第一章【表】不死鳥の首は切りづらい 第七部
時刻は二十一時半。自室のベッドに横たわり、八木は考える。これから自分はどうするべきか。
ベッドから垂らした足が、自分のスーツケースに触れている。
スーツケースをまだまともに開いていないことを思い出した。
不死鳥館での生活は短くない。この荷物を開き、整理しておかなくては後々着替えの際などに面倒だと。
だがあまりやる気が起きなかった。
というのも、八木には考えることが多く残っていた。
先ほどの食事会で聞かされた、不死鳥伝説、そして十五年前のスカイウィンドホテル火災についてだ。不死鳥伝説については、八木は半信半疑だった。死んだ人間が生き返るなど……とはいえ、的羽天窓の話す中の島民全員が見たという言葉が引っかかっていた。百人ほどの島民全員が、見た。
通常、神を名乗る者は奇跡と名をつけたトリックを信者の数名にしか見せない。つまり、出し惜しみをするのだ。見た信者と見ていない信者という選別こそが、宗教における集団の心理を操作する肝だ。事実、八木が探偵活動の中で葬ってきた新興宗教もいくつかがそうであった。かつてテレビで放送されていた物理学者とマジシャンが出てくるドラマの、霊能力があると嘯く悪質な教祖のように、奇跡をトリックだと暴かずとも、そこを突けば瓦解できた。
だが……と八木は眉間に皺を寄せる。
不死鳥伝説の話ぶりでは、奇跡を一度しか見せていない。それも、その一度で全員に見せた。
新たな神を見出しておきながら、残ったのは【宗教】ではなく【伝説】であることからも、島民はその奇跡を一度しか見ることができなかったのだと推測がつく。
誰かが裏でトリックを操り、騙して得をしようとするならば、それはあり得ない。
島民が見たと言う【炎の鳥】がトリックだとしても、その後の【生き返り】はどうにもできない。
それでいて、【生き返った少女は消えてしまった】と言う一節。ここが嘘くさかった。
本当の奇跡ならば、死んだと言う事実は少女にとっても奇跡のように喜ばしいことではないか。家族に走り寄って、抱き合いました、と言うオチの方が違和感がない。それなのに、走って消えたなど、まるでそれは、トリックを暴かれまいと逃げ出したかのような……。
果たして、不死鳥伝説は真か、偽か。
死んだ少女は、生き返ったのか、死んでいたのか。
嘘臭さと、真実臭さが入り混じるこの伝説は、八木の心に大きな違和感となって残っていた。
「死人が不死鳥によって生き返る……馬鹿らしい、と言っていいのかな」
思考がぐるぐると渦を巻く。仰向けになって天井を見上げれば、植物のような紋様が同じくぐるぐると天井を這い回っている。
不死鳥伝説。天井を見上げる。ふと、八木はそこから鳳凰堂椿を連想した。あの時、少女は何を思っていたのか。あるいは……天井に何かあったのか。
スプリングを利用して八木は体を起こした。
考え続けるより、確かめてみればいい。そう結論づけた八木は部屋を出た。向かうはパーティホールだ。
相変わらず無口なドアを後ろ手に閉めれば、廊下は少しだけ音が響いていた。そういえば客室は防音だったか。思いつつパーティホールに向け足を運ぶ。道中吹き抜けから覗ける中央ホールには、音の主であるところの森子と漆田が見えた。二人は小さく会話をしているらしい。スタッフとしての連絡かと思えば、そうでもなさそうだ。
「――漆田、そのことを話したんですか?」森子の口調は砕けていた。
「ええ、お嬢様のためを思い、つい」
「ついって、貴方……でも、大丈夫です。もう、その方を見つけましたから」その方? 八木は引っかかった。
「それはそれは……本当に、おめでとうございます」
二人は八木に背を向け、表情は読み取れない。だが、言葉の端々に何やら秘密めいたものを感じていた。おめでとうと言うことは、喜ばしいことなのだろうか。あるいは、彼らにとって都合がいい何かなのだろうか。
「や、八木様? いらっしゃったのですか?」
そして、その声は驚きを孕んで八木に向けられた。上階から聞き耳を立てていたことが下階の森子に見つかったらしい。八木はバツが悪そうな顔を取り繕い、階段を降りていく。
「いやあ、すみません。寝る前に少し館内を歩こうかと思いまして」
「そ、そうでしたか。何か、足りないことなどはございましたか?」
驚きはやがて慌てるそれに変わったと八木は感じた。そして、森子が応対する中で漆田は「失礼」とそそくさと去っていく。
「ああいえ、特にありません。快適に過ごさせて頂いてます」
森子もまた、「そうでしたか、では」と去っていく。八木としては一人にさせてもらえることに依存はなかったが、これまでの二人の対応としては違和感があった。
「あの!」
去りゆく森子の背中に声をかける。案の定、不自然に硬直した森子は繕うように向き直る。「なんでしょう?」
「他のみんなはどこにいるかわかりますか?」
「あ、ええと。月熊様、獅子噛様は食堂にて天窓と晩酌をなさっております」
「宴会ですか?」ほんの少しの疎外感。
「いえ、その……それぞれでなさっています」
それもそうか。八木は納得し、「ありがとうございます。他の方は?」と次ぐ。
「他の方は……自室におられるかと」
そう言って、今度こそ森子は去っていった。
まあいいか、八木は改めてパーティホールへと向かう。
果たして、鳳凰堂椿はその瞳に何を映していたのか。
※
結論から言えば、なんのことはなかった。片づけられたパーティホール、そこに吊られる天井のシャンデリア、その一部が鳥の形になっていたのだ。おそらく不死鳥を象ったものであり、あの鳳凰堂の様子は天窓の語る伝説に飽きて揺れる飾りを眺めていただけだったのだろう。子供みたいなことを……それが判明した時の八木は、文字通りその場に崩れ落ちた。少しでもミステリアスさを感じた自分が阿呆のようだ。
時間をかけて散々探し回ってお目当てのものを見つけた感慨と、ホールを出た後に残った虚脱感は入り混じり、八木の背にのしかかるように感じるそれをさらに重くした。
十五年前のホテルで出会ったあの女性。それに似た少女が不死鳥伝説を聞いた時の様子。この二つから鳳凰堂椿という少女に新たな人物像を掴めるかとも思ったが、それに関して八木はとんだ徒労に終わったと言わざるを得なかった。
自分は一体何をしているんだ。重い足取りで個室へ向かう。
時刻は十時直前、個室の扉が開き、八木はその手を隙間に差し込むと、中へと入り、深呼吸をする。慌ただしい一日だった。
ようやく手放しで解放された思いだが、こんなことがまだ続くと思うと、帰りたくなってくる。
夕食前にシャワーを浴びたと言うのに、変にドタバタしてしまったせいで再び体は汗ばみ、床には大きな荷物が転がっていた。
「やることやったら最後にもう一度入るか」
八木は床に転がる荷物をベッドの上に乗せ、片付け始める。
※
ベッドの上に開いたスーツケースから別の衣類を出し、スーツを乱雑に脱ぎ捨てる。脱衣所にて肌着も脱ぐと、夕食前に使ったタオルを脇に寄せ、新しいタオルを棚から出す。
浴室に入り、シャワーを出した。
八木はあまりシャワーは好きじゃない。不潔な自分は人並みに嫌いだと言うだけだ。
ザラザラと床を叩く水滴の音は、いつだってあの日のことを思い出す。
あれは初めての事件。
目の前に転がる死体。かつて自分の姉だったもの。姉だと言って、優しくしてくれたもの。父を失い、勝手のわからぬ他人の家に厄介になる緊張を、ほぐしてくれたもの。もの、者、物……。
初めての事件はホテルの火災から一年後。養親と行ったハイキングでのことだった。
いつも優しい姉は、その時は様子がおかしかった。何かに切羽詰まったような。あのホテルでの父と同じような。
記憶が数度瞬いて場面が飛ぶと、もうあのシーンだ。
雨。豪雨。風雨。雫の中に混じる赤。
姉の、死。
「おねいちゃん」
辿々しい自分の声。
「おねいちゃんを、ころした、のは……」
養親が姉の肢体に抱きつく八木を引き剥がす。その体もまた、血にまみれ。さんざめく豪雨の中で、八木は初めて血の暖かさを知った。それすら雨が拭う冷たさを知った。
初めての事件。
そして、初めての告発。
それを聞いて、養父は。
「黒彦。お前は、【探偵】になりなさい。俺がなんだって教えてやる」
「おじさん、やだ。ぼくいやだ。もういやだ。やだ、やだ、やだよ……」
「なりなさい。そうすれば、いつかきっと、こんな辛い気持ちも終わる」
「とおさんもおねいちゃんも、みんなしんじゃう。こんなのいやだ、もういやだ。やだあ、やだ……」
「なりなさい、なるんだ。黒彦。この気持ちを忘れるな……もう、誰の死も見たくなければ……お前にはそれができる……」
もう、誰の死も見たくない。
そう誓って八木は生きてきた。
だが運命とは残酷な物で、八木の目の前には幾度となく死体が転がっていく。
みんな死の間際、それを察知しているかのようで、八木はその度に必死になるが、結果として死体は生まれ続けてきた。
自分は何をしているんだろう。
そればかりが、八木の中にはあった。
これが【探偵】?
こんな思いをし続けることが、【探偵】?
八木は誰も救えない。
いつもその告発は、死体が転がってからだ。
ザラザラ。ザラザラ。ザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラ。
その中に混じる涙に、あの日と同じ赤が混じったように流れていく。それは気のせいだったのかもしれない。あまりにもすぐに消えてしまったから。それをわざわざ姉の流した血に重ねるなんて、いくらなんでも自罰的すぎる。
気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ……。
こんな姿を姉には見せられない。
だからシャワーは嫌いなんだ。余計なことまで思い出してしまう。
ザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラドンザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラザラドンザラザラザラザラザラ……。
「……え?」
その時、八木はシャワーが床を叩く音の中で、微かな異音を聞いて、顔を上げた。シャワーを止める。耳を澄ます。音の正体を探る。ドンドン。打撃音……ノックの音だ。自分の部屋がノックされている!
「は、はーい!」
八木はシャワールームを飛び出した。激しいノックの音は何かの異常事態を知らせているような気がしてならない。慌ててシャワールームを飛び出したせいで退けて置いた使用済みタオルが散らばり、それすら頓着している暇はないと用意した新しいタオルで頭をかきむしる。
「はーい! なんですか! どうしましたかー!」
のたうつ様にして肌着を着用しながら叫ぶ。が、八木はこの事態に動転していて防音室なのだから意味がないことに気づいていない。そしておそらくは、ドアを乱打している向こうの人物も。
「ちょっと、待って、あの……!」
そして用意していた寝巻きを身に纏うと、ドアに飛びついてカードキーをカードリーダーに押し当て開錠し、開いた。
そこにいたのは、地獄の亡者のような顔をした、漆田だった。
「ご、ご無事でしたか、よかった……」
八木の顔を見て何がそこまで安心させるのか、漆田の顔は地獄で亡き別れの家族を見た様な安堵に変わる。
「あの、どうしたんです……か?」
その場にへたり込みそうな漆田に尋ねる。
「いえ、それが――」
刹那、遠くから怒声が響く怒声が、二人にも聞こえた。
「――か野郎――見るな――!」
男の声。そして。
「キャァアアアアアアアア!」
同じく遠くからの絶叫。それは前の男のものより大きく、事態の異常性を八木にもハッキリと伝えるものだった。
「今のは!」
止めようとする漆田を跳ね除け、八木は走り出す。衝撃も、足音も、リアリティすら吸収する高価で無慈悲な絨毯によって、八木はシャワーを浴びる間に自分が夢の中に落ちてしまった様な気にさせる。もがけどもがけど進まない悪夢の様な。
だけど、これは夢ではない。それを証明する様に、八木はそこに辿り着いた。夢ならば辿り着けない。なのに辿り着いた。だから夢ではない。
夢では、ない――。
八木が立つそこは、不死鳥館の聖堂に続く道。鳥の形で言うと首の部分だ。
そこにはすでに複数名の男女が集結していて、八木が昼間は訪れることのなかった、その扉の先を凝視していた。
その先、聖堂と呼ばれるその部屋の、四つ伸びた台。その一つ。
その、上には。
鳳凰堂椿の頭だけが、胴体から切り離されて飾られていた。