60 愚かな行為
ルナティスはリズ国境沿いのリュークという城塞都市にきていた。リュークはルーテシアの東に位置している。北部はオーウェンの所領に面している。オーウェンの所領のその先に飛び地領土のラルーがある。
リュークはラルーと同様、リズとの最前線。都市を守るだけではなく、その高くそびえる二重の城壁は、ルーテシア地方に東から入る際の軍門でもある。
そのリュークの城塞都市の中央にあるサテリナ離宮の一室にルナティスはいる。
ルナティスは女性らしい美しい机に頬杖をついて、リズ迎撃作戦資料に目を通していた。
耳を澄ますとガチャガチャと中廊から槍が擦り合わさった音がする。
城内は慌ただしい。それもそのはずだ。明日にも、戦場となるシスレ草原に全軍動かす予定だ。どこも最終確認だろう。
サテリナ離宮の王族の妃用の部屋の片隅に机が置いてある。それは夫の第2王子の執務室にあるようなものではない、猫足で花の模様が彫られた美しいものだ。この机は、貴婦人が美しい絵物語や、手紙を書き付ける為にきっと作られたに違いない。
こういう机はルナティスが暮らすルセタや王都にもあった。そちらの机はロゼリアのノア王妃から、ルナティスへの贈り物だ。
「女の机と言ったらどこも似たり寄ったりなのよね」
この城はどちらかと言えば、軍が逗留することを想定して作られているにも関わらず、この女人用の部屋の設えはルセタのルナティスの部屋よりも女性らしいものだ。
壁紙は淡い桃色で美しいはまなすが描かれている。
ルナティスの装いはそこではそぐわないものだ。群青の体に沿ったチュニックに紺色のぴったりとした軍用ズボンを履いている。ルーテシアの軍服だ。羽織る軍服は嵩張るので室内では羽織っていない。
その隣でサラが茶器に紅茶を注いでいる。サラも同様の格好をしている。
「ここは客人用の部屋と聞いてましたけど、だいぶ女性らしい部屋ですね。」
サラが部屋を一瞥する。
「そうね。」
「まあ、ルナティス様にはぴったりかとは思いますけど。ここにくる姫君様用の部屋ですから」
「ここに、私のかわりの姫が逗留するのでしょう?」
形ばかりとは言え新婚早々、戦場に第2王子を赴かせることに国王はためらいがない。そんな夫を持つ不遇なルナティスに国王は王都の離宮に戻ることを勧めてきている。
第2王子の妃であるルナティスが軍に副司令の任についていることはもちろん公にされていない。
ルナティスはアデルの類い稀な、寵愛を受け、戦場近くの街……ここリュークについてきたという話になっている。その件で王都の近くからは、高貴な妃を戦場近くに連れていくアデルへの非難があるとも聞く。
アデルは笑顔で非難を交わしながら、どこふく風だ。
「ルーテシアの、レイラス家に近しい部族の姫が、ルナティス様不在時は代わりを務めるそうです。」
「その子の好みの部屋なのかしら。」
サラはルナティスの呟きにくすりと笑う。ルセタと違いほとんど街頭で顔を晒していないから、髪の色もなにもかもリューク市民にはわかっていない。それに、リューク市民はルナティスなんかにかまっている余裕はない。もうすぐ戦いが始まるとのことで、リュークからもっと西にある姉妹都市に移れる者は移動を開始しているからだ。
「確かに、ルナティス様の日頃の使うものより些か乙女ちっくですね。」
サラは薔薇が描かれたカップをルナティスに差し出す。ルナティスは軍服姿のままそのカップを受け取り、口にする。
「ミルクたっぷりで、すごいな贅沢な味。」
「ルナティス様、もう少しマシな言い回しはございませんか。」
ルナティスはちょっと笑いながら、答える。
「いや……違うの。本当に、ルーテシア地方はどこも活気があって、軍部配給のこのお茶ですら、こんなに贅沢なものかと思うと……明日からの環境の落差についていけるかとおもって、言っただけよ。戦い前は少し集中したいのに、こういうの逆に、落ちつかないんだけれど。」
「ここは、まあほんと様々な物が揃うところですね。それはさておき、集中できなくなるようなことがありましたか。」
サラはルナティスの顔を覗き込んだ。ルナティスは思わずかっと顔が赤くなった。ルセタで、アデルとキスしたときの感触が生々しくよみがえってきてルナティスは狼狽えた。
レイラとだってしたことあるのに、何どぎまぎしてるのよとルナティスは自らを叱る。
「なにもないわ。」
「何かあっても別に構わないんですよ。夫婦なんですから。」
「そういう意味では、失敗続きね。本当になにもないわ。」
ルナティスは眉をしかめながら言った。アデルはあれからもルナティスとは以前とまったく同じ距離感を崩さない。
「そうですか。それは残念。ですが、ご懐妊してしまうと姫様はもう戦にはでれませんしね。あせらず、追々でいいのでは?」
サラは冷たい瞳だが、優しい声音で言う。
「ノア王妃が聞いたら怒りそうな話ね。」
ルナティスは、戦神の妻のノア王妃のお小言を思い出す。
ー夫を支え、世継ぎを産むことが女の戦いなんです。剣も弓矢なんてもたなくていいです。あなたのその美しさを武器にしてクラレス王国で権力を持つことが可能です。ここでの……陛下の……男のくだらない戦いのことなんてもうお忘れなさい。
ルナティスはノア王妃のお小言を思いだし、くすりと笑う。
夫に色仕掛けは通じず、くだらない戦いにまんまと巻き込まれてる。
ルナティスは窓ごしに城壁を見る。城壁の上の踊場でルナティスの夫のアデルが鷹のくるくるを手に止め、エサをやっている。キースも一緒だ。何か文書を飛ばすのだろうか。
篝火に照らされる夫は楽しげにキースと談笑しているのが、この部屋からもわかる。
夫は高いところが好きだと、ここに来て初めて知った。城壁の踊場で昼寝していたりするし、夜は星ばかり見ている。
ルナティスも最近知るようになったのだが、夫が夜、ああやって鳥を用いて文書を飛ばしたり、キースと談笑したりしているときは道具屋の仕事をしているのだ。
アデルもルナティスの視線に気づいたのか、手を振ってくる。
ルナティスは手を振るかどうか迷ってるうちに、鷹のくるくるがエサをねだったので、アデルはルナティスから視線を外してしまう。
星読みの道具屋のことは、側近以外知らないレイラス家の秘密なのだ。国王すら知らない秘密であるとセルジオから釘をさされた。
国王すら知らないことにルナティスは少なからず驚いたものの、すぐに腑におちた。レイラス家の富は道具屋稼業によって産み出されたと。そしてルーテシア地方の富もレイラス家を中心に波紋状に広がっているのだと。
ベルクートとシエルはその情報、道具屋がアデルだと知らない。それは、やはり信用されていない事を意味するはずだ。飛び地領地のラルーに置いたのは失敗だと言うけど、そこに置かざる得なかったと言うのは何もロゼリアの手からベルクートとシエルを守るためではない。
なるだけルーテシアから遠くに置きたかった。
そして今そこにヒルカを置いている意味。
ルーテシアの王子が王都よりも早く、リズのクラレス侵攻の情報を掴めたのか。
そんなに早い情報なのに、攻める先がまだ特定できないのはなぜか。
今のところ、シスレ平原の先にリズが進んでくると想定していり。リュークを背中にし、守るように戦うかたちだ。そのため、明日にもリュークの1番外側の外壁、つまりは平原の最前線の砦に陣をひく。
ルナティスは頭の中でまだ整理できていない事柄があるし、ルナティスに開示されてない情報もまだあるはずだ。
そういった意味では、ルナティスはベルクートとシエルと立場は似たり寄ったりだ。
「私の身代わりの女性はどんな人……。」
もう1つ知らされていない情報を口にだしたとき、トントントンとドアを叩く音がする。
「ベルクート様とシエル様がお越しです。」
女官が告げる。サラがふぅっとタメ息をついてこぼす。
「今日は姫様は、殿下と夕食をご一緒する予定があるので、長くはここにいてほしくはないんですけどね。」
「そうね。」
ルナティスは、机の上の資料を手早く自ら片し、サラには城壁の外のアデルが見えないようにカーテンを閉めさせた。なぜか道具屋としての夫をベルクートに見せたくなかった。
夫から頼まれたこと。
光になれ……か。難しいな。
ルナティスは内心頭を抱えた。
とりあえず、二人を部屋に通す許可をだした。
「ご機嫌よう。妃殿下。」
ベルクートとシエルの二人は声を揃えて言う。ルナティスは優しく笑う。
「ご機嫌よう。ベルクート、シエル。」
ルナティスは二人に向かいのソファーに座るよう言う。
「今日は、リズの侵攻における防衛戦のご報告で参りました。」
ベルクートが恭しく言う。
「わかりました。報告してください。」
シエルが資料を広げて、説明していく。これはもう自分がアデルから聞いた内容だった。ただ、まるで初めて耳にしたかのように聞く。きっとアデルから報告にいくように言われたのだろう。
アデルの希望。それはベルクートとシエルがリズと内通しないようルナティス引き付けるようにとのことだ。
「あの、今後の言葉遣いについてですが、楽にしてください。皆の前以外では敬称もいりません。敬語も…なしにしましょう。そのほうが率直な議論や報告ができるはずです。ライラスもそうしています。」
これは、ルナティスの最初の譲歩だった。ライラスは結果としてだが。
ベルクートはルナティスをじっと見つめる。ルナティスも見つめ返した。
もう内通してるのだろうか?
この国で……アデル達がわからないことなどあるのだろうか。もはや内通したことをわかった上でのことなのか。
ルナティスはまだ答えをだせないでいる。
光になるということ。
それは何を意味するのか。
「そうか。」
ベルクートが静かな声で呟く。
ルナティスは、サラにベルクート達の茶をいれるように言う。
「あなたは、血縁的にも従兄にはなりますし、あなた相手に上位の言葉を使うのは疲れます。ここはルーテシアで儀礼よりは親しみと連帯が重んじられているようですし。私も早く慣れたいところです。神学校の頃のような言葉にもどしませんか?シエルも……。」
ルナティスはシエルのほうもちらりと見て提案した。シエルはルナティスの顔を見ない。
「公の席以外のときはお受けしてもいいのではありませんか?ベルクート様」
シエルはベルクートにやんわりと提案する。
「ベルクート様がルティ様の従兄であることに、かわりないのですから。」
「そんなことに、なんの意味があるのか……。」
ベルクートはとりあえず頷いてみせた。ルナティスはほっとする。
「今日は……結局のところ……何用ですか?」
報告以外もあるはずだ。
ベルクートはふぅっと息をはいて言う。
「ルティ。おまえはいいのか。なぜ、こんな無理な司令を王子は通すのだ。私達が側近だなんて……嫌じゃないのか?」
「それはこちらのセリフです。拒む理由は私よりあなた方のほうがあるでしょうに。あなたこそ、嫌なら断っていいのですよ。」
ルナティスは紅茶に口をつける。ベルクートも口をつけようとすると、シエルがいつもの癖なのか、ベルクートよりも先に口をつけた。ルナティスは目を細めてその様子を見ながら、気にしないようにして茶を飲み下す。
嫌か嫌じゃないのか。そんなこと考えていい世界に生きていないとルナティスは漠然と思った。アデルから頼まれたことだからだ。その前に自分がアデルに二人を頼んだことが回り回ってルナティスの手元にきただけだ。
この人の妻を手にかけたことも同じだ。回り回ってルナティスの前に来てしまったのだ。
詫びろと言うなら詫びるが……。
ルナティスは茶をゆっくり飲む。
私が詫びたところで、もうどうしようもないことなのだ。
ベルクートの心はおさまらない。そう、おさまる日はこない。光になれなんて……そんな日はこない。彼らに許しを乞うことすら、私は欺瞞だと思うのに。
ルナティスはぼんやりと思う。
ここで私を殺すなら、私は払いのけるだけだ。
殺したくないのにな。
ルナティスは熱い茶をふぅっと冷ましながら口に運ぶ。考えながら、あることに気づき、目を見開いた。
そう……殺したくない。
厄介だとは思ってたけど、結局のところ私は湖でふたりをロゼリアに引き渡したくなかったのだ。
この人達が生き残ったのは幸運だから。
ベルクートはアウル神皇国のクレマチス隊として、近衛の一つとして戦っていた。相手はレイラだ。レイラがベルクートを逃さざる得なかったのはきっと覇王の石が放った火の玉のせいだ。それがなければベルクートは殺されていた。間違いなく。
「断れるわけない。我々に断る権利はない。」
シエルが冷たい声で言う。
「あなた達に、私達の国は蹂躙され、滅ぼされたのだから。」
ルナティスは冷たい瞳をシエルに向ける。
「ここはルーテシアです。あなた達を滅ぼしたのはロゼリアですよ。」
「あなたが滅ぼした。ちがいますか?」
シエルは睨み付けるようにルナティスを見る。ルナティスはじっとシエルを見つめる。
ルナティスはお茶のおかわりをサラに促した。
「そうで……」
「もうよせ。シエル。」
低い声がルナティスの言葉を遮った。
「我々は湖で殺されそうだったのですよ。ベルクート様。」
シエルがぽそりと呟いた。
「あれは……。あそこから立ち去って欲しかったのよ。」
ルナティスはうんざりした声で言う。
「そもそもルナティス姫の先駆けの使者として我々の反対勢力に肩入れするかたちでアウルにくる時点で、私とベルクート様を殺そうとしてたのには違いないだろう。」
シエルが静かに言うと、ルナティスは目を伏せた。サラが低い声を発する。
「シエル様、不敬が過ぎます。」
場が静まり返り、ルナティスは伏せていた瞳をベルクートに向ける。
「ベルクート。」
ルナティスは囁くように言う。幼い頃と同じように。
「なんだ?。」
ベルクートも紅茶に口をつける。
「レイラは強かったでしょうに。あなたが生き残れて本当によかった。」
シエルが何か言いかけようとするも、ベルクートが目で制する。
「ルティ。」
「はい。」
ルナティスもベルクートを見つめた。そこにはお互い何もなかった。ただ静けさがあった。
「これだけ、教えてもらえないか。」
ベルクートも茶器を置いた。ルナティスはベルクートを見つめ続けた。
「なぜ、ロゼリアはあの時、アウル神皇国に侵攻したのか?」
ルナティスは目をそらさなかった。
「あの時が……最後の機会だったからです。」
ベルクートもルナティスをじっと見つめる。その眼光は鋭さがあるわけではなく、ただ静かだ。
「…………。私の祖父、戦神と言われる国王陛下は玉座に着いた時から、アウル神皇国とアウリスト教の紫水晶上位の教えを全て壊してしまいたい。アウルから与えられた独立をよしとしていませんでした。本人から聞いたので間違いありません。」
ルナティスは目を伏せる。
「陛下は、母を失った私を祖父ではなく、父として育ててくれた。陛下は、自身が教えられること|を私に教えた……。」
ルナティスはもうベルクートを見ずに紅茶に口をつけた。
「私が実父から得られなかったものの代わりを陛下なりに考えてくれていたと思います。従兄も……、レイラ王太子も私に優しくしてくれました。」
ベルクートも傷ついた顔をした。ベルクートもまたルナティスの従兄であるのだ。
「陛下は、アウル神皇国のへの属国を意味する、紫水晶の人質を……つまりは私のような存在を作りたくなかった。同時にもう紫水晶尊ぶ思想の奴隷でいることはできなかった。ご存知でしたか?ロゼリアのアウリスト教はあなた方の本家からは、卑しい亜流でしょうが、もはやアウリスト教の教義も大変おおらかなものに変貌している、いや陛下がそうさせたのです。紫水晶でなくても、いや青紫ですらなくとも神官に成れます。全く違うものに成り代わったのです。長い年月をかけて、陛下がなさったことです。政治と宗教の間に戦いという楔を打ち込んで、3ヶ国滅ぼし、再建するときにぐちゃぐちゃにしたんです。そんなことも知らずにアウル神皇国は今一度、ロゼリアの紫水晶の王子もしくは私のどちらかの婚姻を……、婚姻という名の人質を要求した。」
ルナティスは自ら自分のカップに紅茶を注ぐ。砂糖をいれミルクを足す。スプーンでくるくるかき混ぜる。
「陛下の逆鱗に触れたことも確かですが、3ヶ国を自らのものとしたロゼリアにとって、それはつまり、ロゼリアにとって人質がいない状況の最後、人質の憂慮なく攻める最後のチャンスでした。」
カチャカチャとルナティスはスプーンを回す。渦をじっと見つめる。ベルクートも自分のカップを見つめた。
「質問の答えとして、適切だったでしょうか。」
「そうだな。十分すぎるくらいだ。」
カチャカチャとカップの音だけ響く。
「教えてくれてありがとう。」
ベルクートは礼を言う。
「不思議ですね……。ほんとお礼を受けること自体。」
ルナティスは悲しく微笑んだ。
「ルティ。おまえはロゼリアにいて幸せだったのだな。そして、ここにきても幸せか?」
ルナティスは、思いも寄らないも質問にカップからお茶がこぼれた。
「はい?」
ベルクートは眉をひそめた。
「そんな変なこと聞いていないと思うが。」
ルナティスは首をかしげた。
「幸福かどうかわかりません。どの国でも自身の立場を守るのに精一杯で幸せかどうかは考えたことありません。ただ、私は幸せを思い浮かべると、アウルに母とヒルカと三人でささやかなお茶会と戦神……お祖父様が人質時代に行ったときの様々な国話をしてくれる夕べ、レイラ王太子とダンスの練習をしたり琵琶を弾いたことが思い起こされるます。どこかではない気はします。今は……、まだ来たばかりでわかりません。それでもここは……。」
ルナティスはぼんやりとカーテンがかかる窓辺を振り返る。
「ここに不満はありません。私は、リズにここが侵略されることはよしとは思っていません。」
「そうか。」
ベルクートは大きい手を伸ばすとルナティスの頭をガシガシと撫でた。
そして掠れた声で、もう一度そうかと呟いた。ルナティスもその手を払わなかった。
ルナティスはベルクートのぬくもりを感じながら、この人は長く生きられないだろうと漠然と思った。