74 それは己が過去の記憶
重い間を切り裂いたのは、呼んだことの無い彼女の名前だった。
「シェルト」
口が、勝手に動いていた。
「シェルトは、逃げてるだけだよ」
息を呑む音を、音として耳で聞いたのは初めてだ。それくらい、彼女の心には響いていたのだろうか。いや、むしろこれを言うせいでシェルトから突き放されるのでは無いだろうか、と言う考えさえ頭によぎる。
「逃げてるのは、そっちで──」
「俺だって逃げた。もっと早く止められた、最初からレンドリューと話し合う道だってあった! だけど、シェルトも逃げてた。シェルトだって、シェルトだって幸せから逃げてただろ!」
「──幸せ、から?」
「そうだよ! 自分は不幸な人間だ、自分は救われてはいけない? ……極めつきには不幸でいれば今が幸せに感じられるだなんて!」
怒っていたのかもしれない。もしかしたら、彼女を止められなかった腹いせに八つ当たりをしているのかもしれない。
だけど、止められない。
「……だって、そうでしょ!? 一度でも“幸せ”だって! 外に出して喜んだら! ……っ、また奪われるの──」
「だったらまた幸せになればいい! やり直しは、シェルトなら大丈夫だから」
だから、こんな言葉をかける。ありきたりで、変哲もクソも全く無くて、でもそれでいて、とても大切な──。
「──あの……さ。シェルトは今、幸せ?」
間は多分、無かった。間髪無かった。考える暇さえ無かったと思う。
本音なのかは、シェルトしか分からない。初めて聞かされた過去のように。だけど俺は、彼女を信じる。
信じてくれる人がいる。それだけで、人間幸せだから。
「──変、だよね。私は目の前で兄を殺してるのに、最低なことをしたって言うのにね……おかしいんだ──」
笑顔。曇りも、過去も、今まで背負って来た不幸せも、これから背負う幸せも、背負わされた戦いの運命も、これからも背負っていく血の運命も、全て。
全て、そこには存在しなかった。笑顔の前では、そんな汚れは介在することはできなかった。
「エル。あなたに名前を呼ばれて、シェルトって呼んでもらえて、嬉しいの」
ただの少女。世界に生き、世界で笑う、何を背負うでも無い、13歳の少女。彼女の、その屈託のない笑顔。
自然と、気張っていた肩の力が抜けていく。
「って、笑うこともできないか」
「……そうだね。もう笑う気力すら起きてこないや」
幸せかどうか、なんて俺にはわからない。
だけどそれは、今は、たしかに、幸せな時間だった。
「……ふぅん、レンドリューがやられるか。流石、怪盗の計画を悉くぶち壊してくれる子たちだ」
幸せだった時間は、そう長く続かないのかもしれない。
見た目は初老の男がいた。さっきまで彼が──レンドリューが立っていた場所に。
「青春してるとこごめんね。これも私の仕事でねぇ、いいよ続けて? こっちはこっちで別の作業があるから」
それは明らかに、“異質”だった。敵意も、何なら彼自身の魔力さえ掴むことができない。
「お前は……っ、誰だ!」
怖かった、単純に。ただそこに恐怖という存在があった。いや、怖いと感じているのはこちらで、彼自身からは何の干渉も起こしていない。
──だから、それが、恐ろしい。
「あんたは……ッ!!!!」
「シェ、シェルト……?」
急のことだ。シェルトは立ち上がり、初老の男性への敵意を剥き出しにする。驚異的な回復力で魔力を生み出した彼女の周りには、何個もの光弾が飛び交っていた。
「シェルトはあいつを、知って──」
「ベリエヌスク」
息を、飲み干した。
展開が早すぎて脳が追いつかない。というか俺は立ち上がることすらできない。
『ベリエヌスク』。シェルトから聞いた事が真実であるなら、彼はシェルトの元主人で……狂科学者だ。
「そっちの子、私のこと知ってるんだ。……うーん、どこかで会ったかなぁ? もしかしてお父さんかお母さんか、研究室に来た事があったりするのかな?」
「……は? なっ、覚えて無いっての!?」
「いや、そんな凄まれても困るよ、なんか凄いの浮いてるし……。ごめん、君みたいな可愛い子は知らないや。おじさんもう歳かも!」
笑いながら、軽く言葉をいなすベリエヌスクと、震え、怒りをあらわにするシェルト。ごちゃごちゃな空気が、並々ならない緊張感を与えている。
「おいシェルト、本当に“彼”なのか? ……ほら、人違いの可能性だって──っておいやめろ!」
「──ベリエヌスク、覚悟ッ!!!!」
彼女の体から、ベリエヌスクに向かって無数の光弾が放たれた。容赦も何も無い。一発一発が即死級。触れれば最後、丸焦げだ。
それを惜しげもなく、加減もなく、打ち尽くす。
だが──
「んなっ!? 馬鹿な……っ」
──彼は全くの無傷だった。
「私は無抵抗、無防備だよ。かっかしないでお嬢さん?」
ベリエヌスクを囲んでいた砂煙の中に、もう1つの人影。
無精に伸ばされはねた黒髪と、左手に掴んでいる小太刀。動きやすいよう改造され、肌色のよく見えるメイド服。
しかし、何より目を引いたのはその背中だ。
背の開いた衣から見えるのは、柔肌と特徴的な模様。
「旗と、鎖……」
そう彼女、シェルトにも付けられている永久不滅の魔法の刻。
『奴隷の象徴』である。それを、見せびらかすように服を着ているのである。……明らかに、おかしい。
「……今日も守ってくれて、ありがとう──」
シェルトは膝をつき、顔の左半分を手で覆った。見たくないものを、見ないようにと。
「ああやっぱり、あなたも居ると思ったよ──」
その声は虚しく、そしてとても、燃えていた。
そして、そして。動き出す。
2人の声が、夕暮れ前の重い青空に重なる。
「──流石だね、ナイン」
「──久しぶり、フィフティー」




