51 瞳に誓え
「君を取り押さえるのは難儀したよ。」
ヒルカは笑って、ベルクートにお茶を淹れている。妙に鼻につくつよい花の香りだ。
ベルクートはヒルカをやたら豪奢な一人がけの椅子に座っている。ベルクートの国では珍しい赤茶の壁紙にモチーフの柄が入っている。椅子の布地部分も同じ柄になっている。
ベルクートはテーブルの先にある書類が苦々しく見つめた。
何故かクラレスの通行許可証と滞在証がある。この館は持ち主では得体の知れない商人だと言う。
得体の知れない商人達は皆、榛色や黒い髪の男達だ。一人、珍しく琥珀色の髪と瞳を持つキースという医師の治療を受けながら、通行許可証の説明を受けるも、何も決める気にならないでいた。
身分の低い商人達にあれこれ世話をされることにも、ベルクートは慣れなかった。
呆けているベルクートに痺れをきらして、ヒルカがやってきた。
ヒルカは無言でベルクートに長剣を渡した。ヒルカの耳元で切り揃えた琥珀色の髪が揺れる。
「なんですか。これは。」
贈り物の意図が見えずに眉をひそめた。
「そろそろ槍から変えたらと思ってね。」
「槍は戦場で一番効果的な武器ですよ。私の化身と言ってもいい…。それを?」
ヒルカは冷たい瞳で、ベルクートを見た。
「国が滅んでも、それを変えられぬか?」
ベルクートは言葉を発することができなかった。何を問われているのか
「自害せよとのことですか?」
ベルクートはヒルカを見上げ聞いた。ヒルカは思いも寄らないといった顔をした。
「こんな長いものでないと死ねないのか?」
ヒルカは、ははっと笑った。
目の前の男は、母国が攻め滅ぼされているのに、笑っている。ベルクートの世界は無くなってしまった。自害して果ててしまいたいのにも関わらず、目の前の男は笑っている。
「あなたは、なぜ、ロゼリアについたのですか?あなたは、アウル神皇国の皇子だ。」
ベルクートは掠れた声で言った。ヒルカはベルクートの寝台の隣に座ると、頬杖をついた。
「私は、皇子で産まれついたが、この瞳に何も感じなくてね。ひとつの優位性も。」
ヒルカは温かい茶を自分で淹れて、自分だけ口をつけた。ベルクートはそれを見て、自分は喉が渇いていたことに気づいた。ヒルカは優雅によい花の香りのする茶をベルクートには淹れてくれなかった。
ベルクートは茶を所望することができなかった。
「優位性…。紫水晶の瞳をそんなふうに揶揄するとは…。」
「そんなふうに世界を見る人間もいるんだよ。君らが知らないだけだ。」
ヒルカは幼子を見るようにベルクートを見た。ベルクートはその視線に堪えきれず、下を向いて言葉をつなぐ。
「あれは…。誰です。」
「あれとは?」
「あれ…、ルティの瞳の色…。あれは紫水晶だった。いくらあなたの庶子だとしても、青紫の瞳から紫水晶に変わった人間がそう都合よくふたりもいない。」
ヒルカは茶を飲み干し、答えた。
「薬を使っていたんだよ。」
「薬…。」
ヒルカは胸元から小瓶を取り出し自らの瞳に垂らす。
ヒルカの青紫の瞳が変化する。
ー美しい紫水晶の瞳に。
「これは、どういうことですか。」
ベルクートが声を荒げるとヒルカはカップにこぽこぽと紅茶を注ぎ、ベルクートにカップを差し出す。
「私も産まれてから、ずっとこうして青紫にしてきたんだ。なまじ紫水晶で産まれるよりも…。という君らの先々代の親心さ。」
ベルクートは震える手でカップを受けとる。ヒルカはもうひとつの薬を目に垂らす。そうするとあっという間に青紫に戻る。
先々代の神皇は自らの嫡男に早々に帝位を譲り、隠居をし、年の離れた侍女とキリルで過ごしていた。
公妾にもならない身分の女の間に産まれた皇子。それがヒルカだ。
アウルの戦神。
ヒルカはニコニコと笑った。
「不思議かい?君らの言うところ、劣り腹の血筋に尊い血筋の証があるのが。」
ベルクートは答えられない。目の前の男…、優しい大叔父が恐ろしいものに見えてくる。
「瞳の色にも、なんの価値はない。ただの国家の詭弁さ。」
ヒルカは2杯めの紅茶に口にする。
「君は、それをこれから思い知るさ。幸運にもこの屋敷はその最たる人物のものだしね。」
ヒルカは、目で通行手形を見るように促した。
「質問にお答えはいただけないのですか。」
自分の声が震えていることにベルクートは気づく。
「あれは、戦神の娘だよ。」
ヒルカは紅茶のカップを降ろすと、ベルクートを見つめて続けた。
「そしてルティを守るために湖に飛び込んだ夜空の瞳の男は、クラレス王国の第二王子アデリードだ。君の、その通行手形を用意したのも王子だし、この館も彼のものだ。」
よい香りの茶だろう?ヒルカはにこりと笑った。
ベルクートはその日から心に大きなヒビが入ってしまった。ヒビが入りながらも砕けはしなかった。砕けなかったのは、混乱状態が続いていたからだ。
ベルクートがいた染みひとつ許さない世界はそもそも歪みを帯びていたのかもしれない。
いや、そもそも歪みを論じることをできるのは勝者だけか。
ルティは一度その世界で存在を否定されたが、世界を反転させ、その存在を確固たりえるものとした。
アデリード王子がルナティス姫を娶る。シエルはその知らせを受け、狼狽した。
比護者であるアデリード王子がベルクートとルナティスを天秤にかけたとしてどちらを取るか明白だ。そして、ルナティス姫はアウルの名残りを許しはしない。
シエルは、ベルクートが殺されると思ったにちがいない。彼のいつもの態度からすると些かあせった態度に対して、ベルクートは練兵をしながら、それも仕方あるまいと告げた。
自分達の国はもう無く、表の世界から姿を消したのはベルクートのほうなのだ。かつて、ルティが姿を消した際に少ししか心を傾けなかった自分を振り返る。
あの時、姿を消したルティを探せばよかったのか。妻の妹、打ち捨てられた姫の名を思い起こせば違ったのか。
ベルクートは答えをだせずにいる。
考えようとすると、ベルクートに引っ付いていたルティの稚い笑顔が思い浮かび、壊れた姫と母が吐き捨てた言葉が頭に響いた。
答えがでないからなのか、命も取られないで、今も生きている。
「アデリード殿下がいらっしゃいました。」
ベルクートが、シエルに声をかけた。ベルクートは砂煙が残る模擬戦の場を北の砦ラルーの執務室の窓ごしから見下ろしていた。
扉から群青のマントに身を包んだ長身の男が入ってきた。左耳につけた紫の宝玉をつけた銀作りのピアスがシャラリと鳴った。ベルクートは片足をひざまづき、臣下の礼をした。
「遠いところをお運びくださり、ありがとうございます。殿下。」
王子は無言で、上座の司令の席に座る。目線で部下達に座るように促した。向かいはかつてのベルクートを説得した医師…。キース・レイラスだ。その隣にヒルカが座っている。
アデリード王子は紅茶に砂糖を二個いれるとぐるぐるかき混ぜた。考えごとをしているときの王子の癖であることに気づく。
「最近、ここの軍が完成度がいいと聞いてる。」
アデリードは紅茶に口をつけて言う。ベルクートは目を伏せる。
キースが口を開く。
「知らせてあると思いますが、先日、殿下はロゼリアのルナティス姫娶られた。ルナティス姫については、ベルクート殿のほうがわかるのではないか?」
キースは苦い表情でベルクートに尋ねる。苦い表情なのもわからなくもない。ルーテシア地方の者との会議があたたまったことがない。そんな中でのこの繊細な題目だ。
「そのまま、ルナティスを副司令にした。」
そんな冷えきったなか、アデルは切って捨てるように言い放った。キースもあわててアデルに振り向いた。アデルは素知らぬふりで紅茶を口につける。
「アウルの戦いから一年半以上たつ…。」
アデルはベルクートを見やる。
ベルクートは手負いの獅子だ。ヒルカがルナティスから遠ざけたいのもわかる気はする。
「ルナティスのことを変わらず恨んでいますか?」
アデルはベルクートをじっと見つめ問う。ベルクートは眉をしかめ、小さい声で呟く。
「恨むとは…。」
「妃を、大神官を殺したのはルナティスだ。事実は変わらない。」
アデルはその黒い瞳でベルクートを見つめた。
王子の瞳は居心地が悪い。吸い込まれそうで…、なんの感情もうつしていないようで。
ベルクートは返答に困ってしまう。恨むという感情がしっくりこない。いまの心のヒビを言い表していると言うのか。
そして、こうなった今、ルナティスこそがアウルの残った血脈になってしまった。なんと言う皮肉だろう。
アデルは少し、悲しい顔をして、告げる。
「ルナティスのしたことを思いだされるなら、ここを去られよ。」
ベルクートは、なぜ王子が悲しい顔をするのか。訳がわからなかった。
「あれは…。あの人は…。あなたに今後も詫びることはないだろう。謀ったのかも知れない。大切なものを奪ったに違いないが。」
ベルクートは窓を見た。窓の外では北の大地で練兵している兵士達が見える。
「私は、妻を愛してましたよ。政略結婚かもしれないが。妻を失ったことは、今でも考えないようにしているくらい悲しいものです。」
ベルクートは王子の顔を見ず、窓だけ見る。
「妻もそうですが、私が美しいと信じたアウル神皇国もありません。母国が亡くなり私はもっと悲しむべきかもしれない。私が少年だったならば、ひたすらルナティスを、ロゼリアを憎めたでしょう。美しい国は美しい国となるために贄を求めることをわかるようになってしまった。憎むには、美しい国の暗部を、ルティのことを知りすぎています。」
ベルクートは、悲しく笑った。
「あなたは、お優しいのですね。殿下。私の心など問わず、妃殿下にとって私が不都合なら、問答無用でここから追い出せばいいんです。」
アデルは眉をひそめ、ため息をついた。
「そんなもったいないことはできませんよ。それに、私はここをまとめているのが、あなただと妃に伝えていない。妃からはなぜ北のこの飛び地にルーテシア軍を置かないのかと言われるくらいです。」
アデルは紅茶に口をつけた。
「こんなに練兵されてしまっては…、ここの兵士の心を掴まれて、はいそうですかと追い出せない。」
アデルは立ち上がり、窓から兵士達の模擬戦の風景を見た。
「あなたのこと、ルナティスは、情に厚い人だと言っていたんです。神兵一の武人だと。」
ベルクートはその言葉に思わず顔をあげる。
「北の砦、ラルー軍の司令官の任を解く。後任はヒルカ殿がつかれよ。」
アデルはベルクートを振り返り、告げる。シエルががたりと立ち上がる。アデルはシエルを睨むと口を挟ませない。
「副司令の持つピオーネ軍の副官としての任務を命ずる。」
アデルはベルクートをじっと見つめる。
「受けてはくれないか?」
その泣き笑いのような顔に、ベルクートは逆に困惑した。
「私が…、ルティを殺したらどうします。」
「あなたは、ルナティスを殺せない。」
「なぜ、そう言いきれます。」
ベルクートは呻くように言い返す。アデルは頬をポリポリと掻いた。
「あなた、湖でルナティスを殺さなかった。湖にルナティスが落ちたのは事故です。彼女が湖に落ちたとき、私に向かって槍を向けましたね。本当はあなたが助けにいくつもりだったんではないですか?」
アデルはベルクートの顔を覗きこんでくる。
「だから、あなたにお願いしたい。あなたは絶対あの子に邪な思いは抱かず、あの子を守れると思うから。」
「守る?」
アデルは自らの瞳を指さした。
「あなたは、夜空の瞳の私に忠誠を誓えない。それは仕方ないことです。でも紫水晶の瞳のルナティスには、亡国の姫になら、誓えるのではないですか?あなたは、ルナティスを憎めない。妻を殺されても、全てを失っても、あなたは紫水晶の瞳を中心とした世界で生きてきたんだ。」
ベルクートは思わず立ち上がった。
「クラレスには私に忠誠を誓う者はいても、ルナティスに忠誠を誓う者はいない。」
アデルも立ち上がり、ベルクートを睨むように見て低い声で言った。
アデルの顔を見つめながら、この不思議な命令をする王子を見た。
「ルティが、嫌がりませんか?」
ベルクートも口にしてから思わずはっとする。アデルも驚いたように目見開いた。
アデルは、次の瞬間ほっとしたような顔をして、小さく笑った。
「年相応の反応として、嫌がってくれたらと思うこともあるんだけどね。」
アデルはキースに合図をした。キースは無言で壁にリズとの国境との地図を貼る。
キースは、地図をさしながら、口を開く。
「いまから、リズ迎撃戦の詳細を説明します。」




