第二十七話 「すれ違うきもちと流れこむ音」
今、部屋へ向かったことを確認したアキラが飛び出してきた。
揺らぎやすくて、しずみやすくて、わかりやすい波の音が今夜もひどく不安定だから自分のところに飛んでくるのだろうと分かった。
アキラは自分を探すのが上手いから放っておいても辿り着くだろうが、尋常ではない様子だから迎えにいってやったほうがよさそうだ。
掴みかかってくる酔っ払いを軽くいなし、倒れかけてくる腹目掛けて膝蹴りをかます。それで意識を失ったことを確認し、アキラのほうへ行こうとした。
けれど、アキラはこちらに向かってきてはいない。どうやら、雑技団の方に向かっているらしい。
――ああ、なんだ。そうか。
そうだ、それが目的でアキラを蓮月たちに会わせたんじゃないか。上手くいっているのなら、喜ばなければいけない。アキラが自分以外に興味を持ってあわよくば自分の正体でも探しに行けるのならそれがいいと。
アキラは知識欲もすごい。教えたことはなんでも覚えるし、そこからの応用も上手い。この狭い島の中では腐る才だ。
だから何も、不思議なことはない。
このままアキラが上手く馴染んで、興味を持って旅立つことに何も不服はない、ないのだ。
◇
翌日、起きてすぐに秋の部屋に帰った。秋がいると、当然に思って戸を開けた。立てつけが悪くてひどい音を立てるのも気にせず、勢いよく開けて、中に入った。
心配をかけた。これまでに帰らない日なんてなかったから。
心配をかけた。けれど秋の仕事を邪魔したくなかったから。
心配をかけた。だからまず、謝らないといけなかったから。
――――けれど。
「秋……?」
部屋は昨夜と変わらないまま、誰が帰った形跡もないまま。
秋は、いなかった。
◆
「アキラ、もう最後の演者が戻ってくるから急いで食べな。もう場所開けないと」
「は、い……ッ!」
「あらやだ、レイロット? ご飯はゆっくり食べないとだめなのよ? 急かしちゃだーめ」
「姉さん、姉さんも早く食べてくれると嬉しいよ、オレは」
既に出番を終えた演者は酒盛りを始めていて、今夜も飲み明かすつもりらしい。よくも毎日ああも騒いで、次の夜も完璧に客を魅了できるものだ。体調とか、悪くならないのだろうか。
ユフィーナはその席に誘われる様子は何度も見た。そのたびにレイロットが番犬が如く気づき、さっさと連れ出してしまうのだが。
レイロット自身はといえば、そもユフィーナといることが大半なので参加しているところは見ない。酒は飲むようだが、それは自分のテント内においてだけだ。それも嗜む程度くらいしか、アキラは見たことがない。
「姉さん、ほら、テント戻ろう。着替えたいだろ」
「そうね、水浴びはしたいわ。でも、混んでそうね。今日は特別暑かったから」
レイロットがユフィーナの手を引き、食堂を出て行く。半ば強引に二人のテントに居候することになったアキラだが、二人の仲の良さには未だに驚かされる一方だ。
彼女の身の回りの世話は大抵レイロットが行っている。着替えの手伝いから食事の世話まで、むしろユフィーナ自身がしていることの方が少ないような気さえする。彼女もそうされることが当たり前で、ごく自然に享受している。
「アキラも水浴びしておいで、着替えはこれね」
「はい、あの、ありがとうございま、す……」
ふたりはアキラの面倒もよく見てくれる。帰ったはずのアキラが戻って来て、「もっと手伝いをさせてください」と必死に頼み込んできたその日から。
秋はあの日以降、一度も部屋へ帰っていないようだった。すでに帰って寝ているような時間に行っても、あえて時間をずらそうとも部屋は変わりない。布団は敷いた形跡もないし、戸だって開けられてすらいない。
どうしようもなく落ち着かず、ひとりでいることに耐え切れなくなったあの夜を境に――秋は部屋に帰っていない。二度三度、夜が明けるまで部屋で待っていたこともあったが、しかしだ。朝になっても昼を過ぎても夜を迎えても、秋が戸を開けて入って来ることは、なかった。
秋は、アキラに会いたくないのではないか、と思うとそうでもない。夜見回りをする秋は会いに行けばいるし、いつもどおり話してくれる。ほとんど毎晩会いに行っている。昨夜も夜食を一緒に食べたのだ。
『レイロットの手伝いは、楽しいか、アキラ』
なんて聞かれて、うん、と頷いた。秋はよく雑技団での話を聞きたがった。
衣装の手直しを任されたといえば、アキラは器用だなあと頭を撫でてくれる。
賄作りも教えてもらって、簡単な手順で大雑把な料理なのにすごくおいしくなるのだと言えばアキラは何でも出来るようになるなと笑ってくれる。
だから秋には、たくさん雑技団での話をするようにしていた。なにか出来るようになって、それを褒められるのは嬉しかった。秋にもっと褒めてもらいたくて、もっとがんばるようになった。レイロットに何でも訊ね、訊いたことは一度で覚えた。気付けば、一月あまりが経っていて、雑用仕事のすべてを楽にこなせる程度にはなっていた。
秋が部屋に帰らないのはきっと忙しいからだと思うようにして、ただ雑技団が再び旅立ったあとに秋の役に立てるように、掃除であれ料理であれ裁縫であれなんでも。そう、なんでも吸収していた。
結局秋には、なぜ部屋へ帰らないのかは聞けないまま。
ふと、意識が浮上した。
レイロットもユフィーナもまだ寝ている。規則正しい寝息が二つ揃って聴こえる中、アキラはそうっと布団を抜け出した。
テントを出ても、寝静まっている。なんとはなしに広場を出て、テントから離れた遠くへ向かう。
階段をひとつふたつ、のぼる。二、三の坂をゆっくり歩んで、細道へ入る。
細道の脇にある部屋は相変わらずだ。ある部屋は戸が半壊して、中のいびきが駄々漏れだ。ある部屋からは胃袋を刺激する良い匂いがして、その向かいの部屋からは女性の甲高い声がする。
それらすべてを通り抜け、開けた場所に出る。水分を多く含んだ風が吹き上げ、頬を撫ぜる。もう、夏も暑い盛りを過ぎた。あと一月もしないうちに秋へと季節は変わるだろう。
階段をそうっと、降りていく。風に乗って鼓膜を震わせる音は知っている。
その主は、こちらに気付くことなく弾き続けていた。彼に会いに来たわけでもない。会えると思って来てはいない。来たら、いた。それだけだ。
なんと声を掛ければいいのか迷って、なにも掛けないことを選んだ。ただ、この音楽が聴いていたくて、自分に向けられたものではないと知っているからこそ、黙って聴くことにした。
階段の下で身を潜め、瞼を閉じて耳を澄ませる。誰かを呼ぶように、自分の存在を主張している。彼は、誰を探しているのだろう。探しに行きたくても行けないのか、行かないのかはわからない。
自分でもなぜかはわからなかった。これを聴いていると、ひどく心が安らぐ。聞いたのは一月前のあの一度だけだというのに、聴きなれたような安心感があった。事実、もう何度もここへ足を運んでいる。会えない日もあるが、真黒の男は結構な頻度で来ているらしく、そのほうが少ない。
話はしない。毎度悩むものの、結局一度も声を掛けたためしはない。皆が起き出す前には彼も帰るので、アキラもそのころテントへ戻る。
レイロットは言っていた。良き音楽はその奏で手の心象を相手に見せることが出来るのだと。
目を閉じれば――浮かぶのは静かな森。
誰の気配もしない、けれど寂しさとは程遠い、安堵に満ちた気持ちになる森。
彼が生きた場所だろうか。彼の主だった者の故郷だろうか。アキラには推測することしかできないが、彼にとって大切な場所であったことは変わりない。けれど、彼にとって大切であった人の影はなぜか見当たらない。
ああ、だから、彼は探しているのだ。自分はここにいると、あなたを今も待っている、探している、と――――
「やっぱりおまえか、また聴いてやがったな?」
「……あ」
見つかった。
物音は立てていない。この口ぶり、ずっと気付かれていたということか。
黒い男は呆れ顔だ。隠れるならもっとうまく隠れろとか、それで隠れているつもりなのか、とかそんなことを言いたげな顔。
「聴くなら堂々と聴けよ。隠れる客まで気遣えねえよ、むしろ気が散るんだよ」
「ぼく以外の誰かに贈る曲みたいだから……堂々とは、ちょっと、あの」
できない。むしろ気付いていながら今まで放置されていたことの方が信じられない。理不尽に怒りをまき散らすようなやつでないことはなんとなく知っていることを差し引いても、やはり堂々とは聴けない、というのが本音だ。
堂々と聴くには重すぎるし、支えきれない。
「まあ、おまえに宛てた曲じゃあないのは確かだがな? しかしおまえ、コッソリ聴かれんのも気分よかねえんだわ」
頬の肉をぐいっと掴まれて、左右に引っ張られる。いたい。
真黒の男が「わかったな?」と頬の肉を上下に振りながら訊ねるものだから、頷くしかない。頷いてさらに頬が痛い。「分かればよろしい」と離されたが、ひりひりいたい。まだつねられているような感覚だ。
「よし、じゃあおまえ、名前は?」
「えっ」
「え? じゃねえよ。おまえに弾いてやるって言ってんだ。あれはエマのための曲だからおまえにはもう聴かせてやらん、別の曲だ。そのために宛名が要るだろう?」
それなら堂々と聴けるだろうと言わんばかりに名前の催促をする黒男。
呆けるアキラが「あ、……あき、ら」と告げると歯並びの良さが分かる笑みを浮かべて、「いいだろう」と弓の先をアキラの眼前に突きつけた。笑顔が、なんというか凶悪だ。
「ガキは素直が一番だぜ、下手に考えすぎたってろくな答えが出ないんだからよ。おまえ、なんか悩み抱えてんな? 言ってみろ、ほれ」
「な、なやみ……?」
「なんかあるだろ? 最初に来た時だって心細そうな顔しやがって、ばればれなんだよ」
悩み、としていいのか。秋のことだ。秋が部屋に戻らない、何にも変わらず話してくれるのに、なぜか部屋に戻らない。それが不可解なこと。
最初の時であるというなら、秋が沙月のもとに行っていて寂しかった。
「あき……ぼくの面倒を見てくれる人が、最近……あの、ぼくが雑技団の手伝いに行きはじめてから、帰ってこなくて」
「ほう」
「刃の調節もうまく出来ないから……いつも、そのままひとりになるんじゃないかって、こわい……とか」
黒の男はうんうんと大仰に頷いて見せ――くるくると指先で回してた弓をびしっと再びアキラの眼前に突きつける。
「だが、そんなものおれは知らん!」
「えっ」
「おれはおまえの悩みなんかまったく興味ないが、今から吹っ飛ばしてやろう! いいな? 覚悟して聴けよ」
高らかに宣言し、自信に満ち溢れた顔をして、弦楽器を構える。訊いたくせにと眉根を寄せる間もなく――
ふっと急に静かになったあたりに息を呑む。彼の、彼だけの舞台になったかのような静けさ。かすかな気配や風が水面を滑る音すら遠退き、演奏者の彼と彼の聴き手たるアキラの二人しかいない。
――息が、止まる、うつくしさ。
楽器を構え、身体をゆるゆる揺らしながら音を生み出していくその姿。誰かに向けられた、ではなく、アキラに向けられた音楽。
それは、それは確かに心に凝った不安を取り除くにふさわしい音だった。




