65 城壁の先
ベクトランが一万の軍を迎え討つ準備をしてする一週間前ー。
中央のラトニア草原の砦では、城壁が燃え上がり、梯子を掛けられながらも、なかなか開門しない鉄扉をリズ王国軍副司令のニッケが眉を顰め、眺めていた。
たくさんの兵士達が梯子を掛けて一番外側の城壁を乗り越えていったはずだ。
やはりあの男が囁いていたことは事実なのか?
本陣の中央に座るラナイは厳しい表情で燃え上がる砦を見つめている。ニッケはそんなラナイを振り返り、見る。
陛下は善良な若者だ
その若さ、純粋さゆえ愚かだ。
だがラナイは、少なくともこの若年の国王をバカにする気はない。戦好きで暴君だった先王に冷や飯を喰わされ、左遷された。ラナイはそんなニッケを見出し、側近に据えた。ニッケはラナイをリズの盤石な立場の国王として君臨させたいとそう、強く思っている。
心根の真っ直ぐな若者だ。それ故、まだまだ汚いことの覚悟は足りない。足りるわけがない。だから、国王は辛うじて全うできても、軍の総司令官など務まらない。
今回のこの戦いも国王自ら進軍することはなかったのだ。ただ、自らが進軍せずに他人任せることを卑怯と感じているのだろう。
仕方のないことだ。自らの力を盤石とさせることが最優先で、まだまだ英雄を作ることにまでに頭が回らない。
そう。進軍が成功した時の英雄、失敗したときの生贄を用意するなど最も嫌悪するに違いない。
ニッケがサランを体のいい生贄として連れてきたことも理解していないだろう。
ラナイは眉を顰める。火の手の先を見る。
「門扉の先の兵士達は無事なのか?全く動きが見えない。皆、大丈夫か?。」
不安気にラナイは炎を見つめる。
「陛下、お気になさらず。」
ニッケは優しく微笑む。
大丈夫か…か。
そんなことを思うなら、自らの存在価値を固辞する戦いなど起こさないが……。
あの黒い商人が元凶ではあるが、国王が戦いを選びとることで自らの力を保持したいのは必然やもしれない。
ニッケは密かに唇を噛む。
蝗害の被害がでた際に、黒い商人に会った。会ったと言ってもニッケやラナイのような身分が高い者が黒髪の男の商人になぞ会わないので、帳越しで部下たちの対応を密かに見ていた。
ラナイが商談を見てみたいとの要望を叶えるために。
小麦の裏取引を待ちかけたリズ王国に、身分の低いあの色彩なしの黒髪の商人は、おもむろに言った。
「小麦を買い付けした後は、どうする気なのですか?」
黒髪の男の左耳には紫のピアスがしゃらりとなる。背後から覗いているので、顔がわからないが、その声は艶のある低い優し気な声だ。
買い付け担当の部下が怪訝そうに、黒髪の男を見上げた。それはそうだ。安く買えたらそれでよかったのだ。商人も商談が終われば、それでいいはずだ。
「小麦がすぐできるようにはなりませんし、蝗害は今後起こらないとは言えないですよね。サルーカから切り取った被害地域は、サルーカ時代も蝗害の被害はでていたんですか?」
隣のラナイが息をのんだのをニッケは聞き逃さなかった。
「そんなこと、商人風情が……口をだすでない!!」
部下が大声で騒ぐと、黒髪の男は頭を下げた。
「大変失礼いたしました。」
「……っ!とっくに蝗害は収まっとる。備蓄の補填だ。そのほうのところで、買わなくてもかまわないのだ。」
「まあ、そうおっしゃらず……。」
男はまた優しい声をだす。
収まったというのだろうか。表面上は、蝗害自体は収めた。ただ、被害地域とその周辺の食料備蓄は底をついた。こんなところにまた蝗害が起こったらひとたまりもない。
「民衆が食べていかれなければ、その不満の矛先を逸らさないといけませんからね。」
黒い髪の男の優しい声ー。
ラナイは、男の背中を食い入るように見つめていた。
「元サルーカ人にも、食料を配るためとは、リズ国王様はとても慈悲深い方だ。」
この黒髪の商人は、何を言いたいのだ。
ニッケは心の中で呟く。
元サルーカ人の為ではない。旧サルーカ地域の民には手厚い保護はしていない。サルーカ地域の生産される予定の穀物を、他の地域に回していた。他の地域のリズの国民が飢えることが無いための補填だ。
逃げ遅れた旧サルーカ地域の民はリズ王国の国民として認められていない。2級国民よりも酷い奴隷のような扱いしている。旧サルーカ地域を奪った際に、若い娘はさんざ娼館に売られたし、男達は農奴にしていた。反抗的な者は…ベクトランにその始末を任せた。
リズ王国自体肥沃な国土はもっていない。国土のほとんどは乾燥しており、国土の中に大河も有していない。リズの北部にミルダを始めとする鉱山を持っているが、それもサルーカ王国やクラレス王国のとの境だ。旧サルーカ地域はそんな中では貴重な農耕地域だった。が、ここにきて「蝗害なんて発生」して、リズ王国の中でも厄介な地域になってしまった。
黒髪の商人は首を傾げた。
「どうして、蝗害は起こったのでしょうかね。今まで豊かな土壌と聞いてましたけど…。」
ラナイは、その言葉に目を見開いた。部下が契約書にサインをしていると、その黒髪の男はまた呟く。
「……どうやらアウル神皇国のその先のロゼリア王国が、またシルベスタ王国に侵攻するようですよ。」
「シルベスタは北の蛮国。同じアウリスト教徒のロゼリアが征伐してくれるのであれば、心強い限りだ。」
部下は唸るように言う。帳の向こうの人物を気にしているのか、ピリピリしている。まさか、国王やら側近だとは思ってはいないだろうが。
反対に黒髪の商人はのんびりした口調で呟く。
「リズ王国からは遠い国の話ですからねぇ。関わらないに越したことはないですもんね。」
商人が席を辞した後、ラナイはニッケに問いかける。
「シルベスタにロゼリアが侵攻する。物見は何も言ってなかったが…。」
「ロゼリアが南下してくるシルベスタを退治するのはいつものことです。」
「ニッケ。蝗害は収まってなどいない。旧サルーカ領の国民を見捨てただけで……。」
問いかけるも、ラナイは一度口を噤む。
「いや…。」
ラナイは少し傷ついた顔をした。
ニッケはラナイが思うところが手に取るようにわかる。
「陛下、何も気にされますな。」
ー先程の商人の男は余計なことを陛下に気づかせてしまった。
現場の商談を見学することに楽しみを感じて、この場に赴いたこと。悪いことではない。年若い国王にとって寧ろよい経験だ。
ただ、この時のことは小さなシミのようにラナイの心残ってしまった。
原因の蝗害がなぜ起こったかを確認しなかったこと。旧サルーカ地域の国民への対応。ロゼリア王国を遠い国としてあまり興味をもたず、各国の情報を掴みきれていなかったこと。
あれよあれよと言ううちに、アウル神皇国が滅亡し、ラナイは己の力の無さに愕然としていた。
悩める若王に、サランは囁いた。
「蝗害の根本対処は可能ですよ。アウル神皇国には蝗害を収める術がございますから。」
優しげに微笑む姿は顔はみていないが、いつぞやの商人だ。
その優しい声で、サランはまた囁く。
「ロゼリアの国の紫水晶の瞳を持つ姫が、クラレスに嫁いでくるそうです。事実上の同盟でしょうね。アウル神皇国との戦いのときに、クラレスは何か動いていたということですかね。」
まるで動かなかったリズ王国、ラナイに対しての当てこすりかのような言葉であるが、ラナイは素直に傷ついていた。その後、クラレスへの侵攻を考えだしたラナイを見ながら、ニッケはサランを戦いの生贄にしようと決めた。
汚れ役は自分でいい。
ニッケはじっと城門が開くのを待つ。
この砦を落とし、砦の上にまず、リズの旗を掲げるのだ。
大きな歓声が上がる。
城門が大きな音をたて、開いた。
ニッケはそれを眼に焼き付けて、振り返り、ラナイに告げた。
「陛下、入城のご準備を。」