第2部第1章第20話 幻の王女(1)
月の光のみが、頭上の天窓から優しい包容を投げかける。
微かな虫の音しか聞こえない静寂の中、黒いドレスに身を包んだユリアはひっそりと祭壇に向かっていた。
祈りを捧げているのではない。祭壇の前に安置された、今は温もりを失った父と会話をしているのだった。
厳格ではあったが、優しい父王だった。若い頃、市井の中で生活をしていたと言う父王は、庶民の心を良く理解していたし、気さくでもあった。
身分や経歴に重きを置く傾向にあるヴァルス宮廷において、初頭こそ眉をひそめる者もいたようだが、その人柄に触れるうちに反発はなくなっていったと言う。リトリア、ロドリスを押さえ込んでいられたのは、クレメンスだったからこそと言わねばならないだろう。
「お風邪を召します」
カタン、と物音が響いた。振り返ると、扉のところに長身が姿を現していた。銀髪のヴァルス宰相は、自分などより遙かに父のことを良く知っている。
「ラウバル……」
静かに傍らに佇んだラウバルに、ユリアは再び父へと視線を戻した。
「シェインは、どうしているの?」
自分がここにいることを告げたのは、シェインに相違ない。ラウバルは、小さな笑みで応えた。
「あの男にしては珍しく、遠慮したらしい……。陛下との付き合いが浅い自分では、今のユリア様のそばにいるには役不足だと」
「……そう。ふふ……らしくないわね」
国にすれば気高い主であっても、ユリアにとってはたったひとりの父であり肉親だった。ユリアは母親を幼くして亡くしている。病がちでか弱かった彼女は、いつも布団の中にいる印象ばかりだった。
「……輝く日の恵みを受け 月影の子守に身をゆだぬる
静かに神の御手に抱かれ 愛する者への祈りを捧げん
聖なる君と共にあらん 迷いし時には光を与えるだろう
聖なる君と共にあらん 痛みし時には癒しを与えるだろう
灯火を掲げよ 何人を許したもう神の愛に
灯火を掲げよ 何人を包みたもう神の為に……」
小さな声で口ずさむ。聖書の第89番。1番好きな歌だ。母が子供の頃に、痩せた手で頭をなぜながら歌ってくれた。心癒されるような気が、いつもしていた。
――疲労回復の魔法かと思った
キサド山脈で、祭壇を目にして思わず口ずさんだ時にカズキが言った言葉だ。
「今頃、お母様とご一緒におられるかしら」
歌い終えてそう呟いた時、涙が一筋頬を伝わり落ちた。一度壊れた涙の堰は、次々と大粒の涙を送り出してくる。これで、父も母も失った。近しい血縁と呼べる人間は、ユリアの知る限り周囲にいない。
――泣き過ぎ
カズキの笑う声が、聞こえるような気がする。
「お父様のように、なれるかしら」
それはとても尊く、遠い出来事のように思えた。だが、父が亡くなりレガードも不在の今、ユリアはそれをひとりで成さねばならない。
「君主に求められるのは、自分で何かを成すような突出した能力ではありません」
しんと冷えた空気に、ラウバルの厳かな声が響いた。
「人と言うのは道具を扱う手段を知っていれば良いのであって、人自身が道具の性能を持っている必要はありません。飲食店の経営者が優れた料理人である必要がないように、あなたが優れた料理人にならなければならないわけではありません」
「でも、経営している人が料理をしている場合だってあるわよ」
悪戯めいたユリアの反論に、ラウバルは肩を竦めた。
「ヴァルスは個人商店ではありません。スタッフは、いるのですから」
言ってラウバルは、やんわりと微笑んだ。
「あなたが最初にするべきなのは、自分が何がわからないのかを知ることと、尋ねるべきことが何なのかを決めることです。政なら私やシェインが知っています。諸国のことならハイランドが。王城の人員配置や人間のことはブリューゾフが。そして戦のことならスペンサーとブレアが。わからないことは尋ねれば良いのです。まず学ぶべきことは、誰がどのような人間で何に向いているのかを知ることですよ」
それから、その視線を静かに眠る先代へと注いだ。
「あなたのお父上は、人心を掴む術を心得ておられた。人を使う才に長けておられたのです」
それきり、ラウバルは口を閉ざした。
宰相の言葉は、悲しみと不安の間を揺れ動くユリアを救い上げてくれた。ひとりでヴァルスを支えるわけではない。
「ラウバル」
「はい」
「お父様は、なぜ市井に下っておられたの」
それは、父の口からは決して明かされなかったことだった。
王族の醜い争いごとはもはやお前には関係ないのだから、と。まるで忌みごとを口にするかのように。
「……詳しいことは、私には」
「嘘よ、そんなの」
まだ涙の名残を目尻に残しながら微笑み振り向くユリアに、ラウバルが言葉に詰まる。そう、確かに嘘だ。けれど口にすることがユリアにとって最良なのか、わからない。
心優しい王女は……いや、実質ヴァルスの女王は、きっとまた心を痛めるだろう。
「兄君との間に、確執がおありだったとか」
辛うじて、無難な言葉のみを舌に乗せる。それ以上追及するつもりはユリアもないようだった。「そう」と小さく頷いて、父が眠る棺を見上げる。
……母と叔母も、余り仲が良くなかった。
ユリアの母は、教皇領エルファーラの出身だったと聞いている。エルファーラの人間は余り国間を移動しない為に、珍しいことだった。教皇庁へ訪ねた際に世話になった教皇庁高位官の娘だったのだそうだ。母に一目惚れをした父がどうしてもと母を娶り、その妹であった叔母も共にヴァルスへ来たのだと聞いている。そして妹は父の兄と婚姻関係を結んだ。
穏やかだった母に比べ、叔母は気性の荒い人間だったと記憶している。
決して悪い人ではなかったと思うが……。
(――……!?)
不意に脳裏によぎった記憶に、一瞬ユリアは戦慄した。血走った眼差し、乱れた髪……鬼のようなその形相。
(……何!?)
確かに、叔母の顔だ。自分はその姿を、間違いなく見ている。
だが、どこで?いつ?……どうしても思い出せない。
「ユリア様?」
突然硬い表情で押し黙ったユリアに、ラウバルが不審な眼差しを向けた。慌てて首を横に振る。
「な、何でもないわ」
何だったのだろう……今の、記憶は。
軽く頭を振って、記憶の中の狂気じみた叔母の姿を追い出すと、取り繕うように宰相の長身を振り仰ぐ。
「シェインは、疲れているのじゃない?」
宮廷魔術師と言う身分柄、それほど魔力を放出する機会がごろごろあるわけではない。そうそうあっても困るが。
ラウバルが小さく苦笑した。
「まあ……ユリア様の危機に駆けつけることが出来たゆえ、満足でしょう」
その言葉に思わず微笑んだ。同時に、再びカズキの言葉が頭を掠める。
――ごめんね。俺、ユリアを守ってあげられなかった
どんな気持ちでその言葉を言ったのだろうか。
結局、想いを口に出すことはなく……再び離れてしまった。
「ギャヴァンは、奪還が完了したようです」
カズキへと思いを馳せたユリアは、その言葉に我に返る。内容の重さに目を見開いた。
「いつ」
「報告を受けたのは今し方です」
シャインカルクへ戻って最初に驚いたのは、城に幾つもある館と大神殿に溢れる避難民の姿だった。監禁、そして父の死と、立て続けのユリアを慮ったようにラウバルもシェインも多くはまだ語らないが、自分が不在の間に諸国にはさまざまな動きがあったようだ。
それの最たるものが、モナのギャヴァン侵攻だと言うことだけは、聞いていた。
「そう……良かった」
自分の家に帰れないのでは心細かろう。思いの外長引かなかったことに安堵する。
「早かったのね」
「シェインが少々小細工を弄しまして」
言って思わず苦笑する。まったく意外なところで才能を発揮するものだ。
シェインの策は、複雑なものではない。
ザウクラウド要塞の兵を収容して全鑑をモナ本土へ叩きつけると見せ、その複雑な地形を利用して湾となっている本土へと侵入し、潜んでいたのである。
肝要なのは、モナに間違った情報を流すことだった。当時まだどこに潜んでいるかわからない間諜に誤った情報を与える為、ザウクラウド要塞以外の自国の軍にでさえ、実際の作戦とは異なる情報を流したのである。南下国軍1万を半数に分け、それを率いていた将官をザウクラウド要塞留め置きではなくティレンチーノ要塞へ向かわせ、ギャヴァン防衛にあたらせたのはその為だ。これで国軍将官のいずれかであるはずの間諜に、真実が漏れる可能性の排除に努めたのだ。
実際に沖へ出たのは本来の海軍1万5千のみ。とは言え沖を進む船が正確に何隻なのかなど、計れるはずもない。残る2万余はモナの去ったギャヴァン近海を、悠々と南下したのである。
船を利用した理由はいくつかある。
まず、ザウクラウドからならギャヴァンまで、海上を移動した方が圧倒的に早いこと。モナ海軍をギャヴァン沖からどかす為には、フレデリク想定外の戦力が海上へと姿を消すこと、そして迅速にギャヴァンを奪還する為だ。
要塞軍がその戦力の全てと思い込み総力を挙げて叩き潰そうとしていれば、不意に現れた数万の大軍に戦意を失墜せずにはおれまい。まして北からの要塞軍と対峙しているのなら南の海から来る軍隊は背面――挟み撃ちだ。
シェインの狙いは兵力でモナを叩くことではなく、敵の戦意を根こそぎ奪うことでの潰走だった。そして、大きな流れは狙い通りにおさまったと言っても良い。
港から投入されたヴァルス軍の姿に、モナは恐慌状態に陥り、大半は異国の地に果てることとなった。残った者も捕虜として拘束され、ギャヴァンでの市街戦が終結を迎えたのはちょうど、シェインと共にユリアが帰城した頃だったと言う。報告がもたらされたのは、先ほどのことだ。
「間もなく、避難市民たちにも結果が……」
ラウバルが言い掛けたところで、神殿敷地内に指定されている避難所の方角から、わっと歓声が上がるのが聞こえた。まさしく伝令がいったらしい。ユリアとラウバルは思わず顔を見合わせ、小さく笑った。
「明日は忙しくなります。避難市民が街へ戻る手はずも整えなければなりませんし、陛下の葬儀も準備を整えなければなりません。それにギャヴァン修復と戦死者の埋葬、把握……」
ロドリスに対する構えも本腰を入れねばなるまい。
「……そうね」
ラウバルの言葉に、ユリアは再び悲しげな顔をした。
「きっとたくさんの人が、命を落としたのね……」
今、戦勝を耳にして喜びの声を上げている人の中にも、明日には大切な人の死を知り苦しむ人がたくさんいるのだろう。――今は、まだ知らないだけで。
それを思えば、心が痛む。
戦で勝利をおさめたところで、大切な人を失っていては何の意味があろうか。
そしてそれは、敵国であるモナでさえも……。
自分は、戦を知らない。
ヴァルスが戦ったことは何度もあるが、自分は戦場に身を置いたことはないからだ。常に、守られているから。
けれどそれは、戦に心を痛めないのと同意ではない。おこがましいかもしれないが、それでも心痛まぬ人間にはなりたくない。
人は、傷を受ければ痛いのだ。……誰だって。大切な人を失えば、心が血を流すのだ。
せめて、その痛みをわかろうと努力出来る気持ちだけは失いたくはない。戦が起こるたびにいつも思う。どうして争わずにいられないのだろうと。人は、何と複雑な生き物なのかと……。
「戻りましょう」
ラウバルに優しく促され、立ち上がる。戦時中の為、偉大な皇帝の死にしては略式ではあるが、それでも国を挙げての葬儀となる。ゆっくりと父のそばにいられるのは、多分これが最後だろう。
名残を惜しむように父を振り返ったユリアに、数歩足を進めたラウバルが顔を向けた。
「心安らかに、とはいかぬでしょうが……お疲れのことと思います。ごゆっくりお休みになりなさい」
「はい」
皆が、自分を心配してくれる。
重い責務があろうと、自分はヴァルス王女に生まれて良かった。
――父と、母の子に。
心からの感謝と祈りを捧げながら、ユリアはラウバルの後を追った。
ユリアを部屋へと送り届けた後、その足で執務室へ向かう為に足を向けたラウバルは、途中の中空テラスに揺れる赤い髪を見つけて気を変えた。踵を返して階段を上がって行く。美しい満月が光を落とすテラスの手すりに背中を預け、宮廷魔術師がひっそりと顔を上げた。
「月見か」
言いながらテラスへと踏み出す。シェインは小さく笑って答えた。
「まあな。おぬしは散歩か」
「そんなところだ」
歩を進め、隣に立つ。
幻想的に広がる庭園と、遠く城壁を越えてレオノーラの美しい街並みが眺められた。
「疲れていないか」
ユリアの言葉を思い出して尋ねると、シェインはゆっくりと首を横に振った。
「あの程度の戦闘で疲れていては、宮廷魔術師などやっておれぬ」
「そうか」
口先だけでもなさそうなので、素直に受け止めることにする。ラウバルに倣うように街並みに視線を向けながら、シェインが問うた。
「ユリアの様子はどうだ」
こんなところでぼんやりしていたのは、恐らくそれが本音だろう。気がかりで、部屋に落ち着いていられなかったに違いない。