幸多き日々と選択を
子猫と少女に会うことが、俺の日課だ。
住宅街から少し外れた神社。鳥居と社だけがあり、誰が管理しているのかもわからず、放置されているとしか思えないような――そんな人足遠のく、寂れた場所に注ぐ春の木漏れ日の下に、彼女たちは今日もいる。
「おじさん! どーも、お勤めご苦労さまです」
「おはようございます、だ。ところで、何回も言うようだけど、俺はおじさんって年じゃないよ」
朝の挨拶を正して、脱力した笑みを浮かべる。屈託のない笑顔を向けられても、そこは認められない。
「えー、おじさんは会社勤めの方なんですから、ご苦労さまが普通なのでは?」
「突っ込んで欲しいのはそっちじゃないよ。それにご苦労さまってのは、目上の人に対してはだな……あぁ、もういいや。挨拶できるだけ立派だよ、君は」
中学生に今から社会一般のマナーを説くのも酷だろうと、さっさと話題を切り上げる。片手に持ったコンビニ袋を軽く持ち上げて揺すってみせると、少女のそばで伏せていた子猫がピンと耳を起こして立ち上がった。
「ご飯だー。クロジロウ、朝ご飯が来たぞ。崇め、奉るのだ」
「言っとくけど、君の分はないからな」
足下でしゃがみ込み、両手を合わせて拝む真似をする名も知らぬ少女。彼女の傍らでは黒い子猫が俺(の持っているコンビニ袋)を見上げ、か弱い声を振り絞って盛んに鳴いている。
「はいはい、ちょっと待てな」
俺のご飯係も板についてきたものだと、少しばかりもの悲しい思いを抱きながら、行き掛けにコンビニで買ってきた猫缶を開けて地面に差し出す。
妙ちくりんな名前をつけられた子猫様は、もう俺へは目もくれずに必死で餌にがっつき、その様子を少女が嬉しそうに見守る。
これが、ここ二週間ばかりの、俺の通勤前の一時なのだった。
「おじさん、明日も来てくれる?」
「気が向いたらな。君も、ちゃんと学校に行けよ」
「ラジャー」
朝の挨拶と同じように、敬礼の真似事をして少女が朗らかに笑う。子猫様が餌を食べ終わるのを待たず、立ち話もそこそこに俺は通勤路へと戻るのだった。
はてさて……なんで、こんなことをやってんだろうなぁ。
***
人生というのは、選択の連続だ。
日々は選択の積み重ね。
もっともらしく言ってはみるけれど、至極当たり前のことだ。
例えば今朝、スマホの目覚ましが鳴ったときに一回で起きられたかどうか、とか。
たった一分、家を出るのが遅れただけで、いつもの通勤電車に間に合わなくなるかも知れない。慌てていたために、曲がり角を確認せずに飛び出して事故に遭う――なんてことになったりするかも。
もしも。たられば。可能性を語れば尽きることはなく、あのときこの選択をしたからこそ、実際にそうなっていないとは言い切れない。今はもう選べない過去の可能性たち。
大袈裟な言い方をすれば、それらの取捨選択をしてきたからこそ、今の自分がいるとも言えるのではないだろうか。
……まあ、本気でこんなことを考えているわけではない。こんなのは、ただの暇つぶしの思考遊びだ。
通勤途中のコンビニで、憐れな子猫のために猫缶を買って行ってやるのも、そうした日々の選択の一つなのである。
別に、思い立って人生の徳を積もうとしているわけではない。ましてや、いい人ぶって、子猫を気に掛けている女子中学生に粉をかけようってわけでもない。
このご時世、毎朝少女と近所の子猫に餌を与えている成人男性がいるって、事案になりかねないだろう。
徳を積むどころか、罪を犯すことになりかねない。社会生命が終わる。
第一に、野良の子猫に餌を与えることが徳を積むことになるという考え事態が独善的だ。猫がいつくことで迷惑に思う近隣住民だっているだろうし、全人類が猫好きってわけでもない。
だからこれは、良いも悪いもなく、俺が好きでやっていることでしかない。
そしてきっと、明日も同じ選択をすることになる。
鮨詰めの電車の中で、早くも明日のことを考えている自分に失笑を禁じ得ない。これでは本当に、いたいけな少女に粉をかけようと疑われても言い逃れはできないのではなかろうか。
日々は選択の積み重ね――しかし、漫然と過ごすだけの日々に、選択など果たしてあるのだろうか。
自分で決めたように思っているだけで、その実、最初から選択の余地などないだけで、選ばされただけの道かもしれないのに。
***
子猫を見つけたのは、たまたまだった。休日に何もすることがなく、少しは運動でもするかという気まぐれのもと、近所を散歩していたのが事の始まり。
この土地に来たのは転勤だった。都心から見知らぬ地方へ。一年もすれば戻れるだろうと言われて、早五年は経っただろうか。
別段仕事が上手くいっていなかったわけじゃない。適度に仕事をこなし、適度に上司、同僚、部下とも付き合う平々凡々たる社会の歯車として勤めてきたつもりだ。転勤は、たまたま白羽の矢が立ったという他ない。
あえて要因を探すとしたら、俺があまりそうした話にも抵抗なく受け入れてくれる、流され易い性格だろうと思われたってことかもしれないな。
事実、会社の命令だ。拒否する事もできなかったし、これも選択の余地がないというやつだ。どうしようもない。
実家からも遠のいてしまったため、もう何年も帰っていない。地元には恋人もいたが、遠距離恋愛が堪えられないとか何とかいう理由で喧嘩をして、先日、とうとう別れ話にまで発展してしまった。
もしもあのとき、会社を辞める覚悟で転勤を断っていたら、と思うこともなくはないが、それも思考遊びの域を出ない。仮に新しい就職先が見つからなければ、今以上に酷いことになっていたのだろうし。
いや、あくまで酷いというのは言葉の綾で、相対的な評価でしかないけれど。
ともあれ、転勤先で親しい知人がいるはずもなく、人との関わりが年々減少していった感は否めない。必然、日々を漫然とルーチンワークのようにこなす事が増えていくのだった。
だから、このたまたまの散歩も、「何か面白いことでもないかな」という漠然とした思いに基づいて起こした行動だったのかもしれない。
『休日に近所を散歩する』という選択をした。
これがフィクションなら、トラックにはねられて別の世界に生まれ変わる展開になったりするのかもしれないが、現実にそんな事はありえない。
だが、事件は起こった。
真っ昼間だが、それこそ前方不注意で事故が起きてもおかしくはない程に、住宅街に人通りはない。更に外れた神社なのだから尚更だった。
だからこそ、その音が聞こえたとも言えた。
パン、パン、と断続的に鳴る乾いた音と、か細くも必死さが滲み出ている子猫の声が。
「おい、何やってんだ」
鳥居の前まで小走りで進んだ俺は、視界に捉えた後ろ姿へと強めに声をかけた。
細身の青年だった。振り向いて、陰湿そうな目で俺を睨み返してくる。高校生か、大学生か? 何にしても、やって善いことと悪いことの区別がつきませんって言い訳ができる年齢ではなさそうだった。
「なんすか、おっさん」
「……その玩具で何をしてたんだ?」
値踏みするように俺を見てから、そいつは面倒くさそうに口を開いた。なるべく穏便に、だが舐められぬよう毅然とした態度で問い質す。
青年が手にしていたのはエアガンだった。そして、彼の背後の茂みからは、姿は見えないが子猫の鳴き声がはっきりと聞こえている。
「別に何も」
「本当に? 猫の鳴き声以外にも、音が聞こえたような気がするんだけど」
「……っ、だから?」
嘘つけ、と喧嘩腰には言わなかったが、俺の追及に青年は嫌そうに舌打ちして目を逸らした。目だけではなく、態度からして口で言わなくてもクロだとわかる。
「遊ぶのはいいが、そういうのは場所を選んだ方がいいぞ。猫が怯えてる」
神社は好き勝手に弾をばらまいていい場所でもないだろうと、それとなく忠告してみる。話が通じたのかは分からないが、これみよがしに溜息を吐き出した青年は動きを見せた。
「関係ないだろ、クソが」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量だった。すれ違いざまに、ぼそりと呟きを残して、そいつは去って行ったのだった。
「…………はぁ」
反省の色はまったくないようだが、言い争いにならなくて良かったと言うべきか。
まったくもって心臓に悪い。こんなことなら家に引きこもっていた方がマシだったと思いつつ、子猫は無事かと気を向けようとしたときだ。
俺の脇を小柄な影が、疾風のように駆け抜けていたのだ。呆気にとられて棒立ちになる俺の視界にはもう、猫の鳴き声がする茂みの前で屈む制服姿の少女が映っていた。
「もう大丈夫。怖い人はどっかに行ったよ。出ておいで」
何だか良いところを横合いからかっさらわれたような気もしたが、子猫を刺激してはいけないかと思い、成り行きを見守る。
少女の優しげな声に誘われたのか、鳴き声の頻度は落ち、そろそろと茂みから黒い子猫が姿を見せた。
「よかった……」
心底ほっとした感じで頬を緩める少女の横顔に、なぜだかこちらも安堵してしまう。すると、おもむろに少女がこちらを振り向いた。
「おじさん、クロジロウを助けてくれてありがとう」
「え、あぁ。もしかして、見てたの?」
「うん……ごめんなさい。見ているだけしかできなくて……」
「いや、それはいいんだけどね」
気まずそうに俯く少女をフォローする。ああいう手合いに女の子が無茶をしても危険だろうし。
「その子は、君が飼っているのかな?」
少々間がもたなそうだったので、話を振ってみる。子猫は鮮やかなピンク色の首輪をしていた。少女の声に素直に応じて出てきたことからもそうだが、ずいぶん懐いているようにも見える。
「いえ、この子は野良ですよ」
「そうなのか……? でも、首輪もしてるし、名前も」
「名前はわたしがつけたんです。でも、飼ってません。親が……許してくれないので」
「ああ、なるほどね。……そっちに行っても大丈夫かな?」
「はい。おじさんなら、クロジロウも逃げないと思います」
「……言っておくけど、俺はおじさんって年じゃないからね?」
念押しするように言ってから、少女の隣にゆっくりと歩み寄って屈み込む。子猫は一瞬後ずさりしかけたが、少女が「大丈夫だよー」と猫なで声で話しかけると、差し出した俺の指先に顔を近づけて鼻を鳴らし、額をこすりつけてきた。
中々賢いやつのようだ。可愛いじゃないか。
「ふむ……幸い、怪我はないみたいだな」
ひょいと子猫を抱き上げて、念のため全身を軽く触って確かめてみる。不幸中の幸いか、外傷は見当たらなかった。
しかし、どうも肉付きが悪いように思えた。言わせてもらうなら、だいぶ痩せている。俺は子猫を地面に下ろして、少女に訊ねた。
「餌はやってないの?」
「…………はい。ごめんなさい、見ているだけしかできなくて」
「いやいや、謝らなくてもいいって」
名前までつけて可愛がっているのに、ちょっと違和感を覚えはしたが、そういうものなのかもしれない。親が許してくれないというのなら、きっと厳しい家庭なのだろう。最近の子供の小遣い事情は知らないが、餌を用意するにしても大人とは事情が違うだろうし。
さて、ここで俺の頭の中には、二つの選択肢がちらついていた。
その一、子猫の無事も確認できたことなので、何事も無かったかのように立ち去る。
その二、乗りかかった船だと思って面倒を見てやる。
「……ちょっと待ってな。すぐ戻る」
俺がどちらを選んだかは、自明の通りだ。そこからなし崩し的に、毎朝顔を出しているというわけ。
***
だが――半ば成り行きで、流されるように選んでしまったこの日課も、そろそろ終わらせなければならない事情ができた。
「そろそろいい加減、こいつのことも考えてやらんといけないな」
その日の朝、子猫様がいつものように餌にありついている様を微笑ましそうに眺める少女の横顔に、俺は告げた。
「おじさん、どうしたの?」
少女が驚いたように顔を向けて、小首を傾げる。
「具体的に言うとだ、この猫の飼い主を探した方がいいと思うわけだよ」
「クロジロウです」
「はいはい……クロジロウね。俺も毎朝、こいつのために早起きするのも、ぼちぼちしんどいんだわ。餌代もかかるしね」
「………」
「前から考えてたんだが、こいつ、首輪をしているだろ。たぶん、どこかの飼い猫だったんじゃないか? だとしたら、飼い主もきっと心配しているはずだ」
捨て猫という可能性も否定しきれないが、それにしてはまだ首輪は新しいのである。本来ならば、真っ先にその可能性を疑うべきだったのだ。
「クロジロウは、野良猫ですよ」
しかし、少女が機嫌を損ねたように反論してきた。何の根拠もない言葉に疑わしげに目を細める俺の態度が気にくわなかったのか、彼女はむきになったように言葉を重ねる。
「だって、わたしはずっと見てきたんだから」
「……ずっと?」
「わたしは、見ているだけしかできませんから」
「見てるだけ、ね。まあ、野良だって言い張るならそれでもいいけど、だったら里親を探すとかさ、やりようはある」
この入れ込み具合だ。いっそのこと彼女が拾ってくれれば楽なのだが、親が反対している以上無理は言えない。俺も安アパートの賃貸住まいのため言いっこなしだ。
「………おじさん、何かあったの? 今日になって、いきなりそんなこと言い出すなんて、何か変だよ」
黙りを決め込んだかと思った少女だったが、懐疑的な目で俺を見て訊ねてくる。
まあ、今さっき言ったのは本心でもあるのだが、それだけではないのも確かだった。
急ぎ、そうしなければならない事情ができた。
「気持ちの悪い話になるけど、会社に匿名の電話があったんだよ」
要約すると、お宅の社員らしい男が毎朝野良猫に餌を与えていて迷惑している、といった内容だ。
俺は怒りよりも先に薄ら寒い思いを抱いていた。誰だか知らないが、その匿名希望はおそらく、朝俺が子猫に餌をやるのを見届けて、後をつけるなりして会社を特定したってことになる。
やり方が陰湿極まる。まだ自宅には被害はないが、特定されていてもおかしくはない。そして、それは少女にも言えることなのだ。
「最近、何か身の回りで変なことは起きてないか?」
最悪な話だが、俺が嫌がらせを受けるだけならまだいい。だが、少女までに害が及ぶというのなら見過ごせない。
野良猫に餌をやるという行為が誰かに被害をもたらすことになるのなら、もはや偽善ですらない。近い将来そうなる可能性があるのに、無理を押して行為を貫こうというのなら、それはもはや悪だ。
「わたしは大丈夫だけど……それじゃあ、おじさんはもう来てくれないの?」
「このままだと、そうせざるを得ない。だから、その前に何とかしようって話をしてるんだ」
自分のことより猫の心配かと、やや呆れて肩を竦める。いまひとつ危機感が足りていないと思いながらも、念押しするべく俺は言った。
「クロジロウに愛着が湧くのは仕方ないことだ。でも、これ以上事が悪い方になる前に手を打つべきだってのは分かっただろう」
「でも……」
「君一人じゃ、こいつの面倒だって見れていなかったじゃないか。たまたま俺がいたから今日まで何とかなったけど、俺がいなかったら、こいつが飢え死にするまで君は見ているだけのつもりだったのか?」
少女の煮え切らない態度に苛立ち、つい大人げない台詞が口をついてしまっていた。青ざめた彼女の顔を見て、はっと後悔するが、もう遅い。
「じゃあ、もういいよ」
「何が……」
「帰って」
「おい」
「帰ってください!」
彼女の大声に、思わず身を引かせる。強い眼差しは頑なで、とりつく島もなかった。
「……わかったよ。今日のところは帰る。とにかく、身の回りには十分に気をつけるんだぞ」
子供相手に大人の理屈は通用しない。こうなっては何を言っても聞かないだろうと、自分自身に言い訳をして、逃げるようにして俺は彼女を一人残して帰ったのだった。
***
そのあくる日の朝、猫の餌やりを俺はさぼった。
いつもの時間にスマホのアラームは鳴ったはずだったが、気がつけば二度寝していて行く暇がなかったのである。
少女と顔を合わせづらいと、無意識のうちに起きることを拒否していたのか。いつもより遅い時間に起きたにもかかわらず、眠気が取れた気はまったくしなかった。
子供の扱い方に慣れているわけなんかもない俺は、どう説得すれば少女は納得するだろうかとか、ぼんやりと考えながら会社へと向かった。少女とクロジロウには悪いが、帰りにでも寄ればいいだろうと。
「…………まずいな」
そして間の悪いことに、そんな日に限って残業をする羽目になった。どうにか終電前には抜け出せたが、すっかり遅くなってしまっていた。
まさか少女は待っていたりはしないだろうが、クロジロウは腹を空かせているかもしれない。絆されたものだと思いながらも、自然と神社へと向かう足は速まった。
人気の無い、常夜灯がチカチカと薄く照らすだけの路地を行く。夜にこの辺りを出歩くことなどなかったが、何か出るんじゃないかと勘ぐってしまいそうになるくらい、肌を撫でる冷たい空気には薄気味悪いものを感じていた。
その雰囲気のせいで気を張っていたというのもあるだろう。胸ポケットに突っ込んでいたスマホが鳴り、必要以上に驚く羽目になった。
片付けたはずの仕事の電話かと思ったが、そうではない。
ディスプレイに表示されているのは、無機質な『非通知』文字。眉をひそめて固まる俺に、着信音とスマホの振動が、早く出ろと訴えているようだった。
「……もしもし」
「おじさん……!?」
怪しみながらも応じると、耳に飛び込んできたのは雑音混じりの女の子の声だった。聞き取りづらかったが、その声に俺の中の不審さは更に増す。
「君なのか?」
「早く来て! クロジロウが死んじゃう!」
「何だって!?」
「早く! お願い!」
状況の説明を聞いている暇もなく、通話は切れた。何が起きたのか分からぬまま、切迫している空気だけが伝わり、背中に伝う冷や汗を振り切るように足は勝手に動き出していた。
「おい! いるのか!?」
神社に灯りの類いはないため、暗闇は輪を掛けて濃くなっている。呼び掛けても返事はなく、スマホのライトで周囲を照らしてみても少女の姿は見当たらなかった。
どうなっているんだと内心で悪態をつき、焦燥に駆られながら、いつもの場所まで小走りに進む。
そこには、茂みの影に隠れるようにして横たわるクロジロウがいた。
ただ寝ているという風にはとても見えない。嫌な予感に目の前が一瞬暗くなる。まさか一日飯を抜いたからといって――そんなわけがあるかと、頭を振った視界の端に、見慣れぬものが映った。
紙皿の上に無造作に盛られた餌だ。俺が与えたものじゃない。ただ、第六感でしかないが、そこから感じ取れるのは明確な悪意のような、どす黒い何かだった。
クロジロウの口周りは、乾いた吐瀉物で汚れて毛が固まっている。
人間が何気なく食べているものが、ペットにとって有毒だっていうのはよく聞く話だ。ペットを飼うなら常識となる知識……当たり前のように知られている……だからこそ、悪用しようと思えば簡単にできる。
「くそったれ……!!」
頭に血が上り、身体の内側に瞬間的に溜まった怒りを吐き出す。この場に犯人がいるのならぶちのめしたいが、今やるべきなのはそんなことではない。
「ちゃんと生きろよ。ご主人様が悲しむぞ」
俺は子猫を抱き上げる両手に、今にも消え入りそうなほどに弱々しい、小さな命の鼓動と温もりを感じていた。
***
結論からいうと、クロジロウは助かった。
世の中便利になったもので、スマホで検索すれば、近隣で夜間でも診てくれる動物病院を見つけることができたのだ。
俺の嫌な予感は当たっており、クロジロウの衰弱の原因は、毒餌を食わされたため……。このことについて、ついでに言っておくと、犯人は特定された。
本当に、世の中便利になったものだ。いや、これは便利の範疇にはいるのか、弊害というべきか悩ましいところだが、SNSに自らしでかしたことを堂々と発信するなんてな。
あれだ、いわゆる犯罪自慢というやつだ。ネット上でのその炎上を俺が知ったのは、クロジロウの容体が落ち着いてからのことだった。
その犯人が自ら書き込んだ内容から、そいつが以前に会った、エアガンを持っていた青年だということはすぐに分かった。更に、SNSに書き込まれたときに付加された位置情報が、特定の決め手となった。まったくもって、間抜けな話である。
もちろん、善意の市民として、責任をもって通報しておいた。正直関わり合いになんてなりたくはないが、警察への協力は惜しむまい。
元気を取り戻したクロジロウは、こっそりとアパートに連れ込んだ。流石に、あの神社に放置しておくなど、とてもではないができそうもなかった。
本腰をいれて里親を探すか、最悪は実家に引き取らせようかなどとも考えた。実家では何匹か猫を飼っているので、世話は慣れたものだろう……と手前勝手な理由を考えつつ。
とまあ、そんなこんなで、仕事に加えてクロジロウの世話やら警察への事情聴取やら、それからしばらく俺は、忙殺の日々を送ることになったのである。
「――へぇ。それじゃあ、チビちゃんは里親が見つかったんだ?」
と、くるりと部屋を見渡して、そこまで大人しく話を聞いてくれていた彼女が口を開いた。
「まだ話の途中だよ。最後まで聞いてくれ」
「でも、もうオチたようなもんでしょ。部屋にチビちゃんが見当たらないってことは、引き取られたってことでしょ。犯人も見つかって、めでたしめでたし、じゃないの?」
別れ話をしたはずの彼女だったが、何を思ったのか休日の昼間に、俺の暮らすアパートまで押しかけてきていたのである。どうも喧嘩の結末に納得がいっていないのか、彼女の中ではまだ決着はついていなかったらしい。玄関のドアを開けて、仏頂面の彼女を出迎えたときは、心底驚いた。
それと同時に、彼女の顔を見て沸き上がってきたのは……激しい後悔の念だった。
「まあ、言ってしまえばそうなんだけどな。クロジロウを引き取ってくれたのは、女の子の両親だったんだよ」
「え? でも、飼うのに反対されてたんじゃなかったっけ。あぁ、何だかんだで、説得が成功したってこと? 尚更よかったじゃない。正真正銘、ハッピーエンドってことで」
「…………」
「え? 違うの?」
「ああ……それを今から話すよ」
彼女の言うことは間違ってはいない。少女は両親の説得に成功しており、子猫を飼うことを許されていた。
ただ、それは俺が少女と初めて会う前からのことだった。
順を追って話そう。
あの非通知の電話以降、俺は少女と会えなかった。きっとクロジロウの心配をしているに違いないと、毎日それとなく神社に通ってはみたが、彼女はとんと姿を現さなくなっていたのである。
少女との接点はそこしかなかったため、探す手段は皆無に等しかった。彼女の意見抜きにクロジロウの処遇を決めるのも悩むところであったため、しばらくはどうにかアパートの住人の目を誤魔化しつつクロジロウを匿っていたところ、とある中年の夫婦が俺を訪ねてきたのだ。
あえて自ら覗く真似はしていなかったが、件の若者を通報したことにより色々と噂が出回っていたらしい。通報者である俺と、子猫のことの顛末も脚色を交えて。
その夫婦の目的は、俺個人ではなく、クロジロウだった。
子猫の首につけられた首輪を見るや、奥さんの方は目に涙を溜め、その場で泣き崩れてしまっていた。何も事情を知らない俺は混乱しながらも二人を部屋に上げて、説明を求めた。
旦那さんの方も幾らか憔悴した感じではあったが、きちんと事情を話してくれた。
事故があったのだそうだ。
曲がり角での出会い頭。一人の少女が車に追突された。救命措置のかいもなく、彼女はこの世を去った。
その少女が、夫婦の一人娘。少女は神社で見つけた野良の子猫を飼ってもいいかと、しつこく食い下がってお願いし続けていた。
夫婦は共働きであったため、世話をしている余裕もないと娘からのお願いを断り続けていたそうだが、とうとう根負けしたのだという。
一人っ子である娘の心境も考えてのことだったのかもしれない。ともあれ、『絶対に投げ出さないこと』を条件に、夫婦は娘に子猫を飼うことを許したのだった。
朝、仕事に出る前に、夫婦は子猫用の首輪を娘に与えて、家に連れてくるように言った。事故があったのは、その日の夕刻のことらしい。
「ちょっと待って! え? え? まさかとは思うけど、あなたが会っていた女の子っていうのが、その娘さん……ってこと?」
急な寒気でも感じたのか、両腕を抱くように彼女がさする。俺は苦笑して頷いた。
「仏壇にも手を合わさせてもらったよ。間違いなく、彼女だった……少なくとも、俺はそう思う」
「…………作り話じゃ、ないんだよね」
「何なら、炎上をまとめてるサイトがあるから見るか? ああ、そういえば非通知の着信履歴は消えてたんだよな。番号だって、教えた覚えもなかったし……」
「いや、いい……いいよ。あなたが見たっていうなら、そういうことなんでしょ。で、これで話のオチはついたわけ?」
子猫とともに出会った少女が何者だったのか、はっきりと俺には断言できない。できないが、解釈をつけることはできる。
クロジロウは首輪をしていた。それをつけてやったのは少女に違いなく、その瞬間、クロジロウは少女の飼い猫になった。
事故に遭う直前まで、少女はクロジロウを抱えていたことだろう。子猫が無事だったのは、運がよかったのか……それとも、彼女に守られたからなのか。
見ているだけしかできないと、少女は俺に言った。それしかできなくても、きっと彼女は、絶対に投げ出すなという両親の言いつけを、頑なに守り続けていたのだとしたら。
毒を盛られたクロジロウが助かったのも、少女がまだこちらに来ては行けないと説得したのではないだろうかと、そんな風にさえ思えるのだった。
少女の方が、俺なんかよりも一つの命に対して、ずっと真摯に向き合っていた。結局、面と向かって謝ることはできなかったが、完敗だと認めるしかない。
人生というのは、選択の連続だ。
日々は選択の積み重ね。
その大小に関わらず、一つ一つが己の人生を決める分岐路となる可能性をもっている。
もしも。たられば。可能性を考えればきりがない。ただ少なくとも言えるのは、流されるように日々を浪費するのは、今日限りで終わりにしようかなと思う。
でないと、きちんと投げ出さず、やり遂げたあの子に対して失礼にあたると思うから。
「実は今度さ、久しぶりに実家に帰ろうと思ってんだよ。クロジロウのことで、お窺いも立ててたから、その報告も兼ねてな」
「……ふぅん。里心ついたってやつ?」
「そんなところかな。それでだな」
急に姿勢を正して話題を変えてきた俺に、彼女はやや訝しそうな顔をする。
一息吸って覚悟を決める。
これもまた、人生の一つの選択として。
「お前も一緒に、行かないか?」
後悔のない選択をし続けることなんて、きっとできない。だから今、大事なものを失わない選択をしようと思うのだ。
二人で暮らせる場所に引っ越して、猫を飼うなんてのも、いいかもしれないな。