64 35番砦
砦のところどころから、黒い煙が立ち上っている。20代後半の赤髪に褐色の肌の大柄な男は、ラトニア草原方面を見つめている。
「冷えるな。」
赤髪の男、ベルトランはため息混じりに呟いた。まわりの者には聞こえないような小さい声だ。小さいだけでなく、低く嗄れた声だから余計聞こえなかったのかもしれないが。
ただ、自らが持つパチパチと松明の火の音だけが響く。
ベルトランの軍は小高い丘にある小さな砦にいた。この小さい砦は昨日陥落したものだ。
小高い丘の砦は、ベルトラン軍が攻め始める前から軍が撤退していた。砦の中はもぬけの殻に等しく、早々に砦に入り、こうして城塞の上からラトニア草原を眺めることができる。
この砦はミルダとまでは行かないが、リズとクラリスの国境
にある砦だ。クラリスがこの砦になんと名前をつけたかは知らない。
この砦は、リズでは35番砦と呼んでいたらしいが。過去の戦いで、その時々の勝敗で治まる国がころころ変わる砦だ。
その為、案の定と言うか、クラリス軍が撤退しているわけだから、武器や兵糧の補充ができない。
だが、この35番砦は早めに取れば有利は有利だ。
ミルダと目と鼻の先。兵糧はミルダまわりの砦から兵士が、運び込む算段だ。
「撤退するとは思ってたけど、今回はヤケに手早いんじゃねーの?」
また低く呟く。
ベルトランは松明を乱暴に燈籠に焚べると部下が少し怯えた顔をした。
「こっち方面に誰かくるか、斥候から連絡は来たか?」
部下は否と答えた。ベルトランはどっかりと腰をおろした。持ってきたワインの瓶に乱暴に口をつける。
「青い狼の野郎、いつも守ってばっかだが、今回は逃げ出すのが早い?」
にやりと笑いながら部下に問うと、部下たちは今回の戦いの作戦のすばらしさを口にした。あの、まともに組み合わない青い狼が、ついにリズ軍を恐れて撤退したのだと。
ベルトランは干し肉を噛みしめる。
そのまともに組み合わない相手にひどい目に合わされた。その時まだ青狼は少年とも言える年齢だったはずだ。
「よくそんな楽観的になれるねぇ。」
リズの北西部は夜冷える。乾燥した風が肌にまとわりつく。
ベルトラン達は、ラトニア草原北に北方を任されている。ミルダを奪いに来るもしくはラトニア草原から弾き出された青狼軍をここで挟撃するために。
ベルトランがこの35番砦を落として、砦内に兵士を逗留させたのと同時間にラトニア草原の中央から北部にある3つの砦をリズ王国は一斉攻撃したのだ。
この35番砦はその戦線の最北端にあたる。
砦をくぐっても、リュークという城塞都市までには草原が拡がっている。逆にこの35番砦より南は草原、北は荒野だ。
35番砦を落とした意味は簡単だ。草原の中でクラリス軍と戦い、決して35番砦からミルダ側に出さないことだ。
ベクトランは火の手があがる中央部の一番大きい砦の方向をじっと見ている。
複数の火の手は35番砦からもよく確認できる。
楽な分には助かるは助かる。ベクトランは草原中央から流れて来るか来ないかわからないミルダ軍への壁として、そしてクラリスがラルーに置いている軍への睨みとしてここに来たのだ。
若き国王は少しでも先王時代の敗戦を纏う軍を嫌った。ベクトランの軍は先王時代にクラリス軍と最前線で戦った軍の一つだ。敗戦の一因でなかったとは言えない。
ミルダのやや南西部の国境沿いを領地とするベクトランは辺境伯だ。ベクトランの家、ルーザンヌ家は国境の荒事を任される武将の家だ。私兵のほかに品がない傭兵も雇いれる。荒事に通じているルーザンヌ家を若き国王は遠ざけている。国王ラナイからするとルーザンヌの軍事力と雇いいれている野蛮な傭兵達と同じ様な振る舞いをする当主ベルトランの品のなさが、目につくのかもしれない。
国王は教会のサランと自分が拾ったというニッケという側近が脇を固めている。
戦いの中央にルーザンヌを配せず、この北部担当にしたのは、武勲を立てづらくしたと考えないものはいない。
「まあ、いいけどよ。」
そんなこちらの政治的な事柄とは別にベルトランは気にかかることがある。
この分だと中央以外のどの砦も退却済のような気がする。楽をできるのはかまわないが、いくらなんでもあっさりと落ちすぎなんだよな。
ベクトランはさすがに言葉にださずにいる。まわりの兵士達は砦が思いの外スムーズに落とせたのでほっとしているのだ。不安にさせるのは得策ではない。
「ベクトラン将軍」
「ん?なんだよ。」
部下の1人が少し焦った声で報告してくる。
「砦内の地図が私どもが持参したものと大幅に違います。」
「そりゃあそうだろ。ここを押さえるのは何年ぶりなんだ?少しは改築されたんだろ。」
「鍵がかかってどうしても開かない部屋がございました。鍵は紛失しております。」
「扉壊しゃいいだろ。いかにも怪しい。」
「もちろん着手しております。おりますが、蹴破れないのです。飛び出しが分厚い鉄壁でして…。」
「そこはもとは何の部屋だったんだ?」
「以前は…食糧庫だった部屋です。」
「………変更したとしても武器庫か……。」
ベクトランはこめかみにとんとんと指をリズムよく落とす。
少し引っかかるが……。
「見張りを念のため……」
ベクトランそう言いかけた際に、草原の中央の砦の火が強く燃え上がるのが見え、もう一人の部下が走り寄り、焦った声で告げる。
「中央砦はニッケ将軍の軍が陥落寸前まで、追い込んでいるとのことですが、こちらに中央から離脱したと思われるクラリス軍およそ一万が向かってきております!」
「一万だと?」
ベクトランが思わず聞き返した。
「離脱したのではなかろう。数が多すぎる。ラルーの鼠はなんて言っている。」
「今のところ、何もありません。」
ベクトランは松明を足で乱暴に蹴り倒した。
「役立たず野郎!」
部下の悲鳴が聞こえたがベクトランはすぐさま屋上から階下へ降りていく。
ーなぜ、こちらに来るなら、砦から撤退したんだ。間に合わなかったのか?
ベクトランは大軍への対応を考えながら、頭の中でぐるぐるとそんなことを考えていた。
一万の軍。35番砦を落とすには多すぎる。そう。多すぎるのだ。
くそっわかんねぇ。わかんねぇがここから後退するわけにはいかない。この砦を守りきることは有利なはずだ。砦の周りは長く高い城壁がある。仮にミルダを攻めるとしてもこの砦を通らないわけにはいかないのだ。
まさか本当にミルダを取りに?
そうすると一万は少なすぎる。
中央はどうする気なんだクラリスは。青狼軍は守りは強いが名だたる武将あまりいない。若い軍だ。第二王子はのらりくらりでまともに組み合わない。ましてや、積極的に領土拡大したいというリズのような下心に興味自体ないように感じていたが…。
「ベクトラン様!!」
「今行く。いいか。この砦は俺達のものにするぞ。この砦から先の領土は切り取り次第と聞いている。絶対取り返されるな。」
ベクトランはワインの瓶を叩き割ると自分の獲物の大剣を鞘から抜いた。
「クラリス軍はそのほとんどをルーテシアの農民連中と聞いている。我々が恐れぬに足りねぇ。安心しろ。」
まるで自らに言い聞かせるようにベクトランは大声で言った。