第八次元:秘薬
今回は、予定変更して別の話を一話繰り上げ。
風邪、水虫、癌という人類を悩ませることで有名な病気がある。この3つの病気のどれかを根本的に治療する方法を見つけたものは、ノーベル医学賞間違いなしと言われているのを御存じだろうか?
風邪には風邪薬というものがあるが、あれは特効薬ではなく、体の抵抗力を補助して治しているだけ。無数の種類が存在する雑菌が風邪という病気を起こしているのだから、何度かかっても耐性など付かず、ワクチンも作れないのは当たり前だ。
水虫も同様。無数に存在する真菌、早く言えばカビが原因なので、抗真菌薬を使って抵抗力を高めるしかない。
癌に至っては説明不要。細胞そのものの異常であるため、上の二つと違って自然回復に任せることすらできない。
そんな病気を3つとも根絶できる特効薬が開発されたら。いや、3つだけではない。最も危険なウイルスと言われるHIVやエボラ出血熱。毎年新種の対応に追われる鳥インフルエンザ。これらの病気をも完治できる万能薬と言うべき薬だ。薬師丸博士はそんな万能薬を発見してしまった。元は博士号も持たない無名の研究者だったが、探検隊のチームに雇われてそんな発見をできるとは彼も思ってもみなかっただろう。
薬師博士は南極大陸のボーリング調査で、不可思議な生物を発見した。掘削した凍土を溶かした時に出てきたものだ。冷凍状態だったらしく、解凍されるとゲル状の形態になった。奇妙なことに、解凍する際の熱で蒸発することなく、ゲル状の形態を保ったままだったので、その存在を発見できたのだ。
質量は約100立方ml。顕微鏡で確認すると、細胞のような機関が見られる。既存の生物で例えればアメーバに近いが、それらよりは大型である。解凍されたばかりだが細胞の運動は活発であり、冷凍状態で損傷した細胞も見受けられない。シャーレに入れ、常温で保存してもすぐに死ぬことはなさそうだ。
プランクトンを含んだ水を数滴与えると、やはりプランクトンを取り込んで食べた。プランクトンを消化し終えると、その質量を少し増した。消化効率にも優れているらしい。
他にもボーリングの資料を調べなくてはならないため、その日は基本的な生態の調査だけで終了した。
次の日に本格的な実験に取り掛かる予定だったが、難しくなった。調査犬のジャッキーに噛まれてしまった。観察だけでもしようかと思ったが、思ったより傷が深い。包帯を巻いたはずが、血が垂れて、シャーレに滴り落ちてしまった。生命力からして死ぬことはないと思うが、分析に支障をきたす。その日は休むことにした。
最悪だ。ジャッキーは狂犬病だった。何の手違いか、本土の獣舎で狂犬病が広まり、ジャッキーも感染して、潜伏期だった。急に噛み付いてきたのはそのせいか。こんな南極基地にはワクチンもない。調査チームの医者もここでは気休めの治療しかできないという。もうだめかもしれないが、せめてこの発見は記録に残したい。凍土で眠っていたこのアメーバは生きた化石かもしれないからだ。チームのみんなにも私が死んだら代わりに発表するように頼んでおいた。せめて名を残して死ねるのが慰めか。
熱で朦朧とするが、記録だけは最後まで続けたい。アメーバを観察しなおすと、驚くべきことに、混入した狂犬病ウイルスはほとんど死滅し、狂犬病への抗体ができていた。確かに狂犬病のウイルスを含んだ血液を垂らしてしまったが、抗体ができるなんて早すぎる。このアメーバが犬と接触したことがあるとは考えにくい。つまりは、たったの1日で抗体を作ってしまったのだ。ウイルスへの抗体を作るアメーバなんて大発見だ。
全くニュースに残った自分の名前を見られないのが残念でならない…。いや、本当にこのまま死んで良いのか。この抗体を使えば助かるのではないか。もちろん効果は未知数。だが、何もしないよりはいい。抗体を抽出して、きちんとしたワクチンを作っている余裕はなく、医者も賛成してくれるかどうかわからない。医者には黙って、自分でアメーバを注射器のシリンダーに詰め、注射した。
次の日になると、症状は全快していた。診断してくれた医者も驚いていたが、どうやって治したかについてはとぼけて見せた。
あのアメーバはウイルスへの抗体を作り、しかも治療薬に転用できる。つまりはあらゆるウイルスに対して、万能薬として使える可能性があるのだ。かつて青カビから生成されれたペニシリンよりも偉大な発見と言える。
しかしながら、今後の取り扱いも慎重を期さなくてはならない。万能薬が世界にどれほどの影響を与えるかは、無名の研究者である私でも想像がつく。下手に実物をちらつかせれば、利権競争に巻き込まれ、命を狙われてもおかしくない。だからこそ、秘密は守らなくては。調査隊のみんなにも、「あのアメーバは死んでしまった」と誤魔化しておいた。みんなは「気にするな。命あっての物種だ」と慰めてくれたが、これでこれ以上私の研究に探りを入れられる心配はなくなった。これは、私一人で研究することにしよう。
帰国後、アメーバには様々な実験を行った。試した限り、どんなウイルスや細菌を感染させても抗体を作ってしまい、死ぬことがない。南極の低温環境から離れたためか、生命力も活発になっているようだ。増殖速度も上がっており、もう1000立方mlになった。アメーバにしては大きい方であり、サイズアップしてくれるとこちらも流用できる量が増え、実験がしやすい。 次に、マウスに対してアメーバを注射してみる。マウスの様子には変化がなく、むしろ血液を検査すると有害な細菌の類が消えていた。どうやら直接注射しても問題はなかったらしいと、一安心する。
一つ思いついて、マウスの飲む水にアメーバを混ぜてみた。経口摂取したらどうなるか、そして健康な生物にはどう作用するかという実験である。すると、ほどなくしてマウスはもがき苦しんで死んだ。さっきと食い違う結果に動揺しながらも、マウスを解剖する。その胃の中を開くと、アメーバは消化されていなかった。さらにアメーバを調べたところ、マウスの胃の消化酵素を打ち消してしまうような酵素を発生させていることが分かった。つまり、マウスに消化されないよう、アメーバが抵抗した結果だった。分解される心配のない血中では、そのような反応を起こさなかったということだ。注射で体内に取り込んだのは、安全な方法だったらしい。
さて、他の生物に消化されないということは、ウイルスだけでなく、害虫や害獣駆除の薬品も抽出できるということだ。今回の実験からでも、ネズミ退治に効果的な酵素が抽出できた。ネズミだけでなく、厄介な害獣や害虫駆除の薬への需要は高い。その方面でも実験動物を調達して、実験を繰り返した。
このアメーバはしばらく実験を繰り返しても死んだり成長が止まることはなく、細胞の流用には困らない。この新種アメーバには、自己保存本能の高さからホメオパスと名付けたが、これを世に公表するつもりは無い。他の研究機関に引き渡すまでもなく、私一人で管理できる生物だ。新種発見よりも、新薬が次々に作れる薬学博士としての功名を得る方が素晴らしい。万能薬をそのまま提示するよりも、個人の研究成果とした方が、利権の所在も明確になって融通も聞きやすい。薬師博士のさじ加減で新薬を小出しにしていけば、世の混乱も避けられるというものだ。そのために、薬師博士は新種の発見を伏せて、いくつもの病気を新薬で克服した薬学博士として、世にその名を知らしめた。
薬師博士はあくまで、研究の末に新薬を開発したと公表したが、実際はホメオパスが生成した新成分を分析して、後から逆算で割り出した研究成果である。だが人類を苦しめる難病や外敵に対して革命を起こした薬師博士は、その理論を疑われることもなく、世界から熱狂的な支持を得た。ノーベル医学賞を受賞、所属していた大学も、特別に博士課程を免除して博士号を与えた。そうでもなければ格好がつかないため、当然の話である。
また、新薬への需要は引きも切らない。感染力の弱いHIVウイルスなどは、この新薬によって根絶されたという。治療だけでなく、ワクチンとしても使えるために、新薬が普及した後の先進国でも売れ続けた。特に風邪の予防として使える点は、病欠を嫌がる先進国の労働者たちに人気だった。
害虫や害獣への駆除薬も大々的に使用され、街や農場に漁場などからは、嫌われ者の生物が姿を消した。生き残りが郊外や山や沖などの自然に生息地を移しているが、そちらも大っぴらに狩られているらしい。
かつて流行病として恐れられて撲滅された天然痘のように、ウイルスが何十種類と撲滅宣言されているのが、今の時代だ。害のある生物を簡単に根絶できると分かれば、世の風潮もそちらに傾く。一部の保護団体が反対しても、多勢に無勢である。保護法など作られていなかった害虫や害獣は、もはや保護法案が成立する前に、新薬で絶滅する見込みが強い。
この一大ムーブメントを巻き起こした薬師博士は、WHO(世界保健機関)に招かれ、さらに新薬開発に専任するよう依頼された。そちらでは、更に危険な門外不出の病気に対する病気への特効薬を一任される。エボラ出血熱のような、レベル4のウイルス研究所で隔離研究される、致死率や感染力の高いウイルス。あるいは、麻薬中毒やアルコール依存症などの、中毒患者。
薬師博士は、これらの難病に対しても、コンスタントに新薬を開発した。薬師博士にしても、ホメオパスに抗体を作らせるためのサンプルが手に入らない病気だから手を付けていなかったのであって、この依頼は渡りに船であった。
薬師博士が、万能の薬学博士として人類史上に残る未来は間違いないと言われた。最も、彼に唯一異議を唱える者もいたのだが…
あるWHOの会議では、毎年流行の鳥インフルエンザの水際対策を、薬師博士に任せたいという議題が出た。薬師博士は、今やほぼすべての病気や害獣、害虫への対策を依頼され、期待以上の成果を上げてきている。ただ、鳥インフルエンザは毎年突然変異を起こして対策を迫られるウイルスであるため、多忙な薬師博士の予定を調整しなくてはならなかった。
WHO議長「薬師博士がご多忙なのは承知していますが、毎年流行が始まる時期の予定を空けて、水際でウイルス対策を行ってくれるのが一番…世論でもそう叫ばれておりましてね。どうにか時間を獲れませんか?」
薬師博士「毎年の対策など必要ありませんね。突然変異や渡り鳥を使った感染ルートで生き残ってはいますが、所詮はウイルスです。流行が始まる直前に渡り鳥を抑えて、新薬を作って鳥の生息地にばらまく!今年で解決できます」
WHO議長「本当に、ウイルスが潜伏するわずかな期間で、ワクチンが作れると?」
薬師博士「できます!この私に頼むつもりなら、私を信じていただきましょうか」
万能感を漂わせた自信あふれる回答。会議はこれで決まったかに思われたが、一人が異議を申し立てた。声の主は、あらゆる学術分野を総合的に網羅した博物学という学問を掲げる博士・白瀬百華女史である。
白瀬博士「待ってください。仮にワクチンが間に合ったとしても、その使い方は危険です。不確定要素が多すぎます」
薬師博士「私の薬が確実ではないと?そういいたいのですか?」
白瀬博士「鳥に投薬して治せばいいというものではありません。渡り鳥の飛行コースは謎が多く、現代科学でも解明されていません。もし鳥がコースを外れて、薬でカバーできなかったら?」
薬師博士「事前に薬を作っているんだから、どうとでもなる」
白瀬博士「それに、鳥インフルエンザは鳥から人間に感染するときに、突然変異を起こすのは知っていますよね。もし薬が追い付かないほどの突然変異を遂げていたら?」
薬師博士「私の薬でウイルスどもが根絶できないはずがない!」
白瀬博士「どんな生物も、根絶できるとは限りません。人間が歴史上数十種類のウイルスを根絶しても、それ以上の新種が生まれ続けています。人類を守る薬を作っているとしても、行き過ぎた根絶は、終わりのない戦いに人類を引きずり込んでいるとは思いませんか?」
薬師博士「人類が勝てる戦いを挑んで何が悪いというんだ!どれだけウイルスが変異しようと排除するまで、今までやってきたことと同じだ!君は博物学者として世に貢献してきたかもしれんが、今の世の中に必要とされているのは私の力だ。分かったら出ていけ!」
薬師博士が怒鳴り散らしても止める者はおらず、周りの人間は、白瀬博士が出ていくべきという冷ややかな視線を向けている。議論の無駄を悟った白瀬博士は自ら出て行った。
薬師博士の提案通り、鳥インフルエンザを媒介する渡り鳥のすみかに、ワクチンは散布された。その結果、鳥インフルエンザは全滅した。なぜそう言い切れたのか。なぜなら、媒介する渡り鳥たちが、新薬を散布されてすぐに飛べなくなってしまったからだ。動けない鳥たちを検査すると、投薬された新薬への強い拒絶反応、つまりはアレルギー症状が出ていることが分かった。突然変異し続けるウイルスに対して何度も新薬を投じた結果、その薬も保菌者に作用するほどに強化されていた。
薬が強くなり過ぎていたのは、ワクチンだけではない。これを皮切りに、街の愛玩動物や、農場の家畜や植物、漁場の養殖魚など、薬を使用された環境にいた他の動物までも、ショック死し始めた。もちろん周囲の害虫や害獣にだけ薬を使っていたのだが、彼らは人間ほど、次々に投与される化学薬品には適応できなかったのだ。そして、そんな自然環境で増え始めた生物は、化学薬品を濃縮したような毒々しい体色、荒れた周囲環境を独占しようとする獰猛な気性、既存の薬品では対処が追い付かない生命力を兼ね備えた、以前よりも性質の悪い進化を遂げた、新種の害虫や害獣たちだった。
自然界は、強い薬物耐性で生き残った害虫や害獣が支配しようとしていた。これへの対策として、新薬による根絶が大衆からは望まれていた。しかしながら、薬師博士は事態の深刻さに気付き始めていた。
下手に薬で邪魔な生物を全滅させようとしても、根絶できる例はほんの一握りだったのだ。いや、既存の生物を絶滅させるだけなら人類は幾度となくやってきたが、本当の意味で全滅はできていなかった。いずれ既存の対策が効かない新種や近縁種が現れ、自然界の空席を埋め、再び人類と席を争い始める。害虫と名高いゴキブリが数億年もの間、抵抗性をつけて、絶滅しなかったのと同じ、わかりきったことだったじゃないか。
しかし薬師博士が新薬製造をやめて、慎重論を唱えようと、世論は変わらなかった。製薬会社などは、今までの薬を合成してより強力な薬を作って売り始めた。駆除業者などは、今までの薬の濃度を高めて使用することで、対抗しようとした。
もはや世界中が新薬の万能性に縋り切っていた。今更薬師博士が抜けだそうと、その熱狂の波を変えられはしない。
薬師博士はいつか議論が割れたことのある白瀬博士に連絡を取った。
薬師博士「こんなことを頼める筋合いではないんだが…あの時聞けなかった君の意見を聞かせてもらえないだろうか」
白瀬博士「それには停職処分を解いていただくのが先ですね。あれからWHO議会から締め出されていまして。どうもあなたの『出ていけ』を、『出入り禁止にしろ』と議会はとったそうですよ」
赤い眼鏡の向こうにある目つきは、迷惑そうなジト目になっている。「出ていけ」と目線で訴えそうな雰囲気だ。
薬師博士「本当に悪かった、怒ってはいたがそんなつもりじゃなかったんだ!世間の連中は、私を旗頭に担ごうと、新薬を矢のように催促してくるんだ。しかし無駄なあがきであると、私自身がよく分かってるんだ。この点を理解しているのは、君くらいしか心当たりがない。これ以上待たせると、周りの連中は私を軟禁するかもしれない」
白瀬博士「薬品に頼る駆除が間に合わないなら、人員や機材を動員した直接的方法しかありません。そもそもこの方法に賛成する人間が少ないと思われますが…」
薬師博士「もちろん私の方でも声をかけよう。私みたいにうんざりしてどうしていいかわからない連中も少しは知ってるんだ。私も南極調査チームにいた実地経験もある。なんなら、私が手伝ってもいい。こんな状況からはごめんなんだ!」
薬師博士が必死に助けを求めるさまを、白瀬博士は細い眉を顰めながら見ていた。そして鷹揚にメガネのフレームを押し上げ、白衣の裾をはためかせて椅子から立ち上がる。
白瀬博士「分かりました、仮にも世界的な薬学博士であるあなたのバックアップにも期待しましょう。それと、あなたは科学者として自覚が足りないのでは?あなたも少し前までは、こんな世の中の流れを押していたはずでしょう?」
薬師博士「それは、私は世が求める薬を作っていただけで…」
白瀬博士「一度世に出した技術がどう使われても、責任を感じるのが科学者だと私は考えています。あるいは…何か秘密でも隠していませんか?無自覚の内に、何か他の物に責任を押し付けているんじゃありませんか?」
薬師博士は、がっくりとうなだれる。
薬師博士「分かってしまうのか…そうだよ。私は全部ある生物から、ウイルスの抗体や、特定の生物に有効な毒素を取り出したんだ。俺には、こんな恐ろしいことをする力なんてなかったんだ!」
白瀬博士「自分の罪から目をそらさないで!償うために私と話しに来たんじゃないんですか?」
白瀬博士に内心の恐怖と良心を言い当てられ、膝をついて頭を垂れる薬師博士。
薬師博士「すまない…すまない…」
白瀬博士「それより気になるのは、その生物です。その生物の弱点を探せば、今の薬物汚染もどうにかできるかもしれません」
それから、薬師博士の研究室に厳重にしまわれたホメオパスを見せられた白瀬博士。
薬師博士「私は、これを利用して名声を得ようとした、愚かな詰まらない人間にすぎないんです。だから、私もどうしていいかわからなくて…」
白瀬博士はそんな言い訳じみた言葉に返事をしなかった。薬師博士の御託に、フォローを入れたくなかったわけではない。ホメオパスのつかみどころない生態を警戒していたのだ。
これは、高次元生命体たる異教の神々の一種かもしれない。異教の神々はその名の通り、信心を集めた生物を同化し、新世界を作るという。今までホメオパスが万能薬として人間の外敵を排除して人間の支持を集め、世界に侵食して力を強めていったと考えれば、現在の世界を席巻する新薬ムーブメントも説明がつく。この秘密はこれ以上広めたら、ホメオパスにさらなる信望を集める危険性がある。
南極で発見されたこれが、異教の神々の一部なのか本体なのかも不明だ。何としても処分してしまわないと、大変なことになる。
白瀬博士と薬師博士は、人脈を使って組織した害虫・害獣駆除のチームに各地での水際対策を指示。害虫をしらみつぶしにするローラー作戦や、害獣を銃で追い回して巣や子まで徹底的に退治する山狩り作戦、害獣を捕まえるための罠も仕掛けられた。薬品よりは確実に仕留められたが、害虫・害獣の増えるスピードの方が速く、ギリギリ一時しのぎで来ているだけだった。
白瀬博士と薬師博士は、秘密裏にホメオパスを処分する実験を試みた。体積は薬師博士が1000立方ml程度で維持してある。液体に近いアメーバ状の生命体であるため、まずは熱で煮沸するよう提案する白瀬博士。大型の蒸留器で熱して水分を分離させ、細胞部分だけを熱死させようとする。
しかし、沸騰するまで熱して水蒸気は上がっているのだが、体積が減っていない。
白瀬博士「どういうこと?体のほとんどが水で出来ているアメーバなら、これで体積のほとんどを失って、残った細胞も死滅するはず…」
薬師博士「凍土から解凍されても平気だった時点でそんな予感はしてましたが、どうも熱にも耐性があるようです。蒸散した水蒸気を再び吸い込んで、体積が減らないようにしてるんですよ、ほら」
薬師博士の言うとおり、蒸留器のガラスの中では、水蒸気が循環して再び底の方に吸い込まれている。アメーバはもともと周りの水分を吸い込んで成長できるが、その機能を瞬時に強化したようだ。
白瀬博士「なら、乾燥材を使って乾燥させることにしましょう。これで内側から水分を枯れさせられるはず」
紙おむつに使われる吸水ポリマーなどの、水分を瞬時に吸収する乾燥材をホメオパスに投入する。すると、乾燥材が一瞬で縮み上がった。取り出してみると、乾燥材の方が一切の水分を失ったかのように、カラカラの状態になって縮んでいる。
薬師博士「ううむ、やはり乾燥はダメですか。私が発見した時から10倍の体積に成長するほどの給水力ですからね…」
白瀬博士「体を構成する水分だけを狙っても防がれるだけね。ならば、直接細胞にダメージを与えましょう」
次に、レーザーメスを使って、細胞を直接焼き切ろうとする。液状生物であっても、レーザーなら細胞レベルで切断可能だ。薬師博士の実験のように一部だけを取りだし、顕微鏡で観察しながら、レーザーメスを当てる。顕微鏡で見ていると、レーザーで細胞は両断された。だが、その途端に半分にされた細胞がそれぞれ再生して、二つの完全な細胞に増殖してしまった。
薬師博士「切断してもすぐ直るなんて、細胞まで水みたいな奴だ。どうしますか?」
白瀬博士「切断がダメなら一気に細胞を押し潰すことね。と言っても液体だと、ハンマーでも潰せるものじゃないから…」
気圧調整の効く気密性の高い実験室に閉じ込め、気圧0の真空状態にする。液体は真空状態だとあっという間に蒸発してしまう。そして残ったホメオパスの細胞も、真空には耐えられずに、内部から破裂してしまうはずだ。
実験室の外から監視していると、さしものホメオパスも液状の体がはじけ飛び、再生する様子がない。
薬師博士「よしやった!これで…」
白瀬博士「いえ、まだ早いわ」
白瀬博士の不安通り、部屋を常圧に戻すと、再び水分が集まり、ホメオパスの体が再構成された。
薬師博士「どうして…?」
白瀬博士「まさかとは思っていたけど、空気中に水分として散った中にも、細胞が残っていたようね。そこまで微細な細胞なら、内部の細胞圧もないに等しい。結果的に、真空の気圧とも圧力が釣り合って、破裂せずに済んだってことね」
薬師博士「じゃあ、どうすればいいんですか!」
白瀬博士「恐らく水分ある限り、細胞を核にして何度でも再生する。その細胞も水分で保護されていてどうしようもない。宇宙空間か太陽にでも送り出すしかないかもしれないわ」
薬師博士「ぐっ、それでは、私はどうすれば、ゲボッ!」
薬師博士は息を詰まらせたのか、痰を吐き出す。だが、その透明なゲル状の痰はまるで…
白瀬博士「それは、ホメオパス!?まさか最初に直接体内に取り込んだ時に、寄生されてたとでも言うの!」
薬師博士「はあ、はあ、ああ、そうですよ!俺はこうしてホメオパスを取り込んでなければ、南極で狂犬病にかかったまま死んでた!体内に取り込んで毒にはならなかったが、寄生アメーバのように取りつかれている可能性が頭を離れなかった。だから安全な薬だって証明したかったんだ!」
白瀬博士「その保身のために世界中の人を実験台にしたの?」
薬師博士「俺はそれでも世のために薬を…ゲボッ、いや、どうだったかな?新薬が広まって、気が大きくなるうちに、保身のためか、それともホメオパスに操られてたのか、わかんなくなっちまった。ここでホメオパスのちゃんとした対策さえ分かれば、俺も助かったんだけどな…」
白瀬博士「どうやら自分を見失っていたようね。残念だけど、あなたはいろんな意味でもう手遅れかも」
哀れむようにため息をつく白瀬博士。ただ、その手は自分の白衣の裾を皺がよるほどに握りしめていた。
薬師博士「俺は最後まで、あなたが認めるほどの科学者にはなれなかったということか…。じゃあ哀れな被験者の俺から忠告だ。ホメオパスは見る限りすべての外敵に対して、抗体を作る。俺も反対意見を持ってる奴に対して、熱くなって過剰反応をしてきた。あなたが知ってる通りにな。もしかしたら、ホメオパスのアレルギー症状が強くなれば、他の奴らもそうなるか、いや、もうそうなってるかな…」
薬師博士は力なくつぶやく。自分の弱さゆえに、ホメオパスの精神的影響に気づかなかったことを自嘲しているのだ。
白瀬博士「その忠告は参考にさせてもらうけど、最後ではありませんね。あなたは死なせない」
薬師博士「死なせないって、俺のこと助けて…」
白瀬博士「違うわ。あなたには生きた実験台を全うしてもらいます。あなたからホメオパスを採取したうえで、より根本的に汚染を止められる対策を立てなくてはね」
白瀬博士としては、このままホメオパスを処分しても、全ては謎のままに終わり、薬物汚染は止められなくなる。また、再びホメオパスが現れた時に止められなくなる可能性もある。ホメオパスに直接寄生されている薬師博士から、人間に与える影響を探らなくてはならない。
薬師博士「俺の人権は無視かよ…俺もあの隔離患者の仲間入りか」
白瀬博士「私は患者に最後まで責任を持たずに、解決した気にはならないということよ」
薬師博士「そうか、信じるよ。治せるって信じるよ…」
こうして、薬師博士が隠していたホメオパスはロケットで太陽まで打ち上げられ、処分された。太陽の中では死んでいなくても再構成は不可能だろう。薬師博士は新たに設立された機密機関、レベルX研究所に移送された。そちらで秘密を確約された少数の研究員が、薬師博士に寄生したホメオパスを研究する。
レベルXとは、当然レベル4研究所などと比較にならない、未知数の危険を意味する。かつては薬師博士の一存で秘薬にされていたホメオパスは、人類の存亡を揺るがす秘薬として研究対象にされた。
薬師博士は、新型ウイルスの研究中に感染して死亡、感染の危険がある遺体も即座に処分されたと世間には発表された。新薬が作られる望みは消え、新薬への一大ムーブメントは収まった。新薬がほとんど使われなくなったためか、自然も本来の姿を取り戻しつつあった。害獣や害虫も、ある程度のテリトリーに落ち着き、人類との線引きもできてきた。
だが、遅咲きの進化を遂げた生物があった。ウイルスである。突然変異した彼らは、ワクチンにより撲滅されかねない可能性を経験で知っていた。だから、毒性を弱める代わりに、感染力を強めた。すべての生き物に生かさず殺さず感染し、潜伏する。人類が害獣や害虫に気を取られている隙に、彼らも勢力を伸ばしていたのだ。そして、感染者が発病した。高熱、喘息、けいれん、皮膚病などの重篤な症状が現れたが、ウイルス自体はこれほどの力は持っていない。ホメオパスの新薬を取り込み続けた人間たちが、そのようなアレルギー体質になっていたのだ。ウイルスにとって天敵となる、ホメオパスを使っている人間のみが、過剰に苦しみ死に至る。これこそウイルスたちが生き残るために出した答えだった。
発病者はパニックを起こし、新薬を求めたが、この病気を治せる薬など作れる見込みはない。一方で、白瀬博士のような新薬への依存が薄い人間は、感染しても発病しなかった。薬に頼り切っていた発病者は、アレルギー症状に耐える体力もなく、すぐに死んでいった。
少し前には新薬によって健康な人間ばかりになり、人口が増えすぎると言われていたのだが、今やこの感染症によって、人口は激減した。そんな状況で、かつて薬師博士に異を唱えた白瀬博士の立場も復権し、あの新薬ブームは異常だったと切り捨てられるようになった。
薬師博士「外じゃそんなことになってんのか。俺も隔離されてなきゃ死んでたかもな」
白瀬博士「分かりませんよ。オリジナルのホメオパスに近いあなたなら生き残るかもしれません」
レベルX研究所で薬師博士に面会した白瀬博士は、そのような経緯を話した。薬師博士は厳重に隔離されているためか、この世界規模の感染症にかかっていなかった。研究所では薬学博士としての重しも消えたためか、以前より落ち着いて見える。
薬師博士「俺は嫌だね、そんなアレルギーにかかりながら生き残るなんて。死ぬ寸前の高熱ってのを知ってるか?自分の意識が保てなくなるとな、生きる意味なんてどうでもよくなってくるもんなんだよ」
薬師博士はかつて狂犬病で死にかけた経験からそう語る。
白瀬博士「それがいるんですよ。アレルギーで三日三晩高熱でうなされたり、一週間痙攣に襲われたりしながらも生き残った人。ごく少数の体力と気力に優れた人間ですが」
薬師博士「そりゃ確かにアレルギーの峠さえ越えりゃ生き残れるかもしれないが、その連中、薬に頼ってた奴らなんだろ?よく頑張れたな」
白瀬博士「彼らは一貫して似たような主張をしていました。『新薬はあくまで人類の進化を手助けしていただけ。自分で自分の体を治せないはずがない』だそうですよ」
薬師博士「おい、それってまさか…」
白瀬博士「検査したところ、あなたのようにオリジナルのホメオパスが寄生してたわけじゃない。免疫力や自己治癒力が強くなっていました。いたって健康な人間ということですね」
薬師博士「どういうことなんだ、一体」
白瀬博士「恐らくこれがホメオパスの目的。自分から助かろうとする素質のある人間を選別する。その他大勢は見捨てられたということでしょう」
薬師博士「何だよそれ。俺はそんな間引きを手伝わされたってことか。何様のつもりなんだ…!」
白瀬博士「神様のつもり、かもしれませんね。この薬物汚染が残った環境で、ホメオパスの選んだ人間が生き残る確率が一番高い。まだまだ未知の新種も現れていますから」
薬師博士「俺は神様の名付け親にして、憑代みたいなもんか。あーあ、死んだほうがよかったかもなあ」
白瀬博士「言ったでしょう、私は見捨てる気はありません。それではホメオパスと同じです」
薬師博士「嬉しいね。もしかして俺に惚れ」
白瀬博士「同情で惚れられたとして、本当にうれしいですか?」
薬師博士「いや、冗談だ。そんな食い気味でいわれるとへこむ」
白瀬博士「私もそろそろ行かなくては。欲求不満もほどほどにしてくださいね」
薬師博士「まあ、それほど苦しくもないさ。一時期は好き放題やってたんだ。また、遊びに来てくれよな」
白瀬博士「遊びに来てるのではないですが…好きに捉えてください。今度は戻るまで長くなるかもしれませんから、その前に会っておきたかったので」
そう言って白瀬博士は帰っていく。薬師博士は嫌な予感がしたが、口に出すのはやめた。彼女は約束を守ってくれるはずだ。俺をこんなところに置き去りにするはずがない。
白瀬博士「もしもし教授、薬師博士に会っておきました。本当はすぐにでも、謎の電波を追いたかったのですが…」
ジェローム教授「私が勧めたことだ、そのくらいの余裕は持つべきだよ。それに、彼も異教の神々の生き証人なのだろう?戦いの前に会っておくべきだと思うがね。特に、彼のことは君と私くらいしか知らないだろう?」
ホメオパスのことは、派閥外の次元連続者には報告していない。やはり、薬師博士をサンプルとして生かしていることがネックになると予想されるからだ。こういった場合、薬師博士の処遇については、他の派閥との間で割れるかもしれない。心ならずも、異教の神々に協力した戦犯であることから、生体解剖を提案されることもあり得る。
そして、ホメオパスの万能薬としての有用性に、他の人間が心動かされるかもしれない。その点も警戒しなくてはならない。
白瀬博士「私はあまりゆっくりしていたくはありませんでしたが…あの人も自分を見つめなおしているうちに科学者らしくなっているかもしれませんね」
ジェローム教授「他人の成長、変化に気づく。それもまた立派な研究だよ。電波への対策は君のチームだけで大丈夫かい?」
白瀬博士「ええ、少数精鋭で先手を取ります。今度こそ、人間の選別など止めて見せます」
これが、白瀬博士が機械仕掛けの魔神と戦う数日前の出来事である…。彼女は痛感していたのだ、万能を騙る異教の神々の傲慢さを。
ホメオパス
・極地で解凍され、発見された物質。
・切断されれば分裂、衝撃を受ければ変形する、弾力性を持ったゲル生命体。
・熱を受ければ対流で水分を補給する。乾燥させれば吸水力を増す。
・あらゆる外部刺激に対抗した形態変化を遂げる。病原体を取り込めばその抗体を作り出し、害虫や害獣に食わせれば、消化を妨げる酵素を生み出した。かつて多くの病や、害虫・害獣駆除の特効薬をもたらしたという。
・乱発される特効薬に対して病原菌や害虫・害獣も生存をかけて耐性を持つ者へと突然変異をはじめ、それに対し強力な特効薬を生み出し続ける。
・強力になった特効薬は副作用としてアレルギー反応を引き起こし、高熱や喘息、皮膚病などの拒否反応についていけないものが死んでいく。恒常的なアレルギー反応を、安全の代償として受け入れる者だけが生き残る。
博士:白瀬百華
28歳の女性。全ての学問の情報を共有し、包括的に分析する博物学を専攻とする。それ故にあらゆる知識に精通し、場当たり的に未知の機械を組み立てたり、取り調べも自分でやったりと、天才的。科学発展全般に貢献し、科学者の地位を高めることで、十数の次元を支配した。
専用携帯端末としてモバイルメディエイタ―を自作。劇中のとおり、分析や戦闘の機能を備え、支配者権限として世界中にメッセージを発信するマルチメディアとしても扱える。
彼女が異教の神々との戦いで被害を受けた事実は、その実力を認めていた次元連続者の間に大きく影響した。
名前は「しらせ」→「はくせ」→「はかせ」と、「百華」→「ひゃっか」から。
教授:ジェローム・モーロック
63歳の老紳士。この高齢でも大幹部としてまだ現役である。白瀬博士を教えたこともある教育者。最も優秀な教え子として、卒業の時から副幹の地位を約束していた。
普段は紳士的だが、数十の次元を教育によって改革し、必要なことを全て叩き込んできた辣腕でもある。