第2部第1章第17話 ギャヴァン市街戦《後編2》(1)
短い別れの言葉を残してカイルが部屋を去った後、ボードレーは再び、ひとり窓に向き直った。
戦場での別れは、そのまま今生の別れをも意味するかもしれない。けれどそれは、口に出さない。出しても意味がない。ファーラのみが知ることだ。
軽く頭を振り、デスクに向かう。乗せられた小さな額縁に、視線が引き寄せられた。妻と娘の肖像画である。まだ年若い妻と、4歳にならない幼い娘。今頃、どうしているのだろうか。不自由にしていなければ良いのだが。
ギャヴァン襲撃の報は、恐らくファーラ大神殿の方へ身を寄せたという妻の耳にも届いているだろう。ボードレーの身を案じているに違いない。
しばし家族に思いを馳せていたが、やがてそれを振り払うように立ち上がると、執務室を出て見回りがてら舎内を歩く。あの様子では、モナは今夜中に攻めて来るつもりがあるわけではなさそうだった。ならば、明日必ず訪れるだろう戦闘に備えて、こちらもゆっくりと休養を取っておいた方が良いだろう。
「隊長」
「ご苦労。変わったことはないか」
「はい。今のところ、異常は特に見られません」
「そうか。……モナが行動に出るのは、恐らく明日だろう。現在、夜営の準備に取り掛かっているようだ」
兵士の肩から、ほっと力が抜けるのが見てわかる。思わず苦笑した。
「休めるうちに、休んでおいた方が良い。交代で休憩を取ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
破顔したその若い顔に、胸が痛んだ。まだ20代と思われる青年。父も母もいるだろう。悲しませることに、ならなければ良いのだが。
そんなことを憂いながら、その場を離れる。逗留する兵士たちを激励して回り、再び執務室に戻った時には、カイルたちが出て行ってから1時間近くが経過していた。彼らは無事、ジフリザーグと合流出来たのだろうか。
(……何だ?)
部屋に入り、窓の外に視線を向けて、ボードレーはふと目を見張った。黒々としていたはずの眼下は、先程より濃いオレンジに染まっている。――炎が。
(何を、する気だ……?)
ふたつの大きく燃え盛る炎の間に、人影が見えた。列になり、恐らくは繋がれたままでモナ兵に引き立てられるように。
捕虜だ。
嫌な予感がした。
「よせ……ッ」
窓の内側から、唇を震わせて小さく叫ぶ。そのボードレーの視界の中で、オレンジに照らされたモナ兵が剣を振りかぶった。
「――やめろッ!!」
だが、制止の声など届こうはずもない。尤も、届いたところで効果を発するとは考えられないが。
がたっと窓に両手を叩きつけるボードレーの前で、無力な捕虜たちが次々と斬首されていく。……ギャヴァンの、市民たちが。
そこへ、慌ただしい足音が飛び込んできた。振り返る。自警軍の兵士だ。
「どうした」
「捕虜のひとりが、モナからの伝言を持ってッ……」
「何!?」
兵士に従って、部屋を飛び出す。案内された部屋では、全身に傷を負った男が息も絶え絶えといった風体で介護を受けていた。痛ましい。
「ボードレー殿……」
「ご苦労だった。……モナからの伝言とは」
取り急ぎ、堅いソファに横たえられていた市民が体を起こそうとするのを押し止めながら、問う。男は、苦い顔で言葉を押し出した。
「伝言、です……。『至急、開城せよ』……と……」
「……」
「さも、なくば……捕虜を、斬首、すると……」
「何……」
先程のはデモンストレーションと言うわけか。見せしめとは阿漕な真似をする。
だが、夜営の準備に入っているように見えたのに、なぜ?
「軍舎の外で、何か動きが?」
ボードレーの言葉に、兵士は力なく首を横に振った。捕虜とされていた身でわかろうはずもない。
「そうか」
モナの要求に応じるわけにはいかない。けれど、捕虜を放っておくわけにもいかない。
「くそッ……」
ジフリザーグは今、どこにいるのだろう。連絡が取れれば、外の状況もわかるのだが。
「どうしますか……」
ボードレーは頭をめぐらせた。投降するわけにはいかない。それは、ギャヴァンの降伏を意味する。モナに制圧されれば、本陣が到着した時に、外と連動出来る者がいなくなってしまう。だが、捕虜をむざと斬首させるわけにはいかない。街にはギルドが残っているのだから、ヴァルス軍と連動するのは彼らだけでも事足りるのではないか……。
「!?」
ふと窓の外に向けた目線が、そのまま固定された。
遥か遠く、ギャヴァン北部の小高い丘の上に揺れる無数の灯り。次々と灯されていくそれは、流れるように丘を下っていく。目を見開いた。
(ジフ……!!)
ジフリザーグが、動いた。
予定通りではない。ではないが、考えがあるに違いない。……あるいは、選択の余地がないか。
「隊長……ご決断を、お願いしますッ……」
「わかった」
搾るような声に重く、頷く。そして、放たれた捕虜の男に告げた。
「開城はしない。ジフの考えを、信じよう」
あの灯りがここに届くまでには、まだ時間がかかるだろう。モナ軍はまだ、気づいてはいまい……。
一同が息を飲む。ボードレーは繰り返し、決断を告げた。
「開城は、しない。……抵抗するぞ」
◆ ◇ ◆
「投降に応じる様子はあるか」
インプレスの問いに、スタルフが軍舎に視線を注いだままため息をついた。次々と斬り落とされた捕虜の首は、現在軍舎を睨むように曝されている。その中に知っている顔があれば、それを見る者の胸中は察するに余りある。
「わかりませんね。今の段階では、何とも。……いやに、静かなのが気になりますが」
「ふむ……」
返された答えに、インプレスはしばし考えるような表情をした。そして酷薄に告げる。
「10分、与えてやろう。それを越えたら、更に10人の首を斬れ。そこからまた10分後には20人だ。その10分後には30人。以降も応じる様子がないのであれば、攻撃を開始するぞ」
「……」
ギャヴァン市民の、モナに向けられる怨嗟はどれほどのものとなるのだろう。
「わかりました」
インプレスが立ち去る背中を見送り、胸元から時計を取り出す。時間を確認して、軽く頭を振った。
仕方あるまい。これは戦争だ。あちらが開城に応じれば、こちらは自国の民を失わずに済む。
(開城してくれ)
スタルフとて、無抵抗の民の首を落としてまわるよう指示するのは、快適ではない。まだ、血に酔うほどの戦闘を繰り広げているわけではないのだ。
じりじりと、無為に時間だけが過ぎていく。軍舎には何の変化も見られなかった。時計の針が無情にもその時が来たことを知らせる。
こみ上げる苦い感情を押し込めて、冷酷に命令を遂行することを己に課し、スタルフはその場を動いた。ギャヴァンを陥落し、ヴァルスがモナとの取引に応じれば、モナは貧しさから救われるはずだ……。これは、彼らの権利と未来を掴む為に挑んだ戦いだ。
言い聞かせながら手近な兵士を呼び止めた。
「追加だ。捕虜を10人、連れてこい」
「はい」
そしてまた繰り返される、鮮血に染まった呼び掛け。開城を呼び掛ける使者となる捕虜でさえ、満身創痍で指を切り落とされた状態となった。これで応じなければ、次は果たしてどうなるのだろう。
新たに斬り落とされた首を、門前に並べるよう兵に指示しながら暗澹たる気持ちを押し殺していると、不意に怒号が聞こえた。顔を上げる。続けざまに金属音と羽鳴りが聞こえた。
「何だ、どうした!?」
怒鳴りながら、剣の柄に手を掛け走る。軍舎の上方から、人影が見えた。どうやら軍舎から攻撃を受けたらしい。開城するつもりがないと言う意思表示だろうか。
矢は、次々と射かけられて来る。モナ兵の中にも弓矢を取り上げて応戦する者がいるが、高度があるのとないのとでは当然飛距離も威力もまるで違う。無駄遣いと言うものだ。
「よせッ!!放っておけッ」
どうせこちらに大したダメージは与えられない。
スタルフが制止の声を上げたその時だった。別の方角から声が上がったのは。
「な、何だ、あれは……!!」
「騒々しい!!今度は何だ!?」
苛立って怒鳴りながら声の方角に顔を向けたスタルフの表情が、そのまま凍り付いた。
「何だあれは……!!」
不本意ながら、自分が怒鳴りつけた兵士と同じ言葉を呆然と呟く羽目になる。
軍舎前の広場から、僅かに見える小高い丘。大して高いわけでもないが、周辺に民家はなく草木が生い茂り、モナ軍がまだ探索にまで及んでいない地域。
そこから、流れ出るようにオレンジ色の炎が下る。そう、まるで……軍隊が、松明を掲げて猛烈な勢いで行軍をしているような……。
「ヴァルス軍だ!!」
「!!」
誰かの叫びに、弾かれるようにスタルフはその場を駆けだした。インプレスがいるはずの幕内へと、足を走らせる。
「司令官殿ッ」
駆け込んだスタルフに、外の騒ぎが耳に入ったのかちょうど表へ出ようとしていたインプレスが眉根を顰めた。
「外が騒がしいな。何があった」
「ヴァルス軍がッ……」
「何?」
短く告げた言葉にインプレスの顔色が変わる。スタルフと共に足早に外へ出ると、まだ遠く流れる灯りに息を飲んだ。小さな呻きが上がる。
「馬鹿な……ヴァルスは既に街に侵入していたと言うのか……!!」
しかし、どこから。
「……予め潜伏していたのやもしれません」
その説には無理がある、とわかっていながら、口にせずにいられない。
ヴァルス軍が予め街中に潜伏していたのなら、初戦でなぜ出てこなかった。正規軍が出ていれば市民の莫大な被害はなかったろう。それに、ヴァルスの情報は間諜からもたらされている。正規軍が潜伏していたと言うのなら、その情報はモナに伝わっているはずだ。
だが、侵入にも無理がありはしないか?街外から突如、外れとは言え街中の丘に、軍隊が出現できるような道があると?しかしそうでなければヴァルス軍は 魔物のように湧いて出たことになってしまう。
「各班号令ッ!!ヴァルス軍襲撃だッ。攻撃に備えろッ」
響いたインプレスの声に、伝令が飛ぶ。たちまちモナ陣営は慌ただしい空気に包まれた。武器を装備し直す音、仲間に呼び掛ける声が飛び交う。
とは言え、補強作業や市民軍捜索などにあたっていた兵たちがまだ街中に散らばっている為、総力とは言えない。ヴァルス軍は強い。あの、流れる灯りのひとつひとつが兵だとすれば、5千は堅いだろう。背後に立てこもった自警軍がいることを思えば、苦戦するかもしれない。
そうでなくてもモナ軍は、やっと訪れたはずの休養を返上する羽目になって士気が落ちている。慣れない船上生活が続いていたのも、痛い。
そんな内心の苦渋を押し隠して、インプレスは剣を手に前方を見据えた。炎の奔流は止まることを知らぬように押し寄せる。
いやむしろ、平地に入って尚、勢いが増したかのようだ。地を揺るがすうねり。足先から伝わる振動を受け止めながら、柄を握る指に力を込める。ヴァルス軍は陣形を整えることなく、そのままの勢いで突撃してくるかに見えた。
だが。
「……何!?」
炎の奔流がその姿を露わにした時、インプレスは思わず己の目を疑った。咄嗟に言葉が出ない。隣に立つスタルフも同様のようだ。前方に視線を定めたまま、凍り付いて動かない。
「……何だ、あれは」
「牛……ですね……」
余りに馬鹿馬鹿しい答えに、インプレスも返す言葉が浮かばない。こちらへ向けて防護壁沿いに一直線に押し寄せる暴徒は、間違いなく牛だ。それも……何千と言う数の。
「うわあああッ」
予想外の、だが破壊力で言えばヴァルス軍を上回るであろうその暴徒たちに、モナ兵の陣営は総崩れとなった。人間相手なら闘いようがあろうものを、牛の巨体が群をなして突進してくるとあればその破壊力は並大抵のものではない。しかもタチの悪いことに、暴徒たちはその両角に燃え盛る松明を括りつけられ、我を忘れていた。
「ふざけるなッ……」
こんなおちょくったような真似を考えつくのはギャヴァンギルドの長――『トゥルス』だろう。舐めた真似をしてくれる。
思わず剣を叩きつけそうになったインプレスを、スタルフは引きずるようにしてその場から引き離した。このままでは『暴動』に巻き込まれかねない。
各所を封鎖され、こちらへ誘導するような狭い道を突進して来た牛の群れは、ようやく広場に放たれて怒りの赴くままに思い思いに暴れ回っている。何人もの兵士たちが、その勢いを受け止める羽目になって命を落とした。軍舎の方からは、ここぞとばかりに矢が射かけられ長槍が投げつけられる。背後に気を配っている余裕などどこにもないモナ軍は、牛と自警軍の望むままに踊ることとなった。
「いったん退けッ。牛さえいなくなればヴァルス軍はここにはまだいない!!」
だが、襲撃して来たのがヴァルス軍でなかったということは、相変わらずこの街には自警軍と僅かな市民軍しかいないと言うことではないのか。
インプレスの言葉が届いた者は、その意味を正確に理解した。所詮牛など動物。放っておけば散るに決まっている。闘うべき相手などどこにも存在しない。
しかし、モナ軍の希望は、激しい爆音と共に消し飛んだ。地響きを上げた西の空が、オレンジ色に染まる。
「何だ!?」
一体この言葉を、この夜の間に何度口にしたことか。
スタルフが見上げたその先には、軍舎の陰から勢い良く噴き上げる炎があった。またも轟音が響く。炎と黒煙に混じって木片が幾つも舞い上がるのが見えた時、スタルフは軽い恐慌に陥った。
「ヴァルス軍だ……」
「何?」
インプレスが、己の幕僚を見下ろす。だがスタルフの目は、夜空を染め上げる火柱と黒煙に向けられたままだった。
「ヴァルス軍ですよ……やっぱり侵入してるんだ……。敵襲と思ったものが牛の暴走だったって安心させて、怒らせて……油断したところで、今度こそ本物が……」
「まさか……!!」
スタルフの狼狽したような声が、周囲の兵士に不安を伝播させた。緊張が辺りを包み込む。何かに引火したのか、一際大きな爆発音が、牛の暴走する音に混じって響いた。怒号と羽鳴り、逃げまどう足音も暇がない。
「だって人がいなけりゃ、あんな爆発起こりませんよ!!何者かが意図的に……」
何者か――牛の暴動を起こした人間と、同じに決まっている。そうでなければ、こうも計ったようにことが起こるものか。
「私に続けッ。牛には構うなッ」
言ってインプレスは抜き身の剣を片手に、その巨体からは考えられない俊敏さで駆けだした。
とは言っても、暴れ回る牛の暴動をそう簡単に『構わず』にいられるわけもないのだが、それでもその場にいた幾人もが司令官を追って走り出す。
呆然とその場に立ち尽くしたスタルフの耳に、更に絶望的な物音と怒声が届いた。
「本物のヴァルス軍が来たぞぉぉぉッ!!」
「ヴァルス本陣が、街中に侵入してるぞぉぉッ!!」
続けざまに起こる予想外の出来事に総崩れとなっていたモナ軍に、勝機を見出す手立てはなかった。