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60 溟海に薫衣の狂い咲き




 少年の背から翼が生えた。

「……なんだよ、それ」

 理解が及んでいない様子で取り乱している。この世のものとは思えないほど、美しく醜い怪物を目にして。


「敵性排除、『プリムラの書、虚影、第0節【圧斂(あつれん)】」

 禍々しい翼が、背中から伸びた。一、二、三──(おびただ)しい、その数は左右合わせて三十六枚。




 いや、それは三十六本と数えるべき存在だった。触手のような植物の(つた)が、(むち)のように(しな)る。


 怪盗に迫る翼。それはまさに小規模な天災。禍い、呪い。これこそ、すべてを飲み込む大顎だった。

「……ッ『穿く音盛り(アルマリリ)狂気は黒満して大成す(グンバラスダルク)』──」

 二重言語が魔力の指向性を決定する。


 無意味。よって無意味。だから無意味。それは無意味。

「魔力が……吸われている? ────あ」

 怪盗は理解した。目の前の脅威に、勝つことはできない。

「……それでも、それでも!!!!」

 無駄な足掻きだった。


 敷かれてあった陣魔法がすべて起動する。

「砕け、壊せ──」

 粉々に砕く爆発が少年を飛ばす。


 無傷。


「焼けろッ!」

 地獄の火炎が少年を焼く。


 無傷。


「クソっ……!」

 風の刃が少年を刻む。


 無傷。


「クソ──クソがッ!!」

 巨大な岩が少年を押しつぶす。


 無傷。


「クソがっ………………」

 閃光の矢が少年を貫く。



 無傷。無傷。無傷。


「ク、ソっ……」

 混沌、大量の質量で押しつぶす。


「ク、ソ……クソ、クソが──ッ!!!!」

 最後に、ユノ・ワロキアを落とした、落とし穴の陣魔法を起動させた。


 無傷、だった。

「……あ」

 考えが、裏目に出た。書庫で魔力を奪い、その魔力を通さないように仕掛けておいたのだ。


 無理だった。


 かすってもいない、血などもう出るものはない。ただ、そこに少年が居ただけで、怪盗は絶望のどん底に落とされた。



「腕の……魔力が」

 彼の腕から魔女の力は無くなっていた。まるで、目の前の少年に引き寄せられたように吸い取られているかなように。


 何も考えず、細工を行わずに腕を切ると、腕の魔力はすべて元の人間に戻る。それは、腕の魔力と本人の魔力が同じだからだ。

 だが、ちょっとした細工を加えると、魔力は本人に戻らない。切り取られた肉塊の中に保存される。腕の魔力と本人の魔力を、別のものとして定義させる。繋がりを弱くする。


 古代ではそれを利用して降霊術を行使していた、という文献も発見されている。それは腕に霊を憑依させるものだ。


 だから、戻らないはずなのだ。だって、身体と腕の魔力は別物で、魔女の力などという魔力の塊をすべてごっそり奪い取って腕の中に入れたはずなのだ。


 だから、理由は一つしかない。

 繋がりが強固だったからだ。



 別のものとして扱えないくらい大切で、大切で。

 非常にも片隅に追いやられてしまった、哀れな力。

 それが少年の、魔女の力。



 これがエルヒスタ・レプラコーンの、一年前()()()記憶。




「あ、ああ」

 怪盗は理解した。


 自分はこれから殺されるのだと。


 容赦などない。


 肉片一つすら残されない。


 悲しくはない。もとより、悲しい人生を生きてきている。


 自覚はあった。悪行に手を染めると、簡単な、楽な、幸せな死など訪れたりしないと。分かっていた。分かっていたはずなのに、何故か。


 悲しいと感じた。


    ☆


 ずっと昔の話に思える。


 暗い、薄暗い聖堂だ。辺りに不吉な匂いが包まれていて、不気味で汚い。信仰在りし日の記憶さえ無くしたただの零細孤児院の、最後の日の、恐怖と絶望の物語。



 教会……だと思われる。経典を置く台の下。よくかくれんぼで使われる、今はバラバラだが、昔は絶好の隠れ場所だった。



 そこに、男の子が三人、女の子が二人人いる。

「うぅ……ぐすん」

 いや男の子三人と女の子一人が、一人の女の子を囲って守るように息を潜めている。


「おい泣くなよレンドリュー……! 今バレたら、オルビスにーさんに怒られる!」

 泣いているのは、レンドリューと呼ばれているまだ6歳もいかない幼年の男の子。


「で、でも! ぼく、こわいよ!」

 レンドリューはロッゾにそう言った。怖い、と。


 何が怖いのか分からない。



 そんなはずはない、ロッゾにも分かっているはずだ。だってこの匂いは、死と血の匂いだから。


 目の前に、死体が降ってきた。目を見開く。


「レイドロー、婆さん……っ」

 自分たちを育ててくれた、歳食った婆さんの亡骸だった。


 声すら出なかった。

 その時はじめて、自分が弱いと理解した。



 ロッゾは13歳。この孤児院で育ち、この孤児院で働く立派な大人だ。

「なのに……逃げることしかできない」

 オルビスという、心優しい青年の横に立って、一緒に戦うことすら出来ないのだ。


 情けない。13にもなって、婆さん一人も守れやしない。武器を持って戦おうとしたんだ、それは今の俺の左手を見ればわかる。ただの食事用のナイフなのに、今は何の価値もない。肉を切る正の価値も、肉を断つ負の価値も、何も無い。



 なのに、後ろの子供を庇おうとしている。





 いや、後ろの子供に守られているのはロッゾだ。

 なんて、哀れで滑稽なんだろう。



 ロッゾは、この孤児院に来る前のことを思い出した。何も楽しくない、何も手に入らないあの悲しみ。


 喪失感はそれに、少し似ていた。


「ねえレンドリュー君、オルザ、シェルトちゃん……そして、ロッゾさん。五人で……ここから逃げよ?」

 そう言い出したのは、ロッゾを含めずに一番歳の高い、マズルカという少女。今は11歳で、この孤児院の中でも姉のような存在だった。9歳の時に引き取られたにも関わらず、とっても働き者だった。


 そして、ロッゾはそんなマズルカのことが好きだった。私用は挟むべきではないだろう。けれど彼は、この状況でなによりも優先する人として考えていた。


「逃げて、これからどうするの……」

 ロッゾはそう言った。きっと思っていたのだろう。逃げるべきではないと。ここで戦うべきなのではないかと。


 そんなこと考えることが馬鹿だったのだと知らずに。

「じゃあにげたら、みんなでくらそうよ」

「それいいね、シェルト! ぼくもそうしたい。……オルザ兄ちゃんは?」

 四人に守られていたのは、シェルトと呼ばれているショートカットの赤毛の映える少女。若干5歳。

 そしてレンドリューは、この五人の中で一番中間にあたる9歳のオルザに質問をする。

「僕だって、みんなとくらしたい……!」


 なら決まりだ。そう言って覚悟を決めて、ロッゾは礼拝堂の大きなドアを開け、逃げ去ろうとした。




 何の準備もなく、何の確認もなく、何の意思もなく。






 その意思に、何の価値もない。




 分かりきっていただろう!




 なのになぜ何も考えなかった!




 どうして自分たちが狙われないか、理解しなかった!




 どうして……人を信じたりしたんだ!














 オルザの腕がなくなっていた。


「──マズ、ルカ……?」


 走り出して、やっと足を踏み出したと思ったのに。



「ごめんなさい……ロッゾさん」

 少女は謝っていた。少女は少年に謝っていた。


 理解できない、理解できない、理解できない!


 何かの間違いだ、これはおかしい。


「誠実で、潔白で、綺麗で、優しくて、可愛くて……大好きで、みんなを愛してた……マズルカがどうして!」




 「ねえロッゾさん?」と、あえて艶かしい頭にくる声で、彼女は笑みを浮かべる。

 裏切られた。絶望した。失意に陥った。



 ロッゾは本が好きだった。マズルカがよく読むから。

 ロッゾは魔法が好きだった。マズルカが不器用なのに毎日続けるから。最初に覚えた【閃光】って詠唱魔法を頑張って打つ姿は、とてもいい気持ちになった。

 ロッゾは、ロッゾは。



「私、裏切り者なんです……ずっと、前から」

 ニヤリと笑った少女に、その大好きだった少女が。













 不思議と、殺さないといけないと思った。

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