第2部第1章第10話 来たるべき時(1)
エレナはセラフィの視線に耐えかねて、顔を伏せた。別にエレナが悪いわけではないのだが、何がしか居心地の悪い思いだ。
「……何だって?」
エレナのもたらした報告に、虚を突かれたような顔をしていたセラフィが、ようやく掠れた声を押し出した。
「あの、ですから……モナがギャヴァン攻撃を開始致しました」
「馬鹿な……」
モナ公フレデリクがロドリスを訪れたのは、3週間ほど前になる。その際、交渉を進めたのはローデツォの時と同様、セラフィが主だった。
フレデリクは、いかにも貴公子然とした容貌の持ち主だった。年令はセラフィと大差ないだろう。物腰が柔らかく、そつのない人当たり。にこにこと人に愛される笑顔を互いに浮かべて腹を探り合う嘘寒い空気が流れるその光景に、後で話を聞いたグレンは一言、こう評したものだ。
「狸が2匹」
それはともかくとして、モナに含みがあるわけではなさそうだと判断したロドリスは、モナと同盟を組む方向で現在話が動いている。意外にも最初にまとまりそうだったのだが……。
(焦り過ぎだ……!!)
ロドリスが動くには、まだ時期尚早だ。ゆえにフレデリクには先走らぬよう警告を出したはず。
(馬鹿げている……)
フレデリクと対面した際に、対ヴァルスへの対応策としてヴァルスに使者を派遣するようセラフィは提案した。いくら何でも、海軍が出動していれば、ヴァルスだって焦る。先んじて攻撃を仕掛けてこないとも限らないとなれば、ヴァルスへの出兵意志をロドリスに示す為に軍を動かしたモナとて心安らかには眠れまい。ヴァルス王城の気質は良く知っている。これまでのモナとの歴史を逆手にとって油断してもらい、しばしの猶予を得る腹積りだったのだ。
と言って、フレデリクが功を焦るほど愚かには見えない。何か理由があるはずだ。
「ヴァルスがモナを煽ったな……」
苦く呟く。エレナが、顔を上げて頷いた。
「恐らくは。ヴァルス海軍が出動、各地諸侯から徴兵し、兵力を要塞に集結させています」
「……そう」
「加えて、海軍がいささか小賢しい動きを」
エレナはセラフィに視線を定め、真っ直ぐに告げた。
「小賢しい動き?」
「一度南下してアルズール内海に大型艦船を停泊、その背後で一部が北上。要塞を経由して兵力を収容し、モナ本国を襲撃する動向です」
「……なるほど」
小賢しい。
兵力の集結と海軍の出動で、モナの不安を煽ったのだろう。
モナはフレデリクに政権交代して以前よりは大幅に兵力は上がったし、機動力も上がった。正式に海軍を導入、鍛え上げたのはフレデリクだ。だがそれでもやはり貧しい小国ゆえにヴァルスやロドリスなどとはまだまだ比較にならない。
ヴァルスがギャヴァンに投じようとしている国軍は1万との報告を受けているが、諸侯からも徴兵しているとなればまた増えるだろうし、傭兵部隊、自警軍は勘定に入っていない。
その全てがギャヴァンに集結して布陣されれば、モナの陸軍は袋の鼠となるばかりだ。逃げ延びるには、ヴァルスが布陣する前にギャヴァンを制圧することである。そうなれば防護壁の内側に籠城して、ギャヴァンと言う街を人質に取れる。ヴァルスとしては内側に自国の国民を擁するギャヴァンの防護壁に向けて、大砲を立て続けに無差別でぶっ放すなどと言う真似は出来まい。
海路を確保しているから兵站には困らないし、そもそもギャヴァンと言う豊かな街であればこそ長らく籠城することが可能だ。籠城するには攻める方ほど兵力を必要としないのだから。
ロドリスが動いてヴァルスが手一杯になるまで持ち堪えることは出来ようし、主要な港を押さえられていてはヴァルスも身動きが取れなくなる。そうなればモナの要求に応じる姿勢を取る可能性も、高くなる。
いずれにしても、海からヴァルスに攻められては話にならないから、ヴァルス軍を撃破または足止めするとして海軍が海上に控えていることが重要となる。
ただし。
『兵力のギャヴァン集結』が前提だ。本国に向けられるとなれば、話は別となる。
「そこが、モナの弱いところだよね……」
「と申しますと?」
「どうしたって総兵力が少ない。王都に兵は当然残しているだろうけど、相手は大国ヴァルスだ。モナに対してあれこれモメてたみたいだけど、それでも馬鹿に出来ない程度の兵は動かせるからね。進軍するには、モナだってそれなりの兵力を動かさなきゃならない。……モナ本国を守る兵力の脆弱さが引っ掛かる」
「しかし、ヴァルスはギャヴァンを放っておくと?」
「海軍を引き離す腹積もりなんだろう。モナ艦隊は、本国を見捨てるわけにはいかないだろうな」
「……どう、なさるのです?」
エレナの問いに、セラフィは首を傾げた。
「どうしようもないね。僕は警告は発した。……元々、モナは勘定に入っていなかったんだ。ちょっとでもヴァルスの戦力を割いてくれれば良しとしようか。それに、問題は海軍じゃない。仮に海軍が撃破されようと、モナがギャヴァンを制圧出来ればヴァルスは北と南に戦力を割かなければいけなくなる。双方どれだけ健闘するかは、見物かもしれないよ?」
◆ ◇ ◆
エレナが退室した後、同じその場に座ったまま、セラフィはじっと考え込んだ。
『時間の問題』と思われたキルギスより先に、バートがロドリスに転んだ。あとは、何としてでもリトリアを引き込みたい。ロドリスの出撃にはまだ、早い。
モナには悪いが、しばらく単独でヴァルスを相手どってもらうしかない。弱小国でも、多少ヴァルスを疲弊出来る程度には役に立つだろう。
そしてやはり、セラフィにとって邪魔な存在はレガードだ。何をするにもその存在が引っ掛かる。
レガードの存在ひとつで、ロドリスが仕掛ける戦争そのものが……セラフィににとっては意味をなさなくなる。それほどに彼は、レガードの在不在にこだわっていた。――ヴァルスの後継者の存在に。
チャンスはもう巡って来ないかもしれない。レガードは若い。後継してしまえばもう……恐らく、次はない。
バルザックにレガードの追撃命令を下してから一月。あれから程なくして、バルザックは連絡を寄越して来た。ただし、お得意の空間移動魔法での突然の来襲ではない。珍しいことに、イリュージョンの魔法を使っての自己映像の投影だった。
「良い報告以外なら聞きたくないな」
表情を変えず視線だけを僅かに上げて告げたセラフィに、バルザックは低く笑ったようだった。深く被ったローブで相変わらずその表情は読めない。
そしてゆっくりと動かした右手、差し上げられたそこには。
「……本物か」
虚ろに定められた視線。――レガードの首級。
「近日中に、そなたの手に渡ろう。その時に自分の目で確かめるが良い」
「良いだろう。……近日中?」
バルザックの言を聞き咎めて問い返す。黒衣の魔術師は再び、笑った。
「……諸用でな。屋敷を空けている」
「諸用?」
「レガードの首級を手に入れて、どうする?」
それ以上追及されるのを嫌うように、バルザックは話を変えた。セラフィとて、バルザックのプライベートに興味があるわけではない。その問いに小さく笑った。聞きたいことはわかっている。
「知ってるかい。戦争ってのは始めたらやり直しがきかない。リスタートするわけにはいかないんだよ。だからこそ仕掛ける前の準備や判断が重要なんだ。……勝てる、と言う時までは動くわけにはいかないんだよね。そしてそのポイントは知っての通り3点だ。同盟の成立、クレメンスの崩御、そしてレガードの不在。ロドリス参戦には、まだ早い」
予想通りのセラフィの答えに、バルザックは小さく笑った。
ロドリスには別に、戦争を焦る理由などないのだ。『勝てる』と確信を持てるまで、じっくりと足場を固める気でいる。国が腰を落ち着けてしまった場合、それは長ければ年単位にまで延びる可能性が生じる。
尤も、今回に関して言えば『ヴァルスの空位期間』と限定されている為に、そうそうのんびりしているわけにもいかぬだろうが、それでも数ヶ月に及ぶ可能性は否定出来ない。……そうはさせない。
「良かろう……」
その為に、ヴァルス王女を連れてきた。じき、偽レガードが王女を奪還しに来るだろう。その時が、ヴァルスとロドリスの間に戦火を巻き起こす時だ。
ロドリスにはヴァルスとの戦争を、遠くないうちに始めてもらわなければならない。その為には、セラフィをバルザックの住む屋敷に招待する必要がある。
遠からず、『レガード』一行もバルザックの屋敷を突き止めるだろう。その時までに、バルザックはいつでも目的が果たせるよう、下準備だけは整えておかなければならない。
「……改めよう。ヴァルスに備えてそちらも準備を進めておくのだな」
「言われなくても」
短く言って体を翻しかけたバルザックは、去り際にふと思い出したように付け加えた。
「……『銀狼の牙』は全滅したぞ」
「何……!?」
問い返す間もないほど鮮やかに掻き消えたバルザックに、為す術もない。真偽のほど、そして何があったのかは闇のままだ。何かを企んでいる――そうは、思うのだが。
(まったく……何を考えている……?)
以来、音沙汰はない。セラフィ自身、こちらから連絡をする暇があるわけでもなかった。
バートやナタリアと正式に調印し、打ち合せを進め、軍の編成に取り掛かる。
キルギスやリトリア陥落の為の会議、会議、会議。
その間にだって、通常の国政をやらないわけにはいかない。 フォグリア郊外の邸宅にだって、あれ以来帰る暇さえないのだから。
イリュージョンが示したレガードの首級。――本物か?
「……お邪魔しても、よろしいですか?」
控えめなノックがなされ、そっと扉が開かれた。らしからぬその殊勝さにいささかぎょっとしながら、考え込んでいた顔をあげる。
「どうしたんだい、グレン……」
姿を現わしたのは、グレンだった。何だか頼りない笑顔を浮かべている。
「こんな時間に」
既に夜半を過ぎている。あと数時間で、朝を告げる鳥たちの声さえ聞こえてくるだろう。
「夜通し、フォグリアを目指したのか?」
どうせ馬にはまた、逃げられているのだろう。聡い動物は、魔性を飼うグレンを乗せることに怯える。鈍いのは人間だけだ。
けれど、『人間』でありたいと望むグレンは、飽くまで馬での移動を望む。そしてやはり、逃げられる。
「セラフィさんこそ、こんな時間までお仕事ですか?……シェンブルグの方へ伺ったのですが、ご不在だったようなので」
言いながらグレンは、その長身を室内へと滑り込ませた。
シェンブルグと言うのは、ハーディン敷地内に設置されている宮廷魔術師の居館だ。現在の主人は当然、セラフィである。
「お体に触りますよ……」
「何があった」
グレンの言葉には答えず、セラフィは単刀直入に尋ねた。何かあったに決まっている。
「報告は3点。火急はまず、レガードさんです」
簡潔にグレンが言う。ちょうど考えていたことだったので、セラフィは目を見張った。
「逃しました」
『逃した』。
つまり、生きて動いていたと言うことに他ならない。
(あのじーさん……)
わざわざイリュージョンの魔法で連絡を取ってきた理由がわかった。時間稼ぎだ。そして『銀狼の牙』は全滅。裏切りか……いや……。
(……)
バルザックは、何の時間を稼ごうとしている?そもそも『あのレガードが本物』なのか……?
レガードの首級さえイリュージョンならば、あの時バルザックが『本物だ』と断定したその言葉さえ疑わしくはならないか?
「……グレンが?」
ぽつりと尋ねる。グレンは叱責覚悟で頭を下げた。らしくない、しおらしい態度。
「ええ。……申し訳ありません」
「どうだった」
問われた意味がわからず、グレンは顔を上げた。
「どう、とは?」
「何か、感じなかったか」
年下の上司の勘の良さに、内心舌を巻く。
「さすがですねぇ。……あれは、もしかすると本物ではないんじゃないかと」
「……なぜ、そう思った」
顎を意味もなく撫でながら、グレンは琥珀色の瞳に宮廷魔術師を映し込んだ。
「『本物』と会っていないので何とも言えませんが。王族の空気はなかったですねえ。剣も未熟、国を統率する気質の持ち主じゃない。……聞いている『レガード』 さんとは大幅に印象が違います。もっとも……」
先程のリデルでの戦闘、そして移動でますます乱れた長髪に手をやってため息を落とす。
「レガードさんを逃したのは、そんな理由ではありません。ただの、私の実力不足です」
ハーディンに関係する人間が『レガード』を襲撃するわけにはいかない。だがあの場合は別だった。ここはロドリス王国内、そして大量虐殺が行われたばかりの村。
侵入した不審者を近衛警備隊員が捕らえるのは、決して不自然なことではない。疑われるような真似をする方が悪いと言うものだ。そこまで計算しての行動ではあったのだが。
潔い姿勢を見せるグレンに、セラフィは組んだ足に頬杖をついた。
「まさか。……レガードがロドリスに入り込んだ目的は何だ?」
セラフィの問いに、グレンは黙って首を横に振った。
「わかりかねます。ですが、もしかするとバルザックさんではないかと」
「……」
「復讐なのか、理由があるのか。遭遇したのはリデルの村ですからね。方角的にはさほどとんちんかんではないでしょう」
この状況が示すものは何だ?
みすみす『銀狼の牙』の全滅に手を貸さずに見捨て、セラフィに時間を稼ぎ、レガードがバルザックの屋敷へ向かっている。……バルザックは何をしようとしている?
そう考えて、ふとある考えに思い至った。バルザックの思惑とはいささか思考が逸れるが。
(もし、レガードが本物でないのであれば……)
あの時バルザックは、何と言った?共に旅する少女――『ヴァルス王女だ』と言わなかったか。
つまりその場合。
(シャインカルクもレガードの行方を掴んでいない……!?)
あくまであの『レガード』が本物でなければ、と言う前提ではあるが。
偽物が出没している理由は簡単だ。
ヴァルスも、レガードの行方を追っている。
いずれにしても、やはりバルザックと会う必要がある。そしてその思惑が何であれ、奴とはこれで決裂だ。
「……2つ目の報告は」
「リトリアです。ヴァルスに傾いています。まっとうにやっていたのでは多分、逃します」
「……そう」
最も嫌な展開だ。
ロドリスは、リトリアと国境を接している。ロンバルトもだ。リトリアが中立ならばまだしも、ヴァルスに傾倒すれば挟撃される。
「間もなく、ヴァルスの使者は朗報と共に放たれましょう」
「……」
「いささか汚い手段を使うことをお許し下さいね」
内心リトリアを諦めかけたセラフィに、グレンがそんな言葉を投げ付けた。
「何をする気だい」
「別に大したことを考えているわけじゃあありません。頭を使うのは得意じゃありませんからね」
「……好きにやってくれ。ナタリアを引き込んだ腕前に期待してるよ」
今回の一件にナタリアを引き込んだのは、一重にグレンである。元々ナタリアはロドリスに迎合しているが、公妃勢力と公太后勢力が一触即発で紛争寸前まで緊張が高まっていた。幾らナタリアでも、国内紛争が起きていたら他国との戦争どころではない。両者を和解させ、寸前で勃発を食い止めたからこその参戦である。
「3つ目は」
促したセラフィに、グレンの表情が曇った。その様子に不審なものを感じる。
「……どうしたのさ?」
「私はやはり、ロドリスにとって……セラフィさんにとって、疫病神なのかもしれません」
これまでの、結論から口にする報告の仕方とは打って変わった歯切れの悪さに眉を顰めた。
「……?何を言って……」
冗談かとも思ったが、そんな場面でもない。珍しく声音に含まれる真剣な色合いに、顎を乗せ掛けた手を解く。
「リデルの村が、全滅しました」
「……何?」
村が、全滅。
セラフィにとって馴染みのある言葉だった。そしてグレンフォードにとっても。
「魔物か」
「はい。……私、ですよ」
「……」
そこに含まれた複雑な響きを感じ取る。
「……合成獣だと?」
「ええ。『お兄ちゃん』などと呼ばれた日には、『妹よ』と呼んで駆け寄るわけにもいきませんからねえ」
「……」
――合成獣。キメラとも呼ばれるそれは、同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混成している。突然変異として生じる魔物もいるが、人為的に合成されて生み出された魔物もいる。