
自室のデスクに向かい、備え付けのメモホルダーからひったくるように引き剥がしてはボールペンを走らせる。
散らばるメモの中の一枚に大神が書いた鳳凰堂殺害の際のアリバイ表が見えるのは、八木は事件の整理を行なっているからだ。
何が起きて、何が起きようとしているのか。
おそらく獅子噛の言う通りだろう、次がある。次とは八木の予想のつかない何かだ。
だからこそ対策を練らないといけない。自分はどうするべきか。どう動くべきか。どう振る舞うべきか。
メモの海に脳と眼球を鎮めて考える。
自分達の中に、殺人者とは別の強い悪意を持つ者がいる。
彼が何をするのかが全くわからない。
「クソっ!」
海に今度は拳が叩き込まれ、波紋のような衝撃波にメモは波を打つ。
綺麗な直線と曲線で描かれた手書きの館の見取り図が一枚床に落ちる。
それを取ろうとしてふと、八木はベランダへと続く窓扉に人影が揺らめくのを視界の端で捉える。顔を上げて見れば、森子と大神が外で何やらを言い合っている。
しかし特段驚くことも無い。それは八木の指示だった。
大神に獅子噛の告白を伝えておいて欲しい。八木は部屋に戻る前に頼んでおいたのだ。
できることなら、獅子噛をその情報によって拘束してほしいという魂胆もあったが、その望みは薄いだろう。八木は新しいメモを引き剥がしながら思う。獅子噛の大暴露はあの場に大神がいなかったからこそできた可能性があるため、伝えられた事を知り何かしらの証拠隠滅に走られたらと思えば、その情報を活かすのならば島に帰るまで隠しておくべきだ。
それに大神は昼食の際に持っている物は指錠だけだと言っていた。それが事実ならばそれを使って仕舞えば殺人事件の犯人に使うこともできない。大神はすぐに拘束に動かないだろう。
ならば、やはり獅子噛は脅威だ。
八木は警戒のレベルを上げ、立ち上がり部屋から廊下へと出る。
その時、中央ホールへと向かおうとした顔を向けた八木の目に一瞬人の姿が映る。中央ホールを越えたさらに向こう、女性用の部屋……いや、鳳凰堂の部屋へとその人影は消えたように見えた。確かに殺人現場に人が入っていった。
「は……?」
八木はほとんど走るようにして鳳凰堂の部屋へと向かう。毛足の長い絨毯に足が沈み、走ると不快だ。大きく縁を描く回廊があるため一直線に向かえないことにすら、八木の胸は焦れていく。
そうして女性用の部屋が並んだその廊下に立ち鳳凰堂の部屋を睨みつける。ゆっくりとにじり寄り、ドアノブを捻る。ガチリ、鍵がかかっている。昨晩捜査をした時のままなのか、それとも中にいる人物が施錠したのか。
今度は強くドアを叩く。もしも中にいる誰かが捜査などでまともな理由で中にいるのならば、呼びかけに応えるはずだ。
ドアを叩く、叩く。叩く――。
返事は、無かった。
「大神さん!」
八木はすぐ隣の大神の部屋の扉を叩く。かつては森子の部屋であり、今は交換された104号室。防音である以上呼びかけなど無意味のはずだが、忘れて叫んでしまう。「大神さん!」
返事が無いのは当然だった。大神は森子と外にいる姿を見ていたのだから。
八木は俯き膝を折るも、すぐに行動を開始する。次に叫んだ名前は漆田だ。マスターキーは今も持っているのか。
「漆田さん! 漆田さん聴こえませんか!」
104号室から離れれば、中の人物がその隙に逃げ出すかもしれないと思うに至り、八木はその場から叫ぶ。「漆田さーん!」それでも誰にも届かないらしい。舌打ちをしてその場から走り出す。漆田なら今も食堂か厨房にいるかもしれない、出来るだけ隙は作らないようにしなくては。
「漆田さん!」
食堂の扉を蹴破るように開いて中に響くように叫ぶ。視線は誰かが出入りすればわかるように女性用の部屋が並ぶ廊下の出入り口に向けたままだ。
「八木様! いかがなされましたか!」
運良く漆田は厨房から顔を出した。
「鳳凰堂さんの部屋に誰かが入っていきました、心当たりはありませんか!」
「い、いいえ」
「ならば入ったのは犯人です!」
漆田の顔が事態を把握して引き締まった事を確認すると、八木は再び廊下へと戻る。後ろから漆田も走り後を追う。彼の足は予想以上に速く、再び103号室の扉を視認したのは二人が同時だった。
バタン。カチッ。
二人は思わず顔を見合わせていた。漆田を呼びに行っているうちに再び開かれたらしい扉は、今まさに目の前で閉まり、鍵までかけられたのだ。
「……漆田さん!」
「あ、ええ。すみません!」
八木の声に漆田はようやく弾かれたように扉へと飛びつくと、胸元のポケットから刻印のないカードキー、マスターキーを取り出してリーダーに翳す。再びカチッと鍵が開く音が聞こえると同時に開いた。しかしそこには。
「……僕たち、確かにここに人が入るのを見ましたよね」
「そのはずです」
誰も、居なかった。
人影どころか部屋の中は何も変わっていないように見える。唯一目立って変わっているのは絨毯に撒かれた血が乾ききっていることぐらいだろうか。
「あの……」
二人の背後から声がかけられる。振り向けば、入り口に立つのは森子と大神だった。
「漆田、何かありましたか? 先程大声が聞こえたのですが」
どうやら二人は先程中へと戻ったらしい。その際二階にてドタバタと走り回る二人を見て不審に思ったようだ。
八木は二人に今起こった事を伝えた。
「それは確かですか」
「ええ、一度目の人影はともかく、二度目の扉が閉まるところは漆田さんも一緒に見ています」
大神に視線を向けられ、漆田も「確かです」と首肯する。
「あれ」
八木は改めて部屋を見回すと、一つ異変を見つけた。ベランダへと続く窓扉の鍵が開いている。
「昨晩は閉まっていましたよね」
大神と森子は頷く。
「どうやら、犯人はベランダから外へと逃げたようですね」窓扉を開くと、海の匂いを含んだ風が部屋へと入り、八木の脇を抜ける。
「それは難しいんじゃないかな」
風の先には五人目の訪問者が立っていた。開いたままの扉の先の廊下から顔を出したのは獅子噛だった。八木は思わず身を固くしてしまっていたが、その場の獅子噛以外の全員が同じだった。
森子から獅子噛の告白が伝わっているはずだったが、大神は動かない。八木の考えは当たっていた。内心で舌を打つ。
「難しい、というと?」
警戒しつつも八木は尋ねる。
「君も馬鹿だな、私の姿を見ればわかるだろう」
言って、獅子噛は全身を晒す。普段の気取った高価そうなスーツではなく、バスローブ姿だ。
「獅子噛様、大浴場をご利用になられたのですか」
「君は探偵少年より賢いね、お嬢さん。今日は何かと動き回って汗をかいたから早めに風呂をいただいたよ」
それとこれとで何が関係あるんだ、と八木は睨む。
「まだ分からないのかい? 私はつい先程風呂から上がったんだ。そして脱衣所には光を取り入れるために大きな磨りガラスがあるんだ。だったらもし君の推理が当たっていたなら、私は見ていなくてはならないものがある。さて、なーんだ」
「……逃げる犯人の姿、ですか」
「正解。脱衣所はこの部屋のすぐ真下でね、防音加工もされてないから体を拭いたり着替えたりしている間に君達が大騒ぎする声が聞こえてきたんだ。まあ君たちは若いからホールでフットボールをしていてもおかしくないと思って無視してたんだが、用事を済ませて出る頃には君たちはこの部屋に突入していた。その間擦りガラスに目立った人影はなかった。すなわち、犯人はベランダから出ていない」
「そんなわけ……」
「だったら君の見た人影はなんらかのダミーだ。犯人はこうして人の目を引いている内にどこかで何かをしている」
「獅子噛様、それはあり得ません。私と八木様はこの扉に鍵がかかる音を聞きました。その少し後に私たちは鍵を開いたのですから」
漆田の証言にようやく閉口し、獅子噛はしばらくして「それは面白いね」と呟くのだった。
念のために八木と森子は的羽天窓が軟禁されている部屋の防犯ブザーを確認したが、特に問題は無かった。的羽天窓は外に出ていない。
※
時刻は【十九時】。
不死鳥館二日目の夜。
安否確認のために夕食は的羽天窓を含めた全員で食堂にて行うことになった。
前日と違い、パーティホールが使われないのは厨房に漆田を一人にさせるべきではないと八木が提案したというのもあったが、そもそも煌びやかな部屋でパーティなどという気分では誰一人無かったからだ。
八木は先に食堂に着き、他の面々を待つ。
結局何も対策は打てていない。このままでは獅子噛の言う次のゲームが始まるのも時間の問題だ。いや、もうすでに起こることは全て起こりきっていて、手出しが出来ないところまで来ているのかもしれない。八木は不安になりながら、食堂の扉を睨む。
最初に現れたのは森子だった。一礼して厨房へと潜る。
程なく月熊が現れ、こちらに目も合わさずに乱暴に着席した。
やがて獅子噛が入室し、「何かわかったかい?」と小声で尋ね、返事も聞かずに座る。
兎薔薇と大神はほぼ同時だった。お互い何も話さず着席する。
あとは天窓と、彼を迎えに行った漆田だけだ。
だが、現れたのは漆田のみだった。
「旦那様は未だ仕事が終わらず、十五分ほど遅れるとのことです。私には厨房での最後の作業もあるため、一人戻ってきた次第です」
「防犯ブザーは」
「回収しております。また旦那様が部屋に戻る際に同じように取り付けるつもりです」
だとしても、八木は思う。一人にさせるのは危険ではないだろうか。
しかし天窓の容疑は元より強いものではない。それに他の全員がこの場にいるならば、少なくとも天窓が何者かに襲われる可能性は少ないだろう。
森子に続き漆田は厨房へ潜ると、すでに完成直前まで調理されていたのであろう、カレーの匂いが次第に食堂にも漂い始める。昼の料理もまだ腹に残っているような気分の八木には、少し気持ち悪かった。食前の紅茶とコーヒーを運ぶ森子が目だけで八木に状況を訪ねてくる。八木は小さく首を横に振って答えた。
「お待たせしました、皆さま」
漆田の言った通り、十五分ほどして食堂の扉が開かれた。立つのは的羽天窓、相変わらず身だしなみに乱れはなく、薄い笑みを浮かべる彼はたった数時間ぶりの再会だったが、そんな気がしない。
「八木様、僕の容疑を晴らすことは出来ましたか?」
「いいえ。未だ調査中です」
的羽天窓は監禁される代わりに八木に容疑を晴らすことを依頼していた。天窓にとっては八木の返事は落胆すべきもののはずが、薄い笑みはそのままに「そうですか」と八木の隣を過ぎていく。
「皆さま、申し訳ございません。このような事態ですのでお食事のメニューは本来より変更させていただきました」
天窓は言って、頭を下げる。形ばかりの礼だ。
彼の言う本来とは、前日のようなコース料理のことだろう。人が残酷に殺された場で呑気に大きな皿に盛られた少量の絢爛な料理など、確かに食指が動かない。
結局運ばれてきた料理は漂う匂いから連想できたカレーだった。パンとライスを選べたために八木はパンを頼む。本当なら何も要らないくらいだったが。
最早この中にマナーも何も無いのだろう、運ばれた順に口をつけ始めていた。皿と食器が擦れる音、そしてカレーと米を混ぜ捏ねる、ねちねちという音だけが食堂に響く。
お互いがお互いを疑い合う疑心暗鬼、それがこの空間には完成してしまっていた。主張が強いはずのカレーは舌の上を滑るだけで味など全くわからない。
「これからのことを話し合いましょう」
泥のような沈黙を破ったのは的羽天窓だった。
「どうでしょうか、定期船が来るまでまだ数日ありますが、その間昨日と同じく一箇所に集まって相互監視をするというのは」
「それは無理」反対したのは兎薔薇だ。「この人たちと顔を合わせてるなんて絶対無理。犯人がいるかもしれないとかじゃなくて、この人たちが無理。今みたいに顔を合わせるのもこれで最後にさせて」
無理、無理と重ねて言う彼女の目はほとんど敵対に近い意志が込められていた。
「そうですか」天窓は特に深追いはしない。「他に以降個室にて過ごすと言う方はいますか?」手を上げるものは居なかった。
「では次に、僕の待遇についてです。現時点で他に鳳凰堂さんをあのような状態に出来た可能性の強い方が居るとすれば、私とその方の待遇を入れ替えるべきだと思います。簡単に言えばその方の個室にブザーをつけましょうと言うことです。八木さん、他に可能性のある方は居ましたか?」
不意に名前を挙げられ、一瞬虚を突かれた顔をしてしまう。
「……まだ、わかりません」
「そうですか、では防犯ブザーは僕の部屋の扉に」
やけにあっさりと引き下がるものだ。訝しむが、するだけ無駄だろう。
そしてその言葉をもって聞きたいことと言いたいことは終わったらしい。天窓も黙り、また泥が満ちる。
「……身体は」不意に森子が呟く。「鳳凰堂様のお身体は、どこにあるのでしょうか」
「さあね、棄てたのではないだろうか。ちょうどすぐそばに海崖があるのだから」
※
時刻は【二十一時】。食堂から帰る人の中に言葉は無い。
今度は晩酌をする者も居ないらしく、片付けをする漆田を残して全員が退室する。
ふと、部屋へと戻る八木の肩をとん、と指が叩いた。視線を回せばそれは大神だった。その後ろに森子も居るところから、この三人に共通する何か、おそらくは昼告げられた大神の一晩中個室の扉を監視するという話だろう。八木は神妙な顔で「お願いします」と言う意味を込めて頷いた。
大神は伝わったことを確認すれば、森子にも頷きを持って意思を伝え、「私はこれから仕事を済ませてから部屋へと戻ります」と言い去っていく。
八木も個室へと戻り、シャワーを浴びる。今度は漆田が扉を叩くことも無かった。相変わらずの嫌な妄想がシャワーの水滴が床を叩く音に引かれては頭の中をぐるぐると回り出す。
汗を流した途端、眠気が八木を襲った。昼頃に睡眠をとったとはいえ、まともに眠れていない。その分の疲れが一気に押し寄せてくる。まだ眠るわけにはいかないと頭を振り、体を拭いて寝巻きへと着替える。
空気を入れ替えようと窓扉を開くと、遠くから海の匂いと波の音が聞こえてきた。夜空を見上げれば、ひどく細く痩せた月が口角を上げて笑っている。明日は新月、月明かりすらこの島には降り注がない。考えることに疲れを感じ始めたのは、探偵として失格だろうか。
喉が渇いた。数時間程経ち、月を見上げる八木はついでに水を飲もうと思い立った。備え付けの水差しは既に空であったため、デスクから腰を上げて厨房へ向かおうと個室の扉を開いた。
館は静かで、照明が薄く落とされ影が濃くなっている。
だが、視線だけは感じた。大神だろう、反対側の女性用個室が並ぶ翼の奥は遠く見えなかったが、おそらくはブザーの音を聞こうと、あるいは不審者の姿を見ようと、大神が神経を尖らせているはずだ。
ならば、この姿も不審に思われかねないな。八木はどう言い訳をしようかと考えつつ、食堂へと向かう。
しかし、早く用事を済ませようと八木の前で扉が開いた時、その先に居たのは八木の予想していなかった人物だった。
※
「月熊さん?」
「お前……八木か」
八木の目の前に現れたのは月熊大和であった。向こうも八木の存在は予想外だったらしく、目を丸くしている。
月熊と二人きりになるのも前日以来だ。このような状況でなければその機会も多かったかとふと思ったが、目の前の大男と話が合うとも思えない。
「何してんだ、こんなところで。水でも飲みにきたのか」
「ああ。はい、そうです。月熊さんは?」
「俺は酒を探してるんだ。疲れてるから無くても眠れる気がしたんだが……ダメだったな」
そう言って厨房の棚を漁る月熊に、八木は少し警戒する。勘付かれないようにしたつもりだったが、月熊は動きを止めてその身を八木へと向ける。その手にはワインボトルが握られていた。
「お前、あの女を俺がやったと思ってんのか?」
「い、いえ、まさか」
最悪、ボトルは八木の脳天に振り下ろされるかもしれない。そんな考えも浮かび、うっかり後ずさってしまう。しかしそんな八木に月熊は。
「かもしれねえな」
と、くくっと笑った。
「かもしれない、とは」
「俺の前では人がよく死ぬんだよ」キャップ式のワインを開け、適当なグラスに注ぐ。そしてまるで苦い薬でも飲むかのようにぐっと飲み下しては「ああ」と息をつく。「親だってガキの頃に死んだしな。それだけじゃない」
「それって、昼間に獅子噛さんが言ってたことに関係あるんですか。死者ゼロ人のホテル火災について、何かを訴えていたということと……」
「あの事故には、死んだ人間がいた」月熊は再びドボドボとグラスに赤い液体を注いでいく。「少なくとも俺はそれを知っている」
「その方は月熊さんのご家族だったんですか」
「いいや、赤の他人だよ。だが、他人の死を悼んじゃいけないってこたあないだろ」再び苦そうに飲み下す。「お前も飲むか?」ボトルの口を差し向けられる。「いえ、僕は……」
「ともかく、あの事故には死人がいた。幸いにも死者ゼロ人でした、なんて……俺は絶対に認めねえ」
そう言い切る月熊の目には、どこか怒りを纏うかのように眉が寄っていた。
八木は十五年前のホテルを思い返していた。五歳の頃の朧げな記憶だったが、彷徨う八木と数回話した鳳凰堂椿に似た女性とは、あの時何があったか。何かを言ったような気がするし、なにかをしたような気がする。朧げな記憶の中で、あの人の微笑みだけが印象に深い。
「俺はもう戻る。お前は?」
「あ、僕ももう戻ります」
八木は手に持ったままのグラスを置いて、月熊を追うようにして厨房を、そして食堂を後にした。
個室の前までたどり着いた時、扉に手をかけた月熊は言った。
「お前、あんまり余計なことするなよ」
「余計なこととは」
「決まってんだろ、探偵ごっこだよ」
扉が閉められる。このやりとりも、大神は見ているのだろうか。
情けない思いのまま、八木はようやくベッドに潜り込む。
今日もまた、あの悪夢を見るのだろう。
不死鳥館の二度目の夜は、一度目と違って静かに過ぎていく。
※
三日目の朝。
「ぅ、ぐ。ぅ……あぁっ!」
八木はねっとりとした汗の不快感に叩き起こされるように意識を覚醒させる。つい先程目を閉じたはずが、一瞬のうちに太陽と月とが逆転していた。
「はーっ、はーっ。はぁ……」
八木は何度も見る悪夢を振り払うようにしてベッドから這い出た。体のどうしようもない怠さに引き摺られつつも、スマートフォンの時計を確認する。現在【朝の五時】、それでも五時間は意識を落としていたのかと頭を摩る。疲れをまるまる持ち越したようで眠った気がしない。
朝の五時、いつもの日常ならば二度寝のために布団をかぶり直す時刻だ。だが今は非日常の中であり、そもそもベッドは汗に湿って再び体を横たえる気が起きない。
喉が渇き、喉の肉が張り付いている。水を……と思い、そういえばと昨日寝る前に厨房で起きた月熊とのやりとりを思い出す。「俺の前ではよく人が死ぬんだよ」それは、八木も同じだった。
悪夢に痛む頭を振り、喉の渇きに厨房へとも思ったが面倒だと判断して洗面所の蛇口を捻り、手ずから水を飲む。
大神は本当に一晩中見張りを行っているのだろうか。もしかしたら、うっかり眠り込んだ大神の知らないところで的羽天窓の自室の扉は開かれ、殺戮が行われているかもしれない。ふと不安になった八木は、せめてブザーの状態を確かめるべきだと頭の中で結論づけた。
自室から出て、中央ホールへと向かう。その道すがら大神の個室へと視線を向ければ、扉は未だ隙間を開けていた。視線もおそらくはこちらへと向けているのだろう。手でも振ってやろうかと思い、控え、八木は彼の部屋の前へと歩み寄る。
防犯ブザーは、変化がなかった。
ガムテープにも異常はなく、的羽天窓は昨晩夕食後に部屋に戻ってからは出ていないと言うことが断言できた。
ならば問題は無いか、と八木は中央ホールへと向き直る。だが、問題はあった、確かにあった。目が合った。
八木は目が合った。
中央ホールに置かれたテーブル、その下に彼女はいた。
まるでかくれんぼをしているかのように、片頬を絨毯につけて、こちらを見ている。
しかし、ただ一つの点から、彼女はかくれんぼをしているわけでは無いことがわかった。
テーブルの下にあったのは、彼女の頭だけだったからだ。
この島から出たことがないと言っていた少女。
鳳凰堂椿の死を誰よりも悲しんでいた少女。
的羽森子の頭部だけが、八木を見上げていた。