第2部 砕けた心 第2章 冒険者たち
第2部 砕けた心
第2章 冒険者たち
部屋の扉が控えめにノックされた。することもなくぼんやりと窓の外を眺めていたバイカーは、はっと顔を上げて扉を振り返った。
「はい」
がちゃん、と鍵の開く音がして、扉が開く。バイカーには開けることが出来ない扉だ。
「ご機嫌はいかがですか」
良いわけがない。『ご滞在』と言う名目で監禁されて1ヶ月が過ぎようとしている。
沈黙で答えたバイカーに、訪問した男は苦笑いを浮かべた。確か、リトリアの外務大臣を務めている男だっただろう。
「そう、苦い顔をめされるな」
無茶を言う。尚も沈黙を保っていると、男は懐から丁重に包まれた書簡を取り出した。
「それは……」
「長々とお引き留めしたことは、謝罪しよう。平に、ご容赦いただきたく」
「……」
「こちらとしても、安易な返事を差し上げるわけにはいかなかったゆえ、ご寛恕いただきたい」
「では」
見開いたバイカーの目の前に、書簡が差し出された。男が頷く。
「我々リトリアは、書簡の内容をご了解さえいただければ、ヴァルスに協力させていただくことに異存はない。……陛下より書状を預かって参った」
「……!!」
震える手で、書簡を受け取る。長く辛抱した甲斐があったと言うものだ。リトリアがいずれに参戦するかは、戦局を大きく左右する。
書簡の内容は想像がつく――かつて失ったリトリア領土の返還だ。バイカーが使者として放たれた時には、既に重鎮たちの会議に上っていたはずである。今頃はとうに結論は導き出されているだろう。
「あ、ありがとうございます……!!」
これまでの遺憾も忘れて、全身の力が抜けていくようだった。毎日気が気ではなかったのだ。リトリアがロドリスに汲みすることを決めれば、自分は間違いなく命がない。
「陛下に、ご挨拶などは……」
「必要ない。そなたの帰りを待ちわびておろう。すぐにでも持ち帰った方が良いのではないか。馬を用意させている」
「ありがとうございます」
必要ないと言うのであれば、遠慮なく省かせていただこう。風来坊のようなリトリア国王は、上品なヴァルス貴族に慣れきっている彼の肌には合わなかった。会わなくて済むならそれに越したことはない。
手早く身支度を整えて、足早にラナンシー城を後にする。馬を駆って市街門へ向かった彼は、ヴァルス王城シャインカルクからの正規の使者であることを示すプレートを示した。
戦時中とあれば尚のこと、国への出入りは厳しくなる。休戦の申し入れなどを伝える使者さえ阻まれるのであっては、事態の好転は見込めない。ゆえに、ことがスムーズに運ぶよう、使者は使いに出される時は日付と各国の王家の紋章を刻んだプレートを携帯するのが常だ。
だが、逆に言えばそのプレートを身につけている者は道中危険にさらされる。極秘の情報を携えている可能性が高い為、敵対する国の標的となりやすいのである。その為、関所を越えた時点でプレートを隠すのが通常だった。
だが、バイカーは急いたあまりに、それを忘れた。首からぶらさげたプレートを、軽く胸元に引っかけたままでヴァルスめがけて疾走した。
リトリアからヴァルスへ戻るには幾つかの道筋があるが、最短を選ぶならばガレリア山脈を越えてロドリスへ入る進路だろう。ガレリア山脈は鬱蒼と深く、一部非常に険しい道があった。かつては容易に逃げられないその地形を好んで根城にしていた山賊がいたらしいが、このところ噂が絶えている。
急激に細くなったその道にさしかかったバイカーは、馬を下りた。この手前で休憩を取った方が良いだろうか。夜の山越えは、魔物に遭遇するかもしれない。
そう考えて躊躇した矢先、前方から物音がした。どきりとして目を見張る。薄暗闇に目をこらしたバイカーは、月明かりにきらりと何かが反射したのを見て心臓が捕まれたような気がした。魔物の目が光ったのだと思ったのだ。
じっとりと汗の滲む手で、腰の剣に手を伸ばす。魔物の徘徊するこの世の中で使者に選出されるくらいだから、腕に覚えがないわけではない。とは言え、余裕でいられるほどではない。
「おやーおこんばんわー」
だが、がさりと茂みから現れた姿を見て、全身から力が抜けた。剣の柄から手を離す。
背の高い男だった。人が良さそうな顔に、間抜けに見せる丸眼鏡がちょこんと乗っている。先ほど反射したのは、これだったのだ。
「こんな時間の山越えは危険ですよぅー。ほらもう私なんか見て下さいよぉ。あっちで崖から転げ落ち、こっちで岩場に叩きつけられ……猛獣には襲われるし魔物は追いかけてくるし馬には逃げられるし同行者とははぐれるしで」
「……」
それは既に死んでいてもおかしくない。
「ですからおやめになった方が……うひゃおーうッ」
何をかましたやら、頭の悪そうな雄叫びが聞こえたかと思うと、がさり、ずざざざざ……と言う音が聞こえ、そのまま姿がかき消えた。どこか下の方で「うう〜……右足の小指を突き指した……」などと言うやたらと具体的な申告が聞こえ、ずるずると這い上がるような音が近づいてくる。
声をかけたものか、気味が悪いので放っておくか迷っているうちに、再び男が姿を現した。顔中にひっかき傷を作り、乱れた長い黒髪には枝やら枯れ葉やらを絡ませている。
「ほらね……危ないんですよ……」
「……」
言って這い上がってきた男に、ふと疑問がわいた。ガレリア山脈は付近に大きな街はない。まさか徒歩で遙々?ありえないことではないが……。
不意に、バイカーの握っていた手綱が強く引かれた。怯えたような嘶きが上がり、馬が激しく身をよじる。
「うわ……?」
ぐいっと体ごと引きずられる勢いで、馬がバイカーの戒めを逃れて駆けだした。あまりに突然の出来事で、咄嗟に態勢を崩したバイカーはもんどりうって地面に倒れ込む。気づくと、男はすぐ間近まで接近してきていた。
「本当に、馬ってのは聡い生き物ですよね」
「――え?」
目をしばたく。男が腰に下げたセイバーに手を伸ばすのをのんびりと見つめた。
「危険な生き物を見ると、生存本能ってやつが働くわけですよ」
「……」
「人間って奴が、1番鈍いんです」
しゃら……とガラスのような音が聞こえた時には、既にバイカーの喉元に男の構えたセイバーが突きつけられていた。ぼんやりと、どこか他人事のようにそれを認識する。魔剣だろうか、仄かに剣から青白いオーラがたゆたう。
「……ヴァルスの使者ですね?」
男の行動と、妙に丁寧な言葉遣いがそぐっていないような気がした。
剣をバイカーの首筋に押し当てたまま、男の伸ばした片手が首からぶら下がるプレートに触れた。
「良かった。すれ違ってしまわないか心配だったのです。……こうして無事放たれたと言うことは、何か素敵なお話をいただいたのでしょう」
「……」
答えるわけにはいかない。もっとも、男の方もさして返答を期待しているわけではなさそうだ。
「私はハーディンに縁のものでしてね。そのままお帰しするわけにはいかないんですよ。……おわかりでしょう?」
穏やかな口調を崩さないのがかえって恐ろしい。
「いやいや、私もね、こんな手荒な真似はしたくはないんですがね。いずれにしても、このままあなたがヴァルスに帰ればリトリアはロドリスと敵対することになるでしょう。まーずいんですよ。減棒になってしまう」
ですから人質になって下さいね?と覗き込んだその瞳が、黄金色に輝いた。
「ああ、大丈夫です。怖い思いは大してしませんから。いずれにしても、ロドリスとしては賭けに出ざるを得ないのですよ。指をくわえて見ていてはリトリアを持っていかれるんであればね……やらないよりは、やってみた方が結果が変わるかもしれないでしょう?」
だからね、と男が続けた言葉の先はバイカーの耳に届くことはなかった。ぼとり、とタチの悪いオブジェのように、その首が地面に落ちるのと、男が言葉を続けたのはほぼ同時だった。
「……あなたの首を、人質に欲しいんです」
ね?怖い思いは、しなかったでしょう……?