30 優しさと花園
声が聞こえた、優しさに溢れた笑い声が。男の人と女の子。たぶん、親子。再会を喜んでいる、ごく普通の親子の笑い声。それを聞いて、何か、泣きそうになった。
☆
ここはどこだ。とくとく、ぽたぽたという音がして、目を開ける。辺りは暗いが、少しぼんやりと視界が広がる。ここは……セタがいる精神世界では無さそうだ。
いるのは俺と、1人の女性。俺の手には剣が、女性は何も持っていなかった。目も虚ろで、何を考えてるのかも理解できないほど深い青に染まっていた。音は、なにからするのだろうか。発生源である手元を見る。
「……あ」
サクッという軽い音。とくとくと流れる赤い水の音。呻くような、喘ぐような、今にも命が消えそうな吐息。
息が荒ぐ。心拍数が上がる。不意に、どこかからか……いや全方位から男の声が聞こえた。
「奇跡は起きない」
ゆっくりと、淡々と、淡泊に、落ちてきた。暗かった空間が赤くなる。ゆらゆらと揺れ動く命の火。赤い何かがこびりついて離れない。精神のすり減る音がする。擦れて割れて、消えていく。苦しい、苦しい。痛い、痛い。
「────────────────────!!!!」
何もない空間に、消えていく。止まらない、終わらない。悪夢は、まだ。
☆
「レプラコーンっ!! 離してっ! その手をすぐに!」
気づいたら、そこはどこかの誰かの部屋だった。人がいた。酷い焦りようだった。
「え」
シェルト、彼女が俺の手首を掴んで離さなかった。何が起きているのだろう。俺は何も起こしたのだろう。
「その手をその剣から離して! そんなことしちゃダメ!」
何が起こっているのだろう。夢じゃ無いのか? 夢じゃ無かったのか? なんで俺の血が手についているんだ?
気がつくと俺は、自分の手を剣の刀身に当てて、そのまま胸を突き刺そうという、そんな体勢になっていた。手から血が滴って、床──昨日、一昨日と寝たあの部屋の床に落ちる。
「……。うぁっ!」
俺は何をしていたんだ。
「あああああああああ!!!!」
咄嗟に剣を離す俺。後ずさり、シェルトから離れる。シェルトが、ゆっくりと近づく。何回か、そんなことが続いた。
「大丈夫……か、レプラコーン……? なあ、何があったの? ねえ、レプラコーン大丈夫なの?」
俺じゃなかった。俺は、今の俺は俺じゃ無い。
「……こっ、来ないで! ダメだ、来るなっ……来るなっ!」
何かに襲われている感じ。冷静になりたい、冷静に。眼球が震えを覚えて止まない。視界が揺らぐ。ぐらぐらと落ちていく。
来ないでくれ。心が曇がかりながら言って拒んだ。放心。床に背中がつく。きっと、今の俺は死んだような目と鼻と口と耳をしているのだろう。死んだ人間より、死んでいる。
立ち上がる気力すら無い。
「レプラコーンッ!!」
俺はされるがままにシェルトに……
「大丈夫、大丈夫だっ……レプラコーンはそんなんじゃ無いっ!」
抱きつかれた。直前まで誰かと会っていたと思われる、白を基調としたドレスを、その1部を赤くして。俺の血が移ってしまうにも……いや移ってしまったにも関わらず。
「私を助けてくれたこと、見捨てないでくれたこと、やるときはやる強いところ、変なところとか……そう、それが……エルヒスタだよ。……それが、レプラコーンだよ! 今のレプラコーンは……怪盗に言われたことが心に傷を付けているのだとしても……。自分の道を怖がって逃げて、絶望した気になって、全部投げ出そうなんて思う。そんなのは、レプラコーンじゃない」
泣きながら、死んだ俺の胸に駄涙をこすりつけて……何も知らないくせに。俺のことなんか、俺のことなんか!
「俺のことなんか、ちょっぴりしか知らないくせに、偉そうにするなよ」
声が出た。傷付けるためだけの、悲しい声が。突き放そうとするだけの、理解して欲しくないという、痛みの声が。
シェルトは泣きながら笑っていた。笑いながら泣いていた。
「三日も一緒にいれば分かる……っ! 命を預けたんだ。お前がいいやつだって、信用できるかもって、そう思わなかったら、分からなかったら……大切なものを預けたりなんかしない!!! 今のレプラコーンは、違う。レプラコーンなら私を守ってよ! ……ボディーガードなら、守れるくらい強くなってよ! 努力してよ、強くなってよ! っ、怪盗なんかに、悪なんかに負けないでよ……」
緊張が解れてきたのを感じる。俺の手が、シェルトのドレスを離していた。嬉しかった。今までの痛みが緩和されていく感覚に、俺は身を委ねた。
「そうだね、ありがとう、そしてごめんね。そうだったよ、今の俺は、俺じゃ無い。シェルトさんのおかげで分かったよ。あっはは、約束守ってくれて……ありがとう」
ヒーローは、手を伸ばした人を、決して諦めたりはしない。
「戻ってきてくれてありがとう……私の大事なレプラコーン。私の大事なボディーガード」
そうやって、ふわりとした浮遊感とともに。
もう一度俺は、精神の世界へ落ちていく。
☆
──。
────────────────。
「やあ、来ることができたんだ、あなた。お帰り……やっと、思い出せた?」
誰かがいた。見覚えのあるが見覚えのない女の人。気づいたら、辺り一面が色とりどりの花の咲く花園となっていた。手に残る血はそのままに、花の色と血の色のコントラストが……何か、何かだった。
ただ、心が動いた。それだけだった。どうなったとか、どんな感情を抱いたとか、そんな言葉じゃ言い表せないくらいの衝動。結局──『心が動いた』、この言葉に帰結する。
「ここは果てですよ。召喚獣の力に触れた、あなたの心の」
どういうことだ、心の果て? 意味が……いや、何もかも分からない。
「シェルト・マーキュリアルが記憶を取り戻した理由を知っていますか?」
知らない。吐き捨てるように答えた。速く帰りたかった。現実に。きっと、誰かが待ってくれているであろう、あの場所へ。早く、早く。幸せを掴みかった。
「まあ、それもそうでしょう。ええっと、そうですね……彼女は『魔女の力』を持っています。それは本当です」
逃げ出せない、動かせない。だから、聞くしかない。
「えっと……手短に、ですか? では、『魔女の力』とは何か。そこからいきましょう……と思っていましたが、少し状況が悪いようですね。暴走しても私が困るだけですので、ここまでにするとしますか。まあ? 私にとっては彼女のことや他の魔女の事なんて関係のないイレギュラーですが……まあ、今回はあなたの心に免じて」
口を開くのをやめる女。俺はセタを呼び出そうと心の中に問いかける。
返事は無い。いや、もはやそこにはセタはいない。
女は、口角を上げてにっこりと笑って、話を続ける。
「だから言ってますよ。ここは果て、あの召喚獣の力で繋がってしまったあなたの、記憶の果ての果ての、深い溝。反転した心の、何も無い空間に入れ込まれた『魔女の力』。それと同じ、記憶の力」
何を言っているのかさっぱりだ。記憶の果て? 記憶の力? そんなものに覚えは……覚えは、俺の過去にあるかもしれない。一年前の、何度も何度も俺を揺さぶったあの声。昔も、その昔も、ずっと前から、物心ついてすぐ位から知っているような……あり得ない、そんな、“みんな”の笑い声。
「心の中と繋がりそうかな、私のいる果てに。『魔女の力』で死んだ私に。死の恐怖という、人類の共通認識で」
『魔女の力』で死んだ? 俺の目の前にいる女は、もうすでに死んでいるのか? これは俺の過去なのか?
過去? 意味がわからない。俺の過去は……何も起きていない。起きるはずがない。だってあの一年より前の家族以外に、俺が知っている人間は──!!
みんな今の学園で知り合った奴らだから、そんな──俺に、昔、知り合いが……友達が居たと言うのか……!?
「疑問点を解消したいのは分かる。でも、あなたが見つけなきゃ意味が無いのよ? そう、意味が無い」
女は目を細めて、言いたいことを吟味しながら呟いた。
「あなたの心は弱いね、昔からそうでしたけど」
「昔、から……? 俺はお前を、知らないが……!」
「っ……おや、少し時間がありませんね。そうだ、天使もどきから一つだけ、ヒントだけ与えてあげましょう。どうせまた、あなたはここに来るのですから、運命とやら……奇跡とやらの導きで」
彼女はヒントを与えた。それは情報とも言えないほどの短さであり、まるで意味深な言葉しか、遠回しな言葉しか教えてくれなかった。
要約をしよう。女がヒントとして言ったことは三つ。ひとつめは「瀬田の力は杭」ということ(意味が分からない)、二つ目は「召喚獣は欲望などの想いが形になったもの、またそれによって魔女が作り出した」ということ。これは何となく分かる気がする。あれは普通の獣じゃない。……てかこれ、半分以上共通認識すぎてヒントでもなんでもなくなっているのは気のせいだろうか?
気を取り直して最後、三つ目は。
「三つ目、あなたは恐怖からは逃れられない。奇跡で恐怖は除けない。あなたはまた、『死』を経験するだろうね──」
その言葉を聞いて、思ってしまった。覚悟を決めないといけないと。それも、死をみる覚悟を。
☆
「こんにちは、起きたんだね。おはよう、エルヒスタ・レプラコーン君」
俺が目を覚ましたのはいつもの(いつもといって言いか分からないが)客室ではなく、もっと奇麗な部屋だった。そこのベッドに寝かされてた俺は、目を覚まし、すぐに1人の男性が、その男性だけが同じ部屋にいることを知った。
「最初に自己紹介から。私の名前は、ヴォラート・マーキュリアルだ。娘が、お世話になったね」
マーキュリアルという名前を聞いて俺はすぐさまこの人が誰かを悟った。
ヴォラート・マーキュリアル。マーキュリアル家の当主であり、ゼルルド国の『魔法大全』──新しい魔法や、魔法の種類を分けて記載し納めておく本、凄く太い──を管理するゼルルド国『大臣』の一人。つまりA級貴族当主。
「俺は、えっと──」
「ありがとう、あの子のこと……シェルトのことを分かってくれて。ちゃんと、記憶を見つけさせてくれて」
そんな言葉が、記憶が曖昧な俺にかけられた。最初の、優しい言葉。
「俺は……その、特にそんな関わってないというか……」
「ありがとう」
「っ……は、はい。ありがとうございます」
きっとこの人は、とても辛かったと思う。絶望と希望の狭間で、自分の忌々しく無にかえしたい記憶を壊して、勝手に作り替えてしまったシェルトのことを思って、必死に隠してきたんだろう。
必死になって『シェルト・マーキュリアル』は自分の本当の娘だと──この言い方だと語弊があるが、仕方が無い──自分にも他人にも、たぶんシェルトにも言い聞かせてきたのだと思う。
シェルトが記憶を取り戻したことも知っているとは思う。彼女は、真っ先に父に謝りに行っただろう。
「……俺がどれくらい寝ていたのか……わかりますか」
質問をした。素朴な疑問を。できればでいいです、と追加して。
「君が……、うーん。なんて言えば良いのかな……? 二日間、又はそれとちょっとって所なのかな? 一回起きたのを含めなければ、二日間の少し」
だからか。だからこんなにも辛いのか……特にお腹が。
グゥゥゥ~と大きな音が鳴る。俺のお腹から。起きてから初めて自分の服を見たが、至って普通の寝間着(ネグリジェに動きやすい材質の長ズボン)を着ていた。
「すいません、お腹すきました。こんな時にごめんなさい」
「育ち盛りだからね、仕方ないさ。私だって、君くらいの時はいつもお腹をすかせていたよ……毎日たくさん食べることが出来ていたんだけどね。ああ、ご飯はこちらで用意してあるから、少し話をしたら、一緒に食事の席を囲ませて貰いたい。まさかレプラコーン家の次男君が、シェルトの謎趣味に付き合ってくれてたとはね。あの学園、学園長は辛気臭い性分なのに、高級貴族の子供集めすぎてるの、本当にあの人って感じだなぁ」
「ありがとうございます」と少し照れてしまいながらも、美味しい食事を食べることができることに少しだけ、ほんの少しだけ興奮した。
「あの子は、優しいんだ、とっても。自分の痛みを忘れることで、他人の痛みを知ることを拒んでいた時だって。ずっとずっと、シェルトは……私の娘は辛いことを辛いだけで終わらせようとしない子なんだ」
ヴォラートさんは柔和な笑顔で語った。分かる気がした、共感した。あと、この人がもの凄い親馬鹿だと言うことも知った。
「シェルトを……これからもよろしく頼む。同じ学校の生徒さんなんだろう? 家の娘の、友達になってほしい」
「……はい! 喜んで!」
友達……か、なれると良いな。今のままじゃ俺は弱々ボディーガードだからな。夏休みにでも修行をしよう、思いっきり。
何かがスッと、一本消えていった……気がした。
☆
──────エルヒスタ・レプラコーンも知らないある所、記憶の深淵、その果てで。
『お前は誰だ?』
青みがかった病衣をめして、車椅子に腰掛けている瀬田真之介の声が百花繚乱の花園に響いて消えていく。
「忘れると思うから、言ってあげるよ」
女は笑わない。深窓の令嬢が見せる作り笑いのように顔の形を作り上げる。
そして言った。
「私は魔女だ」
……花園の美しかった色々な花たちが、紫一色に染まる。やがて、セタは意識を失って、果てから放り出された。
「彼に会いたいな。私を守ってくれたあなたに……。早く、この花園で、もう一度だけ。──いや、もっと」
花園には……いや、その果てに彼女が見ていた彼は。
☆
「『神の癒薬』。全てを冷たく癒す完全再生の力、か」
「そして、植物の蔦を生み出す力を有していると。まあ、不思議だ。ファンタジーすぎる、厨二チックすぎる、現代日本の知識がないと関係性が解けない。いや、解かせる気が無い……?」
「待てよ、だとしたら……そうか、やはりエルくんは」
「暴走、それによる自我の崩壊」
「魔女の力の変質」
「そして一番厄介なのは……」
「──プリムラ。花の魔女」
「魔法書と魔導書。同じ意味の、その二つの編纂者」
「虚数か。小学生くらいの知識しか無い僕には、解読は不可能……ね。まあよくも神様ってやつはこう、理不尽に僕を痛めつけるんだろう。──あの時の二人と同じように」
「でも基本的には魔法の力でどうにかするってとこはまさにあれってやつだね」
「まったく。こんなの、僕にはファンタジーな謎すぎるよ」
キャラが記号になってしまう……




