第四十七話 「最期の魔法」
下駄すら脱ぎ捨て、裸足のまま走る。笑い声は止まることなどなく、目安にしては恐ろしすぎた。だけれども、走る足は緩めない。
少女は、一つの墓標の前に居た。大事そうに、大事そうに、何かを抱きしめている。その何かの下半分は土の中に埋まっていて、恐らくそれは掘り起こされたのだろうと察しがついた。しっとりと濡れる赤。血ではない。それが髪だと気付いて、ぞっとした。あれは死体だ。
「ああ、ああ、やっと会えた! やっと、こんなところに眠っていたのね、かわいそうに、会いたかったわ!」
高らかに笑う少女はアキラの存在に気付いていない。ただひたすら腕の中の死体を抱きしめ、顔を赤く上気させて、恍惚と嬉しそうに笑っている。
死体が片割れなのか、だとか、それを見つけてどうするのか、だとか疑問はそれこそ際限なく溢れてきたが、アキラがすべきことはたったひとつ。アキラは今度こそ、迷いなく、その少女を死体から引き離すべく駆け出した。傷はつけない。牽制するだけだ。
右の掌からすらりと白い刃を長く生やし、それを振りかぶる。大丈夫だ、よく見える。少女と死体との間目掛けて、それを落とした。刃は落としきらず、少女が驚いている隙に死体を引き剥がす算段だった……のだが、失敗に終わる。
少女は欠片も驚きなど見せず、自分と死体との間に入ってきた白刃をただじっと眺めて、先程までの笑顔のまま固まっている。死体を抱きしめる手は緩まることはなく、アキラを自身の失策を悔いた。
狂っている。刃を向けられて怯まない相手に脅しは通用しない。秋の教えが今更脳裏に蘇えってきた。
――「凶器を凶器と思わない相手なら、脅しはそのまま命取りになる」
――「見誤るなよ、おまえはやさしいから」
少女は白い刃に映る自分を見て、ごきんと音を立てて首を傾げる。右手を死体から離し、アキラの刃に触れる。
「なんでしょう、これ――わたしとあなたの再会を邪魔するなんて、なんて無粋。ようやくあのひとに会いに行けるのよ、邪魔――しないで」
「――――ッ!」
指先に鋭い力が入り、折られると悟ったアキラはすぐさま刃を体内へ戻した。間一髪、折られずにはすんだが、汗が全身の毛穴という毛穴から噴き出し、呼吸が乱れる。
少女は死体との間を阻むものがなくなったことを視認すると、緩慢な動作で再び死体を抱き寄せた。そしてそのまま薄紅色の唇を重ねた。ちゅうと吸い付くように――いや、違う。何かを吹き込むように、唇を何度も重ね合わせる。それをアキラが視認し、次の動作に移るまでの数秒、たった数秒で、その口付けは終わる。
ずる、り。
アキラの伸ばした刃が届くより前に、少女の体がそこに崩れ落ちる。力なく、まるで軟体動物か何かのように、糸の切れた操り人形のように。その既に事切れた少女を抱えて立つ女が、迫り来るアキラの刃を、指先をすっと払って止める。
厳密には、払った先に小さな水の渦が現れ、それが刃を押し返したのだ。
先程まで死体だったはずの女が長い赤髪を揺らして、ゆらりと一歩を踏み出す。幽鬼のようにふらりと動くその女は足についた土を払った。土は濡れて肌に張り付いていて、払った手の方にむしろ付いてしまった。
アキラは二、三歩分後ろへ下がり、女の様子を伺う。女は、十代後半くらいの容姿で、秋の見た目や身長とさして変わらない。特徴的なのは、その透き通るような肌と、腰ほどもある赤い髪。どれをとっても美しいと形容できることは分かる。わかるのだが。
あれは、ほんとうについ数秒前まで死体だったのか?
土の下から掘り起こされた埋葬済みの死体だったにしては、何もかもがきれいすぎた。肌に腐った形跡はなく、髪に艶すらある。頬は健康的に桜色をしている。土で汚れてはいるものの、それだって土の中に埋まっていたにしては少なすぎる。そもそも死体に美しいなどという形容詞が似合ってたまるものか。
それほどまでに状態が完璧であるのなら、アキラが知らないはずがないのだ。アキラがこの島へ来てから、もっと言うのなら先日の死体であるはずで、そういうものにも関わる立場にいて、知らないなんてのはおかしな話だ。だが、こんな赤髪の女なんて生きているところですら見ていない。
女が再び、手を上げる。掌が翳されたあたりを中心として大気が揺らぎ、どこからともなく水が現れる。それは、やはり、秋が使うそれと似ていて、アキラにはからず隙が生まれる。一歩の迷いが逃げを封じ、狙いを定めた女の目に最期を悟る――が、そんな状況下で逃げを諦めるようには、秋が育てなかった。強引に動かした足はもつれ、後ろへ勢いよく倒れる。
「あら――――運がいいのね」
女の手から放たれた水球が、先程までアキラの頭部があった場所を高速で通り過ぎた。どっと心臓が血液を一気に送り出したのが分かった。早鐘を打つ心臓を押さえつけ、呼吸を整えようとする。
水球はアキラの背後の木に辺り、弾け、太い幹を裂いて、その木は轟と音を立てて倒れ臥した。
久しぶりに、あるいは初めて感じた鮮烈な死の気配は、早々に冷静さを取り戻すことを拒否していたが。
はっ、はっ、はっ――吹き出る汗を拭う動作すら命取りになるような気がする。秋と同じ魔術を使うのに、秋とは決定的に違うものが込められているのを、嫌でも感じてしまう。逃げようにも背中を向ければあの水球で貫かれるだろう。近づくにしても、ほとんど初動も詠唱もなしに放たれては近づきようがない。
アキラは相手から離れた位置からの攻撃手段をそう持たない。体から生える白刃を伸ばすことは可能だが、伸ばせば伸ばしただけ動きは鈍くなるし、扱い方にも殊更に気を使う。あまり実戦には向かないのだ。どうしたらよいのかと、頭の中をいくつもの選択肢が浮かんでは消える。
だが、それは杞憂に終わった。女が唐突に殺気を緩めたのだ。
「そうだった。こんなことしてる場合じゃ――なかったわ」
ふらふらと覚束無い足取りで女は数歩下がる。左手に抱えた黒髪の少女の腕が、だらんと揺れる。女はその抜け殻の少女を軽く投げ捨てた。そのすぐ傍にしゃがみ込み、細く一揃えにした指先を衝きたてた。
「あ……な、にを……!」
「これはね、最期の魔法」
女は少女の腸を掻き混ぜながら、顔だけこちらを向いて、にこやかに言う。女が手を動かす度に雨と血と泥の混じった匂いが周囲に充満していく。
「世界を終わりにする魔法。魔術よりもずっとずっと高度な魔力を使って行う、世界を最初に戻すための魔法。あなたは、ご存じないかしら」
「終わりに、する……って」
「そう、知らないのね」
怪訝に聞き返すアキラに、女は機嫌を損ねた様子もなく、花冠でも作る乙女のような純真な笑顔のまま、続ける。
「この世界がアキ・シュラインリヴァの創った世界というのはご存知かしらね? ええ、きっと、知っているはずだわ。彼のお話はこの世界のどこにでもあるくらいなのだから、一番近くにいるあなたが知らないはずないわね」
「なんの……」
なんの話を、しているのだ。秋が世界を一度壊し、創り直したのが現状ある世界だというのは知っている。他でもない秋から聞いた話だ。その話があちらこちらに広まっているのもキリギリスやほかの精霊器たちに聞いて知っている。
だが、当の名前に聞き覚えがない。アキ・シュラインリヴァ。この十年、一度たりとも聞いたことのない名前だった。それが秋の本名だとして、彼が黙っていた理由は、なんだ。
「そんな名前は、聞いたことがない」
「そうかしら、でもそうなのよ。紛れもない同一人物で、変えようのない事実。ええ、そう、だって世界を壊したのが二人もいてたまるかしら。しかもこんな世界まで創り直してくれて――ほんとうに、反吐が出るわ」
にこやかな笑みが、そのまま温度を失くした。女は血塗れの手をそうっと引き抜くと、今度は力任せに横たわる体を引き裂いた。
思わず悲鳴が漏れる。なんだ、あれは。何をしている。かつて黒髪の少女だったそれはただの肉片と化し、なおもその死を陵辱され続けている。引き千切られ、剥かれ、挙句の果てに女はそれを――食べた。
「ねえ――白いあなた。なにもかも、知りうるはずのすべてに蓋をした真っ白いあなた。伝えてくれる? 私はこれから眠りにつくわ、そうね、時間は七日ほど。目覚めた時には傍にあなたがいてほしいって――アキに、伝えてくれるかしら」
「そ――んな、こと」
斬らなければ。とめなくては。たとえ刺し殺してしまったとしても、あれはとめなければ。この日何度目になるかわからない警鐘が体のうちで反響している。だって、魔術の才に乏しい自分にも分かる。分かってしまう。
島全体が揺らぎ、悲鳴を上げているかのように木々がざわめく。とてつもない魔力の渦が、あの女を中心にして蠢いている。だというのに、アキラの体はその警鐘の言うことを聞かなかった。
圧倒された。恐怖した。理解、出来なかった。思考を放棄し、呼吸すらやめてしまいたくなるほどの虚無感。アキラは、動けなかった。
「思考を放棄するのはとてもとても恥ずかしいことだけれど――特にあなたは。だけれど、しかたないわ。大丈夫、終末の七日間を終えるときには、あなたもろともいなくなるの。ああ、でも、ほんとうに残念。此度の旧友はそんなに大きくなったのにまだ真っ白だなんて、まだそんな刃に頼っているなんて。寂しいし、悲しいわ」
女は唄うように言葉を紡ぎ、けれどアキラにはその半分も理解できなかった。自分の容姿が白いことの理由があるのか。体から生える刃にも理由があるのか。秋も知らなかったのに、なぜこの女は知っているのか。
問いただすよりも先に、目の前の光景に息を呑んだ。足元の赤黒い液体がぱきぱきと音を立てながら女を飲み込んでいく。理解の追いつかない出来事が重なりすぎていた。ただ、口を開けて眺めるほかのすべてをわすれてしまったかのように、アキラは動けずにいた。
「さあ、始めましょうか。ちゃあんとアキに伝えてね。この魔法の名前は――」
――『Liselotte』




