第五十話 「僕とおまえの仲じゃないか」
白い頬が血と雨に濡れて、黒髪が張り付いた少女。下腹部の損傷が激しすぎて、下半身との繋がりがかろうじて背骨一本というところだ。
その少女をかき抱き、荒げそうになる声と浮かぶ疑問を押し殺してキリギリスは続ける。
「おれがエマの顔を見間違えるはずがない……きれいな緑髪だったのがなんで黒髪になってやがんのかもしらねえ、けどこの子はどう考えてもエマだ……っ」
いくら強く抱きしめても、反応が返ってくることはない。
予想が当たってしまったアキラは、なにも言ってやることができなかった。
この六年、アキラは彼がどれほどエマを大切に思っているのか、身近で聞いてきた。彼の今の主にすらあまり語らないという少女の話を、なぜかアキラには惜しむことなくしてくれた。
――「エマはよくたべるやつだったんだ。作った飯は残さないでくれる」
――「おれのことは弾けなかったけど、おれの音楽はとても好いてくれた」
――「二人きりの世界だったけど不満なんてなくて、いてくれたらよかった」
――「エマが大好きだったんだ、おれ」
思い起こされる――そんなキリギリスが教えてくれたエマの話。
生きていてくれたらどんなによかったか。けれどその希望すら望むにはあまりにも洪水の規模は大きすぎて、だからこそ秋を憎んだ彼だ。
せっかく生きていたのに、この再会はあまりにも。
あまりにも酷すぎる。
「エマ、エマ、どうして……」
「――――」
「な、にをする、エマに触るな!」
秋はその少女に手を伸ばし、反射的にエマを隠すキリギリスを左手で諌め、右手を翳す。内臓が露わになった腹部を秋の手からこぼれた水が覆い、失くした内臓と肉の代わりに水が埋まる。懐から取り出した白い布を細長くたたむと、彼女の腹に巻き付けた。
最後にもう一度、アキラには聞き取れない言葉で呪文を呟く。
「なお、った……のか」
「見た目だけな。沙月のところに行こう、連れていくのには不便しないようにした」
顔や見えるところへ飛んだ血は水で拭われている。いかに終末の魔術師であっても、人を生き返らせることなどできやしないのだ。何においても、壊すことよりも直すことのほうがずっと難しい。
キリギリスは少女を抱いて無言のまま立ち上がる。
秋もキリギリスもそれぞれ大切な少女の変わり果てた姿に、あえて言葉にすることもなかった。ふたりの心の奥で、何を想うのか。アキラにはわからず、ただ少し足早なふたりの後ろをついていくしかできなかった。
沙月の屋敷へ行くのに、秋は裏道と裏口を使った。広場は先の高笑いや急いで走るアキラの姿に動揺しているらしく、いつもよりざわついているようだ。
女中が待ちかねたように玄関で待機しており、一言声を掛ければすぐに中へ案内された。沙月の間は屋敷の中央、入り組んだ廊下の先にある。
「やあ、待っていたよ、秋。それにアキラ、キリギリスは久しぶりだね」
秋やキリギリスの剣呑とした雰囲気を感じているはずなのに、沙月は底抜けに明るい声でそんな挨拶をした。
少女を抱えるキリギリスがその態度に文句を言おうと口を開き、秋がそれを制した。何もいうな、と強く言外に訴えかけられる。
アキラは秋が沙月をよく思っていないことは知っている。アキラを沙月に会わせたがらないので、沙月がどんな人物かよくは知らないが、秋の話を聞く限り、いいひとではないのだろう。
自然、身を固くする。
「ひどいなあ、秋もアキラも。僕が何をするというんだ、まったく。僕は歓迎しているだけだろう? 今日は客人が三人もだ、少し気分が良くなってはだめかい?」
「おまえが何の隠し事も後ろめたいこともないというのならそれも別に構わない。でもあるだろ、……リーゼロッテはなんで咎狗の島に埋められてたんだ」
低く問う。御簾の向こう側の少年と思しき沙月はわかりやすく両手を使って肩を竦める。わざとらしい仕草に秋が奥歯を噛む。
「そうだなあ、でもその話をするにはくゆりも呼んでやったほうがいいと思うぞ? あれはおまえに相手にされないことが何より堪えるし、仲間外れは泣くだろうよ」
「くゆり……? なんであいつを」
唐突にこの場にいない友人の話を持ち出された秋は怪訝に訊ね返す。秋にとってくゆりは会いたいときには会えないし、こちらから探すとなると骨の折れる相手という認識がある。故に呼んでやれと言われてもできないと思うほかないのだ。
「あいつはほんとうに報われないねえ。秋? くゆりはおまえが呼べばどこへでも現れるし、おまえのいちばん役に立つやつだよ。そのあたり、ちゃんとわかっていてやらんとあまりにかわいそうだ」
「なにを……」
秋の疑問は大きくなるばかりだが、アキラはなんとなくその言わんとするところに心当たりがあった。
六年前の雑技団事件。そこでくゆりは秋を身を挺して守ろうとしたし、何の迷いもなく「秋の味方だ」と言い切っていた。その様子が時が経った今でもアキラの脳内には焼き付いて離れないのだが――秋は、くゆりがそうしたことを知らないのだろうか。
「まあ、秋はあれについての記憶に制限が掛かっているからしかたないとしても――」
「――だから、おまえはどうして目を離した途端秋を惑わすんだ。やめろばか」
きれいな花型が薄くつけられた障子戸を乱暴に開け、窓から入る男がひとり。今しがた話題に出たばかりのくゆりだ。
くすんだ緑髪は雨に濡れて顔に張り付き、着物も水を吸ってぽたぽたと畳を濡らすが気にしない。御簾のこちら側だが、沙月は「濡れたまま窓から入るなんて失礼なやつだな」とこぼす。
「このくらい些細なことだろう、息をするように秋を惑わすおまえへの意趣返しとしては。秋も、あのばかの話をまともに聞いてもいいことなんかないって言ってるだろう」
「くゆり……」
ぺしんと迷う秋の頭を叩き、秋の髪が少し濡れる。叩かれたところを両手で押さえて、秋はきょとんとくゆりを見上げる。
「……ほんとうに報われないなあ。かわいそうに、秋はおまえの言葉の半分も理解できないのに何度も報われない忠告をしてやって」
「おまえはほんとうに黙れと言われても黙れないやつだな? いいから黙って秋の訊きたいことだけ答えてやれよ」
記憶にあるよりも粗雑な印象を受ける物言いで、くゆりは彼の言葉を遮り、秋に質問を促す。会話についていけていない様子の秋も、それでようやく戻ってくる。
――しかし。秋はくゆりの言葉を理解できないというのは、どういうことなのだろうか。
聞いているところ、キリギリスもアキラ自身もさして疑問に思うことはなんにもない、ふつうの会話だが。
秋の記憶に制限がかかっている、というのも初めて聞いた。どういうことか問いただしたいところだが――今この場でできることでもない。
「この少女のことと、リーゼロッテがどうして島にいたのか、答えろ」
「嫌だな、そんなふうに強く聞かなくても答えるさ。僕の知りうる限りのことならなんでも」
白々しい。太陽の魔眼を持つ沙月に見通せないことなど何もないというのに。
「そうだなあ、どれ。キリギリス、見せてみな」
御簾のむこうから手招きする。直接見なくても分かるくせにわざわざ手間をかけようとしているだけだが、それを聞いてやるしかない。
秋に視線をやるキリギリス。秋は眉根を寄せたままかすかに頷き、御簾を開けてやる。太陽色の髪が美しく黛や紫紺の布からはみだしている少年が唇に薄く笑みを浮かべて手を差し出している。
疑うのを隠そうとしないキリギリスは少女の身体を離さず自分ごと沙月の前へ行く。未成熟な指を少女の顔へ伸ばし、沙月はわざとらしく唸る。
「知りたいのは少女の素性か? それともこんな色になった原因、この島に来た理由だろうか」
「どれもだ、エマに関係するならどれも教えろ……っ」
「ふむ、よくばりだね。いや、構わないけれどもね? この子は身体に別のモノを入れていたんだね。そのせいで髪も瞳も色が濁ってしまった。――まあ、役目自体は果たしたようだ」
何から何までわからないせいで、どこから問えばいいのか迷うキリギリスを余所に沙月は続ける。
「入っていた別のモノはもう見ただろう? ここにいないということは器を変えたということだからね。そしてこの子の魂はどこにもない」
「エマ、はやっぱり死んでたってことか……?」
「どうかな。洪水の時点で死んだのか、役目を終えた時点で死んだのか、違うモノが入ってきたから追い出されただけなのか。そのあたりは僕にも見当がつきかねるな」
もしかしたら助けられる算段がつくかもしれないとどこか期待していたキリギリスは歯を食いしばる。そんなうまい話はなく、やはりエマはもういない。
「役目ってのはなんだ? エマがいたあの閉ざされた森と関係があるのか」
「あるとも。むしろないと判断する方が不自然だろう?」
意匠をこらした座椅子に座り直した沙月は太陽色の髪を玩びながら、くゆりを一瞥する。アキラはその視線に若干の違和を感じる。
しかし、口を挟む前に沙月の話が再開される。
「その少女がいた森はこの世の終わりを待つ場所だった。やがて来る終わりが正しく在れるように、次に続く世界がきちんと歩めるように手を貸してやることがその少女の唯一の役目だったのさ」
けれど終わりは中途半端なものになってしまった。秋が水に沈めたからだと思ったが、どうやらアキラの知らない続きがあるらしい。
「おや、アキラは知らないのか。秋が沈めた世界は中途半端な壊れ方をしてるんだよ。秋が全てを滅ぼす予定だったところをある女が介入してね、それでこのありさまだ。正しく壊れていれば中途半端に苦しむ子たちもいなくて済んだんだが」
「……あ」
その介入した女性というのがあの赤髪の少女なのだ。そして秋にとってはとてもとても大切だったひと。結晶体に触れる秋がひどく悲しげだったのは、そういう理由だ。
だとしても、その言い方には納得がいかなかった。秋が全部壊すつもりだったなんて、それなら秋は今こんなにも苦しんでいる意味がわからない。
「それで、赤いほうか。あの子はこの島ができた時からあそこに眠っているよ。世界を壊す呪いの大部分を肩代わりして、心は跡形もなく吹き飛んだけれどね」
「……」
「あの島は実質彼女を埋めておくために作ったようなものさ。なにせ未だに世界を壊す魔法の術式があの体内に残っている。目に届く範囲で管理しようと思うのはなにも不思議は無いはずだよ」
つまり、沙月はずっと知っていた。あの子を待ち続ける秋を知っていて、ずっと黙っていたのだ。
「最期の魔法、……『Liselotte』っていうのは」
「そんな名前がつけられたのかい? 皮肉、あるいはおまえへの嫌がらせかもしれないな。内容は簡単さ、彼女の身体に残る術式を使って世界を壊す。今度は肩代わりしてくれる子もいないから、水に沈むどころではなくてほんとうに原初の姿にもどるだろう」
沙月は軽快に喋る。くゆりの目があるからかはわからないが、変に横道にそれてそれて秋を面白がるような言い回しもしない。……いや、もしかしたら、このやり取りこそが沙月にとってとても面白い秋の姿なのかもしれないが。そしてそうであるならよほど趣味が悪い。
「じゃあ……」
秋は一番の核心を問う。
「――なんで、俺に教えなかった」
「――簡単だろう? 秋は待つと決めた、であるなら僕の口から教えてやるのは無粋というものさ」
あくまでも選んだのは秋。沙月は秋の選択を尊重したしただけ――と。
沙月はそう、衒いなく微笑んで言う。
「僕と秋の仲だ、秋の望むことを叶えてやりたいと思うのが当然だろう?」
「あ、――っは、ぅ」
秋が膝を折る。アキラが駆け寄ると、頭を抱えて息を荒くしていた。
六百年。秋がこの世界を創ってからの年月だ。その時間、そのすべてが灯台下暗しだったといえてしまう現実を突き付けられた。
「秋、あき、あき!」
「あ、ぁ……だって、そん、な」
がくがくと震え、尋常じゃないその様子を前にしても沙月の態度は変わらない。笑みを浮かべたままの沙月に背筋が冷える。
「――もう聞きたいことは聞けただろう」
と、その次の瞬間。
秋が唐突に意識を失い、「秋!?」とアキラが支える。すぐ後ろに傍観を決め込んでいたくゆりが立っていた。どうやらくゆりが秋の首をとんと手刀を入れ、意識を取り上げたらしい。
「秋の気を失わせたか。過保護だねえ、まったく。――アキラ? 秋の心配ばかりだけど、おまえだって他人事ではない話だよ」
「な……なに、が」
「六年前、レイロットに言われただろう? おまえは親しい友人の仔であると。翼人族である彼の親しい友人など同族の他にありえない。そして彼はほら、エマのことも知っていた。彼が余計な言及をしなかったとすれば――もうわかるだろう?」
それは。アキラの親のことを、言っているのだろうか。
キリギリスが振り返る。その顔に、信じられないと驚愕が滲んでいる。
思い返してみれば、レイロットの言動はいささか不自然だった。アキラの正体を知り、キリギリスの器の造り主。弦楽器をエマに与えたのは彼であり、そのことからもエマと親しい友であったことが伺える。だからといって――エマがアキラの親だとするのは――
「そこまでにしておけ、ほんとうに」
「あ、くゆり、さ――」
低い呆れかえった声。振り返り、見上げるより早くアキラの意識を失わせられた。秋を抱えたくゆりがアキラの意識を飛ばした、のである。
どうした、と笑う沙月と反対にくゆりの表情には色がない。くゆりは意識を失ったアキラを小脇に抱え、沙月に言い放つ。
「私の言葉は秋に伝わらないからおまえに言わせたけど悪趣味が過ぎるな。ふたりはこのまま私が連れて行く」
「ふむ、どうして? 秋のこころは今壊れたも同然だけど」
「ばかを言うな。秋がこの程度の絶望で壊れるわけがないと何度言えば分かる。少しばかり心がすり減っているだけだ」
「ではアキラは? おまえも秋も教えてやらないから未だに自分の正体も知らないままだ」
そこでくゆりはそれまで一度も見なかった沙月に目を向け、静かに言い放つ。
「だから私が今から語るのさ、『語り部』で『秋の聖竜』たるこの私がね」
と。薄く微笑んでさえいたその聖竜は、軽やかに窓から出て行ってしまった。
残されたキリギリスは窓から目が離せないまま、腕の中のエマを抱きしめる。飲み込みがたい事態に必然腕に力が籠もってしまう。




