61 知り得ていて分からないこと
屋上で食事をすると先触れが来て、ベルクートはルナティスから遠ざかった。先触れの女官はベルクートを一瞥するも、ルナティスに向き直り、告げる。
「殿下自ら、屋上に天幕を張ってお待ちしておりますとのことでございます。」
ベルクートは何度も屋上で?と黒髪の年かさの女官に繰り返していたが、女官は無言で頷いたあと、ベルクートを視界から外した。そのあと、ルナティスに向き直り優しい声をだした。
「ルーテシアでは気温が高いときは、中庭や屋上で食事することは多々ございますよ。」
「そうですか。」
ルナティスは女官ウゴリスに微笑みを返す。ウゴリスはこの都市の治める、キースの母方の一族の者であった。屋上と聞いて、サラもはにかみながらルナティスに声をかける。
「屋上……、それは、ルナティスさまは初めてですね。」
ウゴリスも高い声をだす。
「そうでしたか。ナイトピクニックは、とても楽しゅうございますよ。」
ウゴリスの榛色のまるっこい優しい瞳に、ルナティスは少し苦笑する。
「不謹慎じゃないかしら。」
「ルナティス様は、明日から戦いの毎日です。今日の夕べくらい気を楽にされてもバチはあたりません。」
ウゴリスはとんでもないというように首を振る。
ルナティスはそんなものかと思うと、ウゴリスは口元で笑みをつくりながら続ける。
「明日からは、この地ではわたくしの姪のユナイが、あなた様の身代わりを勤めますので、安心してくださいませね。」
サラはなるほどと言ったかたちで頷く。
「あなたの姪でしたか。なかなか決まらないと聞いてましたが……。」
ウゴリスもそれに頷く。
「ユナイは、アデリード殿下とは幼いころから親しいですし、ルーテシア部族の娘で、そのあたりのことをよく理解している娘ですから、適任かとは思います。」
サラは少しだけ眉をひそめたのを、ちらりとルナティスは横目で見る。
そのあたり……のこと。親しいということはその……。
本当に思わず、考えなしにルナティスは尋ねた。
「……ユナイというあなたの姪は、殿下の恋人ですか?」
ルナティスが考えを深めるより早く、空気が強ばったのを見て取ったのか、ウゴリスは、やや言い訳するような声をあげた。
「ユナイは恋人ではありません。かつてお情けをいただいた女に過ぎません。」
ルナティスは思わず目を見開いた。自分で聞いていて一瞬頭が真っ白になった。
ルナティスが押し黙ったので、ウゴリスがすこし慌てた声をだす。
「ですが、ただ………その、ルーテシアの文化にもまだ慣れておられないので戸惑われるかもしれませんが、この地ルーテシアはそもそも一夫多妻です。ルーテシアを治めるレイラス一族は、他の部族から妻を娶ることは慣例でございました。正式な妻は初めて婚礼をかわした妻、第一夫人となります。第一夫人の権限はその他の妻とは比べ物になりません。妻でもない相手など、いちいち腹を立ててはいけません。」
話せば話すほどから回るといった感じで、ウゴリスは一気に言いきった。
黙ってみていたベルクートがため息をついた。
「我々はもう、失礼してもいいだろうか。」
そう言って、ルナティスをちらりと見る。シエルが本当にくだらないと言うようにつぶやく。
「ルッティはどこに行っても、ロゼリアと同じ扱いをされるんだな。ロゼリアにしてもクラレスにしても一夫多妻な国は野蛮だな。」
ウゴリスは、シエルをきっと睨み付けた。ベルクートはシエルを諌めるように一瞥したあと、ウゴリスに向き直った。
「ウゴリス殿……。婚姻に関してはその地域、地域で文化があるだろうが、何も嫁いできて間もない妃殿下に今言うことはなかろうに。」
ウゴリスは、気まずそうにしているのを見て、ルナティスはどこかあまり深く考えずに、声をだした。
「知ってます。ルーテシアは、クラレス王家が血脈を絶やさないよう、ふたり妃を置くのとは違った意味での一夫多妻制であることは。族長はその土地ごとの部族からの娘を献上され、それを妻とする風習があること、男だけでなく、女の族長は二人の夫を持つこともあること。そのことについてはクラレスとルーテシア地方ではだいぶ価値観に隔たりがあることもです。」
わかってはいる。きちんと資料で確認してきた。そもそも結婚するにあたり、妃がいないにしても、妾がいることだってある。一夫一妻のアウル神皇国の、ルナティスの父でさえだ。問題は夫の恋人に力を持たせてはいけない。自らの地位を脅かされないことが大切なのだ。
私はちゃんと妃というものがどうあるべきか理解している。
わかっている、だから大丈夫。大丈夫なはず。ルナティスは心で三回ほど唱えて、ふぅっと息をもらす。
「ベルクートも、シエルもお気遣いなく。ウゴリスも気にしなくていいです。さて、支度をいたしますから、サラ以外退出して。」
ルナティスは三人にそう言いきると、奥の部屋に引っ込んだ。
「ルナティス様?大丈夫ですか?」
サラが優しく扉の向こうから声をかける。ルナティスは奥の寝室のベッドにうっぷしていた。
「ユナイという娘は、私が殺しましょうか?」
「……やめて。優しい声でひどいこと言わないで。」
「ひどいことではありません。ルナティス様が望めば可能な範囲のことです。それとも無神経な王子に鉄槌くらわしましょうか。」
「ほんと……やめて。少し考えれば落ち着くから。ちょっと放っておいて。」
ルナティスは冷や汗かきながら、改めて、ベッドに潜り込んだ。
子供じゃないんだから、イチイチ腹を立てることではないはずだ。私はちゃんとわかってる。ルーテシアの文化も資料を読んできたんだから。
でもすごくモヤモヤする。
唇に手を置く。まだの唇の感触が残って気恥ずかしい気がするのはきっと私だけだ。あれから、忙しくしているからかもしれないがアデルの対応はいつも通りだ。
アデルが結婚前に遊ぼうが、今も恋人とつながっていようが、ウゴリスの言うようにいちいた腹立てるなんてバカげている。アデルが優しいから、つい気が緩んでしまう。緩んでしまうと期待してしまう。
なにを期待しているかわからないけど……。ルナティスは左手にはめている紫のバングルを右手でぎゅっとつかむ。
そう、私は期待した。
私にだけ特別優しくしてくれてるんだと、少し期待してしまった。
はあっとため息をついて、ルナティスはゆるゆると起き上がる。
ーいいですか。殿方を溺れさせても、自らは溺れてはいけません。
ノア王妃のお小言が頭に響く。ノア王妃とウゴリスが重なる。彼女達は正しい。こんな些細なことで、傷つく私が子供で愚かだと思う。
ルナティスは膝をぎゅっと抱えた。目からポロポロ涙が溢れてくる。
アデルの前では泣いたり笑ったりしてもいいとどこかで自分を許していた。
ルナティスはごしごしと目元をこする。
そんなことはない。甘言にだまされちゃいけない。抱き締める手の温かさにほだされちゃいけない。
……集中しなくちゃ。温かさを少しずつでいい、忘れなくては。絆されそうなんて、あってはならない。有事なのだから、いつものとおり、神経を研ぎ澄ましていかなくてはならない。
ここのところ、戦い前に、私はたるんでた。それだけだ。
ルナティスには、目を瞑らなくても、過去の前線の風景がはっきりと思い起こせる。その血の匂い。怒号、馬の嘶き、兵士達の苦悶に満ちた死に顔。骸の海。夜襲がくるのではないかと構える陣営の兵士の緊張。逆に夜襲を仕掛ける前の、自分の息さえ響いてしまうのはと思うほどの張りつめた静寂。
ルナティスは、ほうっと息をついてみる。
ここは戦場でないということ、明日からは戦場に赴くのだと実感する。
夫はどんな戦い方をするのか。今回で見極めておかなくては。ここまでの準備はどちらかと言えば、文官の仕事だ。あとは現地で適宜判断をしていかなくてはならない。
ルナティスは、ベッドから起き上がり、袖机の引き出しから、過去のリズ戦の報告書を持ち出してパラリとめくる。何回も読み返したものだ。そして引き出しの奥にしまってある赤い封書を見る。
レイラからの手紙。
ルナティスはまだ封してある赤い手紙を手元に手繰り寄せた。アデルは一人で読んでと言ったから、逆になかなか読む気にならなかった。
ー王太子は大したこと書いてないって言ってたよ。
アデルの微笑みを思いだし、ルナティスはゆっくりと中身を確認する。
ー親愛なる ルッティ
私からの婚礼の最後の贈り物に、アウルのキリル山脈にある神殿とその一帯を差し上げよう。あなたの冒険の軌跡をそのまま。
冒険には宝物がつきものだが、残念なことに、湖の高貴な宝物は今は見当たらない。行方はあなたがくわしいかもしれないが。
くれぐれも紛い物には気をつけて。
共に宝物を取り損なった同志のあなたが、もし紛い物を見つけたら、きちんと粉砕してもらえると信じている。あなたの冒険が続いていくことを祈って。
ルナティスは手紙を見つめた。恋文だったらどうしようかと思ったが……。
ルナティスは頬杖をついてしばし文面を読み返す。
「やっぱり、覇王の石を壊したことを疑っていたのね。湖に沈めたこともばれましたか。」
レイラの残酷な微笑みを思い出す。美しい、微笑み。
もともと壊す予定の覇王の石を捨てたところでレイラは気にはしないはずだ。
覇王の石は湖に捨てたのだ。湖をさらえるわけない。みつかるわけがない。
レイラは覇王の石が兵器であるとは知らないのだから。ましてや紫水晶の瞳の者の血で作動する石だとも。
もしそうだと知ったら、どんな手を使っても得ようとするだろうし、ルナティスを許しはしないだろう。レイラはそういう人だ。
ただ、紛い物はなんのこと?なんの暗喩なのかしら。
ー覇王の石を湖に沈めたことを知っている。
ーレイラは武器をリズに流している。
ひどく嫌な予感がする。レイラはあの血塗れのキリル平野と山頂の神殿を私にくれると言うことから、もうあそこは用なしなんだろうけど。
宝物は覇王の石であるとするなら、紛い物はなにかしら。
ルナティスはアデルから言い含められたときを思い起こす。
アデルはめんどくさそうにルナティスに言ったのだ。
「リズは国内情勢の不安定なときほど、クラレスやサルーカを攻め、領土を掠め取り、国内を安定させるんだよ。王都まで攻め滅ぼす気はないんだ。仮に攻め滅ぼしても、新たな領土を維持しきれない。それはリズもわかっているはずだ。こちらにでてくるときは何か欲しいものがあるんだ。だから、こちらはあちらが気がすむまで守り、取れないと思ってもらうしかない。同じ民族同志の戦いの間に異民族の私たちが挟まって熱くなり、命をあまり散らしたくないのが本音だね。俺のルーテシアの民の犠牲をつくすべきなのはルーテシア所領だと思っている。だけど、最近は王都なんて狙わないでルーテシアばかり狙ってくるのは……、王都よりルーテシアのほうが豊かで実効支配可能と思われてからかもね。」
アデルは鷹のくるくるを撫でて、手紙をつけていく。ルナティスはその手紙の中身は知らない。
「あなたは、クラレスのために戦うわけではないのですね、」
ルナティスはアデルを見つめて言う。アデルはルナティスに振り返らず、窓辺でくるくるを放す。くるくるは勢いよく飛んでいく。
「なぜ?」
アデルはルナティスを振り返り問う。ルナティスは改めて問われて、些か驚いた。
「あなた自身、自分はルーテシア人だと思っているんですよね。」
「はは。想像にまかせるよ。ただ、言えることは、ただの国境争いに止めるように、努力してほしいと言うことだよね。あちらの思惑がそうでないとしても。国境の小競り合いにするんだ。間違っても、ルナさんは命を賭けないように。何を狙っているかだけ全力で考えて、欲しいもののだいぶ外側で帰ってもらうんだ。大きい円で物事は見てほしい。」
大きい円……。
狙ってるものは、国境沿いの豊かな小都市であると思っていたけど。
「今回はリズは何を求めているのかしら。」
ルナティスが囁くと、アデルはルナティスの手元の赤い手紙をちらりと見て、にっこり笑った。
「リズに、何をさせようとしたのか……かもしれないね。」
アデルはいつものように優しく笑った。
ルナティスは一人で我に返る。
そう、夫は笑ったのだ。
「サラン……。」
ルナティスは小さく呟く。
そして徐にアウル神皇家の家系図を書き出す。
サラン……。そんな人は神皇家にはいない。紛い物とはそのこと?
スルタナニアには湖がある。キリルとの共通点はそれだけだ。
「ラルーにヒルカがいることが悔やまれる……。もう少し覇王の石のことを聞いておけばよかったかもしれない。」
ああ、でも、ベルクートがいる……。
ルナティスはふと思い出す。枢機卿であったベルクートに聞けばいいのか。
今ならすんなり聞ける気がした。
「ルナティス様そろそろ準備しませんと。」
扉の外からサラの声がかかった。
ルナティスは涙が乾いていることに気づく。
やっぱり、私はこういうことを考えていることのほうが性に合うとルナティスは苦笑して、紫のバングルを外した。