第1部第3話 紫眼の少女(2)
「そう。……明日へ向かう生命と言うものを、守る義務。それが、生命を与えられた者全てに定められた義務なんだ」
生命を与えられた者に定められた、義務……。
ナタがそう言い切ったところで、ふさっと布の扉が開かれた。シリーが顔を覗かせる。
「お堅いお話は終わったかい」
言ってシリーは、俺に衣服を投げてよこした。咄嗟にそれを受け取って、視線を落とす。
……良いのかな。俺、レガードの代わりやんなきゃいけないから、レガードの服着てなきゃまずくないのかな……。
でも、確かにこんな血みどろの服を着ていたくない。ウォーウルフの爪で破れてるし。怪我をした方の腕は、じんじんと痺れてきて、上手く動かなくなって来ている。
「ありがとう」
礼を言って、傷の痛みを堪えながら身につけていたマントと裾の長い上着を脱いだ。中はタンクトップみたいな袖のない服を着ている。その上にシリーが持って来てくれたシャツを着た。
……でもな。俺、鎧をつけていない代わりに、シェインがこの上着に防御魔法を付与してくれたんだけどな……。
「やだな。待ってたの?」
「邪魔しちゃ悪そうだったからね。……メディレス」
シリーの声に応じて姿を現わしたのは、巨漢の男だった。禿げ上がった頭にでかい傷跡がある。落ち窪んだ悪そうな目つきをしていて、手に持ったロッドは俺の身長ほどもありそうなのにやけにちっちゃく見えた。
「……このコ?」
軽くビビった俺は、その口から発せられた弱々しい声に内心がくりとなる。
「そう。魔物に襲われて怪我したらしいんだ。今そのせいで発熱してる。治してやってくんないかな、悪いんだけど」
「いいわよ」
……いいわよって言った? 今。
呆然としている俺に、大男はのそのそと近付いてきた。頬が微かに赤らんでいるのが……怖い。
「私はメディレス。パララーザのソーサラーなの」
「あ、えと、あの……カ、カズキです」
「カズキ。良い名前だわ」
おお。この世界に来てから初めて聞く言葉だ。
「すぐに治してあげる」
俺のそばに屈み込んだメディレスは、そう言うとにっこり笑ってこげ茶色の瞳を閉じた。
「ゲヌイト・オムニア・フォルトゥーナ・カウサエ・マナ、クーラー・イプスム。『癒しの雲』」
メディレスが唱え始めた時から、俺の周囲の空気が微かな光を放ったように思えた。そしてその言葉を唱え終えた時、体に重く圧し掛かっていた疲労が解け、肩の痛みが消えていった。
「嘘ぉ……」
思わず呟く。だって……。……えー? まじで?
肩の、ウォーウルフにすっぱりとやられた爪傷が、消えたのだ。しかも、完全に。
全然痛みなんかない。やっぱり傷のせいだったのか、頭を霧が覆っているようなぼんやりとした熱さも消えていた。ついでに疲労もなくなっている。今からだってギャヴァンに向かって出発出来そうだ。
「どう?」
呪文を唱えた時の朗々とした声はどこへやら、また元の弱々しい声に戻って、メディレスは微笑んだ。
「凄い!! 治ったみたいです。ありがとう」
「どうしたしまして。……カズキちゃんたら可愛いから、中級クラスの魔法をかけたわ。サービスしたわ」
……。
「ありがとう……」
カズキちゃんって……。
「こんくらいの傷だったら、『癒しの雫』で十分じゃんよ」
しらっとナタが言った。メディレスがもじもじとナタを見た。
「意地悪ね、ナタったら……」
けたけたと笑っていたシリーは、その笑いをまだ顔に残したままで俺に言った。
「さ。魔法で回復したとは言え、疲れてんだろ。今日はゆっくりここで休んで行くと良い。食事はとったのかい」
あ。
「まだでした」
言われるまで忘れていた。それどころじゃなかったんだ、精神状態が。
思い出してみれば、空腹を覚える。急にぐうーっとお腹が鳴った。
「おいおい。この時間まで飲まず食わずで来たのかい?」
シリーがさすがに、呆れたように俺を見た。そんなこと言ったって……。
「仕方のないボーヤだね。ちょっと待ってな。何か残っているか見てきてやるから」
「あ、大丈夫です。俺、パン持ってるし……」
慌てて横に放り出した荷袋を取り上げようとすると、シリーがびしりと制した。
「待ってろと言ってるんだよ。保存食は持っておいた方が良い。いつありつけなくなるかわかんないご時世なんだからね。提供してくれる人間がいる時は素直に受けときな」
言い捨てるようにして出て行く。その姿をぽかんと見送ってから、俺ははっとレイアのことを思い出した。
しまった今まで忘れてたけど随分静かだけど、どうしたんだろう。
「レイア?」
頭の上にいるのはわかってんだけど。目だけ上げるが、その姿は見えない。メディレスがくすっと笑って指差した。
「寝ちゃってるわよ」
「え?」
人の頭の上で? 失礼な。
「疲れていたのでしょう。そのまま寝かせてあげたら良いわ」
「でも……レイアも俺と同じで食べてないし」
言いながら悪かったな、と反省する。レイア、俺が余りに切羽詰ってたから言い出せなかったんじゃないだろーかと思って。
「大丈夫よ。ピクシーでしょう。ピクシーはほんの少しの食事と妖精の水で3日は持つはずだわ」
へ?
「そうなの?」
「そうよ。……あなた、本当に何も知らないの?」
「はぁ……」
メディレスがそっと、俺の頭からレイアを起こさないよう取り上げながら問う。
どう言ったもんか迷った末に、俺は散々俺を助けてくれたこの人たちを信用することにした。……もちろん、アルトガーデンのお家騒動やレガードの話なんかは出来ないけど。
「あの、俺、実はこの世界の人間じゃなくて」
「は?」
ナタとメディレスが同時に、ぽかんとした顔で言う。そこへ、でかい木の器にスプーンを突っ込んだものを持ってシリーが戻って来た。湯気がふわふわと漂っている。おいしそうな匂いがした。
「まだシチューが残ってたよ。こんなもんで良ければ食うかい。……何変な顔をしてんだい、2人とも」
「いただきます」
ぺこんと頭を下げて、受け取る。
俺のいた世界と同じような、白っぽいとろっとした液体の中に煮込まれた野菜や肉がたっぷり入ったシチューだった。おいしそうな香りがする。
この世界の食べ物は、シャインカルク城で過ごした時間の中で見たことのない食べ物とか当然いっぱいあったけど、別に俺の舌に合わないものじゃないことは検証済みだ。ありがたくスプーンに手を伸ばす。
「この世界の人間じゃないって……」
メディレスが困惑したように、俺にかシリーにか呟いた。「は!?」とシリーが頓狂な声を上げる。……うまいな。何か、城で食ってた上品な食い物よりこういう庶民的なモノの方が俺には合ってるみたい、やっぱり。
「ほうれす」
はふはふと頬張りながら答えると、全員の視線が俺に集中したのがわかった。
「どういうこと?」
ナタが身を乗り出して尋ねる。
「や、俺にも良くわからないんだけど……。どうも、こっちの世界に紛れ込んじゃったみたいで」
「じゃあカズキはどっちの世界の人間なのさ」
「あっち」
「あっちってどっちだよ……」
これ以上説明の仕様がない。今なら、最初の浄化の森でレイアが説明に困った理由もわかる。
「それは、良くわかんないけど。俺のいた世界では魔物なんかいなかったし、魔法も魔術師も妖精も……全てがいなかったです」
「え、だってちゃんとヴァルス語しゃべってるし」
ナタが言った。人参に似た野菜に息を吹きかけて冷ましながら、頷く。
「レイアが教えてくれたんだ。なぜか最初からレイアの言葉だけはわかったから」
「妖精族だからね、きっと」
以前レイアが言っていたのと同じようなことをメディレスが言った。
「うん。多分」
「何をしに、ギャヴァンへ?」
シリーは床にどっかりと腰を下ろして胡座をかくと腕を組みながら尋ねた。
「シサーって人に会いに。俺、元の世界に戻る為に、ちょっと人に頼まれたことがあって」
「頼まれたこと?」
「シサーに会うのかい!?」
メディレスとシリーの言葉が被った。ので、どっちに答えて良いのか困惑する。
……あれ?
「頼まれたことは、言えない。……シリー、シサーを知ってるの?」
シチューを空にして「ごちそうさま」と皿を床に置く。シリーはにやりと笑った。
「知ってるさ、もちろん。あたしの中ではピカイチの男だね」
へええ?
俺の中ではシェインと同類だと思っていたので、意外だった。……と言うと、シェインに殴られそうだけど。
「ふうん? かっこいいんだ?」
「そりゃあもうあんた。剣の腕は一流だし、頼りになるし。あんたみたいなガキジャリとは一味違うよ」
悪かったね、ガキジャリで。
何だかシサーに心酔してるみたいだから、話半分に聞いとこう。
俺が顔を顰めると、メディレスがもそもそと俺をフォローするように言った。
「でも……カズキちゃんはこれで、良いと思うのよ。素直で可愛いし……」
だからその可愛いって何なのさ……。
「良かったね。メディレスはシサーよりあんたの方が良いってさ」
シリーはそこまで笑わんでもえーだろと言うくらい、爆笑をかましてくれた。……失礼な。
「シリーたちは、いろんなところを旅してるの?」
意味もなく頬を軽くつまみながら尋ねると、シリーはこくりと頷いた。
「そりゃあもういろんなところに行くよ。ローレシアだけじゃない。行ったことがないのは、フレザイルだけだ」
フレザイル……北の、氷の大陸。
「何でフレザイルには行かないの?」
俺の問いにシリーは、やれやれと言うように軽く顔を振った。……しょうがないだろ。わかんないんだから。
「フレザイルに行ったって、商売になんかなりゃしないからね。いるのは氷の魔物ばかりだ」
「そうなの?」
「そうさ。尤も……」
にやり、と含みのある笑みを浮かべる。
「お宝もあるって話だけどね」
「お宝?」
「魔剣『ラグナロク』だ」
何だかRPGめいて来たぞ。
魔剣……エクスカリバーの伝説の話でもそんな言葉が出てきたな。
「何、魔剣って」
「魔法を帯びた剣さ。『ラグナロク』はその昔神が鍛えたと言われる炎の剣だ。魔力を持たない人間でも、ハンパな魔法より遥かに強力な火の魔法を使うことが出来るらしいな」
「へえ。そんなのがあるんだ」
便利そうだなぁ。俺のこれも、剣が勝手に魔物を倒してくれないだろうか。俺が逃げてる間に。
「さて。そろそろ休みなよ。あたしらも休もう。……カズキ」
「あ、え?」
胡座を解いて立ち上がりながら、シリーが手を出した。
「その上着、貸しな。そのまんまじゃ着るに着られないだろう。明日出発するまでに綺麗にしておいてやろう」
え、そんないろいろやってもらっちゃ、悪いよ……。
「気にするな。これも何かの縁ってやつさ。今度会った時に借りを返してくれれば良い」
借りを返すも何も、俺、何も出来ないんじゃないかなあ……。あ、それに。
洗濯とかして防御魔法って消えたりしないんだろうか。
……別に汚れだとか装飾品とかじゃないから……消えるのも変だけど。でも何かやっぱり、落ちちゃうような気がしちゃうじゃん。
「何だよ?」
「これ、防御魔法がかかってるらしいんだけど」
試しに言ってみると、シリーはまたも大爆笑をかましてくれた。何だか笑われてばかりのような気がする。
「カズキ」
ナタががっくりと肩を落として、俺の肩にぽんと手を乗せた。
「……洗濯して落ちちゃう魔法はない」
「あ、そう?」
その言葉に安心して、俺はまだ笑い転げているシリーに上着を手渡した。
「お願いします」
「あんた面白いよ、ホントに」
「カズキちゃん、ゆっくり休んでね。ナタ、部屋に案内してあげて」
「はーい」
「じゃあな。おやすみ」
シリーとメディレスが出て行くと、俺もナタに案内されてその部屋を後にした。