第十七話 「苦しいきもちの行き場」
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あの鋏をあの程度で振り切れるとは思えない。たぶんあれは自分よりも長らく存在する精霊器で、経験値も圧倒的に上だ。いろんな精霊器との関わりもありそうだし、つまるところ、あれが足止めにはならないだろうという判断におそらく間違いはない。
だから、足止めにならなくてもいい。終末の魔術師を一目見て、一発ぶん殴ってやれる時間さえあれば、それでよかった。この燻る憎しみに決着をつけずに、エマ以外の主を定めることは考えたくもない。考えるまでもない。考えられないのだ。
エマ。愛しい愛しい、唯一人の主。
精霊器は名前と器を与えられて、初めて完全となる。魔術師たちは名前と形のないものと契約はできないらしいのだ。だから、世界の一部という形も名前もあやふやなものにまず名前を与えて個を確立し、器に落として使役する。
一度呼び出され、器に定着すれば、あとは名前がなくなっても形は残る。残った形に新たに名前を与えれば、再び精霊器として使役することは可能だ。
名前は――つけた主との契約がなくなれば、それを名前と認識できなくなる。亡くした名前は、二度と取り戻すことはできない。破棄された名前はありとあらゆる凡百の言葉へと成り下がってしまう。
それを唐突に思い知らされ、その膨大な言葉の中のどれが自分のエマがくれた名前だったのか思い出せない自分に腹が立つ。心底嫌で、悲しくて、悔しくて、そのすべてが憎悪へと堕ちた。
世界なんて呪ったところでなんの意味もないことは知っている。世界なんていうのはいつだって『全体の幸福』のために回っている。切り離された欠片ごときの呪詛など届くはずもなく、切り離されてしまったら世界を回す権限すらなくなるのだ。
それが自分に呪いの矛先を向けた理由であり、終末の魔術師をひどく恨んだ理由でもあった。
キリギリスは思う。
あんな話を、終末の魔術師もひどい話の被害者だったのだという話を。聞いたからにはなにも言えなくなってしまう。そんなものは関係ないと、それでも沈めたその本人はおまえだろうと叫んでしまえればよかった。なぜか、それができそうにない。そんなところで踏み止まってしまう理性など残っていなくてよかった。
舌打ちをする。胃が冷え、ふつふつと痛いくらいの感情を持て余している。
言ったところで、あの話を聞いてしまった今にはどうにもならないだろうが。
「――ッおい、そっちはだめだ、客がいる!」
背後から鋏の声がするが、水の気配のする部屋はもうすぐそこだ。近づくに連れて、あのときの記憶と目覚めたときの絶望が沸き立ち、足が速まる。
ここだ。ほかの部屋とは違う、四季の花が描かれた襖の部屋。
隠し切れない水の匂いに、しっとりと肌を濡らすような気配。襖越しでも圧倒的な存在感だ。冷える指先をかけ、すぱあんと襖を開け放つ。
角灯と、小柄な金髪の少年を見止めた。想像よりもずっと幼い顔立ちが、いつかの魔術師と重なり、思いに堰が立てられるのを防ぐように、声を張る。
「おまえ――ッ」
角灯がわずかに震えたのが分かった。魔術師は驚きのひとつも顔に出していない。冴え冴えと冷たい双眸だけが事務的に精霊器の顔を映した。
「おまえのその力、覚えがある」
少年の胸倉を掴む。少年の踵がわずかに浮き、首が絞まった。それでも少年は表情ひとつ変えず、ただ目だけは逸らさない。その何の動揺もない姿に、さきの沈めた話はだまされたのではないと思ってしまった。
「その水の気配、世界を沈めたあの水と同じだ。俺の、エマを殺した――」
拳と言葉に熱がこもり、今にも暴発しそうな精霊器を止めたのは、さらなる熱だった。
胸座を掴んだ手に、少年がそっと手を添える。静かに、どこからともなく現れた水が滴る。ぱたた、と。肌に落ちると、じゅッと肌を灼く。肌が溶け、湯気が立ち上り、次いで痛みが襲った。
魔術だ。水の魔術師の名は伊達ではない。呪文のひとつもなく発動できるというのは、それだけでもう才能だ。魔術は、形のないものに干渉し、具体的な方向性を持たせて発動する。言ってしまえば強く想像したものを現実へと映すだけのものだが、なにぶん、凄まじい想像力とそれを歪めない精神力が要る。
そしてそれができるのは極わずかで、出来ない人々が考えたのが呪文だ。
無論世界をひとつ滅ぼすのなら、呪文破棄など出来て当然。欠片も警戒せずに近づいた精霊器が悪い。
「――悪い。おまえのエマがどんなやつだったか、俺は知らない」
「いッ――なに、しやがる」
何も映していない虚ろな瞳、何も乗らない声音、色の抜けた顔。そのすべてが肌を灼く熱を忘れさせた。当事者だとかそうではないとか、そんなものはすでに関係なくなった。理屈がどうとかではない。この男に何をぶつけて何も得るものはない。男の心が、ここにないことを知ってしまった。
だって、被害者なんて信じられない。きっとこの男が自分への救いのために考えた話をメグムに吹き込んだのだ。でなければ、こんなにも冷たい目をできるものか。
エマ、エマ。愛しいエマ。おまえがいない世界なんぞいる価値はなく、ましておまえを失った今、失うものなど何も持っていない。ここで何をどうしてこの身が消えてしまうことを厭えるのか。
精霊器が精霊器を以ってしか壊せないことは知っている。あの洪水で見事に精霊器が残ったことを見ても、彼の魔術は精霊器には及ばないことを示している。ならばなおのこと、怖がることは何もない。
終末の魔術師だろうと知ったことか。刺し違えてでもこの憎悪に報いなければならない――
「すまん、秋の旦那。こいつ、来たばかりでな。ほんとうにすまん」
ぴんと弦を張った弓に右手を変貌させる前に邪魔が入った。自分と終末の魔術師の間に飛び込んできた鋏は腕を力強く引き、部屋の外へ連れ出した。乱暴に精霊器を放り出すのと反対の手ですばやく襖を閉める。
だが、体格差は歴然だ。ここへ来て引けはしない。今引いてしまえば、二度とあの魔術師の前に立つことは叶わないだろう。体勢を立て直して、その首を貰い受けなければ。
頭に血が上っていることなど自覚出来ていなかった黒の精霊器は、イノリが鋏であることを忘れていた。
「おいたが過ぎるぜ、精霊器」
いつの間に取り出したのか、銀鋏がしゃきんと耳元で鳴る。とたん、踏み出したはずの足は体を支えることなくくずおれ、同時に視界が真っ暗になった。




