第五十六話 「エマから■■へ」
「――――幻滅したかな」
「――――――――エマ」
エマは、背後に立っていた。
別れたときの姿。記憶の一番最後にあった、十代後半くらいの姿。
髪の色はかつて好きだった美しい緑髪だ。茜色の瞳を細め、すらりと長い指で髪を耳へかける。
「エマ、どうして、ここに」
「曲がりなりにも聖竜だからね。あなたの記憶にこっそり、会話ができる程度の自我を滑り込ませることくらいお安い御用なのさ。……まあ、誰かの手伝いがなければこうして器の記憶を見てもらうことはできなかったんだけど」
力不足を恥じるように、エマははにかむ。
その言葉をそのまま解釈するなら、こうして話ができているのはメグムによって精霊器の記憶を掘り起こしたからだ。今までそうする外部の協力者がいなかったために、滑り込ませた彼女の自我は目覚める機会を得られなかった。
しかし、こうして目覚められたのなら――精霊器はもう、寂しい思いをしなくてもすむのではないか?
「残念だけど、それは叶わないかな。この私も、そう長くはもたないし、なによりあなたが目覚めたらもうそれが最後。だから、やっぱり私たちのお別れは覆らないんだよ」
「……エマ、でも」
「でもじゃありませんっ」
めっと精霊器の唇へ人差し指を当てるエマ。一縷の望みと、これまでの寂寥に占められた心は簡単に見透かされてしまった。
でも、仕方がない。エマとの不本意の別れは、精霊器の中でずっと強く凝っていたのだ。それは六百年が経とうと、新しく名をくれるかもしれないヒトが現れようと変わりなく、知ったことではない。
だから、喋らない、冷たい身体となっても手放すことができなかった。
だから、話しかける姿を見てしまったとき、まず二人一緒の未来を夢想した。
だから――エマは先に釘を刺したのだ。
「そんな、泣きそうな顔をしないで。むしろきちんとお別れをやりなおせることを嬉しく思ってほしいな」
「お、れは……エマみたいに、強くないから……やだよ、エマ」
「うん、知ってる。あなたが寂しがりなことを知っているから、私は森の外にあなたを出したんだよ? 今最期まで見られたのは、私とあなたの繋がりを介して届けた映像」
エマが背伸びを精一杯にして、エマより頭二つ分も大きな精霊器の頭を撫でる。その仕草は、彼女が幼い姿であったときにも何度もしてもらえたようなもので、ほのかに伝わる体温がひどく熱く思えた。
先の記憶の再生では見られなかったけれど、エマの身体に長耳の女の意識が定着する前の最後の行動として、精霊器を森の外へ出すことを選んだ。なくなる意識を想って長耳の女が用意してくれた機会は、彼女ではなく精霊器のために使われたのである。
「エマ、どうして……それに、体をあげちゃったり、したんだよ」
「それはねえ、やっぱり友達だからかなあ。ほら、私、友達少ないからね。大事にしたいじゃない」
ううむとわざわざ声に出して唸り、エマはあっけらかんと答える。ふざけているようにも見えるが、本人はいたってまじめだ。
「あのね、終末の聖竜はほかの聖竜とはまた生き方が違ってね? でも私はそれを全うできなかった。だから、私の身体を使いたいっていうのなら、私は私を必要としてくれる人の願いくらいは叶えたかったんだ」
「その、さっきから聞く、終末の聖竜って、なに? おれ、エマが聖竜だってこともしらなかったのに」
終末の、と聞くとどうしても終末の魔術師が浮かんでしまって嫌だった。エマとの別れをつくった原因の原因と言っても差し支えないから、彼の育てた少年と友人になれても変わらなかった。
終末の魔術師もむりに精霊器に関わってくることもなく、あれを殺すという意思は鈍らないままだ。否、鈍らせてはいけないと言い聞かせてきた。
鈍ってしまえばエマを忘れてしまう気がして。
エマを裏切ってしまうような気がしていて。
終末の魔術師も望んで世界を滅ぼしたわけではないと聞いてしまって、行き場の無い恨みと同情による鈍りを必死に見えないふりをしてきて。
だから、いろんな意味で終末、という言葉を聞きたくなかった。
だが聞かずにはいられまい。エマの正体、エマの目的、エマの全てに関わる話だ。聖竜が語り部であることは以前にメグムが教えてくれたが、終末の聖竜など初めて聞いたのだ。
「う、んとね。難しいけど、保険みたいなものだよ」
「保険?」
「うん。七つの種族が大喧嘩して共倒れて、それでそのあと新しく世界を創った話は知ってる?」
精霊器は頷く。それもメグムがことあるごとに教えてくれた話だ。
大喧嘩、という表現で収まりきらないほどに凄絶だったと記憶しているが、それは掘り下げないでおく。
「それでね、始まりの種族はもう二度と壊れないようにそうっと見守ろうってことになったの。でも誰でも失敗はするわ。始まりの種族がしたようにね」
始まりの種族が世界を滅ぼしてしまうきっかけは些細な行き違いだった。どちらも相手のことを思い、ともに在ることを願っての行動だったのに話はこじれてしまった。
なるほどたしかに、それは失敗であるといえよう。
「だから、もうなんにも失いたくない聖竜たちは一人だけを隔離、もしもまた失敗する日が来てもやり直しがきくように群れから外した。それが終末の聖竜で、つまり私なんだけど、私は『もしものその日』が来るまでずっとあの森で待っていたの」
ずうっと、ひとりでいつ来るかもわからない終末をあの閉ざされた森で一人待ち続けるはずだったのだという。失うのが怖いというくせに、ずいぶん近くのモノは見えていないのだなと精霊器は歯軋りをする。
「聖竜は本来主を定めていろんなことを知ることで育つけれど、私にはその主がいない。代わりに世界の終わりの日にすべてを知り、その日が来れば成長するけれど、その日が来なければ成長もなかった」
「だからずっと幼いままだったのか。それはなんでだ?」
「さあ、よくわからないけれど、余計なことを考えないためじゃないかな。無邪気に純粋に、ただただ待てるように」
それは、と精霊器は怒りを感じる。ただひとりに世界なんてものを託して、それで救われたとしてもエマは在り方を歪められたも同然だ。聖竜が主を必要とするのなら、エマはそれすらも奪われている。
待つことすらたったひとりで、なにもない美しいだけの場所へたったひとりだ。
「怒ってくれてありがとう、でも平気なんだよ。あなたがいたんだもの」
「エマ……」
そんなにも穏やかに、柔らかく、――精霊器がいたことを心から嬉しく思っている表情をどうか、しないでほしい。精霊器は彼女のために何もできていない。エマの正体も、エマの苦しみも、何も知らずにただ自分が苦しいと思うだけだった。なんと愚か、なんと自分勝手なのか。
「そんなことないよ、あなたがいてくれたから私はあの森で待つことができたし……その、ね? 私はあなたにやめてって言わなくちゃいけないけれど、とても嬉しかったことがあるのよ」
「うれしかったこと」
「うん。私がいなくなったあとも、私を一番だって、私以外の奏者はいらないって言ってくれたこと。私、そんなにも私個人を想ってくれるあなたに出会えたことが一番の幸福だった」
そんなのは、精霊器にとって当たり前だった。精霊器にとってエマは話せる口を与えてくれた。抱きしめる腕をくれた。ちいさな手を握り返せる手をくれた。その自分の手でエマを楽しませる音楽を奏でられる機会をくれた。
自分はもらってばかりだ。意志も思いもなくただ世界の欠片だったものに『自分』をくれた。エマを大切にしたい自分をくれたのだ。
「エマ、おれの方が貰ってばかりなんだ。体も、心も、……名前も」
もう思い出せないけれど、エマには確かに貰った名があるはずだった。精霊器はそういうものだから、それを忘れてしまう精霊器の体質がつらくて。
でも、エマは「ううん」と首を振った。
「私はあなたに名前をあげてないよ。名前をくれたのは、あなたのほうだよ」
「は?」
「ほんとうはね、私の召喚は不完全だったの。見よう見まねでやったら聖竜の魔力とかで力技で強引に造れてしまったのが、あなた」
幼いエマは名前をつける、という行為をしなかったのだと、大人びた目の前のエマが言う。あるいは余計なことをしないようにエマに組み込まれた魔術があったのかもしれないと。
世界の欠片を落とし込む精霊器という存在は、エマを閉ざされた森に送り込んだ聖竜たちにとってイレギュラーだ。外を何も知らずにひとり無邪気にいなければならないエマに知識や欲を与えてしまうかもしれない存在。
だからそういうイレギュラーをいっさい排してしまうために、いくつかの禁忌を織り込んだ呪いを彼女に与えていた。それはただの召喚術であっても、エマの森に誰かを招くのなら絶対に成功しないというわずかばかりの呪い。
すべてを塞いでしまう大きな呪いは必ずどこかで綻びが生まれる。だからたったひとつ、小さな呪いを溶かして混ぜたのだろう。その呪いが正確にどんなものであるのかは、今はもうわからないけれど。
「じゃあ、エマには名前を、貰えていなかった……?」
「ごめんね、そうなの。そして今これからつけることはできない。私はもう死んでいて、弦楽器の奏者にはどうあがいてもなれないから」
膝がくずおれそうになるのを、どうにか堪えた。
精霊器の特性だから忘れてしまっていても仕方がない、覚えている名がないのもそれで繋がりを証明できないことも仕方ないと言い聞かせてきた。精霊器はずっと。
だからその事実はひどく胸に突き刺さり、強く存在を主張している。
――怒ることも崩れ落ちることもできなかったのは、それを伝えるエマが泣いていたからだ。
辛いのは自分だけではない。悲しいのは自分だけではない。
手が届かなくなってから分かった事実が、手が届くときには到達することができなかった事実があまりにも痛いのはエマも精霊器も同じなのだ。
ずっと一緒にいた。お互いしかいない場所で、お互いだけが大切だった。その大切に、いちばん深いところで繋がることができない――
「――泣かないで、エマ」
「泣いてないんだから。私からあなたへの繋がりは残せなかったけれど、私の名前はあなたがつけてくれたんだから」
そうっと繋いだ手を、エマが強く握り返す。泣いてないなんて嘘だ。透明な滴はとどまることを知らない。
エマの名前をつけた、というそれを、精霊器は覚えていない。けれど、エマに名乗られたときのことを彼は思い出せなかった。
「名付けの記憶はあげなかったもの。あなたを手放す私が唯一できる、あなたがちゃんと歩けるようにするためのこと。結局私を忘れてなんかくれなかったけどね?」
「……忘れられるかよ、ばあか」
「ばかでいいよ、もう」
「ばかめ、聞かせてくれよ。今度はちゃんと背負うから」
エマとの別れを納得できるものにきちんとするために、精霊器は問う。
もう感じている。エマとの別れはもうすぐそこに迫っていて、この機会を終えればもう二度と話せる機会は失くす。死んだ聖竜がどこにいくのか知らないが、精霊器が死というものを迎えるのであれば、行きつく先は世界だ。もとがそこから切り離されているのだから、そこに戻るのだろう。
だから、死後の世界でもう一度、なんて望めない。
「聖竜はね、主と決めた人に名前を貰って初めて命を得るようなものなんだよ。でも私は主なんていなかった。ただの終わりの聖竜、終わりの聖女。でも、あなたは名前の無い私に――」
――「名前がないなら、エマニュエルはどうだ? どこの言葉か知らないけど、『ともに在ろう』みたいな意味だったと思うから、末永く一緒にいられたらいいしさ」
少し照れくさそうに言ったその姿を、エマはずうっと覚えている。
その言葉に救われたから。そのときは気付かなかったけれど、終わりの日までひとりであることを押し付けられた自分に「ずっと一緒にいよう」と言ってくれたことは、彼女にとって確かに救いであった。
「……悪い、まったく覚えてない」
「だって私がぜんぶ貰っちゃったもの。ふふ、いい名前でしょう? だから私とあなたはずうっと一緒だよ、離れても別れてもこの名前がきっと繋いでいてくれる」
もう、エマの顔が見えない。湧き上がるこの感情になんと名前をつけたらよいのだろう。涙となって溢れてくる想いに名前を付けている暇はない。今はただ、最後の笑顔をどうかずっと覚えていてもらえるように、笑った。
でもエマも見えないだろう。泣いてないなんて言って、精霊器よりも泣いているに違いない。
「ねえ、最後にきいて? 私はやっぱりあなたに名前をつけてあげられないし、弾いてあげることもできなかった。だから、あなたを大切にしてくれてあなたを一番きれいに弾けるひとに名前をもらって」
「――――」
「それで、できればあの子を助けてあげて。私ができなかったことを押し付けてしまったあの子は、きっと今ひとりで大きなものを背負っている。それを、できたら、半分くらい持ってあげてほしいの」
「……仕方ねえな、どっちもきいてやる。エマの仔なんだろう? 知らん間におかあさんになりやがって」
「ふふ、私に似てかわいい子でしょ? 終わりの聖竜はひとりで子を為すからね、すごく私に似てると思うよ」
「たぶん悪いとこばっか似てるな、ひとりで考え過ぎるとことかさ」
「あはは、ひどい」
一度手を離して、エマの涙を拭う。頬を抑えられて不細工になったエマがなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。怒ったエマが振りかぶり、肩かれるかと思いきや精霊器の涙を払ってくれたから、エマがよく見えた。
ここが最後だ。ここでお別れだ。
どちらともなく指先を触れ合わせ、体温が混ざる。指が絡み、一回り大きい精霊器の掌がエマの掌を包み込む。
「ねえ、あのね」
ぐいと引き寄せれば、エマの軽い身体がぽすっと精霊器の腕の中へ飛び込んでくる。柔らかい髪の中に手を差し込み、腰へ手を回してつよく抱きしめた。
「もしも、もう一個だけ願いが叶うならね、聞きたい曲があるよ」
「うん」
だいすきだとか、また会える日を、とかそんな言葉はいらない。繋がっていられるのならそんな確認はいらなかった。だってもう伝わっている。好き。大好き、――愛していると触れ合う体温から痛いほどに伝わってくる。
だからエマは違う願いを言う。その願いを、精霊器は聞き届けて終わりの瞬間が来た。
「――――――愛の唄、とかさ」




