第五十九話 「みんなこわれてる」
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世界の終焉は深海から水面へ上がるようにゆっくりと訪れた。
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赤い結晶体のふもとへ辿り着くと、少女の周りが溶け始めていた。
はたはたと透明な赤い滴が周囲に水溜まりをつくっている。血というにはあまりに美しくて、白い肌とのコントラストが目に痛い。
その姿を見て、腹を決めなくてはいけないと思った。けれど、足に力は入らないままだから、くゆりに抱えられたままだった。
少女は緩慢な動作でその結晶体から地面へ降り立ち、頬に張り付く赤い髪を払ってから目を開けた。
赤い目に、秋とくゆりの姿が映る。
「――――来てくれたのね、アキ」
可愛らしい声が、嬉しそうに言う。恍惚と火照った顔は赤髪に負けじと紅潮している。ぺたぺたと裸足のままだが、気にした様子はない。
「聖竜に連れて来てもらったの? ……あら、このあいだ会った真っ白な子ではないのね。すこし残念だわ」
「なにが残念なものか。興味があるのは秋だけだろう」
「ええ、そうよ。だから、できれば喋らないでいてくれるかしら」
少女は秋とくゆりの目の前に立ち、だらりと力なく腹の上に組まれた腕をそうっと自身の掌で包む。秋がびくりと体を震わせ、少し怯えたように少女を見た。
秋の心はもう、粉々だ。六百年の間に擦り傷だらけになったそれは膿をはらんでぐずぐずになって、もう治すには時間も癒しも足りないところまで来てしまっている。そのぎりぎりの精神状態で最愛の少女に再会してしまったから、もう治してやることは難しいだろう。
この壊れた少女も秋が壊れたことを正しく認識できているかはわからない。
「アキ、ねえ。わたしのこと分かるかしら。わたしのことを覚えているかしら。リーゼではなくて、このわたしのこと」
「り、ぜ」
「違うわ、アキ。いいえ、ちがってもいいのかしらね。ちがったほうがいいのかも。いいわ、じゃあ、アキ。最後の儀式を、始めましょう」
彼女が秋の手を引き、アキの身体を下ろそうとする。しかしそれはくゆりが許さない。代わりにその場へ腰を落とし、秋を話はしないが、少女が秋の顔を見やすいようにした。
「これで我慢しろ、壊れたエルフよ。この男をくれてやるわけにはいかない」
「腹立たしいけれど、仕方ないわ。あなた、離す気がないものね、離さずにいられるだけの力も持たないのに。でもわたしはアキがわたしの言葉を聞いてくれれば、それでいいのよ」
ふふふと楽しそうに、くすくすと愉快気に笑う少女に空寒さを覚える。
何度も繰り返して思うように、もう誰もが壊れている。あの洪水を生き延びてまっさら変わりなく生きていられるのは精霊器くらいのモノだろう。
秋は壊れた。この少女も壊れた。魔眼も壊れたし、世界も壊れかけだし、なんならくゆりだって壊れている。そのことに自覚的である分、くゆりはほかの壊れたものたちが良く見えてしまって少しばかり苦しい。
アキ、と少女が呼ぶ。聞きなれた、けれどもう記憶の彼方へ流れて行ってしまったはずの声に呼ばれると、秋はぼろぼろと泣いて掴まれた手を振り払おうとする。
くゆりがこの選択をすることを、一番許せないのはくゆりだろうと思う。自分が一番大切にしなくてはいけない秋を、秋がきちんと納得し臨んだ形ではないまま、終末の魔法に立ち会わせることは彼にとってひどい話だ。そんなことは分かっていて、でも――くゆりも、壊れているから。
「アキ」
ころころと嗤いながら、秋の名が呼ばれる。
「アキ、愛しいアキ。よおくわたしの顔を見て。燃えるような赤い髪、透き通る白い肌。あなたの愛おしい、リーゼロッテでしょう? リーゼは言います、アキが見つけてくれなかった。リーゼは言います、アキが見つけてくれなかったから私はこんなにも冷えて歪んで壊れてしまった。リーゼは言います――アキの、つくった世界なんて、もう、いらないのだ、と」
呪文と言ってしまうには、ただ語るような口調。けれどそれは紛れもなく終末の魔法の発動に要るものだった。
なぜ、ならば――
「ぁ、うそだ、リーゼ、うそだ……うそだぁ。リーゼ、そんな、そんな、俺がして、きた、ことは――」
風がざわめく。雲が立ち込める。湖の水が落ち着きなく波立つ音がし、森の木々が震える。秋の顔が歪み、両手で顔を覆う。そうして、叫ぶ。
「うそだ、うそだあぁあああああああああ!」
終末の魔法がこれほど単純な言葉であっさりと発動してしまう、その理由は。
――秋の心、秋の精神、秋が思い描く想像上の世界こそがこの世界の真の姿だからである。
秋が叫ぶと共に周囲の空気が秋の魔力によって水へと変換されていく。瞬く間に秋の身体は水に包まれて、空気中に浮く水槽が現れる。くゆりの手は離れ、秋はその水槽の中で耳を塞ぎ、体を丸めて「うそだ」と繰り返す。
水槽は少しずつ大きくなるだろう。そうして終いには世界を飲み込む大洪水の再来となるのだ。未だ世界の存続の鍵を握るのは秋なのだから。
それが終末の魔法。ただそれだけの魔法。
くゆりはもう手出しできない。水槽はくゆりを否定したから、秋にはもう触れない。秋自身が水槽にこもってしまったのだから、引きずり出すこともできない。そもそも――くゆりはこうなることを知っていて、秋を連れてきた。
「ああ、アキ、素敵だわ、アキ。アキ、アキ、アキ! そう、それでいいの、だってあなたはもう愛しい子とわたしの区別もつかないくらいに壊れてしまっているのでしょう? もういいの、ぜんぶこわしましょう、こわして、つくり直して! ああ、楽しみ! やっとみんなに会える、やっと平和なあの日へ帰ることができるわ!」
嬉しそうに、恍惚と頬を上気させる少女。水槽の中に手を触れ、けれど中には入ることができない。それでもかまわないのか、少女はひたりと水面に寄り添う。
「……ばかだなあ」
その様子を見て、くゆりはぼんやり呟く。それは少女に向けたものなのか、自分に向けたものだったか――おそらく、その両方だろう。
終末の七日間は結局のところ、秋の心が揺らいで世界が揺らいだところを壊すだけの魔力を、秋の周囲に満たすために蓄える期間だ。その魔法のきっかけは秋の心を突き崩す言葉であればいい。つまり。
「終末の魔法がそうであるように私もおまえも、直接下す手は持たないのだ。だが、すまない、秋。私にはもう、こうするほかどうにもないと思うのだよ」
大切な主だった少年を、救うには――少年ごと世界を終わらせるほかないのだと。




