第四十六話 「災厄の足音」
◇
「アキラ……?」
沙月の屋敷のとある部屋。窓際に佇み、弦楽器を奏でる男が居た。彼は弾いていた弓を止め、窓の外に見慣れた白を捉えた。庭の先、たまたま、少しだけ開いている裏口の戸の向こう側。一瞬しか見えなかったが、彼がひどく急いでいるのだけはわかった。
何か嫌な予感がした。あの忌々しい魔術師は今、沙月の間にいる。となると、アキラが今夜の客人を迎えに行ったのだろう。それが、どうしてあんなにも切羽詰っているのか。
アキラは基本的に穏やかで、かつ、あまり失敗することがない。覚えが良くて、それでいて器用なのだ。だから魔術師もアキラを重宝していて、自分の仕事の手伝いをさせているのだろう。他人と衝突することも少ない。水の魔術師に育てられたというのに、この自分が憎からず思えるようになったくらいだ。
「何かあったのか……?」
メグムはちょうど今睡眠に入ったばかりだ。抜け出したとしても、気付かれるまでにしばらくの時間があるだろう。トモリたちも少し遠い部屋にいる。窓を抜けて走り、裏門を抜ければ追いつけそうだった。そこに行くまでに使用人の女どもに捕まらなければ、の話だが。
ついでにメグムから離れすぎると魔力の供給がうまく行かなくなるから、そのあたりも心配だが――
「まあ、大丈夫だろ」
肉体労働は苦手だが、見てしまったからには見て見ぬふりもできまい。
弦楽器は窓をそっと開け、走り出した。
◇
黒髪の少女を追いかけ、湖畔まで出てきたアキラは辺りを見回す。着慣れた自分の外套を着ている。開けた場所で見失うはずがなかった。
湖の、十数メートル先に浮かぶ、小さな島。なんの変哲もなく、ただ木々があるだけの島は今日も変わりはないように見える。ただ、そこが墓地であることを考えると、背筋が寒くなるだけであって。
少女はまだこちら側の岸にいた。水面をじいっと見ていて、その姿に安堵を覚えた。よかった、渡る術はないようだ。
あの島に渡られるのはだめだ。行かせてはいけないと、何か、本能らしきものが叫んでいた。理由は分からない。ただ、行かせては、ならぬと。
少女を捕獲してしまおうと、手を伸ばす。沙月のもとに連れて行ってさえしまえば、そこには秋もいるし、精霊器だってたくさんいる。とにかく、捕獲しないと――
「―――――――― 」
聞き取れない言葉が少女の唇から零れた。少女はそっと一歩を踏み出す。赤くかじかんだ指先が水面に小さく波紋を立て、しかし、沈まない。
少女は難なく水面を歩いていく。静かに、軽やかに、そうっと。速度を増し、跳ねるように水面を駆けていく。
その姿。その姿は――見覚えが、あった。そうだ、さっきの聞き取れない言葉も、聞いたことがあった。誰の口からか。そんなものは決まっている。秋だ。
秋もああして、水に沈まずに走って向こう岸へ行った。同じ姿、同じ言葉。間違いない。あれは、魔術だ。失われた世界の、失われたはずの魔術。もう使い手は秋しかいないと聞いていた、それだ。
それをなぜあの少女が? あの少女は一体何者なのか、疑問が止め処なく溢れ出て、動きが止まってしまった。けれど、アキラはそこで動きを止めてはならなかった。飛びついてでもとめるべきだったと気付いたのは数秒後だった。
アキラは泳げない。冷たい水がどうしてもだめなのだ。ただでさえ、湖の水は冷たく、それが冬の雨の日ともなれば最悪だ。底も深く、足が着かないため、実質アキラに追う手立てはなくなってしまったのだ。
――どうする。戻って秋を呼ぶか、それとも犲衆を連れてくるのが早いか。犲衆は数が少ない上に、忙しなく島の中を走り回っているだろうから、捕まえるのは困難だろう。鴻衆でもいいけれど、彼らは咎狗の島へは近づけないから意味がない。となれば、やはり秋だ。秋のところへ行こう。――だが、ほんとうに?
選択の正しさに自信が持てず、逡巡していたところに、ある精霊器が到着した。艶のある黒い髪が雨に濡れ、いっそうその美しさを表していた。息が少し上がっている。走ってきたのだろう。
「キリギリス? どうしてここに……?」
「おまえが走っていくのが見えたんだよ。どうした、おまえがそんなに焦りを顔に出すなんて珍しい」
そんなにも、顔面は蒼白なのだろうか。いや、そうだろう。だってこれまでないほどに焦っている。少女は既に咎狗の島の中へ消え、今にも目的の『片割れ』に手が届かんとしていることだろう。
侵入者は容赦なく排除するように仕込まれている咎狗衆がいるとはいえ、それもいつまで持つのか、と疑問だ。彼女が秋と同じ、アキラたちには聞き取れない言葉で紡がれる魔術を使うとするのなら、新しいこの世界に生まれたモノたちに勝ち目はないのだ。
その魔術は失われた魔術。
世界に魔力が満ちていた頃に培われた、自らの外側と内側とを繋げ、増幅させる魔術。それは今の世界に生まれたモノには使うことができない。もとより大気に満ちる魔力がかつての比ではないほど少ないため、その少ない魔力にアクセスする力は不要とみなされ、退化したのだ。かつての生き残りなど、アキラが知る中では秋くらいしかおらず、秋は取り過ぎない程度に魔力を体外から取り込み、魔術を行使している。もちろん、体内の魔力の保有量もアキラなど比べるべくもないから、簡単に魔術を使っているように見えるのだろう。
そもそもこの世界に生まれたモノは魔力なんてほとんど持っていなくて、異形とて魔術を使えるほどの魔力を持つのは珍しい。アキラも例外ではない。基礎の基礎すら扱うことができなくて、早々に魔術の修行は断念したのだ。
そんな珍しい戦い方をする少女に、咎狗衆が動揺しても誰も責められない。時間の問題だ。最初の通り、秋を呼びに戻る方が、きっと堅実だった。
――だというのに。
「キリギリス。ねえ、あの向こう側に渡る方法って、ある?」
アキラはそうしなかった。
なぜ? と問われても確たる理由なんてなかった。あの少女を島へ渡らせてはいけないと確信していたように、あの呪文を聞いてから、あの少女を秋に会わせてはならない、と警鐘が脳髄の奥で五月蝿いくらい鳴っているのだ。会わせれば後悔する。あの少女は、秋によくないものをもたらす、と。気のせいだと、思い込みだと断じてしまうには、粟立った肌が収まらず、噴き出す嫌な汗が止まらなかった。
キリギリスは、怪訝な顔一つせず、何のためと問うこともなく、ただ自らの本体を構えた。真黒一色の艶やかな弦楽器が濡れてしまうのも厭わず、鋭い眼を閉じ、弓を弦へ当てた。
「足場を作ってやる。それの上を走れ、できるな?」
「……うん、ありがとう」
「よし、行け!」
調律もなしに音が響く。それは明確な方向性を持っていて、まっすぐ咎狗の島へと走る。キリギリスの奏でる音は時に質量を持つことがある。目には見えないが、それは確かに足場として成り立った。
本調子ではないキリギリスの演奏はそう長くは持つまい。アキラは踏み外さないように慎重に、なおかつ迅速に音の上を駆けた。旋律が鼓膜を揺らす。たぶん、キリギリスが弾いたその瞬間に今の主には伝わっただろうし、この音楽を聴けば秋だってすぐに飛んでくるはずだ。あのひとは、危機にはまず自分の身を投げ込むようなひとだから。
そうなる前に、そうなる前に、自分ひとりで決着をつけなくては。
初めて上がった咎狗の島の地面は、思ったよりも柔らかい土だった。御島よりも多く水分を含んでいるような、気付けば沈んでしまいそうな、そんな感じだ。加えて空気もひんやりとしていて、吸い込めば喉が痛む。なるべく深く息を吸い込まないようにし、アキラは進む。
幸い、裸足の足跡が中へと続いている。それを追えば彼女はいるはずだ。
うるさいくらいの静寂に、鼓膜が痛い。雨の音以外なんの物音も、誰かが話す声もない、静謐で、粛然としていて、そんな言葉を尽くしても足りないくらいの静けさ。土が軟らかいため、下駄が絡め取られて上手く走れない。
自分がここにいることすら怪しくなるような静寂は、唐突に終わりを告げた。視界が急に開け、ざあざあと雨が打ち付けている。周囲にはなにか、たくさんのものが、倒れている。
あ、と吐息がこぼれた。目を疑う。
統一された黒い衣装。雨の匂いに混ざる鉄。頭についた獣の耳と、倒れ臥す――十前後の少年たち。
「と……が、いぬ」
皆が皆、内臓を零れさせて、咎狗衆は全滅していた。
近くの一人の傍へ行く。まだそれほど時間は経っていない。即死でなければ、あるいは、まだ助かるはずだ。その少年は脇腹に穴が開いている。溢れる血の代わりに、強い雨がそこへ流れ込んでいく。
首筋の脈に、手を触れた――その時。
「あははははははははははははははははははははは!」
高らかな笑い声が、島中に轟いた。狂気に満ちたそれのもとへ、アキラは走った。咎狗の少年たちは丈夫だと聞く。きっと、きっとまだ大丈夫だ。だから、そうだ、助けるためにも、呆けている時間なんてない。




