第五十三話 「キリギリスの名」
◇
「トモリ、気を付けてやりな。一応楽器だし、デリケートだろうから」
「うん……ごめん、なさい」
熱で爛れたキリギリスの掌に包帯を巻き、項垂れるトモリへメグムが言う。力加減を誤ったことが悔しいのだろう。イノリの妹であるというトモリも比較的長くメグムの元にいるから、なおさらだ。
キリギリスは包帯の上をさすさす撫でる。ひりつく痛みはメグムから魔力を貰ったことで少し引いた。本契約ではないから傷の治りは遅いものの、一晩もせずに消えるだろう。
それよりも、トモリの態度がおかしいことのほうが気になる。いや、それだけではない。――エマとアキラのこともだ。
人の仔は親がふたりいて初めて生まれることができる。ならば、エマにもそういう相手がいたのだろうか。あの場所には、エマとキリギリス以外に誰かがいたのか、あの閉ざされた森に。
だ、けれども。
いつだかの翼人と同類だと、あの太陽色の魔眼は言っていた。そしてアキラの母が、エマであると。
翼人ではないことは確かだ。白い翼を彼女は持たなかったし、肌の色も褐色ではない。どちらかといえば、くゆりというあの半蜥蜴のほうが色合いは似ている、ような――
「キリギリス」
「……ぁ、なんだ」
「いや、あまり深く悩むなよ。おまえは精霊器だし、ヒトよりもずっと素直で純粋だ。自分の思うものに素直にいたほうがいい」
手刀を軽く脳天に落とし、キリギリスの思考を一時的に止める。浴衣を適当に羽織っただけのメグムはいつもどおりだ。態度も、表情も。
あの赤い髪の女の終末の魔法はこの屋敷の窓からも見える。赤く聳え立つ結晶は月明かりに濡れてぬらぬらと光っている。メグムも気付いているだろうに、なにも動揺した様子がない。
「おまえ、あの魔法見てないのか」
「まさか、見たよ。あんな目立つモン気付かない方がむりだろ。それでおまえが大事に抱えてるその子、あきらかに訳ありを醸し出しておいて気づかん訳ないだろ」
「そのわりに、落ち着いてんな……」
メグムがトモリの髪を撫でてやり、しばらくすればメグムの膝枕で寝息を立て始める。トモリは時折ああして眠る。トモリの充電なのか、メグムを温めるのが目的なのはわからないが。
黒髪となり、冷たいエマを、どうしてもキリギリスは離せなかった。治療を受けている間も反対の手で体が落ちないように支え、結局胡坐をかいた上に座らせることで落ち着いている。
メグムはトモリの昏いオレンジの髪を撫でつつ、話す。
「俺が騒いだところでどうにもならなそうだしなあ。住民たちは慌てて混乱して、犲と鴻が大変そうだけどな」
「そうなのか?」
「そうさ。この島は安全だって言われていて、事実外部の奴らに荒らされることはあってもあんなふうに訳の分からないものが島に出来ることはなかったからなあ」
六年前にアキラとともに遭遇した地獄のような夜も外部からの手出しであったし、何よりあれは住民たちの記憶にほとんど残っていない。別に興味もなかったからよく知らないが、洗脳状態にあったからその間のことを覚えていないのは当然だということらしい。
それが最も大きな出来事であり、キリギリスがこの島に来て十年。火螢の御島は平和そのものだった。
「島の中のことなんか俺、知ったこっちゃないから焦る理由もないだろ」
「……おまえ、意外と島のことどうでもいいんだな。秋と仲良いのに」
秋は島をとても大切に想っている。それが歪であろうと、その気持ちに嘘がないことはキリギリスにも分かる。
「そりゃ、俺が秋の友人であることと秋が島を守りたいこととは別の話だからな」
誰が淹れたのかは知らないが、既に冷えているであろうお茶を啜るメグム。メグムに茶を淹れるのはその時々でまちまちだが、大抵はトモリが淹れている。そのトモリはキリギリスを迎えに来たのだから、今夜は誰が淹れたのだろう。
「俺、そもそもあんまり屋敷から出ないし、犲も鴻も頭が怖くて好きじゃないしな。酒は好かん」
「ああ、犲衆の頭領、酒臭いのは知ってる。浴びるように飲むんだって、アキラが言ってたような」
「おう、まさしくだ」
キリギリスはその頭領や筆頭に会ったことはないが、アキラも怖いと言っていたことを思い出す。アキラの場合は秋以外を基本的に怖いと称すが。
「ってのは冗談だけど、俺は精霊器だけで手いっぱいだからな。島の治安までかかずらっていられねえよ。――時に、キリギリス。おまえ、沙月様と会ってどうだった」
「どうって……」
キリギリスは包帯をさわさわ撫でながら、その手に目を落とす。
どうと言われても、魔眼の言葉はなんだか言われてしまえば予言じみた強さがあったように思う。
――「いいや、選ばずにはいられまいよ」
――「道具は使われてこそ、楽器は奏でられてこそだ。使ってくれる者がいなければ錆び朽ちるだけ。それが我慢できるはずもないと思うぞ、ましてメグムとも契約を交わしていないのだろう?」
誰かと契約しないと、精霊器は道具として扱ってもらえない。キリギリスはそれでもよかったし、そうがいいと今も思っている。メグムと契約するつもりもないし、エマ以外に与えられる名前はいらない。
――なのに。
耳の奥に残るのは、「楽器は奏でられてこそ」という魔眼の言葉。
腕の中のエマをぎゅうと抱きしめる。今ここに、ずっと昔に会えなくなったはずのエマはいる。エマがもしもヒトではないのなら、生き返らせることが可能かもしれないと甘い考えが過る。そして過ったその想いは、魔眼の予言めいた言葉を否定したくて、強く強く心の中で復唱する。
アキラがエマの仔だとか、エマは始まりの種族の何かだとか、魔眼は情報をいっきにたくさん零した。それらもわからない。
だけど、キリギリスにとって最も重要なのは、自分がエマの精霊器であることだ。エマの、エマだけが望む弦楽器でありたい。それだけだ。
「アキラがエマの仔、かもしれなかったり、エマが始まりの種族だったかもしれなかったり……おれは、誰かに奏でられずにはいられないんだってさ」
「奏者を求めずにはいられないと、沙月様がそう言ったか」
訊いた割に、メグムは予想していたのかひとつ頷くだけだった。前半の部分には触れず、そこだけに反応を示したのに沙月の言葉を肯定しているように聞こえ、聞き咎めた。
「おまえも精霊器はそうあるべきだって思うのか? それで、おまえと契約しろって?」
「言ってねえから落ち着け。おまえ、ほんとその手の話になると結論先走るな、キリギリス。そのへんはもうおまえの好きにしろってことで話はまとめただろ」
「いってぇ!」
メグムはすぐに手が出ていけない。しかもわざわざ火傷の残る手をびしっと指を突き立てた。塞がりきらない傷がぐじゅと不自然に凹み、全身の毛が逆立つ。
「じゃあ、なんだよ」痛みに耐えつつ、問い直す。「何が言いたい」
「ただ思うだけだよ。俺はこれでもいくつも精霊器を見てきたからな、おまえみたいな『終の器』を経て新しい主に出会えたやつがいることも知っている。だから、そういう道があったとしてもおかしくはないし、そういう出会いが出来たのならそれはひどく幸せなことだ」
「そ、んなこと……」
「ないと思うならそう思っていな。俺と契約してほしくなったら喜んで受け入れるけども――キリギリス、おまえ、名を覚えていないんだよな?」
「え、あ、ああ。エマに貰った名は、思い……出せない」
精霊器は名を付けた主を失くせばその名もなくす。思い出せないし、仮にその名を見てもそれを自分の名と認識することができなくなる。大切な名前だったそれは、世に溢れる言葉の中の一つに成り下がってしまう。
多くの主を失くした精霊器と新たな契約をするというのに、メグムがその性質を知らないはずがない。なぜわざわざそんなことを訊くのだろう。
「それ、おかしいんだよ。キリギリスが自分の名前をひとつも覚えていないって状態は、どう考えてもおかしい」
「は? どういうことだ?」
「精霊器を呼ぶ場合に要るものは、性質を決める虫の想像、落とし込む器、そして名前だ。それらは精霊器に個性を与え、世界から切り離した魔力を定着させるために必要なもの。作り手と違う主を持つ場合には、その名を真名とし、新たに名を付ける。主をなくして忘れるのはその新しい名だ」
つまり。
主が精霊器をつくった張本人ではない場合は必ず二つの名を持つ。今のキリギリスのように誰とも契約をしていない状態であっても、真名があるはずなのだ、と。
「……は?」
思わず零れた声は、意図しない程に低い。
キリギリスは再び増えた問題に、最悪の想像をする。自分が、そもそも精霊器ではないのではないか、ということだ。エマが必要としてくれた事実さえあればすべてどうでもいいにしろ、自分はずっと精霊器であると信じてきたことが違うとすれば、根幹が揺らぐ。
しかし、メグムはその可能性をあっさり否定する。
「それはない。おまえは精霊器だし、でないなら俺と仮契約すらもできねえはずだ。だから、俺はおまえのエマがヒトでないならそれも納得したよ」
ずっと考えていた。ツバメがキリギリスを連れてきたときに、名を覚えていないらしい様子を見て、ずっと違和感があったものの、例外は何事にもある。隠しているだけかもしれない可能性も考え、キリギリスには伏せておいたのだという。
「アキラがくゆりと同じなら、エマがおまえから真名を取り上げられるのも納得がいく。はじまりの七種族がヒトの理を曲げるのは難しくはないからな」
キリギリスの背を、冷たい汗が伝う。メグムの言葉を聞きたくはなかった。聞いてしまえば決定的に何かが壊れて、あの太陽色の髪の魔眼の予言じみた言葉通りの未来が訪れるような気がしていたからだ。
口をぱくぱく力なく開閉を繰り返すだけのキリギリスに、メグムは続けた。
「だから俺は、おまえのエマはおまえが自分以外の誰かに出会うことを願ったんじゃねえかなと思う。でも真相は俺に分かったことじゃあない。……キリギリス」
メグムの双眸がしんとキリギリスを見据え、その視線に身動きが取れなくなる錯覚をする。メグムがキリギリスの手を取る。
「見せよう、全部。おまえの記憶の奥深く、弦楽器という器の方が見ていた、おまえとおまえの主のことを」
そう言ったかと思うと、キリギリスの意識はとろとろ溶け、意識は暗転する。




