第十二話 「わからなくていい、そばにいられたら」
翌日は鴻衆の詰所の隣にある診療所を訪れた。アキラが刺してしまった男たちは思いの外ぴんぴんしていた。どうも新顔を見てからかってやるつもりが誤算があったようだ。口と顔が悪いだけのやつらであり、アキラの謝罪もからからと笑って流した。
鴻衆の頭領にもアキラを見せた。曰く、「強そうでいいじゃないか、男の子はそうでなくちゃあな」とあっけらかんと笑っていた。その日はそこで飯を食い、秋は頭領の酒に付き合わされた。
犲衆にも顔を出した。犲衆は鴻衆と並んで島の治安維持に尽力している。鉄という狼面の男が非番だというのに仕事が終わらないと嘆き、苛立っていた。犲衆は鴻衆に比べ、雑務が多いため、参謀の彼はずいぶん苦労している。忙しない鉄とは反対に、仕事らしい仕事をまったくしたがらない犲衆の筆頭は、その日も詰所にはいなかった。
アキラの正体を探る時間の合間に、アキラはよくよく知りたがった。島の成り立ち、文字の読み方、計算の仕方。あの夜以降、秋の昔話をきくことはなかったが、そうした知識に対してアキラは貪欲だった。
秋はいろいろなことに詳しかったし、それを噛み砕いて教えることも得意だった。アキラは一度言えば覚えたし、秋もアキラの貪欲さを受け入れられるほど気長だった。故に秋はよい先生であったし、アキラもよい生徒であった。
「秋、螢守ってなあに」
島の話をしているときだったか、そんな質問が出た。
「螢守か」
「うん」
螢守は、実質秋のことを示す言葉だった。
火螢の御島において、唯一絶対の規則、沙月。沙月は十数年で代替わりするが、その特殊な目の力によって記憶は受け継がれる。その雑務を引き受けるのは秋であり、面白がった沙月が螢守などと名前をつけてしまったことが始まりだ。当然のことながら秋しかおらず、後々誰かに引き継がれる予定もない。
名前だけが立派な、それだけのものだ、と伝えた。
ふうんと頷き、アキラは少し残念そうにした。
そうしてアキラの知識は徐々に増えていった。しかし、アキラの正体は依然として分からないままだった。七日も経つ頃には賑わう島の夜にも慣れ、尋ねる人を増やした。しかし、そもかつての世界を知る者こそ少なく、秋にわからないものを知る人などいないに等しかった。
アキラの正体は分からないまま、時は過ぎる。アキラの記憶も戻ることはなく、秋の教えた知識で上書きされていってしまった。
「アキラ」
幾月と経ち、呼び慣れ、呼ばれ慣れた仮の名前は、ほんとうの名前となりつつあった。アキラは「なに」と返事する。
「おまえの正体、力の源、見つけてやれなくて、悪い」
限られた島の中で探すのはどうしても限界がある。まして、ここにいる者はほぼ新しい世界に生まれたもの。沙月が口を閉ざし、秋にもわからない以上、ほんとうは探せる手などなかったのだ。
三月を過ぎる頃には、アキラでさえ察していた。それでも根気強く秋は島の人々をあたった。何か、この島へ来る前に、知ったことがあるひとがいるかもしれない。
結果として、アキラの正体は分からずじまいであるが、秋が謝ることではないと思った。
季節を三つだか四つだか、秋と生活してきた。記憶や自分の力のことは、まあ、どうでもよくはないが、それでも秋と生活することは嫌ではなかった。もし正体がわかって、ここがそうした異形の島であることは知っているけれど、もしもここにはいられない部類の遺産だとしたら、と考えて眠れなくなることもあった。だからいいのだ。わからないなら、わからないままで。
それを聞いた秋は、少し笑って、「そうか」と一言だけくれた。
「結局君の正体は分からないままだったのかい」
秋が居眠りをする間、窓の淵に腰を掛けて風にあたっている時だった。薄い緑のような、だが沈みかける陽光のせいで抜けるような水色の髪の男だった。白い羽毛の外套を羽織り、窓の横に取り付けられた梯子の途切れた一番上に、腰かけていた。あんなところ。人が座るような場所ではない。錆びついていて、隣の部屋の住人も秋も、あまり使おうとしないのに。
「だれ」
「だれ、だれか。いや、仕方ない。ここ幾月かは秋にも会っていないからね」
その男は人懐こい笑顔を浮かべている。よくよく見れば、着物の裾から覗く足には鱗がついていた。獣人、だろうか。
「私はくゆり。秋の友人だよ」
「くゆり」
「おや、聞き覚えもないのか。秋は私の話もしなかったか」
どうだったか。くゆり、くゆり。秋はしていただろうか。あまり話題に上らなかったような気がする。くゆり。ああ、そうだ。思い出した。一度、訪ねてみようといっていた。秋にとっても不可思議な奴で、何か知っているとしたらそいつだろうと。けれど、終ぞ会うことは適わなかったのだ。秋は「あいつは会いたくないときには軽く現れるし、会いたいときには全く会えない」と言って半ば諦めていた。しかし、今会えたのなら。
訊くのは怖い。それは相も変わらない。正体なんてわからなくても、秋は一度だって出て行けなど言ったことはないのだ。
しかし、逡巡している間に、先を越されてしまった。「さあて。私が言えることはないな」
「ないの」
「ああ、ない」
だんだんと濃い橙色が黒へと変わっていく。くゆりは器用に立てた膝に頬杖をつき、アキラのほうを見遣る。緋色の瞳が、今しがたまでの夕焼けのようだ。
「さて、少年――いや、白といったね。秋のそばは心地がいいだろう」
「――」
「怖いと思うことも、なにもないだろう。あれはこの世界でいちばんだからね。どうだい、無意識のうちに刃を出してしまうことも減っただろう」
見透かすように、くゆりは目を細める。その鋭さに、身構えた。
覚えがあった。秋のそばは、確かに怖くない。島にいる何もかも、自分以外のすべてが怖かったあの頃の感覚はなにも残っていない。言われて気づいたが、ここのところは刃を出してすらいない。驚くこともなくなった。
思えば。
思えば最初からだ。あの黒い装束のひとたちも、島にいるひとたちもみんな怖かったのに、秋だけはそんなことなかった。秋を見た瞬間、――ああ、もう大丈夫だと、思った。
それがなぜかはわからない。だが、あれは確かに安堵だった。
「どうしてか、知ってるの」
「さあ。知っていたとしても、今君に教えてやる義理はないなあ」
思わせぶりに言っておいて、くゆりははぐらかした。そうして、笑う。大きく息を吐いて、笑った。
「だが、勘違いしちゃあいけない。あれは、もうどの話の主人公でもない。成り得ない。あれの話は六百年も昔に終わっている。今この世界に主人公なんていやしない。――いるのは記録者と語り部だけだ」
何の話だ、と尋ねる。記録者。語り部。なんのことだ。
「わからないか。だろうなあ。まあいい、そんなものは自分で見つけるものだ」
「どういうこと」
「さてね。さあ、秋が起きるぞ。今私と話したことは内緒だ。秋は優しいから、きっと傷ついてしまう」
あたりはすっかり暗い。提灯や蝋燭に火が点き始める頃合だ。背後で秋が身を起こす気配がした。「アキラ?」誰か来たのか、と寝ぼけた声だ。
「ううん、誰も」
「そうか」
今一度窓の外を見ると、すでにくゆりの姿はなかった。




