第四十一話 「月の魔眼」
さざめく音。秋の周囲に満ちる水の気配にキリギリスは息を呑む。
キリギリスが秋の魔術を間近に見たのはこの島に来てすぐ、殴ろうと部屋に押し入ったときのみだ。そのときは手の甲を焼かれた程度の対した魔術は使われなかったが、今はその比でないのが嫌でも分かる。
吸う空気ひとつ、質量を増している。水分が肺へ染み渡り、秋の魔力が体に浸透するのがわかって気持ちが悪い。水であるがゆえに、極めれば周囲への干渉をこんなにも可能にする。
なにより腹立たしいのは、吸う空気にすら清廉に水の気配が感じられすぎるというのにこれはキリギリスに向けられたものではない、ということ。
その水の気配が一心に向けられるのは雑技団のテントの方。
「……ほんとうは、黙ってアナタの前から去れたらよかったんですがね」
テントの中からぬっと現れたのは、黒髪の大男だ。高い背の所為で頭が入口の飾りを壊さないように前のめりだ。垂れた長い髪に隠れた表情は読めないけれど、声音はキリギリスが彼を最初に見た晩とあまりかわりないように思えた。
一方、アキラから見る蓮月はそれこそレイロットと同じだけ世話になった人物だ。彼がレイロットに引き合わせてくれたことを、今も忘れていない。
その蓮月が、今困ったような顔をして立っている。
「誰の命だ、ときいた。まさかおまえの独断じゃないだろ」
「さあ、結論を急がないでくれますか、秋。でも、そうですね……」
こてんと首を傾け、うーんと緊張感なく唸る。秋の質問をはぐらかそうとしているわけではなくてなんといえば悩んでいるようにも見える。
くるりと指を振り、軽やかな声音が緊張に満ちた空間を揺らす。
「ワタシは秋の友人であることに間違いはないですが、しかし。あるお方に命を与えられたといっても過言ではないのです」
「――それは、つまり」
「ええ、そのつまり。ワタシの心は既に沙月さまのものです、秋」
すぅと目が開かれる。まずは左目が露わになり、それは深い紺色をした夜の瞳だった。蓮月は盲目だと勝手に思っていたが、それは違った。
あれは先のレイロットと同じ目――月の魔眼だ。
「月の魔眼は太陽のと違っていろいろありますからね、ワタシのこれは世界のどこにいても因子を持つ者を見つける目です」
「それは知っている。それでおまえがサーカスをしてるんだからな」
「ええ、ではもうひとつ持たされていることも、秋はご存知でしたか?」
す、と左目が閉じ、右目が開かれようとする。どこにいても分かる魔眼は目の前にいれば関係ないだろう。しかしもうひとつのほうが――口ぶりからして、秋も知らない可能性の高い魔眼が見られた時点でだめというものであったら?
蓮月を凝視するアキラと翼人ふたりの前で着ていた服を最大限に広げて守ることにするキリギリス。蓮月の狙いは秋かもしれないが、終末の魔術師だ。そこはきっと上手くやるだろうと信じて放置だ。
しかし、蓮月は首を傾げた。
「……おかしい、なぜ、アナタにこの魔眼――効いていないのです?」
秋は微動出せず、蓮月が眉根を寄せて問う。秋は言葉での答えは出さず、まず手を前に突き出してみせた。
ぱしゃん、と空中に波紋が広がる。それでようやく皆の目にも視認できる、水の壁だ。透明度が高すぎ
る故に静なる場ではそこにあることも気付けない水の結界。
「魔眼ってのは直接見られたらだめなんだろ。太陽の魔眼はそんなことおかまいなしだけど――月の魔眼ならこの程度の障壁で十分だな」
腕を引っ込め、水紋は静かに消えて蓮月と秋の間の壁は再び見えなくなる。秋が簡単に腕を通しているあたり、物理障壁ではなくほんとうに視線を遮るためだけの壁と推測できる。
「その魔眼、何の能力を孕んでいる? レイロットの取り乱しようと生気のないユフィーナに関係があるんだろう」
「ないといえばウソになりますね。……もうひとつ、ワタシが与えられているのは入魂の力です」
「入魂、て、おまえ……沙月はそんなものをもたせて何を考えている!?」
入魂の力――読んで字の如く、仮の魂を入れて操る能力。
それは無器物であれ生物であれ人間であれ、上書きをして操ってしまう力だ。月の魔眼が劣化版であるとしても身に余りすぎる。探し集めて連れてくるために外を歩く雑技団の団長にはもっと役に立つものを持たされてもいいはずだ。
沙月は何を思ってそんなシロモノを持たせている、と秋は強い口調で問う。
「そんなもの、沙月が持っていることだっておかしいくらいの能力だ。無機物に与える魂だって不完全だというのに、こころある人に与えてしまえばそれはもう怪物だ!」
「おや、怪物なんてひどいことを言う。ユフィーナはそんなにも怪物染みていましたか?」
言外に、ユフィーナが魔眼によって動かされていたと語る蓮月。
うそだ、とこぼしたのはアキラだ。よく笑って、笛を吹く姿が美しくて、レイロットと楽しそうに過ごす彼女が他の誰かの手によって作られたモノであっていいはずがない。
「うそ、だ……ユフィーナさんが、蓮月さんに作られた、なんて……」
「いいえ、アキラ? そもあれはワタシに出会う以前に既に生前の姿ではなかったのですよ。ワタシはその抜け殻を使ったに過ぎません」
「え……?」
蓮月は目を細めて、心底憐れむように続ける。
「あれはね、もうとうの昔に壊れていた。その抜け殻を弟が未練たらしく抱えて、自分を慰めているに過ぎない人形でした」
物言わぬ姉。心を遠く昔に置き去りにして、生きることすら弟に世話してもらわなければならなくなった彼女。
そんな姉でも、愛しいに違いはなく、返事が無くても深く愛し続ける弟。
不毛で壊れたふたりに、一縷の光を――
「そう思って、与えたのですが、悪いことと断じられてしまうのでしょうか。――いえ、レイロットはそれを自分の歌が彼女に命を与えたと思ってしまったようですけれど。彼はそんなこと望んでいなかったのに」
それは、十分に悪いことだと思えた。
レイロットが深くユフィーナを想っていることと知っていたのなら、なおさらだ。彼女の身体に望まずして命が入ってしまったことが自分の歌が原因だと知ったとき、レイロットはきっと少なからず傷ついた。
姉さんの幸せな安寧を望む自分の心の奥底に、浅ましくも自分の思い通りになる姉さんを望んでしまう自分がいることは彼にとって許し難いことだろう。
「それは、レイロットさんを、ばかにして……だってレイロットさんは、そんなにもばかじゃない……ッ!」
溢れる涙が声を震わせて、アキラは嗚咽を漏らすように叫んだ。
誰かに愛の行き場を作ってもらわなくても彼は平気だった。そうして彼の一番愛するものを壊されたことが彼にとって一番の不幸だ。
彼は言った。歪な在り方が見ていられないから、壊すのだと。
気に喰わないから、創造主として責任を取りたいからではない。姉の幸せを突き落したからでもない。彼が、レイロット自身が秋を想っての行動だった。
だからこそ、アキラは思うのだ。レイロットがまがい物のユフィーナを望んだわけがない。
それに蓮月は言った。彼は望んでいなかったと。それが分かっていて、その余計な世話をやいたのだから。
「それは、間違ってたし、わるいことだ!」
「……ワタシは悲しいですね。ワタシはワタシなりに彼らの幸福を祈ったというのに」
吠えるアキラに、蓮月はさして怯みもせずに溜め息を吐いた。
アキラを相手にするつもりはないらしい蓮月は、秋に視線を戻す。無視された形になったアキラは反射的に駆け出そうとするも、キリギリスに止められる。
「ばっか、おまえ、終末の魔術師の壁を越えたら魔眼の餌食だぞ!?」
「そんなこと知るものか、レイロットさんが……ッ!」
「いいからやめておけってば!」
羽交い絞めにされてまだ進もうとするアキラの膂力はどうもその小さな体に似合わないものだ。踏ん張るキリギリスの足がずるずると引きずられる。
「若いっていいですね、秋。アナタ、あの子の何がいいんですか?」
「うるせえ、他になにか隠していることは?」
本当かどうかはわからないが、蓮月はそう突き放す。話す気があったとしても、これ以上の言葉はいらない。沙月に聞いてもどうせはぐらかされるだろうが、友と思っていたのは秋だけだった。それだけでもう、聞く価値は失われた。
そうか、と秋は頷く。
「アキラを笑うなよ、蓮月――もうなにもないなら、じゃあな。俺はおまえを友人だと思っていたかったよ」
――ざ、ぶ。
秋が掌が蓮月の方へ向けられて、そこから水が波となって溢れて蓮月を飲み込む。水は蓮月の身体を巻き上げる。ごぽ、と蓮月が空気を吐き出す。
そのまま丸い空へと打ち上げられて――
「命までは取らないけれど、今回はもう消えてくれ。団は無事に外に出してやる。できれば、もう顔は、見たくないよ」
それを最後の話にとし、蓮月をはらんだ水の球を島の外へ向けて放り出した。
あまりの圧倒さ。大男をまるまる包む水球を作り、花火のように打ち上げる大魔術。それでも命はとらないように加減をしている。汗の一つ、息の乱れ一つない終末の魔術師の鮮やかな手際に、アキラに関節技を決めたキリギリスは渇いた笑いを溢す。
「……次元が違ぇな」




