第三十一話 「手荒い招待」
◇
島の様子がおかしい。
騒がしくて目を覚ましたが、おかしな歌が蔓延していた。歌というにはあまりにも覚束ないもので、歌詞を拾うのは困難だ。あるいは、秋自身がその歌詞を聴きたくないのかもしれない。
水に沈んだ町の、水に沈んだ教会の歌。
氷を食むより、火を飲むより、痛いこと。
そんな歌は溢れ返っている。おとぎ話として、そんな伝承があるから創作される話もたくさんある。わかっている。
――でも。
これを歌う誰かが、水に沈んだ世界の生き残りだったのなら?
それは秋を呪う歌に他ならない。相手が秋を知らなかったとしても、かつての世界から生き残る者でなくても呪いは秋に、牙を剥く。
舌打ちすらも打てず、秋は歌の出所を探す。この新しい世界に生まれた子ならば、大抵その心臓の音が空気に波紋を立てて秋にその居場所を伝える。だから、その音の大きな場所へ向かえばいい。
「とぉい、はァなしィ……!」
「くッ……、離せ!」
言葉は通じないようだ。怪我をさせないように最大限に気を遣い、手のひらから水球を生み出して鳩尾へ打ち込む。今掴みかかってきた獣人もそうだし、道中攻撃してきた住民たちは焦点の合わない目で歌を歌っている。その誰もかれもが傷だらけで、中には――というより、重傷を負う者しかいなかった。
まるで手加減を知らないこどもにされたように、規則性も急所を狙う器用さもない傷。痛みもわからないのか、とれかけの四肢でも徘徊を止めない。
こんな異常を通り越して狂気に満ちたのは、この御島でも初めてだ。
見たところ、洗脳を施されている。一度気絶させて途切れる類であればいいが、そう簡単な話でもなさそうなのが明らかだ。
「沙月を呼ぶしかなさそうだが……」
住民の安全を最優先にしたい。どうせ見えているくせに、沙月は頼みに行かなければ動かないのだ。
来た道を振り返る。動く屍と化した住民たちが溢れかえり、すれ違いざまにお互いを殺そうとしている。それしかできないのだろうが、見逃せない。右手を振り、荒いとは分かっているが、魔術で固めた水をぶつける。空中でいくつも枝分かれした水球が歌う口へ侵入、意識を落とす程度に酸素の供給を止める。
きりがない。御島は広く、秋ひとりですべての正気を取り戻させることは――すべて沈めてしまうほかには――できない。
この身が一つであることを恨む。引き返し、沙月を呼びに行くことにする。
走る途中で深く被っていたフードが脱げる。目先が見えない、近くの音が聞こえないのは良くないからあえてかぶり直すことはしなかった――が。
「――――――――――あ、あき、あきあきあきあきあきあきあきあきィッ!」
「はッ、あ、なんだ急に!」
秋の金髪を、秋の顔を視認した住民たちがそれまでの不規則性を百八十度変え、秋の名を連呼して押し寄せてきた。それは前から、後ろから、左右から、上から場所を選ばず。
咄嗟に自分の周りに水の壁を築き、飲み込まれることは防いだ。けれどそれも束の間。
「く、ぅ……ッ、やめろ、離せ!」
「あき」「あきあき」「あァ」「あ、きィ」「あきあきあきあきあきあき」
「おい、なんだ、なんだこれッ!」
人の波に押し流される。先ほどまで容赦なく殺そうとして来ていた住民たちが凶器を次々に捨て、歌も止めてひたすら秋の名を呟くばかりになった。道を開け、秋を押して通ろうとする――まるで、秋をどこかへ運ぶように。
すべて気を失わせればことは早い。一瞬でかたがつくが、際限なく集まってくる住人たちがそれを不可能にしていた。きりがない、数の勝利だ。
なにより、正気を失っているとしても、彼らは秋が守りたい島の住民だ。
終末の魔術師として名高い秋を、慕ってくれた。恨むものもそういただろう、命をつけ狙うものだっていた。でも、それがすべてではない。
秋の救いになってしまうくらい、――この島で幸せを掴んだひとたちなのだ。
それを無下に、乱暴に、ともすれば殺してしまいかねない扱いを、秋は躊躇ってしまう。何が何でも沙月の下へ行き、洗脳を解除してもらうのが一番と知ってなお、彼は優しすぎる。
ただでさえ小柄な秋だ。痛めない魔術で抵抗したところで自分より大きな住民の波には勝てず、転ぶ。するとそのまま足を引きずられ、腕を引っ張られ、運ばれる形となってしまった。一つ剥せば違う手が彼を掴み、ほぼ宙吊りの状態でひらけた場所へ放り出された。
「ああ、よく来てくれました、終末の魔術師」
「ッ、おまえは」
ひとりの男を囲むように、血塗れの住民たちが茫然と立っていた。刃物の刺さった生傷は血が噴き出すまま。折れた足で立ち。ひしゃげた顔でなおも歌を歌う、殊更に異様な地獄。
その中心で、美しく笑う白翼の男。深い赤の目と、痛ましい眼帯。褐色の肌には血のひとつもなく、繊細なレースで彩られた衣装に皺のひとつもなく。
男はこの中で唯一、血の赤を携えない存在だった。
「お待ちしてました。何しろこの舞台はあなたのために用意したもの。あなたという観客なくして完成しないのです」
「レイ、ロット……ッ」
かつんかつんと乾いたヒールの足音を響かせ、レイロットは秋へ歩み寄る。
レイロット。蓮月がこの数年のうちに仲間へ引き入れたという姉弟の弟だ。秋が話したのは彼が島に来た最初の夜、沙月へ顔を見せたそのときだけだ。
未だ秋とうわごとのように呼び続ける住民たちに地面へ押さえつけられ、身動きの取れない秋の顔の近くにしゃがみ込む。秋の顔に付いた返り血を指でぐいと掬い取った。
「――どうでした、あなたの大事な島の、大事なひとたちの血による化粧。お出迎えは」
そうして赤の付いた指を秋の眼前に見せつけ、凍るような笑みを突き付けた。
この男も。
終末の魔術師を恨む一人だと、自覚せざるを得なかった。
どろりと脳天から血が滴る。秋のそれではなく、押さえつけてくる住民のもの。傷口の位置や程度が分からないせいで水で強引に塞いでしまうこともできない。充満する鉄の匂いの中、男は言葉を紡ぐ。
「あなたはね、観客だから傷一つつけずにつれて来い、って命じたんだ。逆に言えばあなた以外はどうでもいいから殺せってことなんだけど」
「――――」
「あなたはきっとそれが一番堪えると思ったし――ああ、なんで、とあなたは訊かないんだね。なんでこんなひどいことを、って」
別段予想外でも、つまらないと言うでもなく、レイロットは小首を傾げる。
ひどいこと、だ。彼の言う通り、この惨状はあまりに地獄で秋を苦しめたいのなら最大の解だろう。だが、秋はそんなこと分かっている。
「訊かない。俺を憎く思うのなら、かつて俺がおまえを苦しめたんだろう。そして俺を狙うのならこれは当然の結果だ」
「……へえ」
知っている、これは当たり前だと秋は言い放つ。
秋が沈めてしまったかの世界で、苦しんだというのなら秋が抱える今の苦しさの比ではないと確信している。誰もが大切な人がいて、それを失う悲しみはきっと計り知れない。そういう苦しみの行き場はなく、秋がそのはけ口となるのは自明の理である。
「なら、オレがあんたを殺すと言ったら殺されてくれるのか? オレは身を切られるよりも痛い思いをあんたにさせられたんだから、それくらいの権利はあるのだろう?」
「それは聞けない相談だ。俺は確かにおまえに辛い思いをさせたんだろう、だけど今俺が死ねばこの世界が崩れる。それはこの世界を生きる命にとっちゃひどい話で――二の舞をするつもりもないんだ」
地に伏せったまま、秋は言う。レイロットは「だろうね」と呟き、すっと立ち上がる。
「そこは別にどうだっていいんだ。あんたの意志は関係ないからね。……だから、そうだなあ、まずはその住民たちをどう扱ったか、ネタばらしと行こうか」
「解いてくれる、ってわけではなさそうだな」
「それは当然。オレはサーカスに拾われる前にね、二つの贈り物をもらったんだ」
レイロットの語りが始まる。それはまるで歌のようになめらかで、詩のように味わい深いように思えて、ひどく聴き心地が良い。鼓膜から浸透し、体を満たしていく、その感覚に違和がなさすぎていっそ気持ち悪い。
耳をふさごうにも四肢のすべてを押さえつけられていて叶わない。
「ひとつは喉だ。あんたに呪いを歌うための喉。心の隙に歌を染み込ませて操るのはその副産物だ」
副産物であるならこの惨状は真価ではないということ。
染み込ませる、ということはおそらく準備に時間がかかるのだろう。副産物だけに時間がかかるのか、あるいは本来の能力にも時間がかかるのか。
後者は考えにくい。仕込む時間がいるというのなら彼の立場は打ってつけだ。たとえば雑技団としての舞台で披露し、客に繰り返し聴かせれば容易である。
何か仕掛けてくる。秋をわざわざ生かして連れてきたのだ。
「二つ目はこの目だ。ほんとうは姉さんと同じ、赤だったんだけど――」
レイロットは右目を覆う眼帯を取り払う。義眼でも怪我の痕跡があるわけでもなく、左目と同じきれいなかたちの瞼。長い睫毛を揺らし、そうっと瞳が明らかになる。
深い深い、濃紺の瞳。なにものも映さない水晶体は、圧倒的な魔力を孕んでいた。
「おまえ、それ。それは!」
「そう、さすがに気付くね。なんだっけ、太陽の魔眼? の傍仕えだけある」
秋が息を呑むのも当然、レイロットの右目を巣食うのは沙月に匹敵する魔眼だった。
――「魔眼というのはね、それ自体かなり不安定で繊細なんだ。あんな荒波、超えられたのは僕くらいのものだろうね」
狂った原因を語って聞かされた夜が思い起こされる。純性の魔眼はすでに沙月ひとりだと、沙月本人が言ったにも関わらず。
またも嘘を吐かれたか――いや、どうでもいい。沙月に匹敵する魔眼が開眼した、その視界に映ってしまったという時点でもうある種の詰みだ。
急ぎレイロットとの間に水の膜を張る。その隙に押さえつける住民たちを包む水の膜を張り、彼らを隠す。だが。
「遅いよ、終末の魔術師。魔眼なんてもの、見られた時点で終わりだ」
「―――――――――――あ」
意識が落ちる。視界ががつんと固定され、血液が冷えるのを感じる。肉が固まり、体内を巡る水に似た魔力が流れを止めていく。
周りの音が遠退く。色が抜けていく。意識が落ちる。
「さあ、オレの呪いをどうか、受け取ってくれ。その苦しさを、どうか思い知ってくれ」
またあの歌が。囁くように紡がれる言の葉たちが。ゆるやかに意識を食いつぶしていく――とおい、はなし。だれもしらない、あるゆめのひの、はなし。
深く水に突き落とされた意識が最後に聴いたのは、いつか拾った白刃の少年が呼ぶ、声――――
「秋――――ッ!」




