第六十七話 「イノリ」
「よかったのか、逃がしちまって」
窓へ続く血の跡に視線を遣り、イノリが尋ねる。
斬り付けられ、大量の血液を体外へこぼしながら、沙月は逃亡を図った。命を長らえさせることはできないだろう。傷の深さはさることながら、魔眼の力もすべて失っている。魔眼に頼りきりのサツキという種はこと体力という面においては人並み以下だ。
目も見えないあの状態で向かうとすれば、それは秋のところだろうが――
「――いや、秋ももう逝った。あの状態ではなにもできまいよ」
「ええ、もうあれはただの抜け殻、沙月だったもの。ですので、なにも悪さはできませんでしょう」
会話に割り込んできたのは、太陽色の髪を長く靡かせた幼い少女だった。静かな表情と、色の違う双眸が彼女を次代の沙月であることを示す。
イノリが魔眼との繋がりを断った時点で、彼は沙月ではなくなった。それはおそらく死として彼ら一族に伝わったのだろう。魔眼の力は次の器で目覚め、沙月の人格も移り変わる――
「いいえ、私はすでに沙月であってサツキでないもの。先代まで人格を支配してきたあれはさきほど切り離されたときに二度と太陽の魔眼のもとに戻ってこられなくなりました」
「……そうか」
であれば、身構える必要はない。刀を鞘におさめ、肩の力を抜く。
恵の算段はほころびなく成功したと言ってもよさそうだ。秋をいいように掌で転がし、この世界を弄んでいた存在は消えた。秋も無事にいけたようだし、恵のするべきことは終わった。
「私は、あの先代の回収に向かいます。恵様は、いかがされますか」
「いや、俺はいかないよ」
「承知しました」
表情の薄い少女は一礼すると、そのまま血痕を追って窓から出て行った。
恵はそこへ腰を下ろす。「だいじょうぶか、痛むのか」と心配するイノリに大丈夫だと告げ、隣へ座るよう促す。サザとイトエも名を呼び、戻す。
「長い間苦労かけた、ありがとう。これで俺のやりたいことは終えられた」
「――――」
「おまえたち三人には特に苦労をかけたし、無理をさせた。他の主を探しに行きたいと言うのなら今、ここで。契約を切ることもしよう」
「ばかを、いうな。オレは好きでおまえの力になりたいと言ったんだ。お前以上の主が要ると思うのか」
「そうだよ、ボクだってそうだ! 主が迷惑じゃないのなら、そんなこと、言わないでよ……」
むすっと即答するサザと涙を浮かべて恵の手を握るイトエ。そのふたりの反応はおよそ予想どおりだったようで、恵はふたりまとめて抱きしめる。それから背をぽんぽんと撫で、「ごめんな、一応聞いただけだ」と謝罪する。
その様子を見ているひとり、イノリ。
「イノリ」
サザとイトエを離した恵は穏やかな声で呼ぶ。だからイノリも努めて冷静な声で、なんだと答えた。
「イノリには寂しい思いもさせたと思う。俺ではおまえを最大限に活かしてやることもできないし、たぶん、おまえは終の器になれたはずの相手には出会えたけれど、洪水でだめだったんだと思う」
「――――」
「けれど、それでも俺はおまえに報いたいと思うよ。下手したらサザやイトエよりもずっと苦労をかけたしさ」
たぶん、その後の言葉は終の器として仕えられたかもしれない機会を永遠に逃したイノリにとって、あまりにもまぶしすぎるものなのだろうと思った。イノリを正しく道具として、手駒として使ってきた恵なのだから、そんなこと気にしなくていいのに。
イノリは道具だ。イノリは精霊器だから、誰かに使われるのならそれが至上のことだ。だから、そんな細かいこときかなくてもいいのに。
「おまえの名前ね、おまえのそうなったかもしれない主がつけた名前だし俺が書き換えてもいいものかずっと悩んでいたけど――でも、やっぱりおまえにそばにいてほしいと思ったから、俺は言うよ」
「……ああ」
「イノリ、俺におまえの名前をつけさせてくれ。俺と契約してくれないか」
眩しい、言葉だった。
仮契約でずうっとすごしてきた精霊器は実質イノリくらいのもので、イノリは彼を主と思えていたけれど、それは思い違いと思うようにしていたから。けれど、ほんとうはほかと同じがよかった。
理由があるにしても、自分の身いに痣がひとつもないのは、やはりさみしいことだから。
「――うん、よろしく頼む」
そうして、イノリは彼の手を取ったのだ。




