第四十九話 「不可解な女二人」
赤髪の女を赤黒い結晶が包み込んでひとつの彫像のようなそれを、茫然と眺めるしかできなかった。ああなってしまった以上、斬り付けて良いのかも分からず、ただ立ち尽くす。
結晶は大きい。咎狗の島の木々たちを軽々と超える背丈になっている。これほど大きな結晶、御島からも見えてしまうだろう。
女の言葉を思い出す。
「――此度の旧友はそんなに大きくなったのにまだ真っ白だなんて、まだそんな刃に頼っているなんて」
あの女はアキラのことを知っている。旧友と言ったということは、数年前にもいた、アキラの正体を知っていたレイロットと同じ類のモノだろうか。
レイロットは翼人族だ。見た目にわかりやすい種族だったから間違いようもなかったものの、この女はてんでわからない。はじまりの種族ではあるのだろうが――はたして、どちらが?
赤髪の女はこの島に眠っていた。黒髪の女から赤髪の女へ体を移したところを見た以上、これまでもそうしてきた可能性が否めない。
そして、終わりの魔法だと言った、「リーゼロッテ」という名称。人の名前のようで、中身がどんなものかはまったくわからない。秋に伝えろということは秋は彼女を知っているのだろうが。
ひとまず、秋にこの場を見せてはいけないなどと言っている場合ではなくなった。未だにその懸念は消えないが、もうアキラの手に負える話ではなくなっている。
結晶体からそうっと離れて、来た道を引き返そうと身を翻す。
走る。咎狗衆の手当ても急がなくてはいけない。きっとこれは島の、秋の一大事だからどうにかしないといけない。ここまで育ててくれた秋と島のみんなの危機だから。
――ただ。
ひとつだけ、心を曇らす心配があった。レイロットとの出会いからずっと心の奥底にあって、ずっと見て見ぬふりをしてきたもの。
あの女をみすみす見逃してしまったことも、咎狗衆に怪我をさせてしまったのも全部。
アキラのからだがしろいことと関係があるのだろうか。
島の見えるところまで出ると、ちょうど岸を渡ろうとする秋がいた。
「アキラ! 大丈夫か!」
秋の声に手をあげて無事を示す。それに頷いて、秋は水の上に足を乗せようとして――キリギリスに阻まれていた。
「おい、なにするんだ」
「うるせえ、おれだっておまえなんか触りたかねえよ! おれも渡らせろ」
「自分で渡ればいいだろ、アキラを向こう岸に渡したのはおまえなんだから」
「バカ言うなよ、音は前にしか進まねえだろ!」
そんな問答を繰り広げ、渡ると言って聞かないキリギリスに秋が先に折れた。頭ひとつ違う体格差だが、秋はものともせずに片手で抱え上げる。秋の頭にしがみつくキリギリスを鬱陶しそうに眉根を寄せて、あの言葉と聞こえない言葉を紡ぐ。
雑技団の一件以来、アキラと話すようになって少し丸くなったキリギリスだが、見ているこちらは気が気ではない。
キリギリスは未だ秋を憎んでいるはずで、ことあるごとに殺すつもりでいるのだろうから、あんなにも密着した状態でいられると不安だ。秋が遠ざけないのだから、キリギリスが何をしようと秋は返り討ちにするのだろうが。
「おい、水につけるなよ! おれ楽器なんだから水気厳禁!」
「うるさいやつだな……」
ぎゃあぎゃあとうるさいのは主にキリギリスで、秋はうるさそうにするきりだ。水の上を軽やかに駆け抜け、キリギリスを落とすこともなくアキラのところへ辿り着く。
「なんでキリギリスもきたんだ?」
「は? なんとなくだわ、おまえがあんなに焦っておれを頼ったんだから、おれだってその原因を見る権利くらいあるだろ――ってぇな!」
秋はともかくキリギリスがこちらへ来る理由に思い当らなかったので聞いてみればなるほどそれもそうだ。納得しているうちに秋がキリギリスを抱える手を離し、地面に尻餅をつくキリギリス。そして悲鳴は無視される。
「アキラ、なにがあった?」
「……うん、その」
視線をちらと林の奥へ遣る。島へ来た黒髪の女の話をし、その女が突然駆け出したこと。この水の上を秋と同じように失われた魔術によって渡っていき、その道中咎狗衆が全滅していたこと。傷の具合を見ようとしたとき、そのさらに奥から笑い声が聞こえて、女が墓の下から赤い髪の女を引きずり出したこと。
「それで、その女が死体に口付けしたら黒髪がぐったりして赤髪の方が生き返ったんだ」
「生き返る……?」
より正しく言うのなら、たぶん器を移し替えている。その証拠に赤髪も黒髪も話し方や内容に一貫性があった。それが魔術によるものなのか、ほかに何か原理があるのかまではアキラの知識では判別がつかない。
そして彼女が最後に微笑んで言ったことがいちばん大事だろう。
「その――最期の魔法だから、七日後目が覚める時には秋に傍にいてほしい、って。魔法の名前は……『Liselotte』」
最後の名前を聞いた途端、秋の表情が目に見えて変わった。
目を見開き、同時に予期せぬ事実を叩きつけられたかのような顔。秋はその表情の理由を問いただす暇もなく、「案内を頼む」と低く言った。
秋とキリギリスを連れて、三度同じ道を駆ける。途中の咎狗衆を秋が迅速に容体を見て、アキラに犲を呼ぶ笛を吹くよう促した。曰く、「咎狗はこの程度じゃ死なない、犲を呼んでおけば大丈夫だろう」とのことだった。
死なないと言っても雨の中でも分かる鮮烈な血の匂いに、だれひとりとしてぴくりとも動かないその様子に不安はある。けれど、秋が大丈夫だというのなら信じるしかない。
「にしても音がねえ島だな、気持ち悪いッたらねえ」
ひとりだけ傘を差し、身体と楽器が濡れないようにして走るキリギリスはそう零す。そうなのだ、音があまりにもしない。雨の音さえ静けさにのまれてしまうようだ。
一向にやむ気配のない雨の中を走り、やがて目的のその場所へ辿り着いたことは、わざわざアキラが言わなくとも明白だった。
赤い結晶の中で体を丸めて眠る赤髪の少女。秋が息を呑み、いまにも転びそうな足どりで結晶体へ近づく。ぺたと触れば冷たい感触が掌に伝わる。
眠る少女。長い赤の髪は結晶の色に溶け込んでいるが、その顔に見覚えがありすぎた。
――「まっていて、かならず、会いに行くわ」
耳の奥に蘇る、愛しい少女の声。それは、今この結晶体の中で眠る少女が呪いを一手に引き受けるその直前に秋に言った言葉だ。アキラの言葉を信じるのなら、少女はあの洪水以降、あるいは火螢の御島ができて以降、ずっとこの島に埋葬されていたことになる。
待っていて、なんて。会いに行くわなんて言ったくせに。
あれから六百年も、ひとりきりでこんな土の下にいたのか。
挙句身体をどこかの誰かに乗っ取られてしまって、それを防げなかった自分に吐き気がする。ただ待ち続けるだけ、気付きもしない――なんにも変わっていないではないか。
この事実を知っているとすれば、沙月ただひとり。あの性悪は知っていて、秋に一言も言わなかったのだろうと容易に想像がつく。
あれの隠し事は初めてではない。むしろ大抵のことはすべて隠しているし、それを知らずに惑う秋を見て面白がっている。
だからこれを見た秋が沙月を問い質すことを知っていて、今もなお楽しみに待っているのだろう。
どこまでも手のひらの上で腹が立つが――行くしかない。
「――……おい、うそだろ、おい」
秋が結晶体を離れようとした、ちょうどその時、その足元でキリギリスが震えた声を溢す。見れば、アキラの隣にしゃがみ込み、倒れていた黒髪の女を抱きかかえている。
アキラは困惑した顔をして、「キリギリス?」と問うているがキリギリスは意に返さない。女は腸をまるごと引きずり出され、千切られて腹部は見るも無残な様子になっている。おそらく、赤髪の少女の中に入ったモノがここまで入っていたモノだろう。
「キリギリス……? どうしたの、急に」
「どうしたもこうしたもあるか! おい、終末の魔術師、知っていることが有るなら包み隠さず話せ……ッ! この子について、この子がどうしてここにいるのか……ッ!」
秋を目線だけで捉え、強く息のない少女を抱きしめるキリギリス。並々ならぬ状況であることはわかるが、アキラは当然、秋にもその姿を見た覚えはない。
「悪いが、知らない」
「ほんとうに、知らないんだな……? それが嘘ならアキラが止めようと今ここでおまえを殺す」
「知らない、ほんとうだ」
重ねて否定する秋に、キリギリスの奥歯が軋む。
キリギリスがこんなにも取り乱す理由なんて、アキラにはひとつしか予想がつかなかった。けれどその理由は実際にこの状況になるまで有り得たものではないと思っていたし、実際に有り得ても――これでは、あまりにも。
怪訝に首を傾げる秋に、キリギリスはその事実を認めたくないとでもいうようにか細く言う。
「……この子は、どう見ても、エマだ」




