第四十三話 「さよならはいらなかった」
◇
翌朝、雑技団は団長不在に首を傾げながらも島をあとにした。
もともと何かの有事には団長不在であっても活動はやめないようにと言い含められていたのだろう。レイロットとユフィーナについては、この島に残ることになったとの噂が知らないうちに団員の中で飛び交っていたので、わざわざそれを訂正することもしなかった。
昨夜の地獄のような有様は被害にあった住民たちの記憶にはほとんど残っておらず、犲衆と鴻衆の迅速な行動のおかげで怪我人たちの回復も順調だ。
日が昇ってもあちこちを走り回った秋は、いつもの部屋へ戻ってきた。部屋の前に小さくなって座り込む白い少年――アキラ。秋に気付くと、おそるおそる立ち上がって、「あき」と呼ぶ。
「秋、あき、あの……」
「どうした、アキラ」
アキラはいくらか悩むそぶりを見せ、それに呼応するようにして両手が宙を泳ぐ。昨夜の激昂や恐る恐るながら白刃を振っていたアキラとはまるで別人だ。
しかし、見慣れたアキラでもある。
「あの、ね。秋、どうして、ここのところずっとここに帰ってこなかったの?」
必死に絞り出した問いはそんなものだった。アキラの目は真剣そのもので、よほどアキラを悩ませたのだと思う。
だから、答えは出来るだけ簡素に。簡潔に言おうと思えた。
「アキラはいろんなことに興味を持って、この島だけじゃもう足りないんじゃないかと思ったんだ。でも俺に気を遣いすぎているようにも思えたし、俺がいないなら帰ってこなくていいと思えるかな、と」
「え、っと」
「アキラにそのつもりがなかったみたいだけど、俺はアキラがここを出て雑技団でもっといろいろ見たいって言うならそれもいいとほんとうに思っていたんだ」
つまるところ、秋はアキラの未だ不明の正体のことやアキラの好奇心を思う存分発揮できる場所を提供したかったのだという。実際、レイロットは創造主だけあっていろんなことを知っていたし、いっそアキラの正体にさえ言及しようとしていたのでその判断は間違いではなかったのだろう。
「でも、ぼくは秋の役に立ちたいよ。秋、服の裾が破けても気にしないし、ごはんもあんまり食べないし……そういうの、この一ヵ月ですごくうまくなったんだから」
「……そうか、うん。アキラは優しいな。勝手なことして嫌な思いをさせた、ごめんな」
「うん、ぼくも、ごめんなさい」
そうして下げた頭を上げれば、それまでのうじうじとした悩みは消えてしまっていた。どちらからともなく吹き出し、笑って――
「ただいま、アキラ」
「うん、おかえり、秋」
◇
秋の調子が落ち着き、アキラとの仲直りを済ませたのと同じくらいの時刻。
島で一番大きな屋敷の、その中で一番大きな広間で湯気の立つ緑茶をちびちびと啜る、太陽色の髪の少年。衣服は特に纏っておらず、黛や紫紺といった細長い布を身体に巻きつけたのみだ。同じように目元も布で覆って隠してしまっているのに、お茶をこぼしてしまうこともない。
「それで? おまえはどうしてここにいるんだ、聖なる竜」
それは障子戸で遮られた窓の向こうにいる男に向けられていた。いつのまにか広場から姿を消していたくゆりだ。
くゆりは秋に話すよりずっと冷たく優しくない声音で「その名で呼ぶな」と低く唸ってみせる。
「竜は竜だろ、ばかなやつめ。大方いつもの文句だろう、秋をいじめるなとかなんとか。おまえも大変だねえ、名前も意義も忘れてなおもかつての主を想って心を砕かなければならないなんて」
「言いたいことはわかっているようだが言うぞ、私は。秋をこれ以上追いつめてなんになる、今回はおまえの大事な島の住民だって巻き込まれた」
「ううむ、けれどおまえに言われる筋合いはないなあ。ここは僕が作って僕が守る唯一の島だ。その中身を僕がどうしようと、僕の勝手だろう?」
「ばかはどいつだ」
網戸と障子戸越しの会話だが、くゆりがどれほど嫌そうな顔をしているのか容易に想像できてしまう。沙月としては秋をいじめているつもりは毛頭なく、事実自分の箱庭で何をしようとくすんだ竜ごときに言われる筋合いもない。
とはいえこのうるさい竜に付き合うのもいい暇つぶしだ。くゆりにとっては迷惑極まりないだろうが。
「壊れた太陽の魔眼よ、いくつか忠告をしてやろうか」
「おや、薄汚れた竜風情に何がわかるんだい? 未来予知は人魚の十八番だろう?」
「おまえこそその大それた目をさっさと捨てるんだな。いいか、おまえはいつのまにか勘違いしているが、この世界は秋のものだ。壊すも生かすも秋次第、おまえのものであるところなどどこにもない」
予言というよりは呪い染みた、どこか力の薄い言葉に思えるのは沙月が彼の言葉に重きを置いていないからだろう。
「そしてその勘違いは思わぬところでおまえの足を掬う。未来予知など私はしないが、私の語る言葉は秋の物語だ。それをよく、肝に銘じて覚悟しておけ」
沙月がろくに取り合わないことを知っているくゆりは言うだけ言って去ったようだった。障子戸の向こうに気配はなく、かすかに残る夏のにおいが風に揺られて部屋へと入る。
「秋の物語、ねえ。さて、どこまでほんとうなのやら」
くすんだ緑髪の竜に何を言われたところで沙月にはそう響かない。幼い風貌の彼は上機嫌に鼻歌など歌いながら、少しだけ残った緑茶を飲み干す。
「勘違いはそちらだ、失くし物ばかりの愚かな男」
鈴の鳴るような声。けれどその温度はどこまでも低く、どこまでも人の言葉のカタチをしていなかった。




