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戦神の娘  作者: 高宮 まどか
第二章
29/66

29 無価値の王子

アデルが妃の白い手取った時から、その心はざわついた。この手…、知っていると思った。次の瞬間、花嫁のベールの下がうっすらと見えた。


胸がどくんと鳴った音をアデルは聞いた。


まさか…。ルナティス姫というのは。


震える手をこらえながらベールを取ると、美しく化粧を施され、煌めくルティがそこにいた。


なんで、ルティがここに…。


アデルは驚いたと同時にニヤニヤ笑う戦神の顔が浮かび、思わず眉をひそめ、思わずルナティスを取る手が脱力した。

ルティ、いやルナティスもアデルの顔を見るなり目を丸くして、小さい声でつぶやく。

「なんで、あなたが…。」

まわりのルナティスの美しさへのどよめきでアデルは我に返る。あわてて手の甲に口づけをすると、力いっぱいルナティスを引き寄せて抱擁し、耳元で囁いた。

「あとでまた話しましょう。ここは私にあわせてください。」

またその身をひきはがし、恭しく手をとった。

「ルナティス姫、初めまして。私が、あなたの夫のアデリードです。」


優しく笑ったつもりだが、ルナティスはどうにか意図を汲んでくれた。まわりを見渡し、花が綻ぶように笑った。


ややこしいことになった。

アデルは広間へルナティスの手を引きながら思った。ただでさえ新たな情報に頭がぐるぐるしているのに、兄がルナティスの美しさに釘付けになっている姿が目にはいり、内心舌打ちをした。


半年違いの産まれのこの愚かな兄はとにもかくにも、アデルの持っているもの全てに執着する性質だ。いつぞやなど、アデルの婚約者候補の姫達にはじから手をつけてみたりするくらいだ。今回はルナティスが途中まで自分の妃の可能性があったからなおさらだ。その証拠にルナティスを見る前から血筋や経歴が自分の妃を凌駕しているから、アデルの離宮にまできて譲り受ける可能性がないか探る始末だ。

今も、隣に妃がいるにも関わらず、ルナティスをじっと見ている。兄は美しいものが好きだ。今後の展開を考えるとより頭が痛くなる。


ちらりとアデルはルナティスを見ると、ルナティスはアデルにあわせているのか、にこっとアデルを見て笑った。


アデルはそれを見て困ってしまった。


本当にこの人は笑うと可愛くて、困る。その身分を嘘をつかれていたことにも、忘れるくらい。


アデルはとりあえず、兄に冷たい視線を投げ掛けた。当面、ルナティスをこの兄からは守りきらないといけないなと心で思いながら。



婚礼の途中、司祭が祝詞をあげている最中もアデルは考え始める。

しかし、あのあと戦神とうまく連絡がとれなかったのは、今回のことがあったからか。多少アデルは戦神にからかわたのだろうが、アデルを驚かせるためだけに大切な孫娘を嫁がせたりはしない。

クラレス王家に産まれながら、金色の瞳と金色の髪を持たず、母の身分をそのまま映したような黒髪と黒い夜空の瞳を持つ第2王子の俺にルナティスを嫁がせるのはきっと何かがあってのことだ。しかもアデルを引っかけてまで。


夏に王子の亡命の話があって以来、その他の商談に戦神はでてこなくなった。婚姻の話がきてから、アデルは戦神に手紙を送っても返信がこない。その為、今日まで婚姻の意図がさぐれないでいたのだ。


司祭が考えこんでいるアデルに結婚の署名を促す。アデルは我にかえり、結婚の契約書に署名していく。アデルが署名したあと、ルナティスが署名していく。

妻の顔を横目に見ながら、この人にまたいろいろ聞くしかないのか。この人には、もっと違うこと…何が好きで何が楽しいのかそう言ったことをまずは聞きたかったのに。


今度はきちんと信用して話してもらわなくてはならないとルナティスの顔を見て、アデルは決意するが、すぐさま骨が折れそうとくじけそうになった。



婚礼のあとは祝宴となった。ルナティスは白い絹のドレスから刺繍の施された紺のドレスに身を包み、アデルの隣に座っている。テーブルの上には伝統的なクラレスの料理が並んでいる。湖でとれた魚を焼いて、サラダにしたもの、羊の香草焼きや、りんごや木の実を混ぜて焼いた菓子、それに季節の果物だ。真ん中に置き、侍女に好きなものを取らせるものだ。


一皿ずつ持ってこられるロゼリアに比べると少し野蛮に感じるか?とアデルは懸念して、侍女にルナティスに果物を切って皿に取るように言う。その姿にルナティスは驚いたようにアデルを見る。

「あなた果物、好きでしょう。いちじくはないですが、苺がありますよ。」

アデルは笑って言う。キリル山脈の館でルナティスは果物を若干楽しそうに食べていた。

「ありがとう。」

ルナティスはもじもじしながらフォークで苺を刺し、口に運ぶ。その動作も洗練されていて、気品がある。そう思ってみていると、苺が美味しかったのか小さく笑った。その場にいた皆がルナティスを見て、一気に宴の空気が優しくなる。


これは、とんでもないな。


アデルは舌をまいた。着飾ったルナティスはこうやって人の目を惹き付けすぎるのか。


「アデリード様はルナティス姫に果物を取ってあげるなんて、本当にお優しいですね。」

オーウェンの妃のシレーナが微笑んだ。この美しい義姉の微笑みの裏をアデルは警戒しながら、微笑む。

「女性は甘い果物が好きかと思いまして。」

「本当にお優しい。ね、王妃様。」

シレーナは国王の隣にいるオーウェンの母であるエワン王妃に笑いかける。アデルは微笑みを顔に張り付けた。金色の瞳と髪の国王の第一王妃、アデルの母亡き後唯一の妃だ。エワン王妃はシレーナの伯母にあたるので、ふたりは親しい間柄だ。エワン王妃はオーウェンの所領近くのコルタニ地方を所領とする公爵の娘でクラレス王家と縁続きの王妃だ。国王ジルの寵愛もあつい、揺るがない王妃だ。しかしながらその見た目は楚々とした風情の美女で、40代でとは見えない若さを誇っている。本当に中身が若い少女のように屈託がないかは別として。

「本当。アデリード王子は名前のとおり、貴い者に心を砕きますね。とてもお優しい王子ですのよ。ルナティス姫。」


その名前のとおり…ね。

アデルは、羊にぐっとフォークを刺しナイフで切っていく。

アデリードの名前の由来は補う者、盾となるもの、助けるものだ。オーウェンの名前の由来が高貴なるものであるから、半年後に生まれたアデリードはオーウェンの補佐としての使命を生まれたときから課されているのだ。


エワン王妃は優しげに笑いながら、こう続ける。

「ルナティス姫…アデリード王子はお母様がルーテシア地方の族長の姫でしたから、王宮内では、族長の生業にしていたことを侮蔑して、アデリード王子を商人腹とか無価値の王子と侮蔑する輩もおりますが、これこのように優しい王子なので、高貴な生まれの姫も気になさらないでくださいね。」


困ったように眉根をよせてエワンは言いきると、葡萄を口に寄せた。


アデルは、婚礼の夜にずいぶんいじわるだな。羊を口に運びながら思った。ちらりとルナティスを見た。


俺が道具屋だとは知らなくても、血筋のことは知っているだろうにどう返すか…。

アデルは、ルナティスはエワンの言葉を聞いたあと、少し悲しそうに笑って、口を開いた。

「婚礼前に、アデリード殿下が私に芍薬をくださったことがあります。恥ずかしながら、ロゼリアでは芍薬と牡丹を同一と捉えていたので、芍薬という呼び名を知りませんで、牡丹とよんでしまいました。でもどんな名前がついていても芍薬は美しい花です。どんな名前で呼ばれてもわたしは気にしませんし、殿下がお優しいことにも変わりないと思います。」

アデルは、キリル山脈の館の芍薬を思い出した。ルナティスに飾ったけど、見ていたのか…。

ルナティスは切り返したうえで、アデルを見ずに、王妃に向けてまた微笑んだ。国王が思わず声をあげて笑った。

「おまえも婚礼前に姫に花を贈ったりするのだな。」

アデルは微笑してやり過ごした。王妃も優しく表面で微笑んだ。

「本当にお優しいのね。アデリード王子は。王太子殿下も見習うべきですよ。」

オーウェンも笑うと、シレーナのほうを見ずにルナティスを見つめ、

「そうですね。アデリードを見習うことにいたします。」と言った。


息苦しいなとアデリードは羊を黙々と口にしながら思う。考えなければならないことが多いのにも関わらず、この人達とこんなおもしろくもない席を囲まなくてはならない。アデリードは傍らのルナティスに目を向けた。


ルナティスはその透き通った瞳で風景のように、その宴を見つめながらゆっくりと苺を口に運んだ。綺麗な唇に赤い苺が吸い込まれる。アデリードは心の中でルナティスに問う。


どうして、あなたはこんなところまで来たんですか。


アデリードもつられて苺を侍女に頼む。

頼みながらちらりとまたルナティスを見ると、国王夫妻と王太子夫妻の中身があってないような話を聞いている。でもその瞳は奇妙なものを観察するような視線を両夫妻にくれている。アデルの視線に気づいたのか、ルナティスは傍らの席のアデルのほうを向いた。その瞳は透き通っているようにも見えるが、何かがその瞳に宿っているような気がして、アデルは目がそらせない。ルナティスは横目でちらりと両夫妻を見て、またアデルに視線を戻すとまるでこの宴を嘲るように、笑った。先ほどのまでの優しい笑みとは異なる笑みだ。


呆然としながら、侍女から差し出された苺の入った皿を受けとるアデルにルナティスは暗い笑みのまま、アデルだけに聞こえる小さい声で言う。

「木苺ではない、苺を食べたの初めてです。おいしいですね。」

アデルは自分の皿の苺をフォークで刺すと、まるでそうしろと言われたかのようにルナティスの口元に差し出した。ルナティスはきょとんとしたが、ちろりとした舌が見えるくらいに唇を開く。アデルはそのまま苺をルナティスの口の中におしこむように落とした。

ただそれだけの行為なのに、アデルは自分の顔が熱くなるのを感じて、困ったようにルナティスの頬に触れた。ルナティスはまたいつもの瞳に戻って苺を咀嚼する。

「ほかに、食べたことのないのはある?」

アデルがルナティスに聞くと、ルナティスは柑橘の果物が練り込まれた焼き菓子を、こっそり耳打ちした。アデルが頷いて、侍女に焼き菓子を取るように言う。


ルナティスに菓子を取ってあげながら、アデルは戦神との密談を思い出した。戦神は、()()の亡命は永遠ではなく、無期限、落ち着いたら返してもらうと言っていた。この婚礼が王子の亡命と同義なら、ルナティスはアデルに仮に預けたということなのだろうか。

アデルは心の中でため息をついた。よろしく頼むとはどうゆうことなのか。この後、ルナティスをどう扱うのが正解なのか、それがわからない。


こんな時も気がまわる自分が嫌になるなとお菓子を食べて優しく笑うルナティスを見ながら、アデルは苺を口に運んだ。




ルナティスは宴が終わると、湯殿に連れていかれた。広いアデリードの宮の湯殿には香油が垂らされているのか、甘い香りがする。

ルナティスは広い大理石の湯船に肩までつかると膝を抱く。


道具屋がアデリード王子だったという事実がまだ信じられない。

「おじいさまも人が悪い。」

思わずルナティスは口にだす。


ルナティスが旗を引き合いにだし、嫁ぐなら第2王子にすると言った時のことを思い出した。


「おもしろい手だな。ルナティス。」

嫁ぐなら第2王子にすると告げると戦神はそう言った。

「いや、王太子には妃がいるみたいですし、王太子妃は制約が多そうですから。」

戦神は、自身の机のひきだしから、書類の束をだし、その中から一枚の報告書をルナティスに差し出した。


「悪くない。選択だとは思うぞ。」

戦神はなぜか愉快そうに笑う。


現ルーテシア公、第2王子 アデリード・ライカ・クラレスについてという題名の報告書にルナティスは目ざっと通す。


報告書の一枚目は、アデリード王子がクラレス王国の都の南東側のルーテシア地方を治めていて、東部で接しているリズ王国の盾となる軍を指揮していること、対リズ王国との戦いにおいて、若いながらもいくつかの勝利を治めているという戦績が事細かく記されていた。二枚目にはアデリード王子の出自が書かれていた。


アデリード王子は第2王妃のアイシャ妃の息子であるが、アイシャ妃はルーテシア地方の部族長のカイル・レイラスの長女である。クラレス王国はリズ王国などとの度重なる戦で一時財政事情が悪化し、豊かであったルーテシア地方のレイラスの援助を受けいれる見返りにアイシャ妃を娶った背景がある。祖父のレイラスが一代で地位を築いた元平民という身分から、王国でのアデリード王子の皇位継承の可能性は極めて低い。国内では、王統を継ぐことがないことから、無価値の王子と揶揄されている。

7年前にアイシャ妃が死去し、その後は祖父のカイル・レイラスが後ろ盾となる。

4年前にカイル・レイラスが亡くなったのち、ルーテシア領を継承し、ルーテシア公となる。


「子供を産んでの介入はいささか骨が折れるやもしれんな。いささか王位が見た目以上に遠い。」

ルナティスが報告書を読み上げていると、戦神が笑う。ルナティス頬をポリポリとかいた。

「そうかもしれませんけど、ずいぶんと波乱の種がある王家ですね。これだけ見ても火種がすごいです。」

ルナティスは半笑いで言った。

「火種のない家などなかろう。」

戦神は呆れて言う。ルナティスは今度こそちゃんと笑って言った。

「しかし、この王子、優秀なのに、日の目を見ないで無価値の王子とよばれて、可愛そうですね。」

「そう思うか?」

戦神はルナティスを見つめ、問う。ルナティスは首を傾げると

「会ってみませんとわかりませんけど。」

と答えた。戦神はなぜだかニコニコしている。

「じゃあ、第2王子で決まりでいいか?。」

「はい。案外無価値だからこそ、うまくやれるかもしれないです。」

戦神はその言葉に悲しく微笑むと、ルナティスに問う。

「ルナティス、クラレスをどうする気なのだ?」

「とりあえず、ロゼリアに攻めこませないように見張ります。あと、攻めこむ余裕がないようにします。そしてあわよくば、クラレス王国を中から取れたら…。」

「ルナティス。私は当面他国を攻める余裕はないよ。」

戦神は空っぽになったカップに自ら紅茶を注ぐ。

「そうですか…。」

ルナティスはそうつぶやくと戦神はルナティスの手を取った。

「まずは、クラレス王国にうちを攻めさせる気を無くせればそれでよいのだよ。そのためにはな、ルナティス。まずは、この、無価値の王子ときちんと親愛を深めるのだ。わかるな。」

ルナティスはよくわからないという顔をして戦神を見上げた。

「ロゼリアのことを忘れるくらいおまえが幸せになることが、結果として親愛を深めることになり、ロゼリアのためになるんだよ。わかるか?」

ルナティスはまた首を傾げた尋ねた。

「親愛ですか、無価値の王子に恋情を抱かせればいいのですか?」

戦神は悲しそうにルナティスを見つめると手振り否定した。

「そうではない。まあ、言ってわかることではないか。教えてできるものでもないし。」

「褥をともにすることですか?」

戦神ははぁとため息をついて顔を手で覆った。

「そうではない。まあ、儂も悪い。少々その分野のことを教えてやる者を側に置かなかったし、レイラがおまえにべったりだったからな。そうだな、口で教えるのも無粋であるから、せいぜい無価値の王子に習うがよかろう。」

戦神はぽんぽんとルナティスの頭を撫でた。

「私が、この、王子に習う…ですか。」

「ルーテシア地方の男は情にあついと聞くから、おまえのことをきちんと愛してくれると思うからな。」

戦神はそう言うと大きな声で笑った。



ルナティスは侍女から髪を洗っていいかと声をかけられたのでそれを了承する。


ルナティスは身体洗われながら、困ったなと思った。

閨を共にする相手は今日初めて会う相手と想定していた。だから、死んだ気になって務めればどうにかなるかと思っていた。相手が道具屋かと思うと、行為に至れない気しかしてこない。具体的なイメージをしようとすると、ルナティスには襲われかかったときの嫌な記憶とレイラの冷たい瞳しか思い出せなくなる。


きちんと愛するか…。

ルナティスはわからないと思った。


レイラは今どうしてるのだろう。ルナティスはふとレイラのことを思いだし、口の中が苦くなった。


レイラは冬になる前に一度帰国を申請していたが、戦神と戦神の第一王妃のノア王妃から拒否された。二人がかりの拒否にさすがのレイラもおとなしく、カデフで戦後処理などに勤しまざる得ないらしい。その代わり、ルナティス宛に再三手紙が届く。手紙の内容はいつも同じだ。ルナティスとアドリード王子との婚姻を問いただすものと、戦神からの要請ならきちんと断るべきだという内容だ。


ルナティスがそれを眺めていると、背後からノア王妃が近づき、手紙を取り上げると暖炉の火にくべた。

ルナティスがクラレスに嫁ぐことが決まると、離宮からノア王妃の宮にうつされた。ノア王妃は今までふれあわなかったことが嘘のようにルナティスに優しかった。

「まったく、レイラは困ったものね。あなたのこととなると。」

そう言ってタメ息をつくがすぐに笑って、ルナティスの嫁入り道具を選んでいく。ノア王妃は朗らかな性格らしく、戦神にも動じずにポンポンと言い返す。

「だいたい陛下も悪いんですよ。ルナティス姫をもっと早く嫁がせればよかったのですよ。もう18になるのですよ。花の命は短いのに…。」

ノア王妃はルナティスにベールを試しにかけながら言う。戦神はむすっとしながら、ソファーに座ってそっぽを向いている。

「ルナティス姫、女はね。愛されるのが一番です。あなたは美しいからきっと大丈夫。」

そう言ってノア王妃はルナティスの頭にベールをかけた。


王妃様、どうしてお母様は愛されなかったのでしょうか。


ルナティスはノア王妃にそう問うことなどできるわけもなく、ただ曖昧に笑った。


春先にレイラが帰国したが、ノア王妃の宮にいるルナティスとの面会をレイラは許されなかった。


ある日、王宮の図書館を予約して閲覧していると、誰かが図書館に入ってきた。予約をしたのはノア王妃の名前でしているので、図書館には戦神以外、誰も入れないはずなのに。


「ルッティ。」

後ろからそう呼ぶ声にルナティスはすぐに振り返れなかった。

すると肩をつかまれ振り向かされた。

「レイラ…。」

ルナティスは振り返った。レイラは長い銀髪を左に結い上げて、白地に金の刺繍をされた上掛けを纏っていた。息がはずんでいる。

「走ってきたの?」

ルナティスは肩で息をしているレイラに尋ねた。レイラは何も言わずにルナティスを抱きしめた。

「ちょっと…。」

「だれの元にいくと言うんだ。ルナティス。」

レイラは耳元で悲痛な声をあげた。ルナティスは抱きしめられながら答える。

「クラレスに嫁ぐことになりました。」

答えながら、あたたかさはまったく感じない抱擁だとなぜだかレイラに抱きしめられながら思う。

レイラは答えに何も言わず、ルナティスに執拗に唇を重ねてくる。

「どうして、拒まないんだ。ルッティが拒めば、おじいさまもクラレスに嫁がせたりはしない。ルッティは、私の妃になるはずだ。違うのか?」

レイラはルナティスはワンピースの肩ひもに手をかけると、そのまま下ろそうとする。ルナティスは肩ひもにかかった手を払いのけようとするが、自分の手が震えていることに気づいた。手が言うことをきかない。目を見開くと、レイラが不敵に笑った。

「ルナティスを今まで大切に守ってきたのにどうして今さら誰かにあげなくてはならないんだ。」

そう言って呆気なく肩ひもを外してしまう。ワンピースが床に落ちる。ルナティスは身体を硬く立ち尽くしていると、レイラの唇が首筋を這っていく。ルナティスは叫び声をあげたくてもあげられなかった。自然と瞳から涙だけがこぼれていく。

震える手を懸命に伸ばして、ルナティスはレイラの肩をつかんで押し返した。

「こんなの…違う。」

レイラはルナティスの声に顔をあげた。ルナティスはそれだけ言うと、レイラのことをもう一度強く押した。レイラの行為が一瞬とまり、ルナティスは足元に落ちたワンピースを拾うと素早く身につけた。指がまだ震えている。

「ルッティ、どうしたの?」

レイラがルナティスの手の甲に口づける。

「レイラは、なぜ私を妃にしたいの?」

ルナティスは口づけられた手の甲を引っ込めた。レイラはきょとんとした顔をしている。

「なぜって、ずっとルッティを愛しているからだよ。」

レイラは美しく微笑した。

「これが、愛してる?」

ルナティスは声をあげて笑って問いかけた。レイラは驚いた顔をする。

「愛している相手を他の男に襲わせて?愛している相手以外と子供を成して?愛していない人にもできる行為を平気で私にしようとしているのに?」

ルナティスは言いながら、震えてワンピースを調えた。いつの間にか、ポロポロと涙をこぼしていた。

「私、ロゼリアに来てから1人で淋しくて眠れないときがあったの。そんなときによく1人で弓矢をしてやり過ごしていた。」

レイラは本棚に寄りかかりながら手を組んだ。

「知っているよ。私は何度も夜中、隣の庭から弓矢を射るところを見ていたんだ。」

ルナティスは、レイラを見据えて震える手を握りしめた。

「レイラは一度も私が、淋しい時には来てくれなかった。私が、慰めてほしい時に一度も手をとってはくれなかった。」

ルナティスは踵を返して図書館をでようと扉に向かう。

「ルッティ。」

背中にレイラの優しい声が追いかける。レイラはルナティスの手を後ろからつかむと、強引にルナティスの唇を重ねた。

「ルッティ。そんな風に思っていたんだね。誰がそんなことをルッティに吹き込んだんだか…。私の気持ちが足りなくて淋しかったのか。こんなに愛しているのに、伝わらないなんて悲しいね。」


レイラはルナティスを頭を撫でながら、もう一度ルナティスを抱きしめた。

「今度はルッティが寂しくないように、()()()()()()()()、おじいさまにちゃんとクラレスには行かないと言うんだよ。」

レイラはルナティスの頬を撫でながら優しく言う。ルナティスは掠れた声で言う。

「いらない。自分の娘と恋人を愛していればいい。」

()()()()()()()()()()()()()()()()

レイラはくくっと鳩がなくように笑いながら続ける。

「あれは、ただの暇つぶしだよ。ルッティが大人になるまでの。子供ができたのは驚いたけど。ルッティの子供ができたら、もちろん君との子供を王位につけるに決まっているんだから不安がる必要なんてないよ。」

ルナティスはレイラの顔を見上げた。見上げたと同時に瞳から涙がこぼれ落ちて頬をつたっていく。


「君は、紫水晶の瞳なんだ。君が一番に決まっている。」


ルナティスは、もう一度レイラを押し返した。ルナティスは首を振った。


「あのねルナティス、教えておいてあげるけど、例え、クラレスに行っても、必ず君は私のところに戻ってくる。所詮、無価値の王子は、得られなかった愛情の代用品にもならない。」

ルナティスは再びレイラを突き飛ばすと、反動でルナティスが尻もちをついた。

「君の孤独と愛情への欠損を理解できるのは、私だけだよ。私にも君が必要だ。」

レイラはルナティスを抱きおこそうと手を伸ばす。ルナティスはその手を取らず、自ら起き上がる。

「君はちょっと鳥籠からでたくなっただけだよ。君は絶対にクラレスに行っても孤独だよ。君はそれに耐えきれなくて、君は絶対帰ってくる。だから、行くのを止めるのが賢明だよ。」


レイラは珍しく言うことを聞かないルナティスを不思議そうに見つめると、最後には冷たい声で言った。

「帰ってこないなら、クラレスを攻め滅ぼしてでも君を迎えにいく。それもおもしろいかもしれないね。」

ルナティスはそれを聞くと、レイラの全てが恐ろしくなって走り出した。


レイラに会ったのはそれが最後だった。


ルナティスは、身体を柔らかなタオルでふかれ、裸身にガウン纏わされる。このまま寝所にいくのか。閨の前に他の男のことを考えるなんて、不謹慎だなとルナティスは思った。


侍女に導かれながら、アデリード王子の部屋にたどり着く。ルナティスはできない算術の問題をだされたときのようにただただ困っていた。

愛情への欠損と言ったレイラの言葉がなぜだか、頭から離れなかった。

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