第五十一話 「トモリの迎え」
「さて」
くゆりを別段止めることもなかった沙月が足を組み換え、キリギリスに視線を戻す。今しがたの終末の魔術師に対するそれを見たせいか、沙月の挙動に少し身構える。笑顔で悪気もなく、もてあそべる奴だ。一刻も早く立ち去った方が良いような気がする。
「君はどうだい、キリギリス。愛しい少女が知らないうちに母になっていた気持ちは」
「し……んじ、らんねえな。だっておまえ、言ったろ。エマが死んだのは洪水のときか、役目を果たしたのときなのかわからねえって。わからないならエマがおれと別れたその時に死んでいた可能性だって――」
「ふむ、であれば、自分以外の男がエマに近付いたはずはないと、言うのだね」
ぐぅ、と息を呑む。キリギリスは自分がエマと、そういう関係になりたかったわけではない。それは今だってそうだ。所詮は精霊器、使われることを至上とする道具なのだから、そこを履き違えてはいけない。
だが、そうだ。自分だけがエマに大切にされていたという自負と優越感、今なおエマを大切に思うのは自分だけだという絶対がなくなったことが不安で仕方がないのかもしれなかった。
黙り込み、睨みつけてくるキリギリスの視線を沙月はからから笑って受け止める。
「道具だというのに傲慢なことだ、キリギリス。あまりそういう感情は君のこれからにとってよくはないんじゃないかな、新しい奏者を探す身としては」
「奏者なんているか! おれにはエマひとりでいい、エマ以外の奏者なんていらねえ!」
「いいや、選ばずにはいられまいよ。道具は使われてこそ、楽器は奏でらてこそだ。使ってくれる者がいなければ錆び朽ちるだけ。それが我慢できるはずもないと思うぞ、ましてメグムとも契約を交わしていないのだろう?」
メグムとは仮契約のままだ。動き回るだけの魔力を回してもらうために交わしたままであるが、本契約はしていない。エマ以外の誰かのものになるつもりも、エマ以外の誰かにもらう名もなくていいと思っているからだ。
だというのに、沙月の予言めいた発言を聞いていると、途端に不安になってくる。いつかそんな日が来てしまったらどうしよう、エマを忘れてしまう日が来てしまったらどうしよう――と。
「――失礼、します、さ、沙月さま」
控えめに襖がひらかれた。背後をばっと振り返ると、そこにはメグムの傍にいるはずの小柄な少女がいた。トモリだ。三つ指を付いて丁寧に頭を下げた後、つっかえつつも沙月に物申す。
「どうした、トモリ。迎えか」
「あるじさまがそこな弦楽器の、手入れをしたいというので……む、迎えに上がった次第、です」
「ふうん、メグムもだめだねえ。僕の屋敷に置いてやっているのにもうずいぶんと顔を見せない」
それまで何にしても楽しげに話していた沙月の顔から色が消える。口を引き結び、髪をいじる指を止めた。ずっと楽しそうにしていたからこそ、その表情は見る以上に冷たいような気がした。
「あるじさま、は……ご病弱で、す。普段より床に寝入ってばかりですので、どうか……ご容赦を。……キリギリス、いきましょう」
「あ、トモリ、おい?」
顔をあげたトモリが小さな手でキリギリスの腕を掴み、引く。抱えたエマを落とさないようにしながら引かれるまま、沙月の間を出た。
腕を引くトモリの腕のせいで叶わない。トモリは火を灯す精霊器であるから、手が熱い。ずっと握られているとあっさり火傷しそうだ。
「……あの男、病弱なのか?」
「うん……あるじさまがいつも、あのお部屋から出ないのは知っているでしょ……?」
そう言われてみれば、そうだったかもしれない。手入れするにもあの部屋から出ず、精霊器の方を部屋へ招く。風呂や厠はさすがに出るものの、それ以外ででているところを見たことがない。唯一あったのは、暴れるキリギリスを部屋から出さないために足を運んだときくらいだ。
「それで、なんで呼びに来たんだ……?」
「それは気遣い……キリギリス、沙月さまにあんまり会ったことないから」
それは、確かに。実際沙月はよく喋るし、帰ると口にするタイミングすらつかめなかっただろう。あの終末の魔術師や語り部と名乗ったあの男の態度を見るに、沙月の好意的な態度は裏があるのだろう。
であれば、割って入って貰えて助かった、というところか。
「でもそういう、呼び出しはいつもイノリな気、が」
イノリはキリギリスのお目付け役と言ってもいいくらい、キリギリスにちょっかいをかけてくる。いくら振り払っても仕方がないので最近は気にせずにいたが――今回はトモリだったのかいささか疑問だ。
まあ大方何かしらの事情があるのだろうとは思ったが、トモリの答えは嫌に短くはっきりと、気の弱そうなトモリには似合わない口ぶりだった。
「イノリは、だめなの」
問い返すつもりが、強く握られた手に火傷がひどくひりついた。
沙月の間からメグムの部屋は遠い。いくつもの部屋の横を通り抜け、腕に肉の底まで届く痛みを覚えてようやく目的のメグムの部屋につく。
ほんとうに、手入れされる理由ができてしまった。




