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禍々しい黒焔が噴き上げた。
その余りの苛烈さに、見る者がいればどれほど邪悪な異形の者がその黒焔から姿を現すのだろうと恐れ慄いたに違いない。
それほどにその焔は、巨大で悪意に満ちていた。
黒焔を噴き上げる魔法陣の周囲には、石や木を使用した複雑な……あるいは奇怪な小物が配置されている。
魔法陣の前に立つ黒衣の老人が何事かを呟くと、その動きに合わせるように一層噴き上げた黒焔が舞い踊った。いよいよ増していく禍々しさは、今しも強靱な魔物を生み出そうとしているかに見えた。
だが。
「く……」
空気を震わせるような低い音が上がったかと思うと、次の瞬間には黒焔は綺麗に消え失せていた。今し方の光景はまるで幻影であったかのように、微塵も黒焔の名残は残っていない。
「やはりまだ無理か……」
場が整っていない。様々な意味で、尚早と言えた。
「げほッ……」
むせこんだバルザックの口から、赤黒い飛沫が散る。その背中に、ごわついた声が投げかけられた。
「無理をすれば、時が満ちる前に力尽きようぞ」
「余計な気遣いだ」
口元の血を拭いながら、背後を振り返る。小柄な体はビヤ樽に似て、短い手足と濃い褐色の肌、大きな顔にはふさふさと豊かな髭が生えている。ドワーフだ。
「焦らずとも瘴気は集まろうが」
「……焦っているわけではない」
短く答えてそれきり黙りこくる老人に、ドワーフは鼻をひとつ鳴らすと踵を返した。
別に、友人ではない。単にバルザックにとって都合の良いこの地に、変わり者のドワーフが住んでいただけのことである。
と言って、全くそれだけの縁、と言うわけでもなかった。
バルザックが持ち込んだ黒竜グロダールの宝玉をロッドに仕込んだのは彼だし、現在試みている召喚に必要な道具の細工を施したのも繊細な職人である彼である。
彼は、バルザックが何をしようと興味がない。悪しき者を召喚したければするが良いし、この世の破滅を願うなら願えば良い。人間同士の争いなど些末な出来事だった。
石造りの小さな家へと戻り、壁にかけられた壮大なタペストリーへと視線を注ぐ。荒れ狂う海へと小さな船で乗り出すドワーフの背後には、財宝が山と積まれている。人間どもの矮小な財貨ではない。遠い昔に現モナ公国内にひっそりと村を築いていた、ドワーフたちの財宝だ。
モナに築き上げていた村は、リトリアとモナの戦争に巻き込まれて消え去った。生き残ったのはその当時、村にいなかった彼や同様の僅かな仲間しかいない。今は散り散りとなり、人との関わりを避けるようにひっそりと生を営んでいる。そして築いた富や財貨は、どこかへ隠された。
このタペストリーと同じ壁画が、どこかにあるはずだった。
人間どもを恨むつもりはない。けれど……。
……財貨などは、どうでも良いのだ。
肝要なのは、隠された財貨の中に彼の作品が入っていることだった。
(あのブレスレットだけは……)
彼が、心を込めて丹念に細工したものだ。右と左、両の腕に填められる対になったブレスレット。
当時縁のあったある少女の為に、造られたものだった。神に愛された少女の為に。
慈愛と逞しさに満ちたその少女は、彼の目にファーラ神の再来のように映った。純粋に、彼女を讃え、敬う為だけに心を込めて造った。
その惨事が起きたのは、最後の仕上げに、中央へとはめ込む石を――その瞳の色に似合う石を探しに出た間のことだったのだ。彼が戻った時には、既に彼の作品を含めたドワーフの財貨はどこかへと隠された後だった。
以降、ブレスレットの行方はわからないままだし、少女との邂逅も果たせぬままである。
(行方さえ……)
せめて、ブレスレットさえ彼の手に届けば。
あの時手にして戻った石は、未だ埋め込まれる先がないままに彼の部屋の奥に眠っている。
短い足をせかせかと動かして、彼は部屋の奥へと歩を進めた。棚の奥深くにしまいこまれた石をそっと取り出す。もう、会えないかもしれない。手渡すことなど、今更出来ないのかもしれない。けれど。
(せめて……)
ブレスレットをこの手に取り戻して、完成させることが出来たなら。送ることくらいは出来ようものを……。
だが、彼の力では、財宝の行方を追うことは不可能だった。様々なヒントを記してあったはずの書物や何かも、その戦争の折に消失してしまっている。どこへ行ってしまったのかは、わからない。
「……」
ひとつ、ため息をその場に残し、彼は窓際にその石を置いた。どうせ盗むような者など、この地にはいはしない。
彼が去り、再び静寂に包まれたその部屋の中で窓から射し込む光を受けた石が、きらりと紫色の光を反射した。
QUEST 第2部 砕けた心
第1章 黒衣の魔術師