プロローグ
ウォシュレット結構大事だよー
「なあ、黒加根」
夏が近くなり、もやもやとした熱気に包まれた男子トイレ。
黒ずんだ個室から聞こえてきたその声は、右京のものだ。
「どうした、紙ないのか?」
俺は大便用の個室に向かって問いかける。
きっと、髪か紙がないのだろう。
右京というのは、俺が高校に入学してからできた、まぁ友達だ。典型的なデブで、まぁ力士だ。ついでにいうとハゲかけてる。こいつの奇行にさんざん悩まされてきたが、現時点でまた悩まされそうである。
給食前の連れションかと思ったのに、これじゃ連れウンじゃねぇか…。
そう思いつつ、俺はカツラはあいにく持ち合わせていなかったので、トイレットペーパーを個室に投げ入れる構えをする。
すると、それを悟ったように、右京は口を開いた。
「いや、紙なら十分にある」
「なんだよ、じゃあふんどしがないのか?」
「いや力士じゃねえよ」
「んじゃなんだよ」
なんだ。力士じゃねぇのか。
「俺らの高校って洋式トイレすべてにウォシュレット完備になってるだろ?」
「まあ、そうだな」
俺らの高校では全トイレにウォシュレット完備という、なんとも贅沢な高校であり、奇妙な高校である。
なぜわざわざウォシュレットを完備にしたのか非常に疑問だ。
ウォシュレットを完備にするぐらいなら、映画館とかつくってくれよ。
てか、なんでウォシュレット完備されてるのにトイレこんなくせえんだよ。臭いをまずどうにかしないとまずいだろこれ。
「そのウォシュレットがどうかしたのか?」
「それがよ、興味深いものを見つけちまったんだよ」
この空間で興味深いものといったら、この臭いか、一人個室で喋ってるお前くらいだろと思いつつ右京に耳を傾けた。
「このウォシュレットのボタンにあるビデってなんだろな?」
「おぉ…。究極の質問だな…」
正直、俺もトイレするたびに気にはなっていた。しかし、押そうなんて考えたこともなかった。でも給食の前にそんな話はやめてほしい。今日はニンジンパンの日なのに。
「いいから、お前早く出て来いよ」
「ちょ、俺押してみるよ」
「おい、やめとけ。死ぬぞ1
返答はない。どうやら覚悟を決めたようだ。
…かすかにウォシュレットの動く音が聞こえた。
一瞬の静寂。
声にならない悲鳴が響く。
……もう帰りたい。
俺はすぐさま手を洗ってトイレから出る。ハンカチがないからしょうがなくズボンで拭く。
それでも、トイレのドアが汚いからもう一回手を洗わなくちゃいけない。
なのにっ!!水飲み場では女子たちがいつもどおり群れを成していた。今日も混雑中である。
ここでも俺は居場所がないのである。
ようやく俺の存在に気づいた女子が蛇口を譲ってくれた。
軽く会釈をするはずもなく、俺は蛇口をひねった。
今日も女子の髪形はポニーテール一色である。
俺はショートカットを愛している。
基本、ショートカットの女の子は可愛い。言うまでもなく可愛い。後ろ姿を見ればそれだけで惚れるし、心がときめく。ゆえに、街で見かけるショートカットの八割は美人である。いや二割どうしたんだよって、それは好みの問題だな。うん。でもな、その二割のヤツらの後ろ姿だけ見れば美人に見えてしまうのが、これまた不思議なんだぁ。
ショートカットとはぶっちゃけ、万国共通なのだ。見るものを誘惑する滑らかな内巻きの髪。どの方向からの視線にも適応しており、決してくずさない美しい球体。全世界がこのヘアスタイルの素晴らしさに気づくことができれば、世界中がショートカットであふれるだろう。
だーが、世界中でショートカットであふれていないのは、それぞれの人の好みがあるからだ。ましてや、人は外見じゃない、中身だ、と主張する人もいるよね。現に俺がそうだ。そうなのかよ。
でも俺は、ショートカットには無限の可能性とロマンが秘めていると信じている。きっと、歴史上の卑弥呼や清少納言もショートカットというヘアスタイルに出会っていたら、さぞモテていたはずだ。写真集でちゃうレベル。
そんなこんなで俺のショートカット愛は十分すぎるくらいに伝わったであろう。
だが、この学校にはショートカットの女の子は一人もいない。強いて言うなら、保健室のおばちゃんが唯一の一人だが、あれはカウントしないことにしておこう。
ショートカットの子がいない、この学校での日常は恐ろしいほどつまらない。
でも、そんな生活に終止符を打つ出来事が起きたんだよ。王道的な展開だけど、俺はこれを腹立つ奇跡とでも称しておきたい。起こってほしくない奇跡でもあったからな。
トイレをのぞくと右京が何とも言えない表情でこちらを見つめていた。
…もう帰りたい。