第2部第1章第3話 街角の歌(1)
ヴァルスの大使館は、フォグリアの中心部を少し外れた住宅街の中にある。
現ヴァルス大使のアンリは50代半ばくらいのおっとりとした紳士で、シサーが禁軍にいた頃には王城にいたのだと言う話だった。とは言え、一兵士と貴族、面識があったわけでもないけれど、シャインカルクから通達を受けている彼は総じて俺たちに丁寧に対応してくれる。
ただし、王女が連れ去られたのだと言うことは言っていない。
信用しないわけではないが、どこから漏れるかわからない。『青の魔術師』が知っているのか知らないのかは良くわからないけれど、まあ、べらべら話すことでもないのは確かだろう……。
ちなみに俺は女装させられたままとなっているので、仮に彼がレガードの顔を知っていたとしても……レガードだともレガードのそっくりさんだとも思っていないだろう、多分。おかまだと思われるのも不愉快なので、おかげで俺は、アンリの前では口が利けない。
「そうですか……郊外の森、と言いますと、どの辺りです」
大使館の迎賓室でシサーが事情を説明すると、向き合って座ったアンリは顎から生やした髭を指先でつまみながら柔らかく尋ねた。
「リシア地方だな」
「リシア地方……ならばさして距離はありませんね……」
「ああ。馬で移動すれば、普通にいっても2日かかんねえだろう。飛ばしていけば1日で行けるんじゃないかと思うが」
「そうですね。……私の方でもひとつ、情報があります。関係があるかどうかは、判断しかねるのですが」
「何でも良い。聞かせて欲しい」
シサーが僅かに身を乗り出して尋ねると、アンリは鷹揚に頷いた。
「ロドリスとエルファーラの国境間近に、ファリマ・ドビトークと言う山があります」
言ってテーブルの下の書台から、巻かれた地図を取り出す。テーブルの上に広げて、指先で図上をなぞった。
『ファリマ・ドビトーク』とは、山の名前らしい。キサド山脈と比べると半分程度の規模の山脈が、地図上に描き連ねられている。
「その近辺に、時折黒衣の魔術師が出没すると言う噂です。今は、村もなく住む人もいないはずなのですが。山に入る猟師たちの間で、持ち上がっている噂です」
「……出没?出没して、何を?」
アンリは、ゆっくりと顔を左右に振った。
「それは、わかりません。……まあ、あくまで噂ですけれど。それがお探しの魔術師かどうかも、わかりかねます」
続けて、微かに顔を顰めて見せる。
「ファリマ・ドビトークは、呪われた山です。聖なる教皇領と境にしているから、そこで魔物が足止めをくらうのかもしれませんね」
「呪われた山?」
「ええ。……まあ、戯言です」
それきりアンリは、その件に関して口を噤んだ。思わずシサーと顔を見合わせる。
「それはともかく、ご用が?」
「あ、ああ……。『青の魔術師』の側近に、背の高い、眼鏡をかけた奴がいるかと思って。長髪の」
「……?」
アンリは、シサーの問いに首を傾げた。小さな瞳をぱちぱちと瞬く。
「双刀の男のことでしょうか。グレンフォード、と言ったと思いますが」
「グレンフォード……?」
「ええ。私も直接面識があるわけではないのですがね……。近衛警備隊にいたと思いますよ、そのような方が。何度か見かけたことはあります。『青の魔術師』の方は私もお会いしたことがありません。ですから、側近と言えるかどうかはわかりかねますが」
「……『ジェノサイド・イブリース』と呼ばれている男は?」
シサーが問うと、アンリは顔から表情を消して頷いた。
「その男です」
近衛警備隊の一隊員が『青の魔術師』の命令で動いているとなると……それはやはり特殊なのだろう、と思う。
だとすると、『ジェノサイド・イブリース』――グレンフォードと言う人物は、かなりの腹心と言うことにならないだろうか。わからないが。
「私がお話して差し上げられるのは、このくらいです」
「いや、助かった」
「……ロドリスは、現在荒れ始めています」
アンリは、まるで独白するように密やかに言った。全員の視線が集まる。
「フォグリアはさすがに王の膝元ですからね。そんなことはないですけれど。フォグリアを離れると、少しずつ国が荒れていきます。王は、寵姫に骨抜きにされている。国政に、目が向かなくなっているのです」
「……」
「村の中にまで魔物が入り込むこともあるようです。気をつけて下さい」
「ありがとう」
アンリに送り出されて、大使館を出る。キグナスが、ロッドを玩びながら唇を尖らせた。
「ハーディンは、バルザックとどの程度関わってんだろうなぁ〜」
「さあな」
「……『青の魔術師』の独断、って可能性が、高いような気がする」
少し考えて、前を並んで歩くシサーとニーナの背中に向かって呟く。ニーナが顔だけで振り返った。
「どうして?」
「バルザックの屋敷の入手経路が」
俺のやや斜め前を歩くクラリスが、その言葉を受けて頷いた。
「ハーディンが絡んでいるのなら、慌てて屋敷など手に入れなくても、幾らでも斡旋出来る屋敷はありそうですものね」
その言葉に頷く。
国が直接絡んでいるんだったら、何も面倒な手間をかけて屋敷を新たに手に入れる必要はないんじゃないだろうか。ハーディンが不動産をどのくらい持っているかなんてわかりはしないので、想像の範疇を出ないが。
「……じゃあ、ハーディン王城は直接は」
「ふ〜む。確かになぁ〜。んじゃあ知らねぇかもしんねーな。得体の知れない魔術師と手を組んだなんてことは」
とすれば、この一連の騒ぎを操っているのはロドリス王城と言うよりは、『青の魔術師』だと言うことになる。
……ハーディンが陰謀の舞台なのであればシンプルに政治的国家権力の拡大だと考えられるが、国王が寵姫に牛耳られて腑抜けているとの話が真実とすると、果たして腑抜けの王が皇帝位継承者を暗殺してヴァルスに戦争を仕掛けるなんて、大それたことを考えるだろうか。
誰かに――例えば、その寵姫に唆されれば考えるかもしれないが……。
さっきの考えでいくと、ストレートに考えれば唆しているのは寵姫ではなく、『青の魔術師』。
その場合、一介の魔術師が国を唆す目的は、何なんだろう。自分の権力の拡大なのか?
大使館を出たそのまま、俺たちはパララーザがキャンプを張っているフォグリア郊外に向けて足を運んだ。協力を得た以上、出立する前にやっぱり礼は言っておくべきだろう。
フォグリアはなぜか、街中に小さな公園が多い。児童公園とでも言えば良いだろうか。そんな雰囲気の小さな公園で、決まって公園は木々でぐるりと覆われている。そのせいで街の中はいたるところに木々の緑の姿が見えた。
街そのものも、ヴァルスのように防護壁で囲われてはいるのだが、防護壁のその内側にやはり街を囲むようにぐるりと木々で囲まれている。
レオノーラも街中に木々はあったけれど、もっと整然とした感じで街路樹、と言う印象だった。
(……?)
その歌声が聞こえてきたのは、もうじきパララーザのキャンプに辿り着く、と言うくらいまで郊外に近付いた辺りだった。防護壁手前の木々が森のように見えてくる辺りだ。
小さな歌声だった。多分、幼い女の子。
(ユリア……?)
歌声の主を探して、足を止める。なぜか、ユリアのことを思い出した。……そうか。歌が。
――聖書の第89番よ。
ユリアが、キサド山頂の祭殿を目にして歌った……あの時の歌に、良く似ているんだ。
ただ、全くの同じものではなさそうだ。多分、コード進行だけ同じでメロディラインが少しずつ違うんだな……なんて思いながら視線をさまよわせる。木々の間を分け入ったその奥、小さな家があるのが見えた。小さな家とは言っても、3階建てくらいの高さはある。東京とは、そもそもの時点で比較にならない。
石を組んだ壁に囲まれたその家の門の脇に、女の子が座り込んでいた。膝を抱えて地面に座り込んだ彼女は、長い棒切れで意味もなく地面を掃くように左右に振り回しながら小さな小さな声で、その歌を口ずさんでいた。
何を言っているのかは、良くわからない。
ただ、あの時ユリアの歌に感じたような、何か……何かが。
「……カズキ?」
「え?」
呼ばれて、顔を上げる。
突然足を止めてしまった俺には気がつかなかったらしく、シサーたちは随分前まで進んでしまっていた。クラリスが、俺のところまで戻ってくる。
「どう、なさったのですか」
「あ、いや……」
答えかけて、頬を伝う雫に気がつく。――え!?
「……」
近付いたクラリスが、あっけにとられたような、痛ましいものを見るような目線を向けた。
「あ、あれ?何だ……どうしたんだろう……」
「……何か、気掛かりなことでもありますか?」
黙って首を横に振る。感情の起伏はなく、ただひとつの現象のように涙だけが頬を伝わる。
「別に……」
意識しないまま、ぼろぼろと零れる涙に動揺した。泣く理由なんかどこにもありはしないのに。
……歌に、触発されたんだろうか。でも、何で?
「これは、聖歌?」
誤魔化すように、目元を擦りながらクラリスに問う。けれども、涙はなぜか次から次へと溢れてなかなか止まらない。
人前で泣くのなど、果たして何年ぶりだろう。物心ついてからは記憶にない……などと他人事のように思っていると、クラリスは視線を空にさまよわせて小首を傾げた。
「似ていますね。似ていますが、違います。……きっと、エルファーラの歌だと思いますよ」
「エルファーラの?」
「ええ。エルファーラには、教皇庁のあるヴェルヌを除いて大きな街はありません。その代わり、集落のような形で小さな村が点在しています。聖歌を元にした独特の歌が、村や地方ごとに伝わっているようです」
「聖歌を元に?」
「子守唄などで、母から子へと受け継がれることが多いみたいですね。……きっと、お母様がエルファーラのどこか、その歌が伝わる村の出身なのでしょう」
そうなのか。
きっとあの少女の母親が生まれ育った村というのは、聖書の第89番を元にした歌が子守唄代わりに伝わっていて、それを彼女は赤ん坊の頃からずっと聴いてきたんだろう。
「……寂しそうですね」
クラリスの視線が、少女に向いていた。
「けれど……不思議ですね。まるでプリーストのようです」
「え?」
「癒されませんか。何か」
「……うん」
ユリアが歌った時にも、感じたけれど。
それと、同じような印象を受けた。心に沁み込むような……癒されるような。
治癒系の魔法をかけてもらった時とは違って……何て言うんだろう。真実癒されると言うよりは、安らぎがもたらされているような感覚だ。
怪我で言うならば、その傷そのものが完治するのではなくて……痛みが引く、と言うような。そんな感じに近い。
「おーい。何やってんだー?」
「魔法を修得しているわけではなさそうですけれど……プリーストの素質があるのかもしれませんね。行きましょう。シサーたちが痺れをきらしてますよ」
シサーの呼び声に、クラリスが苦笑を浮かべた。ようやく涙が収まった俺も小さく笑みを模る。
「……今の、内緒にしといて下さいね」
歩き出しながら、バツが悪くて言うと、クラリスはくすりと笑って肩を竦めた。
「もちろんです。……何か、つらいことがあったら言って下さって良いのですからね」
つらいこと。
……ある、つもりはないんだけれど。
「うん……。ありがとう」
気遣いに感謝して、俺は小さく礼を言った。
パララーザに別れを告げ、フォグリアを出立する。メディレスは最後まで、俺のことをひどく心配してくれていた。
前に別れる時、次に会う時に借りを返すと言っていたはずだったのだが、結局また借りを増やしてしまったことになる。返すことが出来る日は果たして来るのだろうか。踏み倒すことにならなきゃいーんだが。
「日が暮れる前につけるか、ちょっとわかんねえかなあ」
俺を同乗させた馬を操りながら、シサーが空を仰いでぼやく。俺の分、余計な重みがあるので馬は迷惑だろうが、仕方がない。俺には俺の事情と言うものがある。……乗れないものは乗れない。
街を出てしまうと、そこに広がる草原の風景はヴァルスと大して違いはなかった。
一面に草地が広がり、ところどころに多少背の高い草むらが見える。名前のわからない花がぽつりぽつりと風に身を揺らし、天に向かって伸びる木が群れることなくその腕を空に掲げていた。風はヴァルスよりは幾分涼しく感じるが、それでも春の匂いが垣間見える。
「……誰かさんが引っ掛かってるから、予定より出発が遅れちゃったしねー」
さらさらと風に髪を揺らしながら、ニーナが隣に馬を並べてぼそりと言った。もちろん、シサーがシリーに引っ掛かっていたことを指している。ニーナの嫌味を、シサーは顔を逸らして黙殺した。
地図を見た限りでは、リデルはフォグリアからそう離れていない辺り――レオノーラからヘイズくらいの距離にあった。いや、もう少し近いだろうか。頭の中で地図を思い出しながら頷く。
「でも、馬だから歩くよりは早いし」
「今日は、リデルで泊めてもらうつもりでいた方がいーだろうな」