郡上八幡 少し昔の話~忠犬コマの話~
少し昔、郡上八幡に一匹の犬が住んでいました。少し昔というのは、テレビや、お家の電話はあるけれど、まだまだ携帯電話なんて影も形も無かった頃のお話です。
犬の名前はコマといいました。コマは柴犬のような風貌をした雑種でした。
郡上八幡は、郡上踊りと言われる盆踊りの盛んな地域です。ご主人は踊りが大好きな男の人で、名前を英生といいました。
郡上踊りは、全部で十曲あります。その中でも一番ノリのいいのが春駒という曲で、ご主人の英生さんは元気のいい子犬が跳ね回っている様子を見て、この犬に春駒のコマという名を付けたのでした。
英生さんはとても無愛想な人でした。ご両親は町で小さな喫茶店をやっていました。お母さんはとても元気な働き者で、愛想のいい人でした。お父さんは英生さんほどではありませんが、無愛想な人でした。多分、若い頃は英生さんと同じくらい無愛想だったと思われますが、年のせいと、喫茶店のお客さんがほぼ常連ばかりなので、お客さんにも慣れたせいか、英生さんほどの無愛想ではありませんでした。英生さんには愛想のいい弟さんがいましたが、その弟さんは遠いところで働いていましたので、家の中は愛想のいいお母さんと、無愛想な男二人という状態でした。尤も、英生さんは板金屋で働いていたので、普段の生活に愛想がなくてもちっとも不便はしないのでした。
コマは、英生さんが大好きでした。お母さん犬から離れ、貰われてきた時、コマはとても不安でした。初めてお母さん犬と離れて眠る夜は、心細くて寂しくて、なかなか眠れませんでした。玄関の土間で、コマがくんくんとお母さんを呼んでいると、英生さんは、温かいふわふわの毛布を持ってきてくれました。おかげで、コマはほっとした気分になり、眠れたのでした。
英生さんは、朝になってから、「あんないい毛布、犬にやったんか」とお母さんに怒られていましたが、英生さんはどこ吹く風でした。そしてコマに「どうや、寝れたか」と笑って言いました。
英生さんは相手が人間だと、あんまり笑ったり、冗談を言ったりする人ではありませんでしたが、コマにはよくいたずらをする人でした。わざとコマの好きなピーナッツを目の前で食べて、コマがだらだらと涎を垂らすのを見て大笑いしたり、「待て」のまま、コマの頭の上にピーナッツを乗せて、コマが困った顔をするのを写真に撮ったりしました。でも、その後で必ず、ぐりぐりと頭やら顔やらを撫でて、ご褒美のピーナッツをくれました。夏の暑い時には、ちゃんと家の裏の涼しいところに連れて行ってくれて、時折冷たいアイスやカキ氷をくれました。そんな時の英生さんは、とても優しい顔をしていて、コマはアイスやカキ氷を舐めたばかりの舌で、べろべろと英生さんの顔や手を舐めるのでした。そんな時、英生さんは「止めろ」と言いますが、目はいつも笑っていました。
英生さんが三十歳になる年には、英生さんのお母さんは、英生さんが全然結婚する気が無さそうなので、心配になって、あちこちの姓名判断や占いに見てもらっていました。「おまん、一人ぐらいおらんのンか?」それがお母さんの口癖になっていたのでした。
英生さんは、背が高いところはお母さんに似ていました。顔つきと、体つきががっしりしているところは、お父さんに似ていました。まずまずの男前でしたが、如何せん愛想がないので、大きな目で見られると、まるで睨まれているような印象を与えてしまうのでした。なので、時々恋人らしき女の子はいましたが、必ずしもモテるタイプとは言い難いところはありました。
コマは、犬の顔の良し悪しくらいは分かりますが、人間の顔の良し悪しは分かりません。ただ、優しい人かどうかは、とてもよく分かりました。あと、コマは犬なので、とても鼻が利くため、妙な香水を付けて来る女の人が嫌いでした。人間にはさほど匂わないシャンプーや石鹸でさえ、その人の匂いとして判別できてしまうコマにとって、それがどんなに高級な香水であっても、公害並みの臭さだったりするのでした。
踊り好きの英生さんは、仲のいい踊り好きたち何人かで、揃いの浴衣を作っていました。高校を卒業して社会人になった頃から続いているのですが、新しいメンバーが増えることもあれば、前からのメンバーがいなくなることもあります。その中には、英生さんのことを好きになってくれる女の子もいれば、英生さんの方が気になる女の子もいます。ただ、どうにも上手くいかないのは、英生さんのことを好きになってくれる女の子が、英生さんの好きになった女の子ではないということです。
英生さんはマメで器用な人なので、何でも自分でできました。お母さんがお店をやっているので、自然と自分のことは自分でやるようになったのだと思われます。だから、お嫁さんをもらわなくても不便しないので、それが婚期を遅らせていく原因の一つだったかもしれません。
夏になって踊りが始まる頃になると、自然と踊り好きたちは集まります。英生さんの家は喫茶店なので、何かと言うと集合場所になることが多いのですが、コマは店の中にまでは入れないので、店の外の、横から奥につながるコマの放し飼いエリアの際にある柵に鼻を乗せて、来客の顔を眺めていました。
コマがこの家に来てから今年で三年がたちました。コマは踊り仲間のうちで、英生さんがちょっとお気に入りにしている様子の女の人がいるのに気付きました。その人は、去年から英生さんの仲間と踊りに行くようになった人ですが、コマはあまり好きになれませんでした。なぜかというと、その人はいつも化粧品の匂いがきつく、コマにとっては臭い女の人なのです。
夏は汗をかくので、踊りに行く時、浴衣を着る前に一度お風呂に入る人と、どうせ踊ると汗だくになるからと、お風呂には入らないまま浴衣を着る人の両方がいます。その女の人は後者らしく、人間の英生さんは気付かなかったと思いますが、コマにとっては、汗臭くて、化粧品臭い人でした。みんなは美人だと言っていましたが、コマは人間の顔の美醜はよくわかりませんでしたから、ただの臭い人にしか思えませんでした。
しかも、その人は一度もコマに挨拶に来たことがありませんでした。犬好きの仲間は、コマに気付くと喋りに来たり、撫でてくれたりしましたが、その人は一度もそういうことはありませんでした。コマは外飼いの犬だったので、埃っぽいとか、汚いとか思われていたのかもしれません。コマは「ふん」と思っていました。英生さんがその人のことを気に入っている様子を見て、自分が人間なら「こんな人、やめときなれ」って言ってやるのにと思っていました。
隣の家にはラッシーという名前の犬がいました。名犬ラッシーからとった名前でしたが、その犬は秋田犬のかかった雑種で、全然洋犬の血は引いていないのでした。コマはラッシーとは仲良しでした。ラッシーは優しい性格で、コマが隣にもらわれてきた当初から、よく遊び相手になってくれました。
コマの家とお隣の境には、コマの家側は柵があり、お隣は生垣になっていました。夏の暑い日、よくラッシーは日陰になった生垣の隙間に頭を突っ込んでだらんと寝ていました。そういうとき、コマも近付いていって、柵の際で横になりました。
以下犬語。
ラ「今日も暑いな」
コ「お疲れさん」
ラ「暑いだけで別に疲れとらん。おまんこそお疲れさん。よう役に立つ警備員やし」
コ「夏は冬にはおいでんお客さんが大勢おいでるで、見張りも疲れる」
ラ「ほら真面目なことで」
コ「なあ、夏になると集まる英生さんの連れの中で、臭い女の人おいでるろ?」
ラ「あー、臭い人なぁ、何人かおいでるがな」
コ「多分な、一番臭い人」
ラ「その人がどしたんよ?」
コ「あの人のこと、どうも英生さん、ちょっとお気に入りみたいなんや」
ラ「わしとおまんが気が合うのと一緒や。ほら、人にも合う合わんがあるろ。英生さんと臭い人の気が合うなら、おまんが気に入らんでも仕方なかろ」
コ「いや、向こうは英生さんのこと、そこまで好きでもないんや。遊びに来るときもみんなと一緒のときばっかりやで。しかもな、家の横っちょの方から、ぼくが鼻出して見とるの気がつくと、他のみんなが、ぼくんとこ来て声掛けたり、撫でたりしてくれるのに、あの臭い人だけ近寄りもせんのやで。なんや、感じ悪うないか?」
ラ「ほら、英生さんのとこに遊びに来といでるだけで、おまんに会いとうて来ておいでる訳でもないでんなぁ」
コ「そうなんやけど、僕、あの人が英生さんの嫁になって、ずっとこの家におるようになるかもしれんって考えると、ひどう憂鬱な気分になるんや」
ラ「嫁に来るって、いきなり話が飛ぶし。ま、そうなっても、苛めるような事はしなれんろ」
コ「そうでも、優しゅうはしとくれんと思う」
ラ「ま、おまんは知らんやろうけど、英生さんは割りに化粧臭い女が好きやでンな。昔何人か連れて来とった女も、みんな臭かったでんな。人間の女は、臭い方がちやほやされるンないか。わしら犬にはようわからんけども」
コ「やけど、今まで踊り仲間で臭うない女の子は何人もおったし、あの子らなかなか来られんようになったのは、多分結婚したンないか?そうなら、臭い子ばっかがちやほやされる訳でもないと思えるんや」
ラ「あれなぁ、わしら犬には人間の顔の良し悪しはよう理解できんがなあ。どうも、目の大きいのや、口の赤いのや、鼻が高いのがええらしいんや。反対に言うとな、目の小さいのや、唇に色の無いのや、鼻が低い女は、良うないんや。やで、化粧して、少しでも良うみえるようにせんならんらしい。つまりな、英生さんが、そんなまがいもんに惑わされとるのが、一番だちかんのや。化粧せんでも目が大きゅうて、唇が赤うて、鼻の高い子を連れてきて嫁にすれば、おまんは臭うない」
コ「そんな子、どこにおるんよ。やし、臭うないのはもちろん、僕にちゃんと挨拶しとくれる人やないと」
ラ「なんよ、偉そうなこと言ったもんやし。そら贅沢ってもんや。おまんの嫁と違うで。
おまん、あの人のこと臭いで嫌いな訳やのうて、嫌いやで余計に臭いンろ?どんな人も、おまんのこと苛める事まではしなれんて言うに」
コ「やけど、そんだけでは楽しゅうないがな」
ラ「おまんの嫁やないがな」
コ「なんかな、ここのお母さん、ことあるごとに英生さんに嫁の催促しなれるんや。見とってよぉ、英生さんが慌てておかしな人連れてくるようになったらかなわんと思って」
ラ「おまんも、まず文句言いやな。どんな人でも、おかしな人って言い方もなかろ。そんな言い方はだちかんで。おまんにとっておかしな人でも、英生さんがそれがええなら、ええ人なんやで。
英生さん、いくつになったんや?」
コ「三十二のはずや。やでお母さん、やかましいこと言いなれるんや」
ラ「やけど、英生さんも、なんでもええとは思えんろ。なにしろ、わしらはどんな女でも、向こうが気に入ってくれやぁ、それと子供作れるけど、人間社会はそうでないでンなぁ。いっぺんコイツと決めたら、やっぱりこっちがよかった、なんてことは、簡単には出来んでな。ましてや、他の女となんか、子供作ったら、たーけ叱られやで。それ思ったら、そう簡単にこれにしよ、とも思えんのと違うか」
コ「そやけど、そうみんなが考えて嫁もらったり、嫁に行ったりしたようには見えん。よう考えたら、英生さんのとここそ嫁が来てもええろ。ほん優しい人やのに、嫁が来んってどういうことや。
店の前歩きよる人見とると、こっちが吠えもせんのに、嫌な顔しよるオッサンおるがな。根性悪そうやでンなぁ、そういうやつの顔。しゃべりよると、くぅっさい臭いするやつおるしな。あれ口がくっさいんやで。そんなでも、女と二人で歩きよるが、あれ、嫁やろ?女も、時々嫌になるくらいくっさい女もおるがな。髪の毛と、体と、両方に何やら違うくっさい臭いするやつおるて。けど、そんなでも旦那について歩いとる」
ラ「口は多分、タバコやで。ヤニ臭い、煙臭いやつやろ」
コ「そうやな。ここは店やで、タバコ吸うお客さんもおるし、色んな香水つけといでるお客さんもたんとおいでるけど、それはお客さんやで仕方ないんや。けど、英生さんの嫁さんとなったら話は別や。臭い女は絶対嫌や」
ラ「おまんが言う臭い女は、あの人限定やろ?英生さんの嫁になるってこと考えなんだら、そうそう臭い臭い言わんがな。嫌いやで、臭い臭い、やかましいこと言うんやし。通りすがりの臭い人なんか、言い出したら切り無いに、今更あーだこーだ言い出して。
ま、おまんがどんだけ気に入らんでも、嫁をもらうのは英生さんやし、それでがっかりしても、おまんの方がどうせ早う死ぬんやで、そん時は諦めるンや」
こんな風に、コマとラッシーの会話もまた堂々巡りのまま、何度も繰り返されるのでした。英生さんのお母さんが心配しているように、またコマも心配しているのでした。
その年の五月、いつものメンバーが英生さんの家に集まりました。三年に一度くらい浴衣を新調するので、どうやら今年がその年のようです。
その中には、例の臭い女の人もいました。コマは内心「ちっ」と思っていました。この臭い女が中途半端にやってくるから、英生さんの気持ちが他の人に行かないような気がしていたからです。おまけに相変わらずコマへの挨拶は今年もありません。他のメンバーはみんな、「おー、コマ元気かー」とか、「まだ生きとるかー」とか言って、頭を撫でたり、顎を撫でたりしてくれますが、その臭い女だけは一言も何も言いません。コマはやっぱり、この女だけは、何としても阻止したいと思うのでした。
浴衣が出来上がってしばらくすると、発祥祭の日(踊りの開幕の日)になりました。発祥祭ではいつものメンバーで、新調した揃いの浴衣を着て踊ることになっていました。その日は、踊りの始まる前に、何人かが英生さんの家に来ました。その中には例の臭い女もいましたが、一人だけ、違う浴衣を着た女の人が混じっていました。その女の人は、英生さんの家に着くなり、「あ!」と言って、英生さんに挨拶するが早いか、コマの方に走ってきました。
「わんこだぁぁ。うりうりうりうり」
と言いながら、その人はコマの頭やら顔やらをぐりぐり撫でました。コマは嬉しくなって、その人の手をべろべろなめまわしました。その人はそれをちっとも嫌がらず、
「うわー、わんこのよだれでどろんどろんの手になったー」
と言って笑っています。
「おまん、何て名前なんや?」
とその人が言ったら、横で聞いていた英生さんが、
「コマ」
と、ぼそりと無愛想に、英生さんにとってはごく普通に答えました。
「へぇ、何でコマなんや?」
「春駒のコマや」
「へぇ、踊りの春駒やンな?」
「そうや」
「おまんのご主人はよっぽど踊り好きやンなぁ。今日もみんなで行くんやで。おまんは行かんのンか?」
コマは内心『よし、よし』と思いながら、べろべろとこの人の手を舐めていました。この人は臭くありません。
「ちえちゃん、色気はないけど犬には好かれるなあ」
誰かが言ったので、この人がちえちゃんという名前だとわかりました。
「色気はないけど、は余分や。お風呂入ったら、その後化粧しとうないんや。どうせすぐ汗だくになるんやし」
コマはちえちゃんが浴衣を着る前に、ちゃんと汗を流してきたのだと分かりました。例の人みたいに汗の臭いがしないからです。ちえちゃんは洗い上がりの湿った髪を、ねじり上げて大きめの簪できゅっと留めていました。薄く引いた口紅が唯一の化粧らしい化粧でした。
例の臭い人が言いました。
「え?すっぴんなんか?」
「口紅はつけてきたよ。それぐらいはしなれって、妹に言われたんや」
「へぇ、色白いんなぁ、化粧してきたと思っとった」
コマは、ちえちゃんの顔を観察しました。化粧はしていないのに、目は大きくてぱっちりしています。鼻も低くはありません。化粧せずにこれなら、あの臭い人より、人間界ではこっちの方が上等の顔なんじゃないかとコマは思いました。ちえちゃんは、背は高からず、低からず、太ってもなく、痩せすぎてもおらず、といったところでしたが、さっきコマを撫でてくれた手のひらは、ぽってりと福々しく、柔らかく、気持ちのいい手のひらでした。コマが人間なら、英生さんに『こっちにしなれ』というところでしたが、英生さんはあまりちえちゃんには関心はないようでした。と言っても英生さんは、いつも誰にもそんなに関心がある様子は見せないので、本当のところは分かりませんでしたが。
ちえちゃんは大和に住んでいて、八幡の町からは少し遠いので、踊りには数えるほどしか来たことがないと言っていました。たまたま同じ職場の人が、英生さんと同じ踊り仲間なので、誘われて参加したのでした。ちえちゃんは一人だけ踊りも下手だし、浴衣も違うので、みんなの一番後ろについて踊ると言っていました。コマはみんなについて行って、英生さんをけしかけたい気分でしたが、そういうわけにはいきませんでした。
大人しくみんなの帰りを待っていると、夜も更けてから、ぞろぞろみんなが歩いて帰って来るのが見えました。コマは目を凝らしてじぃっと見ていました。
翌日。コマはラッシーに昨日の報告をしていました。
以下犬語。
コ「ちえちゃんって女の子が来たんや、昨日」
ラ「おー、こっちの方から見とったけど、あの子はそう臭いことなかったな」
コ「そやろ。わかったか?」
ラ「当たり前や、わしも犬やで鼻は利くでな。わからんはずがなかろ」
コ「ちえちゃん、ちゃんと僕んとこ挨拶に来てくれたんやで」
ラ「それも見とった。おまん、喜び過ぎや。頭撫でてもらったくらいで」
コ「僕の嫌いな臭い人来たろぉ?うっわ、嫌やーと思った時やったで、嬉しかったんや」
ラ「おまん、臭い人いうけど、あの人にも、ひとみって名前あるで」
コ「臭いことには変わりないでンな。ほんなら、臭いひとみさんって言う」
ラ「おまんも、相当ひねくれとるし。それ言うなら、臭いひとみさんより、僕の嫌いなひとみさんって言う方が、まんだも正直や」
コ「あの人のことだけ嫌いなんや。他の人はそんなことない。
まぁ、臭い人はどうでもええ。あの、ちえちゃんって子、どう思う?なんや、昨日は化粧してなかったけど、目ぇ大きかったなぁ?化粧せんでもあんだけ大きい目なら、臭いひとみさんより、ちえちゃんの方が美人なんと違うか?」
ラ「そうやな、でも、そう単純なもんでもなさそうやで。人間界は」
コ「どういうことや?」
ラ「造りの良し悪しだけが選ぶ基準でないってことや。例えばな、おまんが好きな愛宕町のマル、あの子より日吉町のチイの方が、顔の作りは格段上や。けどな、マルはいつも元気で、歩き方がしゃっしゃとしとるろ?チイは若いのにマルみたいなとこがないんや。やでなあ、犬目線で見ると、顔立ちはチイの方が良うても、マルの方が丈夫な子供をたんと産んでくれそうな気がするんや。やでマルはモテるんや。犬の世界でさえ顔立ちだけでは決められんのやで、人間界はもっと複雑なんと違うか」
コ「やけど、元気な子をたんと産めそうな子がええのンは、人間も犬も同じやろ。ちえちゃんは太りすぎず、痩せすぎずで、ちょうどええ感じやったで。健康そうで」
ラ「まぁ、その点はわしもそう思って見とった。けどなー、人間は、化粧もそうやけど、見た目を飾るってことするろ。そういうところで、惑わせる女がおれば、惑わされる男もおるんや。ひょっとしたら、英生さんはあんまり化粧せん美人より、こってり化粧するちぃとブスの方が好きなんかもしれんでな」
コ「ほんとにか!」
ラ「いやいや、例えばってことよ」
コ「昨日な、みんなが帰ってくるところ、じぃって様子見とったんや。そしたら英生さん挟んで臭いひとみさんとちえちゃんが横並びになって歩いて来たんや。なんかな、ちえちゃん、楽しそうにしゃべって、踊りの振りのこと英生さんに色々聞きよった。英生さんも聞かれたことちょっと踊って見せたりしながら教えてやりよった。相変わらず無愛想なしゃべり方やったけどな、ちえちゃんの方は、何とも気にせんと、英生さんにしゃべりよった。横から時々臭いひとみさんが口挟むのが、僕には嫌なとこやったけど。
うちに来て解散になった時も、ちえちゃん、僕のとこ来て、コマおやすみ、またねって、頭撫でとくれたんやで。そん時も、臭いひとみさんは僕には近付きもせなんだけどな」
ラ「おまんも絶対『臭い』ひとみさんて言うな。相当頑固モンやな。そんではマルに振られるわ」
コ「えぇ、僕振られとったんか!」
ラ「当たり前や。散歩の時、おまんの家の前で顔も寄せんがな。マルはおまんに何の興味もないってこと、自分でわからんか」
コ「そっ、そうやったんか。うぅっ」
ラ「泣くな」
コ「もうええ。グス。僕は英生さんの幸せだけを見守ることにした。ちえちゃんがうちに来とくれたら、英生さんも僕も幸せになれる気がする」
ラ「おまんがちえちゃん嫁にもらうような気でおるな」
コ「今後の僕の運命に大きく関わることは間違いなかろ」
ラ「まあな。昨日、帰って来たとき、わしもこっちの方で見とったけどな、英生さんもかなりちえちゃんのこと気に入っとったンないか?ていうかな、ちえちゃんのペースに、はまっとった気がする。
あの無愛想な英生さんが、歩きながら、お囃子もないとこで踊ってみせてやるなんて、大サービスと違うか?」
コ「やっぱ、そう思うか?」
ラ「よっぽど打ち解けた相手でないと、あんなことまではしなれん人やでなぁ。昨日が初対面なら、ちえちゃん、大したもんやで」
コ「よし、何としてもちえちゃんに来てもらう」
ラ「おまんが決めるな。おまんの嫁やない言うに。この前から」
コ「ただな、ちえちゃんはどうなんやろな?見たとこ、誰にでも愛想のええ子に見えたがな」
ラ「そこよ、問題は。ちえちゃんのこと連れて来とった男の人、職場の人やって言っとらなんだか」
コ「あそこは夫婦で来とったがな」
ラ「そうか、なら、その人はちえちゃん狙いでないはずやンな。不届きな心根の持ち主でない限り。
ただな、ちえちゃんが、嫁がおろうが彼女がおろうが、その人がええと思ってまったら、もう終わりやけどな」
コ「そんな感じではなかったな。ちえちゃん、他のもんにも愛想良う、ようしゃべりよったで、ひょっとしたら、別のやつがちえちゃんのこと狙うようになったかもしれん」
ラ「ほうか、人間界のマルかもしれんな、ちえちゃんは」
コ「なにっ。ほんなら他所のもんにとられんようにせんならん」
ラ「そやけど、ちえちゃん、一人だけ違う柄の浴衣着とったろ。ってことは、いつもの仲間と違うンないか?そうやと、そうしょっちゅうはここに来んろ?」
コ「もうそこは神頼みしかないなぁ」
ラ「おまん、人間か。情けないこと言って」
犬二匹がこんな会話をしているとは知らず、英生さんは相変わらず無愛想で、コマにだけはよく笑う人のままでした。コマは、英生さんが自分にしゃべるように人間にしゃべったり、自分にするように人間にいたずらをしたり、よく笑いかけたりすればいいのにと思っていました。
発祥祭から何度かの踊りが終わり、八月に入った頃、コマは英生さんが踊りから帰って来たときに、かすかに憶えのある匂いがついているのに気がつきました。それはちえちゃんの匂いでした。
英生さんがお母さんに話しているのを、コマは犬ながら耳ダンボにして聞いていました。
「今週の土曜日、一台車停めさせてやってもええろ?」
「ええよ。踊りの始まる時間には、店閉めとるで、お客さんの車もないでンな。一台だけでええんか」
「今週は一台や」
「いつもの連れのうちの誰かか」
「連れの連れや。発祥祭のとき、一人だけ違う浴衣の子来とったろ。あの子に今日会ったんや」
コマは人間ならガッツポーズをしたいくらいの気持ちでした。
「へぇ、向こうは一人で来ておいでたんか?」
「友達と二人や」
「女の子二人で来たんか」
「そうや。向こうが先に気がついて、挨拶してきたで、どこに車停めたんよって聞いたら、有料に停めたって言うで、今度からうちに停めやええって言ったんや」
「ほうか、その子ら、どっちも同じような年格好か」
「そうやな」
「どっちでもええで、嫁に来ておくれんか」
「また極端やな。どしていっつもそんに話が飛ぶんよ」
「ほら、そろそろ期待するがな」
そこまで聞いて、コマは「お母さん、もう止めて」という気分になっていました。最近、すぐにこういう話になるので、英生さんがうんざりしているのを知っていたからです。そして、お母さんが催促すればするほど、逆効果だと思っていたからです。なので、お母さんの気持ちはわかるけれど、コマはちえちゃんを逃したくないと思っていたので、これ以上煩くしないで、と思っていました。
「その子、どこの子なんよ」
「大和や、言いよった」
「そらあ、歩いては来れんなぁ」
「やで、毎回有料も可哀相な気がしたで」
「次はいつおいでるんよ」
「徹夜の前にもう一回、来週来るようなこと言ったけど、ほんとに来るかどうかはわからん。ここの店の名前は知っとるで、車停めたい時は電話してくるろ」
コマは英生さんにダメだししたい気分でした。電話番号、自分で渡さなきゃ駄目じゃないのぉ、と言いたかったのですが、携帯電話もないこの時代、踊り場では書くものも紙もなければ、教えようもないのでした。
次の土曜日、ちえちゃんは友達を連れて踊りに来ました。コマは、ちえちゃんの車が店の前に停まるより前に、ちえちゃんの匂いがだんだん近付いてくるのが分かりました。そして、店の前に車が着いたとき、嬉しくなって柵につかまり立ちをしてぶんぶん尻尾を振りました。ちえちゃんは、コマに「ご主人、おいでるか?」と言って頭を撫でてくれました。もう一人の女の人も車から出てきて、コマの頭を撫でてくれました。コマは「ちえちゃんの友達も、悪うはないな」と思いましたが、やっぱりちえちゃんの方が好きなのでした。
外の物音を聞きつけて、英生さんが出てきました。
「あ、ヒデさん、電話もせんと図々しく来たけど、停めさしてもらってもええか?」
「ええよ、そこに停めなれ」
「悪いンなぁ。お家の人、おいでるか」
「なんでや?」
「ほら、おいでるんなら、一言なんか言っとかんと、黙って置いてったと思われるろ」
「別にええて、そんなこと思わん」
「ほんでもぉ」
女の子が来ると聞いていて、耳ダンボになっていたお母さんが、しゃかしゃかと出てきました。
「今晩は」
「今晩は。今日はすみません」
「ええよ、うちは夜の営業は無い店やで。いつでも停めなれ」
「ありがとうございます」
「今日は二人だけなんか?」
「他の人とは踊り場で会うかもしれんけど、申し合わせては来てないんです」
お母さんとちえちゃんの会話を聞いて、英生さんが言いました。
「みんな来るには来るやろうけど、今日は揃いの浴衣では行かんのンや」
そこでお母さんがハタと気付いたように言いました。
「おまん、なんよ、早う着替えんと。どしてまだ服なんよ」
「まだ早いがな」
「この子ぉら、連れて行ってやらな、だちかんがな」
「子供でもあるまいし、迷子になんかならんわ。場所も旧庁舎前やで、すぐ分かる」
「やけど、夜は方角のわからんようにもなるし、連れていってやんなれ」
二人の会話を聞いて、ちえちゃんが申し訳無さそうに言いました。
「ご都合もおありでしょうから、そんな無理に…」
お母さんが、ちえちゃんの言葉を遮って言いました。
「ええに、一緒に行きなれ。都合なんか無いて。コーヒーのよう冷えたやつ、飲んで待ちなれ。男なんか支度速いで、コーヒー飲むうちに着替えも終わるで。こんなことしゃべっとるうちに、英生、早う着替えて来なれ」
強引に言われて、二人がなんとは無しに断りきれずに店に入って行くのを見て、コマは心の中で「お母さんナイス!」と叫んでいました。
翌日。コマは柵の内側からラッシーを呼びつけ、昨日の出来事を話しました。
以下犬語。
コ「昨日ちえちゃん来たんや」
ラ「おー、おまんが喜び勇んで尻尾振っとるの、こっちで見とったわ。おまんの尻尾がちぎれてこっちに飛んで来るンないかと思ったわ」
コ「ちえちゃんは、やっぱ連れてくる友達もええ子や。友達も僕んとこ来て挨拶してくれたで。ええ子はええ子同士友達になるんや」
ラ「相当なちえちゃん贔屓になったもんやし」
コ「昨日な、ここのお母さん、どえらい強引にちえちゃんと友達店に連れ込んで、コーヒーご馳走しとったで、お母さん、ええ仕事しなれるわ~って思っとったんや」
ラ「で、ちえちゃん、お盆の徹夜にはおいでるんか?なんや、昨日そんな話、しとったろ?」
コ「耳ダンボにしとったんか」
ラ「わしは知らん顔して、色んなこと知っとるで。
日吉のチイな、どうもおめでたらしいンけど、ご主人、相手がわからんって、怒っとるらしいんや。けどよ、肴町のケンタやで、子供の父親。アイツが鎖つけたまんま家脱走してきた時、ここの前通ったんや。次の日、チイが散歩の時、チイからケンタと同じ臭いしよったでンな。あ、ケンタ何かしたな、と思ったらこの騒ぎになったでな」
コ「英生さんも、早いことちえちゃんに何かせんかな。そうすればちえちゃん、英生さんの子供産んでくれるに」
ラ「おまんは短絡的にモノ考えるヤツやな。犬の世界も、人間の世界も、女に選んでもらえんうちは、そんなことにもならんわ」
コ「なら、チイはケンタを選んだってことか」
ラ「ま、そういうことや。
ちえちゃんを見とると、本質重視主義な気がする。あの子は自分も、必要以上にゴタゴタと飾らん子や。今のところ、浴衣の姿しか見とらんけど、多分、服もそう飾りのないのが好きそうや」
コ「それが英生さんと関係あるんか」
ラ「おまんはちぃと頭使え。つまりな、英生さんはいつもきちんとしておいでるし、お洒落やけど、だからといって、必要以上に流行を追いかけたり、男の癖に変なコロン付けたりするような人で無いろ?車も税金ばっかかかるようなヤツやのうて、乗り易うて燃費のいいのを、丁寧に乗って、大事にされとるろ?そういう点で、ちえちゃんの趣味の枠に、英生さんはぴたっとはまる気がするんや。つまりな、悪くないな、と思わせる程度には」
コ「へぇ。そういうもんか」
ラ「ただな、そううまいこと行くモンでもないのが世の常なんや」
コ「そうなんか。徹夜にはおいでるようなんや。昨日一緒に来た友達は、お盆はどこやらに行くらしゅうて、ちえちゃん、一人で来るのもって、躊躇っておいでたけど。車も親のやつ、借りて乗っとるって、あんまり慣れとらんみたいやし」
ラ「おー、そこで英生さん、うちに停めればまた一緒に行けばええって言っといでたな。英生さんにしたら思い切ったこと言いないたなと思ったんや」
コ「やっぱりか?僕もそう思ったんや。ちえちゃんがこれで一人でも来てくれるなら、かなり脈ありと見てもええなぁ?」
ラ「どうやろ。それは何とも言えんけど、少なくとも嫌な相手ではないってことや」
コ「ただな、また徹夜のときは、いつものメンバーが来るろ?やで、邪魔が入るんよ」
ラ「焦るな。この徹夜の時期だけでそんに進展するとは考えるな」
コ「そういうもんか…」
徹夜の初日、いつものメンバーが集まりました。ちえちゃんは、発祥祭に来た時に一緒に来た、同じ職場の人夫婦の車で来ていました。そのご夫婦は、まだ小さい子供を親に預けてきたので、早めに帰るということでした。なのでちえちゃんも一緒に帰ることになっていました。他のメンバーは休憩しながら、朝まで踊るということでした。そして、コマの嫌いな臭いひとみさんも来ていました。コマは、この人が早く帰ればいいのにと思っていました。
十二時頃になって、英生さんと、ちえちゃん、ちえちゃんの職場の人ご夫婦に、なぜか臭いひとみさんが帰って来ました。ちえちゃんの職場の人がこの時間で帰るということで戻ってきたのでした。
「ちえちゃん、まだ踊れるんなら、帰らんでもええで」
「う~ん、でもぉ、一緒に乗せてもらわんと帰りの足がなくなるもん」
「ええて、誰でも乗せてってくれるわ」
そこで英生さんが言いました。
「好きなだけ踊って行けばええ。大和くらいなら、終わってからでも送っていってやる」
「そんな、わざわざ悪いし」
「大和なんかすぐそこや。もう疲れて帰りたいんなら別やけど、まだ踊りたいんなら、気にせんと踊ってけばええ」
「どうしよう…」
そのご夫婦は、
「ヒデくんにまかせたで、まだちえちゃん踊りたいで、踊らせてやって。ちゃんと送ってやってな」
と言って帰って行きました。
その間、コマはみんなの様子を見ていましたが、はっきり言って、臭いひとみさんは邪魔でした。何しに来たのかと思いました。ついてくるなよ、と思いました。あっちいけと思いました。おまんが今帰れ、と思いました。ご夫婦を見送ってから、踊り場に戻る様子を見ていると、英生さんとひとみさんの距離が妙に近いような気がして、嫌な気分になりました。
次の日。
以下犬語。
コ「おーい、おい」
ラ「なんや、暑苦しい声して」
コ「昨日、見とったか」
ラ「おう、ちえちゃん、英生さんに引き止められて、朝まで踊ってったな。英生さん、送って行ったし」
コ「そうなんや。英生さんが、引き止めるって、なかなかないと思うんや」
ラ「わしも、昨日のやりとり聞いて、英生さんちえちゃんのこと相当気に入っとるんないか、と思ったんや。今朝送って行く時も、あの無愛想で人見知りの英生さんが、おまんに散歩行くかーって言う時みたいな顔で、ちえちゃんにはしゃべりよったもんな」
コ「やっぱり、そう思ったか?」
ラ「ただよー、ひとみさん、邪魔臭かったな」
コ「おー、臭いひとみさんな。ちえちゃんと一緒に来た夫婦が帰るときも、来んでもええのに一緒に来て、今朝帰るときも、さっさと帰ればいいのに、最後まで一緒におって英生さんとちえちゃんの邪魔しよった。あの人、別の人と一緒に来たんやで、あの人がさっさと帰らな、その人も帰れんのやで」
ラ「…。ひとみさんなー、あれよぉ、英生さんがちえちゃんのこと気に入っとるの気付いて、今頃になって惜しゅうなったんと違うか?そんで邪魔しとるンないか?」
コ「そんなこと言っても、今まで臭いひとみさんは、ちいっとも英生さんのこと好きなかんじでもなかったでンなぁ。ついでに僕のことも。ま、僕のことは今も好きでないけど。僕も嫌いやでええけどな」
ラ「おまんのことはどうでもええがな。
多分な、今まで、英生さんが自分のこと、ちょっと好きやってこと、ひとみさんは気付いとったんや。やけど、発祥祭のあとにも、自分の知らんとこで英生さんとちえちゃんの交流があって、いつの間にか英生さんの気持ちがちえちゃんに移りそうになっとるのが、嫌なんと違うか。ひとみさんが本当に英生さんを好きなのか、ただ、今になって惜しいような気になっとるんか、それはわからんけどな」
コ「それ、タチ悪いがな」
ラ「臭い女は、得てしてタチが悪い」
コ「昨日もな、例のご夫婦が帰ってから、三人で踊り場に帰って行きよるとこ、柵のこっちから見とったんや」
ラ「おー、おまん、睨みつけとったな」
コ「くっさいひとみさんのすること、見とったか?今まであんな風に英生さんにくっついて歩いたことないのに、なんやらしゃべりながら肩たたいたりしてなぁ。べたべたしよったんや。あんな風にしたら、ちえちゃんが変に誤解して遠慮するようになるンないか?」
ラ「おまん、たーけやンな。ひとみさんはそれが狙いなんや。そうさせようと思ってしとるんや」
コ「はぁ?おかしいろ!くっさいひとみさんは英生さんの彼女とか恋人とかと違うろ!」
ラ「そこらが人間のタチ悪い女の複雑なとこや」
コ「ちえちゃん、もう来んようになるかな…」
ラ「わからんな。今朝英生さん帰って来た時、どんな感じやった?」
コ「なんや、お母さんにしゃべりよったけど、僕にはあんまり聞こえなんだ。別に不機嫌そうではなかった」
ラ「またちえちゃん、徹夜に来るか?」
コ「帰るときには、今年の徹夜には、もう一回来たいって言いよった」
ラ「その時が、どういう状況かによるな」
コ「そういうもんか」
ラ「そらそうやろ。今日、送っていった車の中で、ちえちゃんと英生さんがどういう話をしたかってことが重要やで」
コ「そうか…」
三日後。今日は徹夜踊りの最終日です。コマはなんとなく焦っていました。この徹夜踊りの間、どうも毎日ひとみさんは踊りに来ているようなのです。英生さんの家には来ていませんが、英生さんも毎日踊りに行っていましたから、ひとみさんが踊りに来ていれば、踊り場で会う可能性は当然あります。英生さんが踊りに行く時間というのは、大体決まっていますから、その時間を狙って偶然を装うことくらいは簡単にできます。そして帰って来た英生さんからひとみさんの臭いが漂ってくると、コマは「チッ、おのれ、ひとみメ」という気分になるのでした。
夕方、日が翳ってから英生さんとコマが散歩から帰って来ると、お母さんが聞きました。
「今日は誰も車停めんのンか?」
「盆のうち、達郎が帰って来とるし、遠慮してか、誰も何とも言わん」
達郎さんと言うのは英生さんの愛想のいい弟さんです。達郎さんは明日から仕事なので(英生さんもですが)、早い時間に踊って、十二時頃には帰ると言っていました。達郎さんも英生さんに負けず劣らずの踊り好きなのです。
「一人、今日迎えに行ってやることにはなっとるけど」
「おまんがか?誰を?」
「この前来た子や」
「ちえちゃんか」
「そうや。よう覚えとったな」
「そこまでボケとらんわ。なんで迎えに行くんよ」
「この前の帰り、また徹夜のうちに来たいようなこと言ったで、うちに停めやええって言ったんや。やけど、遠慮して、弟さんも帰っておいでるし、お客さんの停めるとこがのうなっても迷惑やって言うで、なら迎えに行ってやるってことになったんや」
「ほうか、なら事故せんように、気をつけて行きなれ」
コマは、英生さんがちえちゃんを気に入っていると確信しました。多分、お母さんも。多分、お父さんや達郎さんも。ちえちゃんが迎えに来てくれと言ったわけではないのです。英生さんが迎えに行ってあげると提案したのです。迎えに行くってことは、送っても行くってことです。コマは心の中で「よっしゃ!」と叫んでいました。
以下犬語。
コ「おーい、おい」
ラ「おー、英生さん出てったな」
コ「今、英生さん、ちえちゃんのこと迎えに行ったんや」
ラ「へぇ。来とくれって頼まれたんか?」
コ「いや、英生さんの方から迎えに行ってやるって言ったらしい」
ラ「ほんとにか!」
コ「そうやろ。英生さん、なんとかちえちゃんとうまいこと行かんか」
ラ「やけど、ちえちゃんも、迎えに行ってやるって言われて、嫌な人なら断るろ。迎えに行くってことは、送ってももらわんならんのやで、嫌な人とそれはできんろ。やしな、英生さんが軽々しくそんなこと言わん人やってこと、ちえちゃんも分かっとるはずやで、ちえちゃんは英生さんの気持ちを気付いてもおるはずや」
コ「ほうか、なら、はっきりはしてないだけで、両思いってことでええんか?」
ラ「英生さん、はっきり言わなだちかんわな。男なら。ぼけぼけしとったら、他のモンにとられるでな」
コ「そういうもんか」
ラ「おかしな邪魔が入ることもあるしな」
コ「おかしな邪魔?」
ラ「例えばよぉ、ひとみさんとか。どうも怪しいかんじやでなぁ」
コ「僕が邪魔させん」
ラ「ま、頑張りなれ。今迎えに行っとるなら、今日は割りに早う帰りなれるんか?」
コ「多分な。ちえちゃんも明日から仕事なンないか」
犬二匹の心配を他所に、その夜、英生さんはちえちゃんと踊りに行きました。そんなに遅くならない時間に、ちえちゃんと英生さんは帰ってきました。二人が家の前まで来たので、コマは柵に鼻を乗せて、耳ダンボにしながら話を聞いていました。
「やっぱり、私、親に迎えに来てもらうわ」
「遠慮せんでええて」
「ええて、早う踊り場に戻ってよ」
「なんでや。朝まで踊りはあるんやし、そんに気にすることでもないがな」
「私のこと送っていくと、面白うない人がおるんないか?」
「おらんわ。誰のこと言っとるんよ」
「なんや、ひとみさん、面白うない顔してずっとこっち見よった気がする」
「どしてそこにひとみちゃん出てくるんよ?」
「なら、どしてあんに不機嫌そうな顔せんならんのや?」
「そんに不機嫌やったか?」
「気付かなんだんか?私にだけ、なんや冷たかった気がする。新参者でよそ者の私が、ヒデさんに送ってもらったり、迎えにきてもらったりするのが、気に入らんのと違うか?」
「なんで気に入らんのよ?」
「…。やっぱ、悪いで、親に迎えに来てもらうし、送ってくれんでええわ」
コマは二人の会話をはらはらしながら聞いていました。なので、ちえちゃんが英生さんから離れて、駆け出した時には、今まで飛び越えたことのない柵を越えて、ちえちゃんの元へ走って行きました。
ドンという大きな音と一緒に、コマは右足に激痛が走るのを覚えました。ちえちゃんを引き止めたいばかりに、道に飛び出したコマは、走ってきた車に撥ねられたのです。帰りかけていたちえちゃんは、息の荒くなっているコマに駆け寄ると、「コマ大丈夫?」と、泣きそうな顔で何度も言いました。英生さんは暫くコマの様子を見ていましたが、息の荒いのが徐々に元に戻っていくと、コマを抱えて、ゆっくり立たせてみました。コマは右足が痛くて、しっかり立てませんでした。英生さんがちえちゃんに声をかけました。
「この様子なら、多分、足の骨が折れただけで、大丈夫と思う。息の荒かったのは、驚いたでや。明日にならな病院もやっとらんし、朝、おやじに連れて行ってもらうように頼むで、心配要らん」
「コマ、大丈夫かなぁ」
「うん、車もこの道ではそんに走れんで、スピードも出とらなんだでな」
外の騒ぎを聞きつけて、お母さんとお父さんも出てきました。
「なんよ、コマ車に轢かれたんか!」
「急に柵飛び越えて、道に走って来たでや。あんな風に飛び出したら、轢かれるわ」
「様子は、どうなんよ」
「さっきより息も落ち着いて来たし、多分足の骨だけかと思う。おやじ、明日、朝イチで病院頼めるか?」
「そうやな、朝まで可哀相やけど仕方ないな」
そんな会話の間、ちえちゃんはずっと泣きそうな顔をしていました。コマは伸び上がってちえちゃんの頬を舐めてやりたいと思いましたが、足が痛くて、そんなことも出来ないのでした。
英生さんはちえちゃんを送っていくことになりました。ちえちゃんも今度は大人しく従いました。コマはほっとしながらその様子を見ていました。
翌日、コマはお父さんに病院に連れて行ってもらいました。やはり、足の骨は折れていましたが、他は無事でした。
二日間の入院後、退院してくると、英生さんは夜、電話をしていました。どうもコマの退院を知らせる電話のようでした。
「元気で帰って来たで、心配かけたけど」
そういう英生さんは、とても優しい笑顔なのでした。
電話が終わると、お母さんが来て言いました。
「ちえちゃんに電話したんか」
「そら、コマが怪我したの自分のせいみたいに思って、翌日も電話くれたし、連絡してやったほうが向こうもホッとするろ」
「まぁ、そうやな」
「歩けるようにはなったけど、当分は散歩も様子見がてらやな。コマは歩きたがるやろうけど」
「ちえちゃん、近いうちにおいでるか?」
「わからん」
「おまん、顔見に来てやっとくれって言わなんだんか」
「言わん」
「だーちかんなぁ」
「犬くらいのことで、そんなこと言えるか」
二人の会話を聞いて、コマも「だぁちかんなぁ」と思っていました。
翌日、外の放し飼いエリアに出て行くことを許されたコマは、お隣との境に寝そべっていました。そこにラッシーが来て、腹ばいになりながら話しかけました。
以下犬語。
コ「やっとめ」
ラ「やっとめ。おまん、大丈夫か。あん時は心臓飛び出るくらいびっくりしたし、心配したんやで」
コ「ほら、悪かったンなぁ。足によぉ、金具入っとるんや。まぁ、そのおかげになんとか歩ける」
ラ「けどよぉ、あん時、英生さんとちえちゃん、やっぱりひとみさんのせいで、なんや、おかしな雰囲気になりそうやったでンなぁ。おまんが怪我した結果、ちえちゃん、大人しゅう送ってもらうことになったんやで、まあ、そのことは良かったンないか?」
コ「おー、臭いひとみさん、英生さんの彼女と違うのに、ちえちゃんがひどう遠慮するで、見とってはらはらしたんや」
ラ「あそこで、英生さんが一言はっきり言わんでだちかんのや」
コ「ひとみさんは嫌いやてか?」
ラ「そらおまんやがな」
コ「ひとみさんは臭いてか?」
ラ「それもおまんやがな」
コ「ひとみさんは彼女やないってか?」
ラ「ひとみさんどうこうより、英生さんがちえちゃんをどう思うってことや。肝心なのは。やで、ひとみさんはどうでもええ、俺はちえちゃんがええんやって言えば、ちえちゃんは最初から大人しゅう送ってもらっとったんや。おまんも要らん怪我せんでもよかったんや」
コ「そこらが、なかなか言えんとこが、英生さんの英生さんなとこなんや」
ラ「徹夜は終わったけどな、まだ土日は踊りも続くし、ちえちゃん来るやろか」
コ「昨日な、僕が退院したことちえちゃんに電話しとった」
ラ「そうか、なら今度の休みに来るかもな」
コ「ちえちゃん、英生さんやのうて、僕に会いに来とくれるかも」
ラ「おまん、調子ええこと言うし。心配してやって損したわ」
その週末、ちえちゃんは朝から、コマのところにやって来ました。骨折にはカルシウムを取るようにと、大きなにぼしの袋と、コマの好物だと聞いて、大きなピーナッツの袋を持って来ていました。
コマはちえちゃんの顔を見ると、柵につかまり立ちをして尻尾をふりました。その様子を見てちえちゃんが、本当に嬉しそうな笑顔になったので、コマもまた本当に嬉しい気持ちになったのでした。ちえちゃんは、
「おまん、もうそんに立てるンか?良かったンなぁ」
そういって顎やら頭やらを撫でてくれた後で、
「みんなおいでるか?」
と聞きました。喫茶店の朝は、モーニングサービスのお客さんでどこも混んでいます。英生さんのご両親の店も例に洩れず、休日の朝は混んでいるので、ちえちゃんはまずい時間に来てしまったかなと思っていました。外で少しコマとしゃべっていると、英生さんのお母さんがドアから顔を出しました。
「あれ、ちょうど良かった」
「おはようございます」
「コマとはゆっくり、あとで遊びなれ。悪いけど手伝っとくれ」
「えぇ?」
「ええて、運ぶだけやで。お父さん冷房の部屋で酔っ払って寝て、今朝になったら熱あるんや。今日は医者も午前中で終わるし、今英生に手伝わせとるけど、交代してやってくれんか。英生にはお父さん医者に連れて行かせるで」
「でも、教えてもらわんと、何にもわからん…」
「ええて。私が言うように動いてくれればええんやで」
お母さんは、こういうときの押しの強さは天下一品です。ちえちゃんの手を引っ張って店の中に入っていってしまいました。コマは壁にくっつけた耳をダンボの耳にして中の様子を伺いました。中からは時々楽しそうな笑い声が聞こえましたが、お客さんの声にかき消されて、お母さんとちえちゃんの声は聞こえませんでした。
モーニングサービスの忙しい時間は二時間くらいなので、それが終わると一息つけます。お客さんが少なくなったのと、ほぼ同じくらいにお父さんと英生さんが病院から帰って来ました。お父さんはとろんとした目をして、薬の袋を手から提げていました。コマはまた耳を壁にくっつけて聞いていました。今度はお客さんも減っていたので、店の中の声はよく聞こえました。お母さんがお父さんに聞きました。
「どうや」
「風邪や」
「解熱剤出たか」
「おー。出た」
「今日は店出んでええで」
「当たり前や。殺す気か」
「心配してやっとるに、可愛らしょうないし」
「もうええ、おまんとしゃべる元気もない。寝る」
「なら、今日はランチ終わるまで、ちえちゃんに手伝ってもらうわ」
そこで驚いたちえちゃんが口を挟みました。
「えぇ!私、ようやらん」
「さっきと同じや。ちゃんとバイト代は払うに、心配せんでええて。うちはAとBの二種類のランチしかないし、モーニングほどお客さんもおいでんし、作るのは私やで」
今度は英生さんが止めました。
「俺が手伝うで、いきなり無理なことばっかり頼むな」
「おまんは作るの出来んし、でかい図体でのそのそ運ぶと、狭い店がよけ狭苦しい。愛想もないし。おまんは洗いもん担当でええわ」
「おまんこそ遠慮せえよ」
親子喧嘩になりそうな雰囲気になってきたので、ちえちゃんが言いました。
「なら、運ぶことくらいしか出来んけど、ランチ終わるまで手伝わせてもらうわ」
お父さんは、そのやりとりに片がついたのを見ると、
「悪いな、頼むわ。寝る」
そう言って奥に入っていきました。コマはお母さんを尊敬したい気持ちになっていました。
ランチタイムが終わって、自分たちも昼食を済ませると、二人はコマのところにやって来ました。
「コマ、よかったわ、元気になって」
「後ろ足で立ちあがっとるろ?金具入っとるらしいンけど、痛うもないんか、よう動くようになったんや。動物ってもんは回復が早いって、感心しとるンや」
「あの日、心配で寝れなんだんや。死んだらどうしようと思って」
「コマ、嬉しそうやな」
「散歩、一緒に行ってもええか?」
「ええけど、まだこの時間は暑うてこっちが死んでまうで、もっと遅うなってからやな。まだ前と同じ距離は歩いてないで、近回りコースで連れて行くんや。来週から少しずつ距離も伸ばして行こうかと思っとる」
「そうなんや、夕方まで行かんのか…。なら、帰ろうかな」
「今日は踊りに行かんのンか」
「そんなつもりなかったし、浴衣持って来とらんし」
「なら、浴衣着てからもう一回来たらええ」
そこで店のドアが開きました。お母さんです。
「ちえちゃん、今日はありがとう。ちょっと店入りなれ。今お客さんおいでんし、ちょっと見なれ」
「なんよ、おまん、いきなり」
英生さんが驚いて言いました。お母さんの声に妙に力が入っていたからです。
「私の浴衣、派手になったやつ着んかと思って。着るならあげるし」
今度はちえちゃんが驚いて言いました。
「そんな、私なんかがもらっては…」
「ええに。ここは娘がおらんで、誰かに着てもらったほうがええんや。まぁ、見なれ」
コマは、静かな店の中で、お母さんが耳ダンボだったに違いないと思いました。そして、このお母さんの機転が効くところが、この店の繁盛に少なからず影響をもたらしていることは間違いないと確信するのでした。
翌日。
以下犬語。
ラ「おーい、おい」
コ「ほいほい」
ラ「昨日の報告まンだ聞いとらん」
コ「なんよ、待ち切れんと呼んだんか」
ラ「ええに、しゃべらんかな」
コ「ちえちゃん、朝ピーナッツ持って来たろ?」
ラ「その後、一日おったがな」
コ「モーニングもランチも手伝っとくれたんや。その後帰るって言うのを、お母さんが浴衣やるって言いないて、引き止めたんや」
ラ「おー、おまんとこ、お母さん、やり手やな」
コ「まぁ、確かに女の子おらんで、着んのなら誰かに着てもらうほうがええわな。何枚かあるうちの、どれがええかって、中で広げて見よったでなぁ。ああだこうだと。女はああいう話になるといつまでもしゃべっとる。結局、そのうちの一枚もらうことになったら、今日はそれ着て踊りに行けばええって話になって」
ラ「お母さんが、そうしなれ、そうしなれ、って言ったんやな。目に浮かぶわ」
コ「帯はお母さんの借りて、下駄がもうお母さんのは、おかしなのしかないって話になったら、そこでバイト代出して、これですぎもとで買いなれって」
ラ「おまんの散歩の前に、英生さんと二人でどこやら行ったかと思ったら、ちえちゃんの下駄買いに行ったんか」
コ「下駄も、踊ると早う減るろ。ちえちゃんが、うちに帰れば下駄はある、いうのを、お母さんが、毎年踊りはあるで、下駄は何足あってもええ、すぎもとさんとこは、鼻緒もしっかりすげておくれるで履きやすいって勧めて、英生さんに連れて行かせたんや」
ラ「やけどよ、昨日買った、あの下駄、英生さんが買ってやったんやで」
コ「なにっ!なんで僕が知らんこと知っとるんよ!」
ラ「うちの前通る時に、英生さんが、今日は無理言ったでお詫びや、バイト代は小遣いにしなれって言いよったの、聞こえたんや。今のおまんの話聞いて、ははーん、下駄は英生さんが買ったんやな、と思ったんや。おまんもやけど、わしもな、耳ダンボやでな。英生さんに連れて行かせた時点で、お母さんは英生さんにちえちゃんの下駄買わせるつもりやったに決まっとる」
コ「そうか。鋭い洞察力や。さすが亀の甲より年の功。犬のひげより猫のひげ」
ラ「いらんこと言わんでええ。ちえちゃん、次はいつ来るンよ」
コ「近いうちに来るろ。浴衣に着替えたのはええけど、紐やらタオルやらはお母さんのやで、洗って返すって言いよったでな」
ラ「そのあたり、ほんとお母さんのすることはさすがやな。向こうから来させるように仕向けるって、なぁ」
コ「けどよ、僕にも会いとうて来るンやで」
ラ「ほうかや?今となっては、英生さんに会うついでと違うか」
コ「ま、そんならそんでもええわ」
その日の夕方、ちえちゃんは借りていたもの一式を洗って、紐はアイロンがけしてきちんと畳んで持って来ました。そして英生さんとまた踊りに出かけました。
秋になり、踊りのシーズンは終わりました。コマがすっかり元気になって、お散歩コースが元通りになっても、ちえちゃんはコマの様子を見に来ました。冬になって、寒くなっても、コマの様子を見に来ました。コマはちえちゃんが大好きになっていました。英生さんの奥さんは、この人以外考えられないと思っていました。
以下、犬語。
コ「おーい、おい」
ラ「おう、どさぶいな」
コ「なぁ、ちえちゃん、嫁に来とくれるか」
ラ「英生さんのか」
コ「当たり前や」
ラ「おまんが嫁に欲しいかと思って」
コ「たわけたこと言わんと」
ラ「もう、来るろ」
コ「なんで分かるんよ」
ラ「おまん、このごろのちえちゃん、英生さんが迎えに行って、英生さんの車に乗って来るがな。向こうが勝手に来るんと、訳が違う」
コ「そう言われや、そうやな」
ラ「まー、おまんも鈍いし。そういうとこがマルに振られた原因や」
コ「傷口えぐるようなこと言うし」
ラ「まぁ、おまんのことはどうでもええ。この前、日曜に店休んで、ここのうち、三人してどこやら行ったがな」
コ「おー、なんか、みんないつも着んようなもん着とったな」
ラ「あれよー、多分、正式に嫁におくれんかって言いに行ったンないか」
コ「そうなんか。このごろちえちゃんがしょっちゅう来とくれるで、油断して耳ダンボしとらなんだわ」
ラ「おまんのそういうとこが、詰めの甘いとこなんや。今が冬やろ。わしの予測では、春に結納、秋に結婚式やな」
コ「そういうもんか」
ラ「考えてみぃ。夏なんか暑うて、呼ばれるモンもかなわんがな。冬はいつ雪になるかわからんがな。そう思えば秋しか無いろ」
コ「そうか。ちえちゃん、秋になったら毎日うちにおるんやな」
ラ「おまんのそういうとこが短絡的やっていうんや」
コ「え?」
ラ「ここに住むとは限らんがな。英生さんと二人で、別のとこ住むかも知れん」
コ「そんなのは嫌や!僕は英生さんとも離れとうない。何で僕のこと連れて行ってくれんのや!」
ラ「例えばや言うに。連れてってくれるかもしれんし。全く、おまんのそういうとこが扱いにくいとこや。おまん、泣かんでもええろ」
コ「グス。泣きたくなるようなこと言うでやし」
ラ「別に苛める気で言わんがな。ま、嫁には来ておくれるろ。それは間違いないで、安心しなれ」
コ「それはええけど、なんか新たな不安が出来たし」
そんなコマの不安をよそに、ラッシーの予測通り、ちえちゃんは英生さんのお嫁さんになってくれるのが決まったようです。浮き浮きした雰囲気の中、コマだけが情報収集に必死なのでした。毎日耳ダンボにしながら、なんともおたおたと落ち着きの無いコマの様子を見て、
「あいつ、人間や無うて良かったなぁ…」
と、しみじみ思うラッシーなのでした。