第四十五話 「やってきた少女」
ある朝、アキラはいつもよりずいぶんと早く目が覚めた。布団に入ったのが日が昇るころだったのが、今はちょうど正午くらいだ。起きるにはまだ早いが、妙に目が冴えてしまって、二度寝する気にもなれなかった。布団から這い出て、体を伸ばす。布団は小さい頃に調達したものなので、今のアキラは丸くならないと足がはみ出してしまうのだ。夏ならいざ知れず、今はとても足を出してなど眠れない。
と、そこで、隣に寝ているはずの秋が居ないことに気がついた。
起きた時に秋がいないことはよくあることだった。もともと食べる必要もなければ眠る必要もないようなので、どうも眠り自体が浅いらしい。アキラが食事をつくるようになってからは、食事の時間には帰ってくるので、別段探しに行く必要もない。だが、珍しく早く目が覚めたのだ。夕食の仕度をするにはまだ早いし、たまには探しに行くのもいい。
薄青の半纏に袖を通し、鼻緒の切れそうな下駄を引っ掛け、外へ出る。寝静まった島に、冷たい空気が沈んでいる。下駄の軽い足音がひどく澄んで響き渡る。からん、ころん。広場には下りない。こういうとき、だいたい秋は島の一番高いところにいるのだ。
今夜の天気もあまりよくはなさそうだった。この縦に連なる建物の上に、厚い雲が張っている。今にも泣き出しそうな空は見ていて気分はよくない。
鴻衆の詰所の前を抜け、さらに上へ行く。鴻衆の詰所よりも上に店はなく、あと二つ階段と梯子を上れば、最上だ。
粗末な梯子の先にある僅かばかりの平らな場所に腰を下ろして、秋はそこにいた。柵も手すりもないのに足を外に投げ出している。風が吹けば飛んでいきそうな少年は、見てるこちらが不安になる。
「秋」
秋は街の方を眺めていた。寝静まる島と対照的に、賑わう人の営みが遠めにも分かる。電車が独特のブレーキ音を発して駅に止まったのが見えた。あの駅は終点だ。しばらくして、かすれた発車音が鳴り、電車は引き返していった。こちら側にまっすぐ伸びる線路はこの時間、閉鎖されている。
「アキラか」
「うん。早く目が覚めたから、来た」
「そうか」
秋はよっこいせ、と立つ。そんなところに立ち上がる勇気は残念ながらアキラにはない。だって、今でさえ梯子をすべて上りきれていないのだ。平然と経っている秋に、アキラは内心焦る。意味のない焦りだと知っていても怖いものは怖い。
「雨が降るな、今夜は」
「たしかに、降りそうだけど」
「降る。それもけっこう強い」
秋は断言する。秋が雨は降ると言う日は確かに降る。ひそかに雨は嫌だなあと思いつつ、濡れてもいい上着を出さなくてはと考える。
秋はこちらに来ようとして、もう一度、遠くを見た。「アキラ」
「なに?」
「今夜、来る」
これまで何度か聞いた、そんな簡潔な言葉。何が来るのか、察して余りある。――客、であるのなら、こんな言い方はしない。つまり、新しくここの住人になるだろうモノが来るのだ。
秋とともに部屋へ戻り、早めの食事を済ませた。秋は島に訪れようとするモノは把握するが、どういうモノが来るのかまでは分からないようで、準備をするに越したことはない。
ちなみに、例外中の例外ではあるが、この島から出て行って、たまに戻ってくるひともいる。そういう、一度会ったことのあるひとは分かるのだ。
とっぷりと日が沈み、街の明かりが消える。久々に強い雨が降り、内部の広場まで雨粒が届くくらいだった。傘を差す者もちらほらおり、開いている見世はいつもよりも少なかった。犲衆が走り回り、提灯や蝋燭の火が消えないように笠を被せている。雨だと、彼らの忙しさは増す。
そのため、今夜の客人の迎えも螢守の仕事となった。
秋は食事を済ませてすぐに犲衆へ来客の知らせを入れ、その足で沙月のもとへ向かった。沙月は不思議な眼の持ち主で、ほんとうは客人が来ることなど息をするように分かっているはずなのだが、それでも報告に行かないと拗ねると、秋は常々零している。
アキラは島の入り口、街と島とを繋いでいる線路の終点へとやってきた。島へ入るにはここしかなく、出迎えは大抵ここで行う。まあ、カラスの連中が来るときはここより内部で落ち合うことも多いけれど。
雨避けに被っていたフードを外し、水滴を軽く払う。さて。長椅子に腰掛けて、おんぼろ電車が客人を運んでくるのを待つ。おんぼろだが電灯くらいはつけて走ってくるので、来れば分かる。
しとしと、しと。
雨の音が遠くに聞こえ、時折吹き抜く風の音が閑静な駅の中に響く。
客人がやってくる時間はその時々によってまちまちだ。日が沈んですぐに来るひともいれば、日付が変わってから来るひともいる。午前三時をすぎてから来るひとはほとんどいないので、そのあたりが目安だ。
待つ。騒ぎが次第に熱を増すのを聞きながら、雨音がさらに強くなるのを聞きながら、アキラは一人で待った。
そうして一時間ほどが経った頃のことだった。
ひた、ひた、と足音といえるほど音ではないそれが、アキラの座る長椅子のすぐそこまでやってきた。することもなく地面をただ眺めていたアキラは、唐突に視界に入った白い足に驚いて、弾かれたように顔を上げた。
「あの、こんばんは」
それと時をほぼ同じくして、その人物は消え入りそうな声でそう言った。
全身ぐっしょりと濡れ、肩などは見て分かるほどに震えている。どこから来たかは見るまでもない。島の内部から来たのであれば立っている場所が違う。この人物は、線路の方から来た。
そう、来た。来たのはいい。だが、電車が来ていない。
「電車、には乗ってこなかったの?」
立ち上がって、アキラは訊ねた。その人物は、アキラよりもずっと背の低い少女だった。少女は少々つらそうな姿勢でアキラを見上げ、首を傾げた。
「電車は、なぜだか、出していただけなかったので、歩いてきました」
「出してもらえなかった――?」
そんなはずは、ない。ここは来るものを拒まない異形の島。秋が来ると宣言したのであれば、それをあちらの駅に居る駅員が止める一般人なわけもない。そもそも面白半分でこちらに来ようとする頭の足りない一般人はそれなりの人数いるもので、そういうものはいちいち秋も言わない。
「ああ、いえ――なんというか、雨だから、滑ってしまいそうだから、と。だけれど、わたし――今夜のうちにここへ来てしまいたかったの。だから、歩いて渡ってきたんです」
少女は困ったように眉根を寄せて、「驚かせて、ごめんなさい」と言う。
そんなこと、あるだろうか。アキラは今までの電車が来ていた時のことを思い返そうとするが、天気までは記憶に薄い。
アキラは少女の姿をまじまじと見る。黒くて長い髪が水分を多く吸って、顔や首筋に張り付いている。薄暗くて分かりづらいが、顔色も唇も真っ青だった。小柄で軽そうな体は張り付く衣服でいっそう小柄に見える。よくよく見れば靴も履いていない。
ここで悩んでいては、いくらなんでも彼女がかわいそうだった。何にしろ、まずは沙月のもとへ連れて行くのだ。彼女がどのような異形であるのか、沙月がまず把握してからでないと、この島の中での自由は得られない。
「とりあえず、これ着て。最初に行かないと行けないところがあるから」
「はい……あの、ありがとうございます」
「うん。オレはアキラ。きみみたいなひとを案内する仕事をしている」
着ていた外套を肩に掛けてやり、アキラは先を歩き始めた。少女は慌てて袖を通し、アキラに続く。
からん、ころんとアキラの下駄の音が響く。裸足の少女の隣を歩くにはいささか居心地の悪い音だったけれど、さすがに下駄まで貸すわけにはいかない。大きさが違いすぎて逆に歩きづらいだろうし、それで転んだら眼も当てられない。
「あの」少女がフードを深く被ったまま、消え入りそうな声を発した。
「なあに」
一歩半先を歩くアキラが横目にちらりと振り返り、問う。少女は俯いていて、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうだった。
「私、行きたいところがあるんです」
「いきたいところ」
「はい、この島の中で」
と、いうことは、彼女は少なからず、島についての情報を得てここへ来ているのだろうか。
火螢の御島の情報は、異形でありながらこの島を出ることが許されたモノたちが広めていると教わった。それらは世界中を渡り歩き、噂を振りまきながら、時には異形を保護し、島に連れてきたりもする。アキラ自身、この十年で三度ほど会う機会があった。
まあ、ある程度知ってここへ来た、ということは、ここに永住する気があって来ていると見ても間違いないだろう。外の世界で、ひどい扱いを受け続けたモノが最期に行き着く場所がここだ。
ただ、この島の中で行きたいところというと、どこだろう。この狭い島の中だ。行けるところなど限られている。誰かの見世、だろうか。
「どこに、行きたいの?」
秋に付いて回ったおかげで、島の中にどこにどんな見世があって、どこに誰が住んでいるのかもおおよそ覚えた。聞けば分かるから、沙月との面会が終われば連れて行くこともできる。
「会いたいひと……というか、わたしを呼んでいるひとがいて、そこに行きたいんです」
駅を抜けて、喧騒に溢れる広場へと出た。少し歩みを緩め、少女との距離が開かないようにする。アキラが普段使っている外套を着ているから、面倒な輩に絡まれることはないだろうが、念には念を、である。
「会いたいひと」
「そのひととわたしは――なんていうんでしょう、片割れ、ですかね。そのひとがいないと、わたし、完璧でいられないと言いますか――ずっと、ずうっと探していて、ようやくここにいるって確信を得られたんです」
「ふうん」
アキラに兄弟はいないのだが、彼女の言う『片割れ』とは、もしかして、そんな感じなのだろうか。アキラが会ったことがあるわけではないけれど、いつだか秋が教えてくれた中にも、二人で一つとして成り立つ力や、特定の人物の傍で真価を発揮する力はあって、別段珍しいものではないらしい。
少女はきゅっとかじかむ手を胸元で握り、黙る。長らく離れ離れであったのならば、早いところ会えるといいと思う。
広場を過ぎ、沙月の家が見えてきたところで、少女は唐突に足を止めた。
「あの、アキラさん。わたし、行きたいところがあるんです」
「え? ああ、沙月様に挨拶したら、行くといい」
少女は首を振る。長い髪の毛先が揺れて、水分がアキラにも飛んできた。
「それじゃあ、だめなんです。まってる。もう、ずうっと、待っていたから、はやく、いかないと。いかないと――いけないんです」
いかないと、と繰り返す少女に、アキラは背筋が寒くなるを感じた。ざっと血の気が引くような、その手を早く捕まえなくてはいけないという焦燥に襲われる。考えるよりも先に手を、伸ばした――
「――咎狗の、島へ、行かないと」
その手は、届かなかった。少女はばっと顔を上げ、凄惨な笑みを浮かべたかと思うと、踵を返して走り出した。沙月の屋敷に対して平行に、島の外側に向けて、脇道に入っていく。
一瞬反応の遅れたアキラはしかし、それ以上遅れることなくその後を追った。彼女が目指すのは島の、外。同じこの湖に浮かぶもう一つの島だ。
――咎狗の島。
街から見て、火螢の御島の奥にある、御島の半分もない小さな島だ。島の人間でさえ制限があり、多くのひとは入ることすら許されない。アキラでさえそこが見えるところまで連れて行ってもらったことがあるだけであり、中へ入ったことは一度もない。その島へ行くことができるのは、秋と犲衆だけだった。
鴻衆と犲衆はそれぞれ島の治安維持のために存在している。そして、御島の内部を主に仕切っているのは鴻衆のほうだ。実際高さのある御島では、翼のある彼らのほうが向いていることは言うまでもないのである。
では、犲衆だ。彼らは厳密には二つの組織に分かれている。表向きは鴻衆とともに御島の治安維持に関わっている大狗衆。そして、裏側。
御島でその命を終えたひとは、御島の中で葬られる。遺ったからだに魔力の残滓がある場合も少なくなく、死してなお悪用されることを、沙月は許さない。遺体は御島の裏側にある島へと埋葬される。そして誰も立ち入らせることなく、静かな眠りを与える場所――それが咎狗の島だった。
そして、そこの墓守をしているのが犲衆の片割れである咎狗衆であった。
ここ数年で生まれる犲衆の子どもの適正は咎狗衆ばかりだった。表の犲衆が人手不足なのは、つまり、そういうことだ。
御島からそちらへ渡るには主に船を使う。それも大抵咎狗の島側につけてあり、咎狗衆に船を出してもらわない限り、渡る術はない。秋は、まあ、あれは水の魔術師ゆえに、水面を渡るくらい造作もないようだった。
ともかく、今はあの赤髪の少女だ。あの子がどういうやり方で渡ろうとするにしろ、あそこに生きているのは咎狗衆だけだ。あの子の片割れが居ることはないし、そもそも入らせてはいけない。
アキラはとにかく走った。




