第一章【裏】人か神か化け物 第一部
「では、これより夕食の時刻、十九時までご自由にお過ごしください。何かありましたら、私か漆田へとお申し付けください」
十六時の少し前。的羽森子は微笑み、めいめいに散っていく面子の後ろ姿を見送った。
なんとか、出だしは好調かな。胸中で森子はホッと安堵の息を吐く。
「お上手ですよ、お嬢様」
誰もいなくなる頃、同じく残った漆田が小さく声をかける。
「ありがとう、漆田。では、打ち合わせ通り私は女性の方のお荷物を運びますね」
「しかし……本当によろしいのですか?」
宿泊客たちの荷物が置かれた玄関ホールへ向かおうとした森子を、漆田の声が引き留める。
「何がですか?」
「お嬢様はこの日を楽しみになされておりました。それなのに、私の手伝いなど……」
「それについては何度も話したでしょう。私は主人の娘として自由にさせていただくより、スタッフとして仕事を手伝わせていただく方が気が紛れるんです。もしこの時間も好きにしろと言われたら、きっと私は落ち着かなくなっていると思います」
森子は漆田を安心させようと笑みを浮かべて見せる。
「それに、今日に向けてあれだけ練習したのですから、貴方には及ばないとはいえ不作法なくおもてなしができると思うんです。それとも、漆田はそう思ってくれないんですか?」
森子のはっきりとした受け答えに漆田は優しく微笑む。
「いえいえ、まさか」
森子が物心ついた頃には、漆田はこの屋敷にいた。
まだこの世界はどこまでも地続きに繋がっていて、自分は自由だと思っていた頃、漆田は自分と血の繋がった家族だと思っていた。
森子に与えられたこの世界はどこにも繋がっていないと気づく頃、漆田も自分と血が繋がっていないことにも気づいた。
森子に与えられたこの世界はとても小さく、自分の不自由さを自覚した頃、それでも漆田は側に居て慰めてくれた。
そして今日、初めて外の世界から人が来る。
自分の知らない世界の人が。
孤島という名の檻に閉じ込められていた森子にとって、それは希望だった。
初めての他人、初めての交流。そしてあわよくば、外に連れ出してくれるのではないかという、自分勝手で淡すぎる期待。
森子は漆田に見られないよう自嘲すると、玄関ホールへの扉を開き、荷物を手に取り、中央ホールに戻って階段を登っていく。その後ろ姿を、漆田は穏やかに見送っていた。
※
一つ、二つ、と扉をノックする。何度か瞬く内に開かれたその扉の先には、何やら迷惑げな表情で兎薔薇が顔を覗かせた。
「失礼します。お荷物をお持ちしました」
「そ、適当に置いておいて」
扉を森子に任せた兎薔薇はベッドに腰掛けると、未だにスマートフォンに向かっている。
「兎薔薇様、おっしゃられていたわいふぁいの件ですが……」
「ああ、もういいわよ。そこの机の上にパスあったから」
視線だけを向ける兎薔薇。その先には書き物机があり、カードほどのラミネート加工された紙に奇天烈な数字列が書かれていた。その紙を室内に設置する作業を行ったのは漆田と森子だったが、電子機器を知らない森子にはそれがまさかそれほどまで重要なものだとは思わず、兎薔薇との対面時上手く答えることができなかった。それを内心悔やんでいると、兎薔薇はスマートフォンから顔を上げ、森子を睨んで言った。「いつまでそこにいるの? 下がりなさいよ」ぐうの音も出ず、森子は退室する。
玄関ホールに戻れば、男性陣のスーツケースは既に二つほど消えていた。漆田が運んだのだろう、手際の良さに敵わなさを感じる。心の中で腕をまくり、新たに一つ手に取った。
さて、そうした森子が次の扉を叩いた先にいたのは、無口な大女、大神狼華だった。
兎薔薇と対照的に、扉を森子が通れるように抑える彼女は小さく「ご苦労様です」と礼まで言う。「ありがとうございます」森子は応える。
「大神様、何か入り用はございませんか?」
何の気なしに森子は尋ねる。兎薔薇の時はWi-Fiの件があったが、大神は無口であるため、こちらから聞かねば話してくれない気がしたからだ。
だが、あまり多くを求めなそうな印象の人だ。返ってくるのは「ありません」くらいだろう。森子は予想したが、返ってきたのはそれとは違うものだった。
「的羽森子さん、貴方はこの館に住んでいらっしゃるようですが」
今までのボソボソとした話し方とは違う、はっきりとした発言だった。
森子は思わず、居住まいを正してしまう。もとより崩しているつもりは無かったが、それでも。
「はい、そうでございますが」
「でしたら、少しお聞きしたいことがあります。それは……」
そこまで言って、大神の口が止まる。続きを言うべきか言わざるべきか、逡巡しているような。
森子の視線の先で、大神の開いたままの口が数度形を作ろうとして失敗している。やがて、ようやく口にしたのは。
「と……」
「と?」
「……トイレは、どこでしょうか」
虚をつかれた気分だった。おそらく、大神の聞きたいこととはこれのことではないはずだ。わかっていながら、追求することは失礼だと判断し、森子はバスルームの扉を開く。
「お手洗いはこちらになります」
「ありがとう、ございます」
再び、大神の語調は俯いていく。
「他に何かございますか?」
「もう大丈夫、です」
「わかりました。失礼します」
一礼し、退室する。
中央ホールに戻れば、ちょうど漆田が最後のスーツケースを運んでいく最中だった。おそらくは八木のものだろう。見送り、最後のスーツケースが待つ玄関ホールの扉を開いた。
「お、どうした?」
しかし、その先の目的のスーツケースは、既に一人の少女によって床から浮いていた。
「鳳凰堂様……あ、すみません、遅くなってしまい。お持ちいたします」
「ん? いやいや、私が待ちきれなかっただけだ。謝らなくていい」
鳳凰堂はひらひらと胸の前で手を振って問題ないことを示す。
「ありがとうございます。ですが……」
なおバツの悪そうな表情を浮かべる森子に、鳳凰堂はずい、と顔を近づける。どこか余裕のある、ニヤニヤとした笑顔。
「だったら、部屋まで送ってくれ」
そして結局、荷物は鳳凰堂の手によって運ばれてしまう。階段を登り、あてがわれたカードキーで入室する様を、森子は後ろから眺める他なかった。
「ええと、何か御用がございましたら、お申し付けください」
森子はベッドの上に荷物を放り投げる鳳凰堂に告げ、立ち去ろうとした。
「ああ、そうだ。お前」
しかしそれを鳳凰堂が呼び止める。
「なんでしょう?」
「これから時間あるか? この館を案内してほしい」
それならば、森子がこの日のために何度もシミュレーションしてきたことだった。「是非」と浮き足だった感情を見せないように気をつけた。
「では早速行こう」
案内、と言いつつも先導するのは鳳凰堂だった。部屋を出て、廊下を渡り、まず最初に目をつけたのは見取り図で言うところの書斎だった。
「こちらは書斎になります」
鳳凰堂は適当に一冊手に取り捲る。が、そこには経営者向けの本ばかりが並んでおり、当然手に取った一冊も同じような内容であった。黙って戻す。
続いて向かったのは二階回廊の書斎の対岸、扉を開けばそこは食堂だった。
長机が並び、奥には厨房が見える。
「夕食はここでするのか?」
「明日以降はそうなります。今夜は一階のパーティホールとなります」
軽く説明を受けると、中央ホールの一階を人影が通った。
見下ろせば、そこには兎薔薇が何かを探すようにしながら玄関ホールへと歩いていく。
「アイツは……」
「兎薔薇様ですね」
「追いかけてみるか」
鳳凰堂は森子の返事も聞かずに歩き出し、階段を降りていく。
慌てて追いかければ、既に鳳凰堂は玄関ホールから森子を手招きしていた。
合流して玄関を開く。
そこには兎薔薇がスマートフォンを振り回していた。
「あ。あんた」
相変わらず化粧気が多く、少し離れた二人のところにも香水の匂いが漂ってきそうだ。何がそんなに気に食わないのか、ウサギの耳のようなパーツが伸びるゴム製カバーのスマホを片手にこちらを睨んでいる。
「あんた、ここの家の人でしょ? Wi-Fiはあるんだけど、肝心の電波が弱くて全然入らない。どこか繋がる場所無い? ネットがほとんど見れないんだけど」
「申し訳ございません、兎薔薇様。私はそういったものは疎く……電話でしたら、玄関ホールにて固定電話がございますが」
「相手の電話番号なんか知らない。今時電話でやりとりするのなんて仕事相手でも無いし」
兎薔薇とは早口で喋ってはそれでもスマートフォンを弄っている。大きなラインストーンの目立つ付け爪が画面に当たるたびにコツコツと音が鳴る。それに混じり、「ちっ」と舌打ちの音も。
「本当最悪、こんなとこ来なきゃよかった」
「なぜ髪の先がピンク色なんだ?」
気づけば、鳳凰堂は兎薔薇の傍に立ちスマートフォンを覗き込んでいた。そのまま目線だけを兎薔薇に合わせている。
「……何?」
いきなり顔が近くに現れ一瞬目を見開くものの、すぐにスマートフォンの画面を抱くように隠す兎薔薇。「何のこと?」
「髪だ。お前の髪、毛先がピンク色だ」
「昔染めてたの。それが何?」
「面白い。やってみたい」
森子は内心鳳凰堂を兎薔薇から引き剥がすべきか考えた。鳳凰堂には悪意も敵意も無いだろうが、彼女の距離感に兎薔薇はあからさまに嫌がっている。兎薔薇と接した時間は短いものだったが、このままでは喧嘩が起きるかも知れないことは森子にもわかっていた。
「髪染めるのとか、知らないの? あんた、いくつ」
兎薔薇は訝しげな表情を隠そうともせずに唇を尖らせる。鳳凰堂はしかしここに来て初めて驚いた表情を見せた。まるで答えを持ち合わせていない質問を投げ掛けられたかのように。兎薔薇はそれに気づいたが、“年齢”などという生き物全てが持ち合わせている答えに詰まることなどあり得ない、見間違いだろうと片付けていた。
「いくつ……ああ、ええと、さんじゅう……」
「……は?」
明らかにありえない数字に兎薔薇はようやく鳳凰堂の顔を真正面で見た。ハリのある肌はどう見ても三十代のものでは無い。
「じゃ、無い。あー……森子」
「私?」
「お前、何歳だ」
「今年で十七ですが」
「そうか」
そして、鳳凰堂はこう言った。
「同い年だ」
※
「アタシの方が年上なんだから、敬語使いなさいよ」
「わかった。兎薔薇」
「敬語ってものを知らないの?」
「知ってる」
「……馬鹿にしてるってことがよくわかったわ」
結局、兎薔薇、鳳凰堂、森子の三人は敷地を取り囲む柵の内周をを連れ立って歩いていた。いや、兎薔薇としては元々この二人から逃げる意味の方が強かったが、その二人がついてきたのだ。兎薔薇がどれだけ嫌そうな態度を示しても自分のしていることを絶対的に正しいと思って疑わないような顔でついてくる鳳凰堂に、とうとう折れたらしい。文句も出て来なくなると二人からの逃亡から館周辺の探索へと変わっていた。
「変なとこね。館の形が一番変」
森子は黙って後ろを歩く。自分の家をそう言われることは気分の良いものではなく、自然と顔が俯きがちになる。
「アンタ、学校とかどうしてんの?」
その質問が自分に向けられたものだと気づくまでに少し時間がかかった。顔を上げれば、二人の目がこちらを見ていた。
「学校は……えっと、船で」
「嘘」
どきりと心臓が跳ねた。森子に向いた二人の目のうち、兎薔薇のものが鋭く細められる。「嘘でしょ、それ。どうでもいいけど」
兎薔薇は再び歩き出す。
森子は遅れて歩き出したが、足が自分のものでは無い気がした。赤い瞳がまだそれを見ていた。
「じゃ、アタシもう中に戻るから」
兎薔薇と別れたのは既に日が沈みかける頃だった。影は大きく伸び、広がりつつある。
「私らも戻ろう。森子」
「そうですね。結局、案内というほどのことはできませんでしたが」
「そんな事はない。楽しいぞ」
鳳凰堂の口から出る言葉は不思議なものだった。あまりに堂々と言うものだから、疑うことができない。楽しいと言われれば、そうなのだと素直に受け止めることができる、不思議な言葉だった。
「夕食までには少し時間がある。それまでもう少し案内してくれ……そう言えば、家主はいつ姿を見せる」
「ご夕食の際にて現れます。それまでは自室にて仕事をしております」
「なるほど。では、最後にここへ行こう」
玄関ホールに貼られた見取り図に突き立てられた指は、聖堂を指していた。
玄関ホールを抜け、最後に聖堂へ向かう二人。最早見取り図を覚えているであろう鳳凰堂に、森子はかねてから言おうと思っていた疑問を口にした。
「あの、失礼ではありますが、私の案内は満足出来るものでしょうか」
「ん? 何故」
「鳳凰堂様は最初のうちから迷われる事なく目的地に歩いていますので」
それは、「自分は必要か」と言う意味を限りなく遠回りに包んでいるものだった。その質問に鳳凰堂は。
「ああ。そうだな。実は必要なかった」
と答えた。
頭の奥が熱くなるくせに、口の中が冷たくなる。
「いや、すまない。お前が案内人という肩書きを利用して連れ回してしまった。本当はお前と話してみたかったのだ」
冗談だと、最初は思った。しかし笑おうと鳳凰堂に視線を向けると、思いの外真面目な顔と出くわした。
「私と?」
「お前とだよ、森子」
なんで、と聞く前に黒い髪が靡くと、館の奥へと進んでしまう。その背をただ見送っていると、鳳凰堂は遠くで立ち止まり振り返り、ただ「置いていくぞ」とだけ声をかける。
「ああ、お待ちを」
追いかける足は、何故か軽かった。
やがて辿り着いた先の巨大な扉が開き出す。不死鳥館が巨大な鳥の姿をしているならば、本館から伸びるこの廊下は頸部に当たろう。そしてこの扉の奥が頭部に当たる。やがて扉は人一人分が通れるスペースにまで開いた時、止まった。森子が力を込めるのをやめたのだ。問題は無かろう、何も森子も鳳凰堂も扉を全て開かねば通れぬ体格というわけでもないのだから。二人は足を踏み入れる。この館こそが生家である森子には湧かないが、初めて目にした鳳凰堂はその赤い目を見開いて声を上げた。
「綺麗だ!」
素直な一言に森子は笑い、「でしょう?」と返す。事実そこは綺麗という言葉が似合っていた。ただ綺麗なだけでは無く、さらに荘厳という言葉も似合っていた。そこは、三人掛けほどの木製の椅子が石畳の床の上で中央を向くように鎮座し、そして椅子の見つめる先には一段高くなった円形の石畳の上に何やら四本の台が伸びている。そう、この空間は【聖堂】と見取り図に記されるに相応しい場所だった。さらに視線を上げれば、上げて、さらに上げれば、この空間に差し込む太陽光を赤色に染めるステンドグラスが嵌め込まれていた。
「ここは、塔になってるのか。非常に天井が高い」
「ええ」
鳳凰堂が聞き、森子が答える。実際に、この空間は明らかに館の一階と二階がすっぽりと入るほど天井が高くなっている。ここは石で出来た塔になっているようだった。嵌め込まれたステンドグラスは、その中腹あたりから鳳凰堂達を“見下ろしていた”。
「あのステンドグラスは、不死鳥を描いているのです」
「不死鳥?」
「ええ、炎の翼を持つ鳥。死なない鳥。かつてこの島に現れ、【不死鳥伝説】を残した、不死鳥」
森子はステンドグラスを見上げる鳳凰堂の横顔に語りかける。不死鳥のステンドグラスに染まる光を浴びる鳳凰堂は、どこか幻想的だと森子は思わず話が止まる。
「話は終わったか?」
その時、鳳凰堂のものでも森子のものでもない野太い声がどこからか響いた。すると、森子たちからは背後の位置の椅子の背もたれからのっそりと緩慢な動きで何かが起き上がっていく。その影は、おそらく座った体勢なのだろうがそれでも立った姿勢の鳳凰堂や森子と同じぐらいの体躯を持ち、気怠げにこちらを向くその目は獣のような眼光を湛えていた。
「月熊様」森子が恐れるように呼びかける。「こちらで何を?」
「昼寝だよ。ここのベッドは柔らか過ぎてな」月熊と呼ばれた男は大きく欠伸をして答える。それだけで山が震えるようだ。
「お気に召しませんでしたか」
「いや、良い。ただ昼寝には向かないと思っただけだ。文句はねえよ」
「昼寝に向いているか?この椅子」
ぎょっと月熊が森子と合わせていた目を声の方向に向けると、鳳凰堂が月熊のすぐ隣に空いたスペースに目を閉じて背を椅子に横たえているではないか。いつの間に、その言葉を紡ぐより先にパチリと目を開き、すぐに体を起こして月熊の目を覗き込む鳳凰堂。睨むような、笑うような、悲しむような、楽しむような、目。それからしばらく妙な時間が数秒流れた。
「月熊……大和」
ふいに、鳳凰堂が月熊の下の名前を噛んで含めるように呟いた。
「は?」
月熊は驚いたように目を見開いたが、すぐに立ち上がる。
「……俺はもう行く」
鳳凰堂を不気味そうな目で見遣りながら、聖堂の扉を抜けていく。
去り際、彼は誰にも聞かれぬ声で訝しげに呟いた。
「あいつ……何故、俺の名前を?」
※
「ほ、鳳凰堂様!」
月熊が退室してからしばらくして、二人の少女もまた、聖堂を後にした。
森子は聖堂と本館を繋ぐ細い廊下を足速に歩く鳳凰堂を小走りで追いかける。本館への扉の前で立ち止まった鳳凰堂の背に危うくぶつかりかけた。
鳳凰堂にしては珍しく黙りこくったままだ。まるで森子を無視しているかのようですらある。少し、森子の胸が痛んだ。
「森子。お前、この島から出たことはあるか?」
不意に聞かれた
「え?」思わず口調が崩れてしまう。
「兎薔薇に聞かれていただろう。学校には行っているのか、と。お前は言っていると答えていたが、私にはなんとなくそれが嘘のように聞こえていてな」
事実だった。森子はそもそも、この島から出たことなど一度もない。
あの時嘘をついたのは、自分でもそれが異常なことだと気づいているからだ。
島から出たこともないことが。学校に行ったこともないことが。
それは、島の外から現れる「普通の人」たちに知られたいことではなかった。
せめて彼らが滞在する間だけは、嘘でもいいから、自分も「普通の人」になってみたかった。
だが、もうすでに兎薔薇にも、目の前の鳳凰堂にも隠せていない。
「……はい。私は、この島の外に出たことはありません」
森子は、半ば意を決するように鳳凰堂に告げる。
「そうか」
「学校にも、本当は行ったことがありません」
「寂しくないか?」
俯きかけた森子の顔が、上った。
「それは……」
答えを探している内に、鳳凰堂は次の質問を投げる。
「島から、出たいか?」
いよいよ、森子は口をつぐんだ。
出会ってたった数時間の者に言える答えは、森子にはなかった。
そんな森子の様子を見た鳳凰堂は、笑みを浮かべて口を開いた。
「友達になろう、森子」
「……誰と、ですか?」
「私と」
しばらく森子は口を開けて呆けるばかりだった。自分が何を言われたのか、わからなかった。
「私のことは、椿ちゃんと呼べ。いいな?」
「な、なぜですか」
「ん? 友達になるなら、まずお互いを砕けた呼び名で呼び合うのが一番だろう?」
「そうではなく……どうして」私と、友達になってくれるのか。どうして、今まで会ったこともない私と。それらの言葉は、なかなか喉の奥から出てこない。
しかしやはり、鳳凰堂は勝手に森子のどうして、に答えた。
「理由なんか、どうだっていいだろう? この島での滞在が終わったら、今度は私と共に外で遊ぼう。それに……」
明かりのない聖堂とホールをつなぐ廊下で、鳳凰堂は笑って言った。
「私も学校というものは、行ったことがないんだ」
※
「お嬢様、そろそろ」
二人がホールに顔を出すと、ちょうどキッチン側からやってきた漆田と出会した。「そろそろ」の言葉に森子はハッとしたように飛び上がる。
「では、こちらで失礼します」
「む、もう行くのか」
「はい、今夜の食事の準備がございますので」
しきりに頭を下げる森子と漆田は鳳凰堂に見送られ、食事の準備をするために厨房へと向かった。
こうして、森子は漆田と共に夕食の準備に取り掛かり、やがて他の宿泊客と共に食事を取ることとなる。
その中では不死鳥伝説が語られ、やがて解散となるに至る。
「お食事の後は、各自ご自由にお過ごしください。食堂にてアルコールなどもご用意しておりますので、お申し付けくださいませ」
食事会は終わった。しかし森子の仕事はこれからだ。
パーティホールから全員が退室したことを見届ければ、後片付けが始まる。空いた皿をワゴンに積み重ね、エレベーターで送った後は、テーブルクロスを取り替える。かなり大きな一枚であったが、漆田は厨房に送られたワゴンに乗った皿を洗わなくてはならない。手伝いも無かったが、仕方がない。
テーブルクロスを小さく、それでも両手で抱えねばならないほどまでは小さく畳んだ後、ふと、森子は記憶の片隅に引っかかっているものがあることに気がついた。
それは【不死鳥伝説】が終わった後の鳳凰堂の態度だった。
視線を天に向け、どこか遠い記憶に思いを馳せているような。あるいは、鳳凰堂自身がその伝説の当事者のような……。
まさかね、と小さく笑う。
きっと、鳳凰堂と森子は同じものを見ていたのだろう。森子は長く不死鳥館にて過ごす内、このパーティホールで鳳凰堂が座っていた位置からシャンデリアを見上げると、小さな鳥のガラス細工が見えることに気づいていた。
幼い頃、それが欲しいと大騒ぎした思い出もある。漆田に「あそこに手が届くまで大きくなれましたら、お取りください」と宥められたことも。当然、人がそんなに大きくなることなどありはしないのだが、森子は何度も手を伸ばしていた。その、不死鳥に。
森子はテーブルクロスを抱えてリネン室へと向かう。
道中思い出すのは、昼間鳳凰堂に言われた言葉だ。
森子、私と友達になろう。
初めて言われた言葉だった。
私のことは椿ちゃんと呼べ。
「椿……ちゃん、か」
椿ちゃん、椿ちゃん。森子は口の中でその名前を転がすように呟く。
森子の内に湧き上がる気持ちは久しぶりのものだった。この世界は無限に繋がっていると思っていたあの頃にはよく感じていた、かねてより欲しかったものをようやく手にできたあの気持ち。今となっては喜び方も忘れてしまって、ふと足が止まる。諦めていたものが、突然目の前に現れたかのような。
それは自由であり、他者であり、交流であり、許諾であり、すなわち友達だった。
気持ちを持て余し、発散のために抱えるシーツに顔を埋めたくなってしまう衝動をぐっと堪える。意識して足を動かし、リネン室の扉を開く。
きっとこれから、いいことが始まる。
森子の顔は、少しだけ上を向いていた。