第三十七話 「アスに願うコト」
それから水が引いて、また新しく生活を始められるまでは長らくの時間を要した。それは永遠というほど長いものには感じなかったけれど、心を失くしたようにぼんやりし続ける姉さんのその状態を見るのは心が引き裂かれる思いだった。――当然、オレよりも姉さんのほうが悲しいし、つらいのだろうが。
水は世界の半分以上の陸地を沈め、そこに残った生き物は水に順応してまた新たな世界をつくりはじめた。
姉さんは幸せを掴むはずだった。
やっと、限りのある命として終わりのある幸せを得るはずだった。
この惨劇は引き起こした誰かがいることだけは、はっきり分かる。そしてそいつは翼人族がつくったヒトではないものだったことも、なんとなくわかった。
ヒトの世がヒトの手によって終わりを迎えるのならそれはそれでよかった。けれど、ヒトではないものの手による終わりは、認めたくなかった。
ぼんやりとする姉さん。姉さんと、姉さんの好きな人を両方抱えて飛べなかったオレが一番悪いことは分かっている。
それでも、オレは、その誰かへこの姉さんの悲しみを知ってもらわなくてはいけないと、思った。
「姉さん、姉さん」
「…………」
「姉さん、ごめんね」
その女に出会ったのは、ある、月のきれいな夜のこと。
白い月を背に、白い月のような秘めやかな女が贈り物をくれた。
「アキを、探しているのでしょう?」
アキ。アキ・シュラインリヴァ。その男が、この洪水を引き起こしたのだと女は言った。女も、今では終末の魔術師と呼ばれるその男を探しているようで、「わたしも同じなの」と美しく笑って見せた。
「それならふたつ、役に立つものをあげましょう。拾いものだから、ちゃんと使えるかはわからないけれど」
「それが、あればそいつに思い知らせてやれるんだね?」
「ええ、望むままに。ひとつは目よ、月の魔眼」
軽く握った右手をすっと前に出し、女は語る。
月の魔眼は、太陽の魔眼には劣るが、石化に長けた魔眼。そも太陽の魔眼はあらゆるすべての能力を携えたものであり、月の魔眼はそれらを分割したものの総称だという。
劣るとしても効き目は十分。頷けば、女はそれをオレの右目へ入れた。姉さんと同じ、赤の目の色が変わることは嫌だったけれど、気付かないふりをした。
「もうひとつは喉。あなたの憎い相手に呪いを歌う喉。呪いの題材はあなたが決められるわ、好きに歌うといい」
「うた……」
女は喉に白い指を立て、尖った爪で皮膚を裂いた。熱い感触が走り、呻く。あまり痛くはないが、そこから喉が作り変えられる感触がひどく気持ち悪い。
女はその移譲を終えて、ふらりと体を反転させる。レイロットには既に用はないらしく、足取り悪く歩いていく。
「ねえ」
思わず声を掛けた。その足がぼろぼろだったからだ。
女は裸足で、血がにじむどころではない。すでに皮は原型なくちぎれて、肉がでこぼこになるくらいだ。よく見れば露出した肌に擦り傷が埋めるようだ。
服もてきとうな布を被っただけ、なのに月のように思えたのは――彼女が、良く知った顔で心だったからだろう。
「おまえ、終末の魔術師をころすのか」
「ええ、ころすわ。すべてなかったことに、はじまりにもどすために」
女は、壊れた笑顔で言う。もう、ずっと前に壊れたのだろう。
だから自分の身体を捨てて、彼女とオレとの共通の友人の体まで奪う辺りまで来てしまった。その体の持ち主はもとはこんなにも淀んだ黒髪であるはずがない。奪われるときに何があったのか、推しはかれはしない。
だから聞かない。それが、体の持ち主にも中身の彼女にも、幸せなことだろうからだ。
ただ思ったのは。
壊れた友。壊れた姉さん。その誰にも終末の魔術師殺しなんてさせられない。
と、ひそやかな決意だ。
そのすぐあとくらいに、雑技団と出会う。
『沙月』という魔眼に派遣されているという蓮月という男が団長で、爪弾きにされている因子の持ち主を探しているのだという。オレと姉さんは別に因子を持つというより、はじまりの世界の存在だ。
「まあ、そう言わずに。お姉さんが回復するまで、いたらいいデスよ」
オレが眼帯の下に隠した魔眼と似た色の、瞳を薄く見せつけて歓迎の意を示された。見たところ、二つ目の生き残りだと思えた。
蓮月のいうとおり、姉さんはまだあまり回復したとは言えない。時折、思い出したように「レイロット」と呼ぶし、かつての男を呼ぶ。
雑技団の団員は、みな優しかった。自分たちがひどい扱いを受けたことが理由なのかもしれない。ぼんやりした姉さんによく世話をし、よく話しかけてくれた。無愛想と自覚のあるオレにも遠慮なく話しかけるし、『先輩』という存在はつよかった。
「レイロットくんはさあ、おねえさんがすごくだいじなんだねえ」
ヒトでいえば五つくらいの背丈の少女が、ある食事の席で何気なく言った。小さいのは背丈だけで、実年齢は百を超えているらしい彼女は皿に山盛りにした麺をマトトのソースをかけて頬張っている。
「そりゃ、今となっては一人きりの家族だからね」
「ううん、そうじゃなくてえ。だって甲斐甲斐しいもの。ユフィちゃんの身の周りの世話から食事に、水浴びもしてあげてるからぁ」
「……まあ、姉さん、今何もできないし」
「うんうん、抜け殻みたいだものねえ。でも、ほんとーになにもないの?」
姉さんは姉さんだ。いちばん、だれよりも姉さんを大切に愛しく思っているのはほんとうだけれど、姉さんとどうこうなりたい感情もない。姉さんの幸せをただ望むだけだ。――その幸せも、水に沈んだけれど。
姉さんのなめらかな褐色の肌に劣情を抱くことがないことでもない。白い髪、オレがつくるものに腕を通して、オレのつくったものをたべて、――オレ以外の誰かが姉さんを幸せにする。そう、それはオレでなくていい。
姉さんが幸せならそれがいい。それがいちばんいい。
誰も姉さんを幸せに出来ないのなら、オレがするというだけで。
「姉さんに、幸せになってほしいだけだよ」
「ふうん」
その少女はそれだけ言うと、食事の続きを始めた。
オレの歌も、存外扱いが難しいことを知った。繰り返し歌声を聴いた相手は一種の廃人状態になってしまうようで、その加減を覚えるのにひどく時間がかかった。幸い雑技団はいろんな町を渡り歩いたから、その先々で練習できる。
姉さんはというと、雑技団に来て数年経ち、すこしずつ笑うことを取り戻しつつある。会話も問題なくできるし、そうなれば団員と仲良くなるのは早かった。
雑技団で暮らす代わりに、ステージには立つ。姉さんが笛、オレが歌を歌って立とうというはなしだった。
姉さんはもう、歌を歌わない。あんなにもきれいで、聴き心地のいい歌だったのに、もう歌おうともしない。理由を問うのはあまりにも不躾で、姉さんの清らかな思い出に泥をつけてしまいそうで、聞けずに終わる。姉さんは、失くした彼の笛を抱きしめて、それを愛おしんで息を吹き込む。
そうして、数年が経った頃だ。
ようやく、この島へ来る機会が舞い降りてきた。
終末の魔術師は、案外幼い少年だった。
悪意を以て世界を滅ぼせるほど賢くもばかでもないことが目に見えて分かる。ふつうの少年なのだ、つまるところ。傷つけたことに罪悪感を抱えすぎて、でも心を壊してしまうほど弱くもなれなくている。
当然、やっと幸せになれそうだった姉さんの未来と希望を奪ったことを許すわけではない。不器用ではあったけど仲間想いだった友人と、ひとりきりで役目のために生き続けていた友人を壊したことも許せない。
友人たちの事情こそ知らないが、姉さんのことは知っている。
姉さんは自分のことを後回しにしがちだったけれど、ひとつだけ、ささやかな夢を持っていた。――誰かに愛されて、誰かを愛して、ヒトになること。
限りあるヒトに憧れ、焦がれて、そんな終わりある幸せを欲しがったのだ。
悠久を生きるほかなかったはじまりの民がようやく終わりを見つけられそうなのに、それをどうして否定できよう。
オレは、姉さんのそのささやかな夢を、叶えたかった。
――ただ。
この世界があまりにも出来が悪く、その創造主があまりにもろくてほとんど壊れかけなのにこんなに長らく続いてしまったことも、同じくらい許し難いと思えてしまった。
出来が悪いのは仕方がない。終末の魔術師はもともとそんな素質は無かったのに、事故と言っていい偶然の所為で心象にある世界を構築してしまった。
手は出さないと、ヒトが手を離れた時に誓った。しかし、今のこの世界は終末の魔術師ひとりの背に命運が圧し掛かり、彼がその重荷に耐えられなくなったときにすべて壊れてしまう。であれば、それはもうあるべき姿ではない。
島の住民どころか、世界中の人々が首に縄をかけられたまま生かされ続けているようなものだ。
そんな不自然、こんな不出来。
壊してやるのが、せめてもの温情というものだろうと思う。
世界なんてひとりが背負うものじゃあない。他人の命一つだって背負うにしたら重すぎて潰れるのだ。それなのに、終末の魔術師は十五、六歳の人の身でそれを成してしまっている。痛々しいと言わずになんと称そう?
なぜ誰も止めてやらなかった。なぜもうやめていいと言ってやらなかった?
彼を慕う聖なる竜が名前も意義もすべて失ってなお、あの子の傍にいてくれていることがせめてもの救いだ。竜がいれば彼がほんとうの意味で道をはずすことはない。
だけど――オレはその役目すらすべて、ないものにしよう。
もうみんな疲れただろうから。
かわいい、オレたちの子たち。
もう、苦しむことは、ないよ。




