第一章【裏】人か神か化け物 第二部
森子の顔は、今まさに俯かんとしていた。
時刻は二十二時、月熊が仕事をしていた森子を捕まえ、「酒が飲めるって聞いたんだが」と言い、ならばと予定通り食堂に案内したところ、既に先客として父、的場天窓と獅子噛が酒を飲み交わしていたのだ。
「……部屋で飲んじゃまずいのか」
聞く月熊に「はい、お酒類のお部屋への持ち込みはご遠慮いただいています」答える森子。チッ、と舌を打つ月熊。そしてそれは獅子噛の耳に届いたようで「ご挨拶だな、月熊くん」とわざわざ声をかける。天窓は無視していた。
月熊もまた、獅子噛の声かけを無視して一番遠い席につく。
「お酒は日本酒とワイン、どちらがよろしいでしょうか。他にもこのようなものをご用意しています」
森子は月熊の前にメニューを差し出して尋ねる。メニューに目を通さずに「なんでもいいから日本酒。ツマミも適当でいい」とぶっきらぼうに答える月熊。森子は一礼して下がり、厨房にて先の二人のための料理を作っている漆田に伝える。
なんだか、疲れる一日であった。森子は小さくため息をつく。十七年の中で初めてのことだ。嬉しいことも多かったが、気を揉む場面も多かった。気のおける人の前だけで見せるその表情に、老執事は笑い、囁いた。
「月熊様への給仕が済みましたら、食堂の外で少しお話ししましょう」
差し出す皿には、天窓と獅子噛への酒の肴が盛られていた。
しばらくして、月熊への給仕も済んだ頃。漆田は厨房から姿を現し、主人である天窓の耳に何やら囁いた。それを持って天窓は小さく頷けば、森木の下に歩み寄り「お嬢様、お手伝いをお願いします」と告げる。
今日、この給仕以外に仕事があっただろうか? 首を傾げながらも漆田についていく。
連れられた先は、中央ホールだった。
「漆田、私は何を?」
振り向く漆田はやはり、穏やかな表情だった。
「本日はお疲れ様でした、お嬢様」
「あれ、漆田、お手伝いではないんですか?」
「ええ。本日の業務は私にお任せください。して、どうでございましたか? 本日は」
森子はようやく、漆田が自分のために対話の時間を設けてくれたのだと気づく。本当に、人のことをよく見ている。
「……とても、素晴らしい一日でした」本心から、森子は答える。「漆田、聞いてください。私、友達ができたんです。友達になろう、そう、言ってくれたんです」それは確かに、誰かに聞いて欲しくてたまらない話だった。溢れる気持ちを抑え込もうとするせいで、言葉がうまく紡げない。
「それは……それは、おめでとうございます。お嬢様」
「そして、その……その方は、私に言ってくださったんです。『この島での滞在が終わったら、今度は私と共に外で遊ぼう』と……その、向こうで」
嬉しい出来事だったのに、嬉しい言葉だったのに、森子は次第に気持ちが重たくなっていく。【外】という言葉を思い出すだけで。たったそれだけで。
「きっと、お父様は許してくれません。私は、この島を出ることを一度も許していただいたことはありませんから。私とその方の関係は、きっとこの島でだけのことです。せっかく、せっかく……叶ったというのに」
重くなった想いは、思い出すらも沈めていく。確かに抱いたその希望に、黒い影が差していく。
「こんな、ことならば……」
ふと、口をついた言葉。しかしそれは、漆田が肩に乗せた手によって防がれた。
「森子お嬢様、貴方が今までの経験からそう考えてしまうのは仕方のないことです。私も同じ立場なら、きっとそう思うことでしょう。ですが、憶測だけで自分の気持ちを決めてはなりません。それに、どうであれその方はしばらくこの館に居られるのです。その間、どんな結果であろうと良い思い出だったと思える交流をなさってください。面倒な仕事は、この老いぼれに任せて」
顔を見上げる森子に、漆田はウインクをしてみせる。小さな頃から、思い悩む森子を慰めては、その仕草を見せるのだ。
「私は天窓様の僕ではありますが、お嬢様の味方でございますから」
「……ありがとう、漆田。気が落ち着きました。ですが、皆様の前でお手伝いとして名乗っている以上、貴方のお手伝いは今後も続けさせていただきます」
「わかりました、お嬢様。して、お友達とはどなたの事でしょう? 八木様でしょうか」
「いいえ、違います……ですが、内緒です」
「おや、手厳しい」
「ふふ……ん、何故八木様だと?」
引っかかるものがあり、漆田の言葉尻を捉えて尋ねてみる。何故八木の名前がここで出てきたのか? 問えば漆田の顔に彫り込まれた皺が「しまった」と言いたげに深くなる。
「実は、お嬢様がこの機会にお友達を欲しがっている、と……」
「漆田、そのことを話したんですか?」うっかり、取り乱しかけてしまう。流石の森子でも、私お友達が欲しいの、と他人に臆面もなく言えるほど厚顔無恥では無かった。純真無垢な幼い少女ならまだしも、森子はすでに思春期すら折り合いをつけ終わっていた。宿泊客が訪れる前に漆田に漏らしたそれだって、かなり言葉を選んだ遠回しなものだった。今回のそれだって、鳳凰堂が友達になろうと言ってくれたからいいものの、もしそれがなければきっと今も森子はもじもじ足踏みをしていただろう。それなのに他人に知られてしまったと思えば、顔が熱くなるのを感じざるを得ない。
「ええ、お嬢様のためを思い、つい」
「ついって、貴方……」
悪びれもせず白髭の下から舌を出す老執事に、拳を握ってしまう。
だが、漆田は「つい」と言いつつも、いざとなれば踏み出せないであろう森子の後押しをしたかったのだということはわかっていた。だから森子は小さくため息と共に怒りを吐き出した。
「でも、大丈夫です。もう、その方を見つけましたから」
「それはそれは……本当に、おめでとうございます」
言わずもがな、鳳凰堂のことだ。森子は目の前の執事に微笑むと、背後の視線に気づいてそこに視線をやれば中央ホール上階の回廊に八木がいた。八木がいた。聞かれていた。聞かれていた! いつの間に! 森子は心臓が飛び跳ね、顔面に熱が戻る。「や、八木様? いらっしゃったのですか?」
「いやあ、すみません。寝る前に少し館内を歩こうかと思いまして」
整った顔立ちの青年は何も聞いていないというように階段を降りてくる。
しかし、八木にはすでに森子の話が通っている。森子は自分が挙動不審になっているだろうことを自覚し、それを隠そうとし、やはり挙動不審になっていた。
「そ、そうでしたか。何か、足りないことなどはございましたか?」
目の前まで歩み寄る八木の応対に集中しようとすると、二人に漆田は「失礼」と告げそそくさと去っていった。森子は逃げるようなその背に文句をぶつけてやりたい気持ちを堪える。
「ああいえ、特にありません。快適に過ごさせて頂いてます」
それを聞いて森子もまた、「そうでしたか、では」と逃げようとした。少しばかり失礼だとは分かっていたが、少し落ち着く時間が欲しかった。
しかし逃げようとする森子を見透かしたか、八木に呼び止められた時は再び背筋が跳ねてしまった。
※
「はあ……」
森子は漆田によって与えられた余暇の中シャワーを浴びていた。
漆田はおそらく、森子の気持ちを俯かせまいとひょうきんを演じたのであろう、優しい人だ。
対して……。
その先にある名前を、森子は振り払った。漆田、鳳凰堂、せっかくいろんな人によって元気づけられたのだ、自ら落ち込むことなど無意味にも程がある。
それでも考えまいとすればするほど、その名前が浮かんでくる。
的羽天窓。
森子の父だ。
森子は父とあまり仲が良く無かった。それは決して、不仲というわけではない。あえて言えば無仲。没交渉と言った方がいい。
昔から、森子の姿が見えていないような振る舞いだった。簡単な食事を森子に与えた後は、自らは仕事のためと書斎か自室に篭りきり。
幼い森子は、それでも自分は親に愛されているのだと思って……いや、思いたくて、父が姿を見せるたびに声をかけた。今は仕事が忙しいだけで、いつかきっと落ち着いたら親らしく遊んでくれる、話しかけてくれる、笑いかけてくれる。
幼い時分だ、その気を引くために選べる手段は少なかった。喚いて泣いて壊して叫んで。今の森子ならまともな親だってそれは不快に思われるだろうことは分かっているが、当時はそれが精一杯だった。
だが、そのどれもが父に通じなかった。まるで父と自分では話す言葉が違うのかと思うほど。
そして――それは、真だった。
言葉が通じていなかった。
そもそも、教えてもらっていなかった。
やがて、漆田がこの島に来た。とても古い記憶ゆえに、何歳のことかはわからないが、漆田が来たことで少なくとも少し救われた想いだったことは覚えている。
漆田は森子に言葉を教え、勉強を教え、礼儀を教え、遊びを教え、本を与えた。
それからだ、この島は閉ざされていて、その外には世界が広がっていると知ったのは。
「おとおさん、わたしもそとにいってみたい」
ようやく身につけた言語で天窓に初めて頼んだあの日。しかし天窓はただ一言。
「書斎に入ってきてはいけないと教えなかったかな」
とだけだった。
あの時、私は泣いたんだっけ。それとも泣かなかったんだっけ。熱いシャワーが森子の意識を記憶の底から引き上げる。
シャワーを止めて脱衣所に出る。脱衣所から出て、寝巻きに着替える。大丈夫、大丈夫。明日にはこんな気持ち、忘れてる。
使い慣れたベッドに体を預け、ベッドサイドの明かり以外を消してしまう。大丈夫、大丈夫。
明日は鳳凰堂様と何を話そう。
ああ、鳳凰堂様じゃなくて、鳳凰堂さんじゃなくて、椿ちゃんだっけ……。
森子は沸いた笑いを枕に染み込ませて、目を閉じる。
なのに、胸の中で現在の希望と過去の辛い経験が混じる未来への不安と呼ばれるそれは、いつまで経ってもぐるぐると回り続け、眠りの闇へと連れて行かない。
※
いつまでそうしていただろうか。
何度寝返りを打っても胸の中の不安感は攪拌されるだけで、次第に喉の渇きと汗ばむ身体の不快感もまとわりついてくる。
せめて、何か飲もう。森子は思い立ち、ベッドから身体を起こした。
他の客室にはお茶などが用意されているが、森子や漆田は自室となる部屋に用意はしていなかった。食堂に向かうべく、森子は廊下に出る。
流石に、深夜である。もとより並ぶ部屋は防音とは言え、灯りは明度を落としつつも消されていないとは言え、そもそも自分の家とは言え、無音の館には慣れないものがある。
早く用を済ませて寝てしまおう。足早に森子は中央ホールの上階廊下を通り食堂へと向かう。
扉の前まで着き、ノブに手を伸ばしたその時。
「――さま」
ビク、と伸ばした手が跳ねる。声が聞こえたのだ。背後からではなく、扉の奥から。誰かが食堂にいる。
防音となっているのは客室のみ。だから食堂からはこうして声が響くのだろう。森子は不穏なものを感じ、引っ込めた手の代わりに耳をドアに添える。
「――どうか、お考えください。ご主人様」
漆田だ。そして、ご主人様ということは、相手は父、天窓か。
「何度も言わせないでくれるかな。森子は私の娘だ、娘のことは私が決めるよ」
「ですが、お嬢様はもう十七歳でございます。自由はお認めになるべきかと。せめて、島の外へ出ることくらいは」
「まだ、十七だ。十八でもなければ、二十でもない。十七だ。教育は君が勝手にやっているが、それでもまだ幼い」
「しかし……それでも簡単な物事のみです。それに高等教育となれば、私でも行えません」
「別に義務ではないのだから、良いだろう。幼い少女を解き放つには、世界は危険すぎる」
世界は危険すぎる。それは、何度も外の世界をねだる森子に父が放つフレーズであった。だが、森子にはどうしても、それは父が娘を守るためのものとは思えなかった。
「私には……ご主人様がお嬢様を守ろうとしているようには思えません。身の回りのお世話を私に任せ、お嬢様の声に耳を傾けない貴方様が、そのように思うとは」
食堂の外で、森子は目を見開いた。漆田もまた、そう思っていたのか。
「ご主人様、貴方は、お嬢様に何をさせようと――」
ドン。
食堂の中からくぐもった打撃音が聞こえた。漆田の言葉を、天窓が何かを叩いて遮ったのだろう。
「漆田。君はいつから僕に物申せる立場になったのかな」
「……申し訳ありません。出過ぎたことを」
「忘れないで欲しい。君は、僕に借りがあることを」
「はい。忘れたことなど、一度もございません」
「そうだよね、君は僕に借りが……いや、みんなに借りがあることを」
みんなに?
みんなとは、誰のことだ?
森子は、口の中が冷たくなっていくのを感じていた。
「君のしたことは誰にも許されない。僕も許す気はないし、みんなも許していない」
みんなとは誰だ?
「申し訳、ございません」
「もう、下がっていい」
まずい。森子は扉から跳ね退くと、慌てて食堂から離れる。聞き耳を立てていたことは知られたくない。姿も見られたくなくて、森子は小走りで離れていく。
頭の中で回り続ける先ほどのやりとり。気を落ち着かせるつもりが、考え事が増えてしまった。
扉の奥で聞いた「下がっていい」とは室内の中で、とのことだったのだろう、漆田が出てくる気配はなかった。
だからといって、もう戻る気にはなれない。
中央ホール上階回廊の手すりに体を預け、少し息を整えようとした、その時。
玄関ホールへと続く扉が、小さく開いた。
「え……」
その扉が人一人が通れるまで開けば、奥から体を滑らせるようにして中央ホールへと現れたのは。
「神大、路傍様?」
神大は周囲を警戒しながら中央ホールに現れたのだろう、上階回廊の森子にすぐに気がついた。
距離があるため、声はかけてこない。しかし、こちらの動きを探るように向けてくる視線を無視することもできず、森子は階段を降りて神大の元へ向かう。「神大様、外へ……出られていたのですか?」声をかければ、神大は「ええ」と答える。
「何をなされていたんですか?」
「外の空気を、吸っていました」
「そうでしたか……」
見れば、夜も更けたと言うのに昼間からのスーツのままだ。
「ところで」
ふと、神大から声がかかる。
「なんでしょう?」
「あちらは聖堂ですよね」
長い腕で一直線に指す先は、不死鳥館の首の部分の先の扉だ。首の部分の廊下は窓も無ければ明かりも無いため、闇の中に指を指しているようだ。
「ええ」
「夜は立ち入り禁止の」
「はい、廊下と聖堂内は明かりが無く、危険ですから」
「その立ち入り禁止、というのは鍵がかけられているんですか?」
何の質問だろう、森子は少し掴めなかった。
「いいえ、聖堂への扉に鍵はありません」
「……」
「あの、それがどうかされましたか?」
「中に誰かいます」
短く言われたその言葉は、しかし森子の体を硬直させるには十分なものだった。
「誰かって、誰ですか?」
「わかりません。私も外から中を覗いただけなので」
「人影とかはどういったものでしたか……?」
「……非常に、小さいと思いました。子供ほどの人影です。そして不自然なのは、立ったまま全く動かなかったことです。外から窓を叩きましたが、反応がありませんでした」
森子は言葉が出なかった。背が低い人物なら心当たりがある。兎薔薇だ。しかし子供ほど小さくは決してない。
「それ、は……いつのことですか」
「たった今です。森子さん、私が窓から離れてここに来るまでの一分の間、このホールを誰か通りましたか」
その一分は、森子が見ている。誰も通っていない。
すなわち、その誰かはまだ聖堂内にいる。
「見てきます」
森子の沈黙から察した神大は、先陣を切って廊下を進み出す。廊下には窓がないため、闇の中へと溶けていくようだ。
「あ、わ、私も……」
自分はスタッフであることを思い出した森子も、その後をついていく。
廊下は長いが、永遠ではない。あっけなく聖堂の扉の前にたどり着いてしまった。石でできた冷たい大きな扉が、そこにはある。
ゴン、ゴン――。
神大がノックをすれば、低く重たい音が響く。
しかし、中から反応は無い。
「開けます」
神大の短い宣告に反応する間も無く、巨大な石扉は、小さく、それでも確かに呻きながらその口を開けていく。
果たして、中に居た人物とは。
真相はあっけないものだった。
何も誰も知らない子供がイタズラをしているわけではなかった。
背が低い人物というのも訳はない。
全く反応がないと言うのも、納得だった。
なぜなら聖堂内にあったものは、ただ一つだけだったのだから。
何のことはない。
鳳凰堂椿の頭部だけが、背の低い台座に乗せられているだけだったのだから。
※
「つ、つ、つ――」
それを見た時、森子は自分が悪い夢の中にいつの間にか入り込んでいるのだと思った。だってそうで無ければ整合性がない。辻褄が合わない。少し前まで生きていて、少し前まで死んでいなかった人間が、少し後には首だけになっている。血が流れている。生きていない。死んでいる。死んでいる。死んでいる。死んでいる!
「椿ちゃん!」
「ダメです!」
鳳凰堂椿の生首に飛びかかろうとする森子の身体を、神大は抑え込む。
「あ、ああ、あぁあ……?」
そのため、森子は鳳凰堂が死んだと近寄って確かめることができない。生首が偽物だとわからない。偽物なんだと思いたい。だけど偽物なのだと思うには、本物でないことを確かめなければならない。それができない。真と偽が混じり合うならば、森子は自分が見ている世界が何でできているのかもわからない。どうしようもない。
「あ……あ……」
力の強い神大に抱き寄せられるように抑えられながら、森子は叫んだ。
「いやあああああああああああああああ!」
だってその生首についている口は、森子がずっと欲しかった言葉を言ってくれた口と同じものなのだから。
「森子さん! 落ち着いて!」
宥める神大。しかしそれは何の効果もない。
「どうかされましたか!」
中央ホールから漆田の声が聞こえる。おそらくは森子の悲鳴を聞いたのだろう。こちらへ駆け寄ろうとする漆田に、吠えたのは神大だった。
「来るな!」
漆田の体が硬直する。それほどまでの威圧感が神大の叫び声にはあったのだ。
神大は漆田に続ける。
「漆田さん、館内の全員に呼びかけ、食堂に集めてください。ここへは近づかせないでください」
漆田はこくこくと頷くも、その最中に見てしまったらしい。
続く廊下には窓はないものの、聖堂内には窓がいくつもあり、その中の鳳凰堂の生首が月明かりに照らされ見えてしまったのだろう、「ほ、鳳凰堂様!」と叫ぶ声が森子にも聞こえた。
「いいから! 行け!」
再度吠える神大によって、ようやく漆田は走り出した。「兎薔薇様!」ドンドンと叩く音が遠くから響く。
「森子さん、離れましょう。見てはいけません」
「いやあっ! 椿ちゃん! いやあああ……」
遠くの声が「月熊様!」に変わっても、森子は動けない。神大が「すいません、森子さん。抱えます」と体勢を変えようとした時、その廊下には月熊が現れていた。
「おい、どうしたんだ。そいつ……」
おそらく、漆田の言いつけを聞かずに騒ぎを確かめに来てしまったのだろう。そして、その視線はうずくまり泣き叫ぶ森子から……鳳凰堂の生首へと向かってしまった。
「は、はあっ? どう言うことだよ!」
「月熊さん、こちらへは来ないで食堂へ!」
見れば、その奥から寝ぼけ眼を擦りつつ兎薔薇もやってくるではないか。「なんなのよ……」と擦り終えた目は、確かに聖堂の中へと注がれ。
「馬鹿野郎! 見るな!」
月熊が兎薔薇の視線を塞ごうとしたが、もう遅かった。
「キャァアアアアアアアア!」
兎薔薇の絶叫もまた、館内へ響く。
その時、森子はどこからか「そんな……」という悲痛な音を孕んだ呟きを聞いた。だが、それは自分の喉奥から漏れ出る悲鳴に混ざって何処かへ行ってしまった。
そして結局、廊下から中央ホールにかけて八木、獅子噛、天窓まで現れ、鳳凰堂椿の死とそれを示す生首は、全員の目に触れたのだった。
「何よこれ、なんなのこれ、何なのよこれえ!」
森子はもう喉の奥から何も出てこなくなっていた。代わりに叫んでいるのは兎薔薇だ。
「これ、何かのドッキリ? そうなんでしょ、みんなでアタシを嵌めてんでしょ!」
「少し黙れ!」月熊の怒声も響く。
「本当に、鳳凰堂さんは死んでいるんですか……?」八木が怪訝そうな独り言を呟く。
「君は首を切られても生きている人間を見たことがあるのかね?」勝手に繋げるのは獅子噛だ。
「皆さま、落ち着いてくださいませ。まずは警察に連絡を……」言いつつ、漆田も動揺が隠せていない。
「椿、ちゃん……」
「全員、動くな!」
その声は、場の全員の背中に電流を走らせ、強ばらせるには十分すぎるほどのものだった。その怒声はまるで、咆哮だ。
「全員……動くな」
今度の物も同じ声だったが、今度は言下に「もしも動いたらただでは済まない」と言ったニュアンスが多分に含まれている。
全員が、その威圧に首を回して声の主を探すこともできなかった。しかし、声の主は自ら聖堂の中に入り全員の前に現れる。
神大路傍だ。
現れた彼女は、全員を貫きかねない眼光で睨みつけると、スーツの胸元に手を入れた。
「大きな声を出して申し訳ありません。また、身分を隠し、皆様に嘘をついていた事をお詫びします。しかし、事態は緊急であると判断したため明かさせていただきます」
そして胸元から、まるで拳銃でも取り出すかの様な仕草で、しかし拳銃では無いものを取り出し、言った。
「私の名前は【大神 狼華】。警察です」
それは警察手帳だった。