第2部第1章第10話 来たるべき時(2)
グレンの内側に飼われている魔物シェイド。
炭化したような黒い、影のような肉体を持つ魔物だ。陰の空間に棲息する闇の生命体である。
だが、人間界を彷徨う時にはアンデッドに近いかりそめの姿となる為、不死ではないもののアンデッド・モンスターとして分類される。物理攻撃は受け付けず、魔法攻撃しか効果がない。グレンは育ての親の手によって、それを植えつけられた。
偉大な神官たるグレンの父親のもうひとつの顔――ネクロマンサー。アンデッドモンスターを操り生み出す、邪悪なクリエイターだ。
人間にアンデッドモンスターの邪悪な力を植え付け操ることを望んだ彼は、神官として孤児を引き受け次々とその実験台とした。だが大抵はそのまま死ぬか、シェイドに乗っ取られた。
たったひとつの成功例が、グレンだ。
まだ肉体が育ちきらず、自我が確立していないうちに合成された者は、人間とシェイドの溶け合った肉体を持つ傀儡と化した。そう、リデルの村を襲った少女たちのように。ただの、ジェノサイド・マシンと化す。
グレンが不幸にも成功例となってしまったのは、グレンが相応の年齢がいってから合成が行われたことと、単に相性が良かったに過ぎない。
それでも当初は、何度も内側に巣食うシェイドにその肉体と意識を完全に操られた。マーリアの……そして遡ればセラフィの故郷でもある辺境の村ヴァインを全滅に落とし込んだのは、シェイドに完全に乗っ取られていたグレンだった。セラフィとマーリアがいたからこそ、グレンは年を追うに連れてシェイドの制御に成功することが出来たのだと思っている。
ヴァインは、エルファーラとの国境地帯にあるファリマ・ドビトークの山頂近くだ。魔の瘴気が渦巻くとして人々に敬遠されていたその村に住むのは、様々な理由で普通の町に住むことが出来なくなった社会的な離脱者ばかりだった。
「……渡って来たのか?」
グレンの親と同様のことを行なう者がいないとは言い切れないが、少なくともローレシアにおいてグレンのようなアンデッド・モンスターと人間との合成獣が出ると言う話は他に聞いたことがない。グレン同様、トートコーストから渡って来たとしか考えられない。
「ファリマ・ドビトークの匂いにひかれた、んですかね」
私と同じように、と口の中で呟く。
元々魔性が巣食うとされて忌み嫌われていた山だが、かつては人が集落で生活を営んでいたのだ。それが確かなものとなったのは、ヴァインを全滅に追いやられて以降のことのようにグレンには感じられていた。
真実は知りようがないためにわからないが、死は穢れを呼ぶ。大量虐殺のその現場となったことが、元々の条件と相まって加速したのかもしれない。忌まわしい……強大な力を持つ魔物の通り道とされるがゆえに人が近づかず、世捨て人のみが細々と集っていたのだから。
「……それで」
「『出来損ない』が3人。ひとりは私が発見した時には既に死んでいましたが」
「死んでた?」
「ええ。恐らくレガードさんたちにやられたんでしょう。あとの2人は私が始末をしましたけれど」
「……そう。ご苦労だったね」
同胞を手に掛けると言うのは、どんな気分がするものなのだろう。無論、セラフィは他人の命を奪うことに何のためらいを覚えるわけではないのだが。
「で、『疫病神』って何なのさ」
あきれたように言うと、グレンは困惑に近い色を浮かべた顔を逸らした。
「わかりませんけれど。ファリマ・ドビトークを本物の、『魔の山』にしてしまったのは私だったような気もしますしね。それにひかれて魔性がロドリスに集い……『同じ匂い』を嗅ぎ取った彼女らのような魔物がフォグリアへ集まったら、セラフィさんやマーリアさんが危険に曝されないとも限りませんし」
「だとしたら、それはグレンをハーディンに引き込んだ僕の責任だろう。グレンが考えることじゃない」
「……」
「考えるのは得意じゃないんだろう。そういう人間がたまに頭を使ってもろくなことを考えない。無駄なことはやめるんだね」
飽くまで淡々と、殊更冷たい言い方をするセラフィにグレンは小さく苦笑した。
まったく……ろくなことを考えない。肯定をされたところで、自分の存在を唯一認めてくれたセラフィのそばを離れるなんて出来ないものを。
「そうですね」
「グレンが考えるべきは、リトリアだ。可能な限り、全力を尽くせ」
言い放って立ち上がる。グレンが短く首肯してそれに頷くのを見届けて、微笑みを投げかけた。
「僕も、今日はもう休もう。グレンもゆっくり休むと良い。いくら『人』ならぬ身でも、リトリア帰りで魔物と戦闘じゃあ疲れただろうから」
「……お気遣いはありがたく受け取ります」
ようやく微笑を見せたグレンと共に、執務室を出る。尚も言葉を掛けようとグレンを振り返ったセラフィの瞳に、いささか予想外のものが飛び込んできた。動きが止まる。不審に思ったグレンもつられて、そちらに目を向けた。
「アンドラーシさん」
通路の奥、身軽にステップを踏むようにこちらへ向かってくるのは国王の寵姫アンドラーシだった。たゆたう長い黒髪が、動きに合わせて揺れる。
「こんな深夜にご訪問とは……意味深ですねえ」
先ほどまでの殊勝さはどこへやら、野次馬根性丸出しのような声を出されて、思わずセラフィは足でどついた。
「……行くなよ?」
「……さぁて。他人の恋を邪魔するのは……。私、まだ馬に蹴られて死にたくはありませんからねえ……」
グレンを蹴り飛ばす勇気のある馬がいるものか、と内心毒づきながら、セラフィはアンドラーシに笑顔を向けた。
「いかがさなれましたか。火急のご用でも」
密やかな声で問う。甘さを含んだ澄んだ声に、アンドラーシは切れ長の瞳を細め、それからグレンに「何この邪魔な大木」と言いたげな視線を向けた。思わず内心苦笑いをする。
「陛下のことで、ご相談が。……時間も時間、セラフィのお部屋でご相談に乗っていただきたいわ」
言いながら、妖艶な笑みを浮かべる。
「このような深夜に、私の部屋に招じ入れればあらぬ誤解を招きましょう。無論、陛下を第一とお考えのアンドラーシ様のこと、周囲も良くおわかりでしょうが、中には想像の逞しい者もおりましょうから」
「想像?どのような?」
「主君と臣下の前に、男と女だと言うことが妙な噂に拍車をかけましょう。誤解される行動は、お控えになった方がよろしいかと存じます」
恭しく頭を下げるセラフィに、アンドラーシの細く綺麗な腕が伸びた。頬にそっと触れる。グレンの存在はどうやら、完全に眼中にない。
「……嫌な人ね」
「……」
「わたしの気持ちに気づかないとは、言わせないわ……」
「……何のことでしょう」
手を触れさせたまま涼しい視線を向けたセラフィに、アンドラーシは拗ねるような目線を投げた。微かに朱の唇を尖らせる。その愛らしい仕草だけで、普通の男であればふらふらとついていってしまうだろうが。
「陛下の寵を受けておられればこそ、軽々しい真似はおやめになった方が。……私は、陛下の臣下ゆえ」
「臣下の前に、男と女だと……先ほどのあなたのセリフよ」
「……ここに、いささか口の軽い男がおります。陛下に疑念を抱かれる前に今宵は」
突然セラフィが冷淡そのものの声のまま、グレンを指差した。ようやくその存在を思い出したかのように、アンドラーシの視線が『大木』もとい近衛警備隊員に向けられる。
「あら、まだいたの」
「……いえね、私もここにぼけっといるのはいかがなもんかとは思っているのですが」
「まったくね。気がきかないわ」
「……グレン、アンドラーシ様をお部屋までお送りせよ」
「はぁ……」
どうにも『押し付けられた』感が消えない。いや、まさにそうであろう。アンドラーシの不服そうな表情に、セラフィは機嫌を損ねないよう極上の笑顔を向けた。
「ごゆるりとお休みになられますよう。……おやすみなさい」
◆ ◇ ◆
ギャヴァンで市街戦が開戦された翌朝、シャインカルク城では重鎮たちが急遽召集をかけられた。まだ日の出間もなくのことである。
「こんな朝早くから申し訳ない」
会議に参加した面々を見回して、シェインが口を開いた。その隣の席でラウバルは黙したまま腕組みをしている。
「早急に耳に入れておきたいことが生じたゆえ、ご勘弁いただきたい。報告のみにて、時間はとらせぬ」
会議に参加したのはシェインを含めて13名。
ラウバル、ガウナそして財務大臣アドルフ、外務大臣ハイランド、国営大臣フォルト、枢密顧問官ラフトシュタイン、侍従長ブリューソフ、禁軍将軍のスペンサー。ブレアは現在ラルド要塞の方へ赴いている為に不在だ。代わりに王都防衛にあたっている国軍の将官4名が出席している。
「リトリアが、同盟を表明した」
ぐるりと出席者を見回したシェインは、静かに口を開いた。どよめきが漏れる。
「但し、ロドリスがリトリアとの同盟を狙っている。リトリアの動向が読めるまでは、ロドリスは足踏みをしているだろう。こちらはモナとの戦端が開かれている。しばらくはロドリスが沈黙してくれるに越したことはない。よって、水面下で、と言うことになっている」
「正式な調印は」
「調印済みだ。リトリアは確かにヴァルスの同盟国となった。……モナの本国を叩いてもらう」
厳かに言ったシェインの言葉の後を引き受けて、ラウバルが続けた。
「使者が今朝、火急で駆けつけて届けられた報告だ。ゆえにこのような時間に召集をかけることとなった。知っていると思うが、ヴァルス海軍はザウクラウド要塞に召集した兵力を収容してモナ本国へと向かっている。目一杯ロドリスと両天秤にかけている振りを演じてもらい、ヴァルス海軍のモナ海域到着と共に総攻撃だ」
「……と言うわけだ。ご了解いただきたく」
誰からともなく、拍手が起こった。リトリアはモナと国境を接している。しかもヴァルスに次ぐ大国、国王クラスフェルドは武王。国内に総大将のいないモナはひとたまりもない。
報告のみの会議を終え、あっさりと解散となった。退室していく出席者を、観察するようなシェインとラウバル、ガウナの視線に気づいた者は果たしていたのだろうか。
会議に出席していた国軍将官プロクターは、大層ゆっくりと退室し、他の将官らと共に通路を歩んでいた。
「リトリアがヴァルスについてくれたら、もう勝ち戦だな」
「やっぱりリトリアはロドリスとは相容れないってことか」
連れ立って歩く同僚の声に耳を傾けながら、内心冷や汗を隠し切れない。
「……ちょっと、寄り道をしていく。先に戻っていてくれないか」
努めて冷静を装いながら同僚と別れ、城内の通路をゆっくりと……そして誰の姿も見えなくなったことを確認すると、今度は駆け足で駆け抜けた。
プロクターは元々貧しい家庭の生まれだ。身分が重視される王城で、国軍の将官にまでのし上がった努力は並大抵ではない。そんな自分を誇りに思っていたが、生来染み付いた貧乏癖とでも言おうか、どうにも金目のものに執着し、弱いと言う点を克服することが出来ずにいる。
……モナに買収されたのは、フレデリクが公位について間もなくだ。
周囲の、身分を振り翳す人間には辟易しているから特にこだわりもない。プロクターはあっさりと、モナの間諜となることを受け入れた。将官としては破格の情報料をもらうことが出来る。
(くそ……リトリアが……)
至急、フレデリクに報をもたらさねばならない。いつも使う、腹心とも言える使者の元へ駆けつけようと人目につかない階段を駆け下りようとした時、背後から氷のような声が投げ付けられた。
「お急ぎのようだな」
「……!!」
足を止め、振り返る。ぞくりとした。視線の先にいるのは、赤い髪の宮廷魔術師。軽薄さを孕んで整ったその顔は、真っ直ぐにプロクターに向けられていた。
(いつの間に……ッ)
「シェ、シェイン殿」
動揺を押し殺し、平静さを演じながらも声が微かに上ずるのを止められない。シェインは腕を組んで、ゆっくりと階段を下りてきた。プロクターを通り過ぎて阻むように階下で振り仰ぐ。
「それほど急いでどこへ行かれるのか。他の将官は職務へと戻ったようだが」
「……いえ、具合が」
「ほう。リトリアの、ヴァルスとの同盟を聞いて具合が悪くなったか」
嵌められた、とようやく気がつく。炙り出しだ。無意識に、腰に提げた剣にそっと手が伸びた。
「そのような言い掛かりは……」
こんなところで足止めをされている場合ではない。モナは遠いのだ。そしてリトリアはモナの隣国だ。急がなければ報が間に合わない。
「安心しろ。リトリアとはまだ交渉が進行中だ」
「なッ……!?」
飄々と言った宮廷魔術師に、唖然とする。シェインは、通路の踊り場にある大きな明り取りの窓から外へと視線を向けた。さらさらと葉擦れの音が聞こえそうな、木々の揺らめきが視界に飛び込んでくる。
「じゃあ先ほどのは、嘘……」
「嘘とは人聞きが悪いな。俺の希望が口から零れ出た」
めちゃくちゃなことを言いながら、シェインはプロクターに視線を戻した。射るような鋭い瞳。言い逃れが通用しないことを察知し、剣を抜く。
「……なぜ、俺だと」
「わかったのはたった今だな。だが、シャインカルク留め置きの国軍の中にいることは今朝」
今朝?
微かに首を傾げて、シェインは口元に小さな笑いを浮かべた。
「他愛のないことだな。3種類の情報を各国軍に流した。ギャヴァンの市民軍が、ヴァルス軍誘導の為に仕掛けた細工の所在だ。後はギャヴァン侵攻軍の動向を見ていれば、どの情報がモナに漏れたのかがわかる」
「……」
「モナは、正門に仕掛けた発破への対応を最優先にした。その情報を持っていたのは城内国軍のみだ。……会議直後にひとり仲間を離れて急ぐとあれば、『俺です』と自白しているようなものであろうが」
「くそッ……」
プロクターは抜いた剣を斜めに構え、階段を蹴った。相手は魔術師。呪文を唱える暇さえ与えなければ勝てる。腐ってもこちらは将官だ。そして戦闘に有利な、高位に立っている。
だが、プロクターが予想もしない行動をシェインはとった。ロッドを投げ出し、ローブの下からショートソードを抜き放つ。勢いのついているプロクターの剣と火花が散った。
「馬鹿なッ……」
「魔術師だと思って剣が使えぬと思うのはいささか浅慮ではないか?」
地に下り、素早く距離を取って体勢を立て直しながらプロクターは愕然とした。思うに決まっているではないか。
「申し訳ないが、俺は多才ゆえな。剣の扱いもそんじょそこらの奴よりは長けている。魔法なんぞ使わずとも、己の身を守る手段には不自由せぬ」
伊達に『街中をふらふらして四六時中狙われる高位官』をやってはいない。
「くッ……」
再び地を蹴り下斜めから繰り出したプロクターの剣を避け、シェインのショートソードが袈裟懸けに空を駆けた。胸元を斜めに切り裂かれる。深くはないが、それでも血が舞うに十分な程度の傷を受けて、プロクターはもんどりうった。滑るように通路を吹っ飛び、壁に激突する。咄嗟に閉じた目を開いた時には、剣が首筋に突きつけられていた。プロクターの剣は、シェインの足の下に押さえられている。
魔術師だと思って舐めた油断が、致命的となったのだ。
「さて、いろいろと事情を聞きたいのだがな」
しまいだ。もはや挽回はどうしたって不可能だろう。まだ握り締めていた剣の柄を手放した。諦めたような顔で、小さく息を吐く。
「無論、恩赦は……おい!!」
シェインが何か言い掛けたその隙に、プロクターはもうひとつ装備していたダガーを抜き出した。躊躇いなく己の胸に深々と突き刺す。何かをしゃべれば、プロクターの家族がモナから報復を受けかねない。もはや選択肢は、なかった。
「プロクター!!」
咄嗟にショートソードを放り出し、シェインはプロクターを抱き起こした。だが、既に呼吸はない。
「くそッ……」
顔を歪めて唇を噛み締めた。敵国の間諜となっていたことは、簡単に許せることではない。一兵卒ならまだしも、将官ともなればそれなりに交流もあるのだ。裏切られたと言う思いは一層強い。
だが、シェイン自身も他国へ間諜を放っている。そのうちの誰かが……と思えば、過酷な拷問を与えることは出来なかった。ゆえに、無罪放免と言うわけにはいかないが、それなりに恩赦を与えようと思っていたものを。
窓から静かに差し込む朝の光を受けて、白い顔をしたプロクターをそっと床に横たわらせて立ち上がる。吐息を突いてショートソードとロッドを拾い上げた。人を呼ばねばならない。
……戦争はまだ、始まったばかりである。
これからどれほど、苦い思いを飲み下していかなければならないのかと思うと、シェインの胸に重い痛みが走った。
「……!?」
ガシャアアアアンッ!!
頭上で何かを叩きつけるような激しい音が聞こえたのは、その時だった。慌しい人の足音、女官の悲鳴。
思わず息を飲み、顔色を変えて上方に目を向ける。吹き抜けとなっている螺旋階段、遥か上に続くのは……クレメンスの寝室。
――まさか。
「誰か!!……陛下が!!」
来るべき時が来た、との思いで顔を強張らせ、シェインは階段を駆け上った。