第六十四話 「ばいばい、さようなら」
それは。
拙い演奏ではあったものの、柔らかい音の流れだった。
意識を失っている赤髪の少女にも。
水槽の中の終末の魔術師へも。
主を救えなかった聖竜にも。
等しく心へ響く音楽だった。
秋には感謝しかない。この出会いがアキの失敗によってもたらされ、多くの人を悲しませたとしても、聖竜にとって秋はやはり光だった。
これでもう秋とは二度と会えなくなるとしても、不思議と悲しくはない。秋がほんとうに幸せになれる世界に戻ったとしても、そこに聖竜はいない。一度も滅びを得ない世界ではこの聖竜は生まれないのだから。
ただ、秋がもう悲しまなくていい世界になるのなら。
◇
身体がじんわりと熱を持って、心地よかった。
だから少しだけ目をあけてみると、涙で少し腫れてしまっていて痛い。その痛さは熱に少しずつ溶かされて視界はゆっくり広がった。
音が聞こえる。弦楽器の、澄んだ音。
初めて聞く音楽だけれど、この音色が身体を温めた理由だろうとすぐにわかった。呼ばれるような気がするのだ。
――秋。
――秋。
――秋。
――秋。
――秋。
――秋、もう、いいんだよ。
と。優しく褒めるような声音が、一生懸命に呼ぶ。その声に応えてやらなければと思う。それは島に来たばかりの幼子が自分を泣きながら探す時の声に似ていたから。
声の主が、このあたたかい音楽を奏でていると気付いて、応えは求められていないのだ、と知る。
弦楽器を奏でる青年は鮮やかな緑髪をしていて、いつか自分と旅をした半竜を思い出した。秋があげたという名前は思い出せないけれど、彼もこんなふうに鮮やかな緑髪をしていたのだ。
今弦楽器を弾いている彼は、もう白い姿ではない。秋が名づけた白という名もなくしてしまったようで、それがどうしてか悲しかった。
もう泣き虫な彼はいない。ただ、秋を要らないと言ったのではなくてそうせざるを得なかっただけだとわかる。でなければこんなにもやさしい音で、秋を呼べないだろう。
「――アキ」
ふと、少女の声で呼ばれる。それはもう忘れてしまったと思い込んでいた声。
振り返る――そこにいたのは、やさしく微笑む赤い髪の少女だ。長い髪をなびかせて、少し照れたようにはにかんでいる。
「ぁ、り、リーゼ……?」
「うん、アキ。迎えに来たよ、遅くなってごめんね?」
どうして、とか、なぜ、とかそんなものは彼女の姿を見ただけで消え去った。
気づけば手を伸ばしていて、彼女のもとに駆けていて、彼女を力いっぱいに抱きしめていた。これは体を持つ本物ではないことくらい、わかる。だって彼女の体は彼のエルフに取られてしまったのだから。
けれど、あたたかい。ちゃんと温度があって、そこにいると錯覚してしまう。
遅くなった、だなんてこちらのセリフだ。秋がのうのうと六百年を過ごす間に彼女は冷たい土の下にいた。気付けず、沙月の掌の上だった秋に怒る資格があるわけがない。
その秋の懺悔を、リーゼロッテは笑って許す。
「私ももっとうまくやれると思ったんだけどね、思ったよりも太陽の魔眼が手強くて。はやく秋に会いたかったのは私も同じだもの、おあいこだね」
「そんな、の――いや、ごめん、こうして話ができただけで、もう十分すぎる」
「うん、そうだね。その通りだ」
少女は笑う。六百年前となんら変わりない姿に、秋はやっぱり涙が溢れて止まらない。
「きいて、アキ」
秋を抱きしめて、リーゼロッテは言う。再会の余韻は未だ色濃く強く胸を揺らすが、ことはまだ終わっていない。リーゼロッテの中に残った引き金と終末の聖竜の身体を使って蓄えた魔力は既に合わさり、秋の心を壊す術式もきちんと作動してしまっている。これを止めないことには崩壊を防ぐことはできない。
「世界を崩壊させないためには、アキから世界の維持権を誰かに譲渡しないといけないの。でもアキ、ひとりでそんなことできないし、できたら苦労しないと思う」
それはそうだ。そんなことができたらこんなにも苦しい思いをせずに済んでいる。誰に譲渡してもこの苦しい思いをさせることになるのなら、そもそも譲れたとしても譲らない。
「譲るって言ったって誰に……? 俺みたいなことになるっていうならそれは嫌だ、だめだ。俺がやらないといけないことなのに誰かに押し付けるなんて――」
「うん、大丈夫。彼ならきっとうまくやってくれる。私はよく知らないけれど、あの子、アキのことが大好きなんでしょう?」
「あの子――?」
秋のことを大好きな子、と言われてすぐには出てこなかった。それほど秋の自己評価は低く、贖罪意識が根深いということのなのだが――
それでも、思い当たるのはひとりだった。
「まさか、アキラ、が――!」
そんなのは、そんなのは、そんなのはだめだ。一番駄目なことだ。だって、そんなの、秋のほうが耐えられない。よく慕ってくれたあの幼い子を生贄にしてまで救われたい自己など無い。
そういえばこの音楽を奏でて、秋に「もういい」と言ってくれているのがその子だ。気付いてしまった。彼はもう覚悟を決めている。おそらく、秋が何を言ってももうきいてなどくれない。――白くて幼かったアキラはもう、いない。
「だめだ、だめ。アキラ、そんなの、おまえが苦しいだけだ……っ!」
「アキ、だいじょうぶ。あの子を信じて、あの子はアキの嫌がることはしないはずだから」
聖竜へ手を伸ばす秋を、そうっと抱きしめる。聖竜に秋とリーゼロッテの姿は見えているのだろうか。わからない。わからないけれどとにかく手を伸ばす。
――大丈夫。秋、オレひとりで世界を背負うなんてことしないよ。
「――――――――――――――っ!」
最初に呼びかけられていたときのように、聖竜の声がした。音にのって届けられている気持ちが秋の脳内で形を成す。
――大丈夫、だいじょうぶ。サヤカもいてくれる。だからだいじょうぶ。
「そんな、大丈夫大丈夫って……っ! 俺だって最初は大丈夫だと思えたんだ! リーゼが来るまでの間くらい、いくらでも待てるって……でも、だめだった!」
先の見えない時間は長く、記憶も薄れ、約束すら不確かな中、新しい命ばかりが増えていく。その重圧に耐えられない。耐えられなくなる日がきっと来る。それを分かっていて見過ごすなんて、考えただけで鳥肌が立つ。
――うん、だからね、秋。オレが世界を変えよう。秋みたいにひとりで苦しむ人のいない世界に、つくりかえよう。
「あきら……?」
作り替えるなんてできるはずがない。秋ができてしまったのは多くの例外と多大な時間があってのことだ。そんな思い付きだけでできるほど、世界は軽くはない。
けれど、聖竜は驚くほどあっさりと――
――できるよ。オレならできる。なにせ、世界をかたる聖竜なんだから。
でもその前に、と聖竜は言葉を紡ぐ。最期の別れと知るかのように、丁寧に。
――秋。秋に出会えて、オレはほんとによかったと思う。
――秋が苦しんで苦しんで苦しんだ世界だけれど、オレは秋に出会えてよかった。秋に助けてもらえてよかった。
――秋。でも秋が苦しいのはもうおしまい。秋はもうずっとがんばったから。
――きっとリーゼロッテもがんばったし、くゆりさんもがんばったからね。
――だからもうおしまいでいいんだ。もうゆっくり眠ることだけ、目指してくれればいいの。あとのことはオレとサヤカでどうにか頑張ってみるからさ。
――秋は、もう休んでくれよ。
――大丈夫、ほんとに心配する事なんてなんにもないんだ。だってオレは聖竜だったから、このときのために生まれて来たんだから。
――秋の間違いも、シャルムの間違いも、ぜんぶぜんぶ。
――オレが、まとめて許すよ。
そん、なと声が漏れる。にこやかに言わないでくれ、と叫ぶ。
けれど彼は聞いてくれない。どころか、最期の我が儘をゆるしてね、なんて笑ってさえいる。ゆるせるものか、俺はアキラになにもあげられていない。
そんなふうに言ってもらえる価値なんて、ない。
――秋は、そんなことばっかりいうね。秋はオレに名前をくれたよ、ほんとならずうっと名前なんて持てないはずのオレに。それだけで十分だ。
曲はクライマックスを迎える。この曲は眠りを誘う曲だ。長年で疲れ果て消耗しきった心によく沁みる、別れの歌。
――リーゼロッテ、秋をよろしくね。秋は寂しがり屋だから、もうひとりになんてしないで。
「うん、もちろん。たくさん待たせたぶん、今度こそ離さないんだから」
「待てよ、待て、アキラ! リーゼも、なんでそんな――」
「みんな、秋が大好きなのよ。秋に幸せになってほしいの」
しあわせ。リーゼのその言葉を肯定するように、最期の小説が弾かれる。
秋の幸せを願う、それは――
――ばいばい、秋。
オレはこの世界線以外のどこでも生まれないと思うから、もう二度と会うことは出来ないと思う。だから、ちゃんとしあわせになってね?
「アキラ――――――――――――ッ!」
秋の幸せを願う気持ちと感謝の込められたその歌は、まぎれもなく愛の唄。
そうして曲は終わる。終末の魔術師、秋のお話もこれにて、お了い。




