第六十話 「降り立つ美しき緑」
◇
暗い夜みたいだ。
怖くて、寂しくて、怒涛の嵐のような夜。
水の中は基本的に好きだけれど、嵐の夜は嫌いだった。
耳を塞いで。
目を閉じて。
口だけは開いて。
ただ苦しいと、嘘だと言葉が泡のように溢れては消える。
否定されたたった一言がナイフのように心に刺さって、心は絹のようにあっさりと引き裂けてしまって。
うそだろう。
見つけられなかったから。
気付かなかったから。
ぜんぶ、ぜんぶ、俺がわるい。
だから俺はリーゼに、いらないなんて言われてしまったのだ。
でも、なんで。
なんでだっけ。
なんで俺は世界を壊したくなかったんだっけ。
なんで苦しい思いをしても、リーゼを待っていたんだっけ。
なんでだっけ。なんでだっけ。なんでだっけ。なんで、だ。
ずっと会いたかったはずなのに、リーゼの顔を見るのが怖い。リーゼに呼ばれるのが怖い。リーゼにさわられるのが怖い。怖い。怖い。怖い。リーゼはもう、おれのことをきらいなのかもしれないと思うと怖くて怖くて目も耳も塞がずにはいられない。怖い。怖い、こわいよ、もう。
きちんと思えていた未来は遠くて。
想像できていたはずの世界は急速に色を失くして。
世界を水で満たしてしまうあの嫌な感覚が蘇ってきて。
だから――もう、意識なんて、要らないと思った。
もう、嫌だった。好きな誰かに失望されるのが、誰かを好きだった自分をゆるせない自分が、誰かのための世界が壊れてしまうのが。
もう勝手にして、おれは、もう、疲れてしまったから。
どうしてこうなってしまったのだろう。
俺はもともとただの高校生だった。
その頃のことをもうなにも覚えてはいないけれど、少なくともこんなふうに世界の引き金を握れるほどえらくもつよくもなかった。
なのに気付けば世界すらも飛び越えて。
両親や妹のもとには帰れなくて。
親友の顔すらも忘れてしまって。
もう、なにも残らないところまで来てしまった。
目は閉じた。
耳は塞いだ。
心は閉ざした。
あとは、記憶も思いも、捨ててしまえばすべて終わる――
けれど、それは許されなかった。
優しい声が、水中を柔らかく伝わり、塞いだ耳の隙からそうっと入り込む。
「大丈夫、秋。そんなふうに悲しまなくて、いいんだよ」
その優しい声には、聞き覚えがあった。
◇
「大丈夫、秋。そんなふうに悲しまなくて、いいんだよ」
くゆりは目を見開く。水槽の横へ降り立ったのはしゃんと背を伸ばした鮮やかな緑髪の青年。傍らには艶やかな黒髪の青年。
なぜ、彼がここにいるのか。彼はもう秋に関わる必要を持たない。この終末もきっとひとりで乗り越えられる。乗り越えて、そこに新しく刻まれる歴史を語る語り部となるはずだった。
そのための話を、六日前にしたのだ。終末のための聖なる竜が世界へ寄り添って歩んでいけるように。
けれど彼はここにきた。やり残したことをやりに来たというより、これこそがやるべきことだと言わんばかりの自信に満ち溢れた表情。別れたときとは比べ物にならない。
くゆりはなぜ、と疑問を口にする。
青年は言う。
「だって、秋はオレがいちばん助けてもらったから、オレが助けるのは当たり前のことでしょう?」
なんて、笑って。
◇
水槽の中で丸くなって泣いている姿は、出会ってから初めて見る秋の弱った姿だった。その姿に痛々しさを感じると共に、それほど頑張ってきたことを強く知る。この姿になってから、五感からありとあらゆる情報が得られるようになった。
泣いている秋に、声が届いているかはわからない。けれど、たぶん秋はまだ踏みとどまれるところにいるはずだから、あまり心配はしていなかった。
「あなた――あの、白かった子ね? うれしいわ! せっかく会うのならその姿の方がきれいだもの、美しいもの、素敵だものッ! いいわ、いい、すごくいいわ! でも、何をしにきたのかしら。もう魔法は発動してしまった、アキは引きこもって外界からの接触を絶ってしまった! 今更出て来ても――遅いのでは、なくて?」
あはははは、と高笑いをする少女は七日前に見たときとあまり変わっていないように思えた。仰々しく大きな結晶体の中にこもったものだから、もっと禍々しい変化を遂げるものだと思っていた。
でも、よかった。あまり化け物のようになっていたら、困ってしまったところだ。
「遅くはないよ。秋はまだ大丈夫。だから、オレは来たんだ。……あなたは、オレが秋を助けるっていったなら、それを許さない?」
「……あなた、案外冷静なのね。許すわけがないじゃない! わたしの悲願、わたしの唯一の望み、わたしの安寧! わたしがどれほどの葛藤と苦悩を抱えてここまで来たと思っているの――ッ!」
「そう、それなら、しかたないね」
かわいらしい顔をきつく歪め、焦点の合わない目が聖竜を睨む。けれど聖竜は動じずに、その血走った両目をじっと見つめ返した。
少女が水槽を離れ、ゆらりと幽鬼のように佇む。白い指を聖竜へと向け――
「おい、ぼうっとしてんな、あれ魔術だぞ! それもけっこう厳ついヤツ!」
「あ、うわっ」
正面から受けきれるとも思っていなかったものの、避けるより早く後ろへ手を引かれた。精霊器だった。一瞬前までいた位置を少女の魔力が奔り、空気を焦がす。
「おまえ大丈夫かよ、気合たっぷりに行くからなんか策でもあんのかと思ってたら避けもしねえし!」
「いや、避けるつもりではあったよ? 策は、その、なんにもないけど?」
「駄目じゃねえか!」
聖竜とその頭をべしんと叩く精霊器の頭上を一閃、光が奔る。高密度なそれは触れた小枝を一瞬にして黒こげにする。少女は「あはは、は、あはは、あははッ!」と笑い続け、ゆらゆらと体を揺らしながら近づいてくる。目の焦点は相変わらずしっかりとせず、美しい肢体を柔らかに動かし、指先だけは確実にふたりへ向けている。
「おい、ほんと、どうすんだ? 前やったあの、刃出すやつか?」
「いや、ごめん。あれはもう使えないや。――あれは、オレが幼かった理由だから。もう、ないんだ」
「はァ?」
幼かった理由――すなわち、あの白い刃は聖竜の幼体が自分の身を守るために体から生やす鱗だ。身を守るためだから痛くはないのだ。その制御が難しく、その制御ができるようになるころ、聖竜は己が主を見つける。そうして聖竜は成体となり、鱗は要らないモノとなり、使われなくなる。
つまり成体となった今、彼に武器らしい武器はないのだ。
「ごめんね、どうやって戦おうかなってまだ考えてるとこなんだ」
「……はあ」
秋の水槽を少し離れ、木陰に隠れると、精霊器は大きくため息を吐いた。
「おまえを間抜けと思ってたけど実にばかだな……」
「いや、ごめんね、ほんと」
はは、と笑いながら謝る聖竜はあまり不安に思っていることはなさそうだが、見ているこちらはそれが不安だ。何かの考えがあるにしても、表情はただすっきりしているだけで、なにもうかがえない。
「……しかたねえか」
精霊器は再びのため息とともにそうこぼした。首を傾げる聖竜に向き合い、精霊器はいつになく真面目な顔をしていた。
「大変不本意だが、まあ、いいだろう。……おまえはこれからひとりで生きるんだろう。かつての終末の聖竜がそうだったように」
「キリギリ――」
「でもそれじゃあ、世界は繰り返すばかりだ。ひとりきりで何もかもを背負おうとするから、失敗するんだ。だから、おれがもうさせない。おれが、おまえをひとりにさせないことにした」
遮られた聖竜は、言いかけのまま。
見据えた精霊器はまっすぐ、考えていたことを告げた。
「おれに名前をくれ、聖竜。おれがおまえに力を貸すための理由を、くれ」




