第三十話 「狂う島、狂わす歌」
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関係ない、というくせに今生のどの薬よりも心を落ち着かせてくれた音楽が、今なお耳の奥に残る。心地よく反響して、不思議なほど心の波が凪いでいる。
秋に会いに行こう。
アキラは震えの止まった手を握り締めて、決意する。秋はなぜここのところ家へ帰っていないのか、訊こうと思う。
忙しいのならば、秋の手伝いがしたい。
なにか困っているのなら、秋の力になりたい。
雑技団で学んだことも思えば秋の力になれるかもしれないから、あまさず吸収できたのだ。ずっと秋に一線を引かれたようで怖かったけれど、落ち着いて考えればなんのことはない。
軽い足取りで階段を上り、路地を抜けて島の内部へ戻る。秋はたぶん、下の方で仕事をしているだろう。そろそろ日は沈むし、秋は基本早起きだ。
手すりの傍まで出れば歌や楽器の音が響いて、今宵も長く熱い夜の幕開けを知らせている――なか。
ぎゃあ、と楽しい雰囲気に満ちた広場に似つかわしくない、声。
ざあっと血の気が引く音を聴いた。その声の異常性を、アキラは瞬時に認識した。悲鳴など珍しくもないが、光景はあまりに異常だった。
くるくると楽しそうに踊る住民たち。それぞれが酒に酔ったかのように恍惚とした顔をして、ふらふらと覚束ない足取りで――手に持った短剣を、針を、鈍器を。
すれ違う人すべてに振り下ろして、いた。
なのに血飛沫をあふれさせる側も、凶器を振り下ろした側も変わらずへらへらと笑っている。――――様に、歌を歌っている。
顔に飛んだぬめる赤を拭いながら。
――それは、とおい、はなし。
口の端にごぽと血泡を吹きながら。
――とおい、はなし。むかしのはなし。
皮一枚で繋がった腕を回しながら。
――ある小さな教会の、ある小さなゆめの日に。
折れた斧が脳髄に突き刺さっても。
――それはふったの、それはおちたの、それはきえたの。
――しっている? ねえ、しっていて?
一様に、聞き覚えのある歌を、歌っていた。
それこそ異常の原因。明らかな異常。だって悲鳴を上げながら、それでも歌うことをやめないから、悲鳴と歌が折り重なってひどい不協和音になっている。
あまりに地獄なその様子に、アキラは膝から力が抜けるのを感じた。
落ちてしまいそうになる腰にはすでに力が入らないから、懸命に手すりにしがみついた。一度座り込んでしまえばもう二度と立てなくなるように思えて、それだけはなんとしても避けたかった。
これはどういう状況だ? みんなよりも早く起きてテントを出てくるときには別段変わったこともなく、黒い男に音楽を奏でてもらったのだって小一時間程度だ。その小一時間に、一体何があった?
「あァ、こォりをは、はむよりィ、ひをのむよォり、それは、ア、いたいのッ」
広場を見下ろすことにばかり気を取られて、背後に気付かなかった。涎をだらだらと溢しながらふらふらと近づいてくる男に、声にならない悲鳴が上がる。おかしなほうに曲がった左腕を、骨がおかしな音をたてるのにも目をくれずにその男は持った鈍器をアキラに向かって振り下ろす。
「とおィイ、はァなしぃい……?」
「…………ッ!」
間一髪、顔を庇うように上げた腕から白刃が閃き、ガァンッという鈍い音を立てて鈍器を防ぐ。白刃は鈍器を粉々に破壊し、男は首を傾げながらも歌を歌い続ける。
しかし怯んだのは事実で、アキラはその一瞬を見逃すことなく駆け出した。
まずいまずいまずい。怖い怖い怖い怖い。
何があったのかはわからないが、島がこんなにも狂気に満ちたことなどこれまで一度もなかった。はやく知らせなければ。秋、秋に知らせなくては!
島で何かあったときに解決するのはたいてい秋だった。終末の魔術師だという彼に解決できないことはおよそなく、アキラに限らず鴻衆も犲衆も困った末にはいつだって秋に頼った。だからこの判断も間違いであるはずがない。
だが――
「あァ、あ、アぁ、あぁき、ィ……あき……ィ」
歌声に混ざって、そんな声があるのを知ってしまった。
なんでだか知らないが、歌と悲鳴としか口に出せなくなった島の住民が秋の名を呼んでいる。これを秋への信頼、わずかに残った理性が秋を呼んでいるととるべきか、アキラは悩まなかった。
これは違う。
これは秋に助けてもらいたくて呼んでいるのではない。助けてもらう以外のなにかのために、秋を探しているのだ。
ならば秋こそを呼んではいけない。だめだ、と走る足に歯止めがかかった。
しかし、すぐ背後には壊れた人形のように歌い続ける男が迫っている。その後ろにも似た事態に陥っている住民がまばらに続いており、アキラ一人で突破するのは難しい状況になっている。
時間が経てば、さらに悪化するだろう。何せ御島の道はひどく入り組んでいる。今しがた塞がれたこの道以外にも広場から上へあがる道はたくさんある。内部をほぼ踏破したアキラであるから、数時間先の惨状は推し測ってあまりある。
上の方でばさばさと羽ばたく音がする。たぶん、事態に気づいた鴻衆が終息に向けて動き始めたのだろう。犲衆も同様だろう。
――どうするべきか。秋を探すよりも、こころあたりを訪れた方がいい、と結論は得た。飛び降りるにも高さがありすぎるし、着地に失敗すれば笑えない。
考えている時間はない、まだ成長しきらない体躯のアキラだ。身を屈めて足元を縫って走れば行けないこともない。震える手足に力を込めて、タイミングを計り――飛び出そうとしたまさにその瞬間にアキラと歌うひとの間に着物を纏った人物が降り立った。
くすんだ翠緑の髪がゆるく靡く。立ち上がるその時に着物の裾から覗いた爬虫類の鱗に覆われた足。
「――うん、良い決意だ、少年。この私が広場へ降りる手伝いをしてやろう」
「あ、く……くゆり、さん?」
いかにも、と肩越しに振り返ったその青年は悪戯っぽく手を振ってみせた。
秋の友人だというくゆりだ。アキラはそう何度も言葉を交わしたことがないし、そもそもこの男が秋と話しているところをアキラは見たことがない。何を思って、こんな手助けを申し出ているのかは分からない、が。
「さあ、時間はあまりない。行くぜ、少年。ついてくるといい」
「えっ、あ、待ってください!」
何か疑問をぶつけるより、疑問が言葉として形を持つより早くくゆりは優雅に駆け出した。歌う彼らはくゆり目掛けてそれぞれ襲い掛かろうとする。狭い通路を埋め尽くすほどになったその群衆が持つ凶器は大小様々、振り下ろす時間すらばらばらで避けるなんてとてもとても無理だ。あの足元を走るなんて、ほぼ不可能な話だったのではないか。
くゆりはひとつの動揺もなく、携えた意匠の凝った杖を構え――振り回した。
ただの杖。先端に青い水晶体が付き、細い鎖の飾りが付いた長柄の杖。
それほどの耐久も威力もあるとは到底思えないその杖で、彼は文字通り薙ぎ払った。姿勢を低く足元を払うようにして、振り抜いただけで道が開く。壁へもたれかかって倒れる人、柵の向こうへ体勢を崩して落ちていく人すらいる。
「どうした、少年? 行かないのかい」
「い、今ひとが落ちました、そんな……」
「ああ、死にはしないさ。この程度で死ねるのならね、わざわざこんな島で閉鎖的で地獄のような暮らしはしていないよ、誰もかれも」
杖で肩をとんとんと叩きながら言うくゆりに、けれど警戒を抱かずにはいられない。そんな対応、秋ならば絶対にしないことだからなおさら。
けれどその警戒も続く言葉に、無駄だと溶かされた。
「安心しな、私は秋が嫌がることはしない。落ちた奴らもそこで伸びているやつらも死んじゃあない。――もっとも、私が関わらないところは知らんけどね」
そうだ。歌う彼らは何もアキラやくゆりだけを狙っているわけではない。お互いだろうと誰であろうと手に持った凶器を振り下ろしているのだ。事実、壁際で意識を失う彼らも尋常ではないほど血塗れで、どれも致命傷に近い。
くゆりを疑うよりも、することがある。この一瞬にも秋が危ないかもしれない。
「おまえごときが秋を心配するのも早いが……まあ、分かってもらえたようで何よりだ。心配なら笛を鳴らしておけ、鴻衆でも犲衆でも手が空いた方が回収に来てくれるだろうよ」
言われるまでもなく、首に下げた笛のどちらも口に含んで鳴らす。
歌と悲鳴が響く中、その中心目指して降りる。くゆりが先陣を切り、アキラはそのすぐ後ろへ続いた。
広場で大きく存在するテントの前――レイロットのいるところへ。




