第2部第1章第11話 魔術師の館1(1)
「ひでぇ雨だなあー」
シサーが長い髪の尻尾を親指でぴんと弾きながら、曇天を見上げた。
水分をたっぷり溜め込んでいるかのように重たく垂れ下がった雲は低く、少し高いところに上ったらその『もこもこ』した感触を楽しむことが出来そうだ。
目が覚めて歩き始めてから、既に空は一面を覆う雲で暗く、空気には雨の粒子が漂っているような匂いがしていたのだけれど、本当に降り始めたのは今し方だ。そして、降り始めたと思った時にはもうびしょ濡れになるような、そんな降り方だった。まるでテレビの罰ゲームのようだ。
「やむかな」
俺とシサーの間にしゃがみこんで空を見上げたまま、キグナスが呟く。こちらももちろんずぶ濡れで、頭にタオルを被ったままだ。
「やあね。足止めされてるみたい」
背後でぼやくように、ニーナが呟く。振り向くと、俺たちが雨宿りに潜り込んだ大木の幹に寄り掛かるようにして腕を組んでいた。
「雨、好きなんじゃないの」
俺たち6人……いや、レイアは大したスペースとらないから5人が潜り込んでもまだまだ余裕がある巨大な木とは言え、時折葉と葉の間から垂れてくる雨水が額にかかり、片手で拭いながら言う。ニーナは軽く肩を竦めた。
「好きよ。恵みだもの。濡れるのは苦にならないわ。……でもまるで、行くなって言われてるみたい」
地を穿たんとするばかりに叩きつける雨に、視線を戻す。地面を叩いた雨が跳ね上がり、地表付近はまるで霧がかったように煙って見えた。雨の音以外に、聴覚に訴えてくるもののない世界。霞んだ視界の遠くで、目指す森が既にその姿を現していた。
そこへ突然、足音が聞こえてきた。激しい雨を跳ね上げる、ばちゃばちゃと言う音。
「***********!!」
貧しそうな身なりの男が2人、飛び込んでくる。突然の豪雨にやられたらしい。農民だろうか。首からタオル……と言うよりはボロ布と表現すべきなただの布をお揃いでぶらさげていた。例外なく2人ともぐっしょり濡れて、あちこちからぽたぽたと水滴を垂らしている。しきりと拭くが、ボロボロの薄布で何の効果もないようだ。
ちゃんと雨を凌げるようにつめてやると、俺はちょっと迷ってタオルをひとつ差し出した。まだ濡れていない新しいものだ。驚いたような顔をした男たちは、大層恐縮したように日に焼けた朴訥な笑顔を浮かべて、何か言いながら頭を下げた。
どうやら、ロドリス語らしい。さすがに王都外の農民にまでは、ヴァルス語が浸透していないと言うことだろうか。手で腕や頭の水滴を拭いながら、男たちは何やらしゃべり始めた。
内容がわからないし、興味もさしてないので、視線を空へと戻す。雲の切れ間から太陽の光が霞むように届き、けれども激しい雨は相変わらずで、遠くの森と相まってどこか宗教画のような壮麗で神秘的な光景だった。
ぼんやりとその光景に目を奪われながら、黒衣の魔術師を思い出す。
バルザックなんかに、勝てるんだろうか。
聞いた話では、かつてシャインカルクでシェインとも1度軽くやりあっているとのことだったけど、負けはしなかったが勝てもしなかった、と言う結果だったらしい。
当時シェインはまだ宮廷魔術師になりたてだと言うから、今はまた違った結果になるのかもしれないが、にしたって先代、先々代を凌ぐと言われていたわけで。
……そんな奴相手に勝ち目があると思えるほど、俺は楽天家じゃない。
ニーナの魔法は安定しているけれど、一発で倒せるような強力な魔法ではないし、レイアやキグナスはそれほど多くの魔法を使えない。クラリスは小さいとは言え神殿を預かっているそうだから神聖魔法の使い手としては上級なんだとは思うけど、生憎神聖魔法は攻撃をさほど得意としない。シサーだって魔法をぶっ放されたら避ける以外に手の施しようがない。俺は論外だ。魔法をぶつけられたら、とりあえず死ぬしかない。……嫌だな。
シェインじゃないけど、勝てなくても良いから負けなければ……せめて、ユリアを取り返せれば。
そこまで考えて気が付く。『王家の塔』攻略には、どちらにしても倒さなきゃならないのか……。
しみじみと深いため息をついていると、視界の隅、俺の隣で蹲るようにしていたクラリスが身動ぎをした。何かに驚いたように目を見開き、顔を上げる。
「……クラリス?」
気付いて声を掛けるが、クラリスは視線を一点に注いだままこちらを向かない。見つめているのは、さっきの男たちだ。彼らは先程から、絶え間なく雑談を続けている。
「*******?」
クラリスが彼らに何か言った。微かにその表情が強ばっている。……そうだった。クラリスは問題なくヴァルス語を話すから忘れてたけど、ロドリスの人なんだ。彼らの会話がわかったって不思議じゃない。いや、わからなきゃ不思議だ。
「どうしたんだ?」
シサーに問われて、顔をそちらに向ける。ニーナやキグナスも、こちらを見ていた。
「……さあ」
「?」
俺が首を振ると、シサーも彼らに視線を向けた。クラリスはまだ彼らと話している。その会話に耳を傾けたシサーの顔色が変わった。
「どうしたの」
問うのと同時にクラリスが彼らに頭を下げ、立ち上がってこちらを向いた。
「……開戦だ」
え?
シサーの言葉を受けて、クラリスが頷いた。キグナスが立ち上がる。
「開戦って、ロドリス?」
「いえ。モナです」
モナ……じゃあ、ギャヴァンが。
「昨日、ギャヴァン港がモナより海上から砲撃を受けたと。……ギャヴァンはモナによって封鎖、籠城態勢に入っているそうです」
「……」
「もちろん、風の便りに聞いた、噂話の範囲を出ませんけれど」
開戦……。
「ユリアも、レガードも……いなくて大丈夫なのかな、ヴァルス」
「モナだけなら負けることはねーだろーが」
まだ硬い表情を残したまま、シサーが俺に答えた。それから微かに首を振る。
「わかんねぇけどな。絶対なんてことは、ないからな……」
「……」
「弱小勢力が大敵に勝利することなんか、幾らでもある」
……だとしたら。
考えようによっては、俺たちがバルザックに勝てる可能性も……万にひとつでもあるだろうか。
「上がったわね」
雲が途切れ、晴れ間が覗く。大粒の激しい雨は次第にその姿を消し、さっきまでの夕闇のような暗さも嘘のように、眩しい光が差し込んだ。陽光から零れるように僅かに残った雨が完全に止んだ頃には抜けるような青空が広がり、目にしみる。
「行くか」
気分を変えるように、がらりと声の調子と表情を一転させたシサーが言う。
「ヴァルスは、シェインやラウバルに任せておけば大丈夫だ。俺らには俺らのやらなきゃなんねぇことがあるからな。……ユリアが待ちくたびれてるぜ」
「……うん」
◆ ◇ ◆
至るところに雨の残滓を残し、葉に宿る滴がきらきらと夕陽を浴びてオレンジに染まる。気温の下がった風が、どこからか潮の香りを運んだ。気が付けば、左手の遠くには海が見える。そして右手には、鬱蒼とした森が広がっていた。黒々とした森は、アギナルド老の家を取り囲んでいた森とは比べものにならない深さだ。
「今日中に、森を抜けるぞ」
先頭を歩くシサーが言う。常に全員の状態や状況を気遣ってくれるシサーにしては、強行突破案と言うのは珍しかった。
「うん」
夜、そして森の中とくれば魔物にはがんがん遭遇するだろうけれど、この森を抜ければユリアがいるのかと思えば……のんびり「んじゃ、野営でも」と言う気分でもない。
森は、近づいてみればますます大きく、背の高い木ばかりのせいか、密集しているからか、1枚1枚の葉が大きいからか、或いはその全てか……暗かった。
森の中にはまともな道なんかない。ただ、時折誰かが通るのか、草を無理矢理分け入ったような跡がある。
誰だろう。バルザックだろうか。それとも『青の魔術師』……。
昼間の豪雨で、木々はまだ水滴を残している。がさがさとシサーを先頭に草叢を掻き分けていると、ただでさえ生乾きのような状態の全身が、またもあっと言う間に湿っぽくなった。風邪を引きそうだ。
森を抜けるのに3時間近くかかり、ようやく建物らしきものが見えた時には既に、夜だった。
「あれ、かな……」
森が途切れ、海をバックに地面が抉られるように低くなっている。俺たちがいる森との境とは、数メートルほどの段差が生じていた。ホーンテッドマンションを思い出させるような、豪奢で華麗だけどどこか陰気な感じだ。その頭上を蝙でも飛んでたらぴったり……と言うのは、バルザックがいると思う俺の偏見だろうか。
成城辺りにあるような豪邸と比べても、まだでかい。人と土地との割合か、こちらの世界はその辺、今の東京とは規模が違う。
そうは言ってもリデルやリノなんかは貧相だったし……金が物を言うのは同じか。
元々国外に使用人連れて静養に来るサーティスは貴族なわけだし、現持ち主だって俺の感覚で言えば何千万円に匹敵するような金額をぽんと現金で出すような次元の人間だ。恐らくはロドリスの宮廷魔術師なんだろうけど。
さすがにシャインカルクとは比較にならないが、小さな城と言えそうなその屋敷に目を向ける。何階くらいあるんだろう。5階くらいだろうか。灯りは灯っていない。
「どうするんだ」
何となく身を屈めて片膝をついて屋敷を凝視している俺とお揃いの姿勢で、キグナスがシサーを見上げた。シサーの視線もまた、屋敷の方向へと注がれている。
「馬鹿でかい家……」
呆れたように、レイアが俺の頭の上でぼやいた。レイアが根城にしているシャインカルクほどではないと思うんだが。
「夜のうちにカタがつきゃあ良いんだけどな。……見張りとかいると厄介だし、ちょっと見てくる」
言ってシサーが、草叢から体を起こした。
「カズキ、ここ頼んだ」
「あ、うん」
俺の返事を待たずに、シサーは僅かな足音を立てながら暗闇に紛れていった。どういうルートで偵察する気なのかわからないが、俺たちのいる、小さな崖のようなその道沿いに姿を消す。それを見送って、俺も体を起こした。
こういう時、最も危険な役回りと言うのは常にシサーが演じることになる。何かあった場合にそれが回避出来る可能性が高いのがシサーなのは確かだし、本人も別に何ら疑問がなく当然と受け止めている節さえあるのだから、それが救いではあるんだけど。
……ま、相変わらず頼りないってことなんだろうな。
そんなふうに思ってから、さっきのシサーの言葉を思い出した。
でも、そうか……。前は、シサーがみんなを離れる時には「ニーナ、頼んだ」って言ってたけど……。
……少しは、ましになっているんだろうか。
「本当にここで良いのかしらね」
立ち上がって腕を組んだ姿勢で、ニーナが屋敷を睨むような目付きをする。
「人の気配が、ありませんものね」
それを受けて、クラリスが小首を傾げた。月明かりの下、ニーナとクラリスが並んで立っていると妖精のようで妙に神秘的だ。
「違ったら、ヒサンね」
本物の妖精が、俺の頭の上で言った。……いや、ニーナだって妖精なんだが。どうしたって双方の妖精とも、性格が可憐とは言いにくい。
「どちらにしたって、探ってみるより他に動きようがない」
前髪を軽く手で弾いて言う。ここの情報だって、あれだけ時間と手間がかかってる。確かな裏はリデル全滅でとれなかったけど、それなりには根拠のない話でもないんだからアテにするしかないだろう。
「中、入れんのかな」
座り込んだまま、キグナスが俺を見上げた。俺が知るわけもない。
「さあ……普通はすんなり入れてくれるとも思えないんだけど……」
少し……引っ掛かってるんだよな。
言葉を切った俺に、キグナスが更に尋ねた。
「けど?」
バルザックがユリアをさらった目的は何なんだろう、と思うのだ。
あれから1ヵ月以上。害するつもりがあれば、とっくにやってる。
そうじゃないんだとすれば、じゃあ……変な言い方をすれば、ユリアは――『ヴァルス王女』は、どう利用出来るんだろう。
漫画でも映画でも、そして現実の事件でも……目的が当人にない場合、往々にして利用目的は定まっている。餌、だ。
ただこの場合、『ヴァルス王女』を餌にして釣り上げようとしているのが何なのかは、現状俺からはわからない。
けれど目的はいざ知らず、間接的な目的が俺たちを……『偽レガード一行』をおびき寄せることなのだとしたら。
「入れるかもしれない」
『偽レガード一行』――つまりシャインカルクの手先を、『ヴァルス王女』を餌にロドリスまでおびき寄せた理由は、どこにあるんだろう。
それに、気に掛かると言えば、やはりギャヴァンの状況も俺にとってはひどく気掛かりだった。
短い時間とは言え滞在した街が戦火にさらされているとあっては、気にならないわけがない。『海南亭』の無愛想な店員や、ユリアの髪飾りを買った土産物屋、『再会の酒場』の威勢の良いおばちゃんなどはどうしているんだろう。
そして何より。
ギャヴァンギルドであるシンが、気に掛かる。シンの安否はもちろん、それと併せて……。
(……)
はっきり言えば、俺は、レガードの行方に関してギャヴァンギルドを疑っていた。
……別に、悪い意味じゃなく。
何らかの理由でレガードはギャヴァンに留まっていて、それがギャヴァンギルド内あるいは関連したどこかなんじゃないか、と。
つまり、シンに関しても『行方を知っている』なんて生易しいものじゃなくて、もっと直接的に関係しているんじゃないだろうか。
別に根拠のない考えじゃない。キサド山脈を旅する間、シンが言ったことを思い返していてふと気がついたのだ。
――お前は、囮か
――レガードが消息を絶ち、そこで何が起こったのかを知る為にレガードの容姿を持った者が旅をする。そうすれば、その消息に絡んだ何者かがコンタクトをしてくる。『銀狼の牙』のように。
……その言葉に、シン本人は含まれていなかっただろうか。
だってシサーは初めて会った時、俺に何て言った?
――事前に聞いてなきゃ、本人だと思っちまうところだった
シサーは、短期間とは言えシャインカルクの禁軍にいたんだ。シェインやユリアとも親しい。レガードだって、そうだろう。そのシサーがそう言うくらいだ、どれほど似てるのか想像に難くない。
なのに、『借りがある』だけのシンが、俺と話す前から偽物だとあたりをつけて尾行してるんだ。不自然じゃないか?
答えは簡単だ。レガードが、ふらふら歩いているわけがないことを確信していたから――最初から、知っていたから。
そうとしか、考えられない。
まあ、あくまで俺の考えに過ぎず……まだ、誰にも話していないことなんだけれど。